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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり小石川後楽園   

日時 2015.7.7(火)
天気 曇り

周囲は歩いたことありますが、入るのは初めて。
神田上水を邸内に引き込んででいますし、
街道にも外濠にも関係があるので気になってました。

都心に出ましたので、真っ先に訪ねました。
噂に違わぬ見事な大名庭園ですね、素晴らしい。
念願がやっと叶ったかな~、やれやれです。


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外周路

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東門                          西門(出入口)

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涵徳亭

本園創築時代に造られた萱葺の茶室で硝子紙をもつて障子としたため「硝子(ビードロ)ノ茶屋」と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が涵徳亭と名づけた。現在の建物は47代目で昭和61年に再建した。(案内板)


ぶらり小石川後楽園_d0183387_23165887.jpg小廬山

一面オカメザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたもので、山頂より庭園を見おろせます。(案内板)





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大堰川(おおいがわ)

京都の嵐山の下を流れる大堰川にちなんだもので、三代将軍家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に種々助言したといわれている。両岸に蛇滝を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れ、江戸時代には清き流水で園景を引き立てていた。(案内板)


ぶらり小石川後楽園_d0183387_23301615.jpg西湖の堤

この石堤は中国の名勝地「西湖」を摸して造られたもので、本園以後大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなった。(案内板)




ぶらり小石川後楽園_d0183387_23302739.jpg清水観音堂跡

京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年の関東大震災で焼失した。(案内板)





ぶらり小石川後楽園_d0183387_23395671.jpg通天橋
京都東山東福寺の「通天橋」にならい、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋をかけたもので、この付近の楓の紅葉は趣が深いところである。(案内板




ぶらり小石川後楽園_d0183387_23400281.jpg得仁堂
この建物は光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した堂です。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。(案内板)




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円月橋

朱舜水の設計と指導により名工「駒橋喜兵衛」が造った。橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられた。8代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。(案内板)


ぶらり小石川後楽園_d0183387_00121971.jpg八卦堂跡

二代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見しており「文昌星」像(ぶんしょうせい)を頂いた。後に光圀は文学を好むようになり文昌星を思い起こし、八卦堂を造りその像を安置したという。その堂は大正12年の関東大震災で焼失した。(案内板)



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神田上水跡


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大泉水

この庭園の中心となる景観。蓬莱島と竹生島を配し、琵琶湖を見立てて造られました。昔はこの池で舟遊びをしたともいわれています。(案内板)


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内庭

本園は大別すると内庭と後園(後楽園)とに分けられる。内庭は水戸藩邸の書院の庭があって、江戸時代には「うちの御庭」などと呼ばれていた。江戸の大名庭園がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているものとして貴重である。(案内板)

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資料ファイル

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小石川後楽園

江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の上屋敷の庭園として造ったもので、二代藩主の光圀(みつくに)の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、民の儒者である朱舜水(しゅしゅんすい)の意見をとり入れ、中国の教え岳陽楼記(がくようろうき)の「(士はまさに)天下の憂(うれい)に先だって憂い、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」から【後楽園】と名づけられました。庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所を名づけた景勝を配し、中国趣味豊かなものとなっています。そして、これらによって湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引き入れ築邸されました。また光圀の儒学思想の下に作庭されています。なお、後楽園は昭和273月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立公園では浜離宮とここの二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院。奈良県の平城京左京三条二坊宮跡、広島県の厳島を合わせ7ヵ所だけです。(東京都)

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江戸小石川御邸の図/小石川後楽園

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砲兵工厰付近地図(明治17年実測)/小石川後楽園

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小石川御屋敷□庭之図(明治大学所有)/小石川後楽園



神田上水 
江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。江戸の六上水のひとつであり、古くは玉川上水とともに二大上水とされた。神田上水は1590年(天正18年)に徳川家康の命を受けた、大久保藤五郎によって開かれた。かし、大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で、この上水道がその後発展・拡張したのが神田上水といわれている。井之頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として善福寺池を水源とする善福寺川と淀橋で玉川上水の分水(神田上水助水堀)、更に妙正寺川を併せて小石川の関口大洗堰に至る。関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園)方面に流し、右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった。(かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称した。昭和40年の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一にした)水戸屋敷に入った上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ屋敷を出る。水戸屋敷を出た上水は御茶ノ水の懸樋(水道橋)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。そこから三手に分岐し、一つは神田橋を経て、道三堀北側の大名屋敷に、もう一つは神田川北岸の武家地に、そして最後の一手は神田川南岸の武家地及び町人地に給水する。 町人地に向かう水は二手に分かれ、一方は日本橋北側・内神田を、もう一方は日本橋南側を給水していた。神田上水による給水順次は武家地が優先で、残りの水を町人地へ給水している。これは江戸期の初期の上水道によく見られる傾向であるとされている。神田上水がいつ竣工したかについての特定は難しいが、寛永年間には完成していたであろうといわれている。Wikipedia


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神田上水の碑文/水道橋


小石川(地域)
文京区のおよそ西半分を範囲とし、江戸・東京の山手を構成している地域のひとつである。こんにゃくえんまで知られる厳覚寺、伝通院など所在。石川啄木、幸田露伴がこの地に居を構えた。文京一帯が北条氏に支配されていた当時の文書に「小石川」の地名があった。江戸時代武蔵国豊島郡小石川村は江戸の北辺に位置し、その多くは伝通院寺領であったと伝わる。小石川の名は、伝通院の前の川に小石や砂が多かったことからついたとされる。Wikipedia

後楽
(こうらく)
文京区の町名。水戸徳川家の庭園・小石川後楽園に由来する。中央部に小石川後楽園、東部に東京ドームシティが所在する。西と南の境界を神田川が流れ、神田川に沿って南北に目白通りと首都高5号線、東西に外掘通りが走っており、東の境界を白山通りが走っている。(Wikipedia

by Twalking | 2015-07-09 14:32 | 東京散歩(新規)

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