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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり六本木~麻布02 麻布   

日時 2015.9.15(火)
天気 晴れ

名前ではよく耳にしますが、行くのは初めてです。
丘の上と下、少し感じは違いますがお洒落な街です。
坂道を登ったり降りたり、興味深々で歩き廻りました。


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麻布十番商店街

麻布 
東京都港区
を形成する5地区のうちの1つで旧麻布区とほぼ重なる。麻布は山の手の台地と谷地で起伏に富んだ土地である。麻布という字が当てられるようになったのは江戸時代の元禄期からといわれる。地理的には麻布地域の縁を沿うように古川が流れており、この川によって山と谷、高台と低地が形成され起伏に富んだ坂道の多い地形である。麻布周辺には貝塚などが見られ縄文から人間が住んでいた。弥生時代には農業も行われていた。712年には竹千代稲荷(現在の十番稲荷)が創建、824年には空海により麻布山善福寺が開基、939年には氷川神社が源経基により勧請される(1659年に現在の位置に移転)。江戸時代初期までは農村や寺社の門前町であった。武家屋敷が建ち並ぶようになり、江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。馬場が1729年に芝から麻布に移転、十番馬場と呼ばれた。馬場移転に伴い馬市が立ち麻布十番は栄える。1859年にアメリカ公使館が善福寺に置かれる。明治時代には古川が埋め立てられ鉄道馬車が通り工業化が進む。次第に台地の上は高級住宅街、低地には零細商工業といった分化がすすむ。大正時代には麻布十番を中心に花街や演芸場、映画館、デパートなどが造られ東京でも有数の盛り場となる。第二次世界大戦では空襲で大きな被害を受けるが、戦後に復興する。1949年(昭和24年)に麻布中版温泉が開湯する。Wikipedia


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昭和20年代の港区地図(紫:坂道)

麻布十番 
現行行政町名で麻布十番一丁目から麻布十番四丁目までがある。町域の大部分は古川に続く低地であり、高級住宅地が多い麻布にあって下町の風情をたたえる。江戸時代、仙台藩の江戸屋敷は今の韓国大使館から二の橋にかけての広大な土地を持っていたが、低地側の湿気の多さがどうにも出来ずに困り果て、高台側はそのまま藩邸として使い、低地側半分を幕府に返上したほどである。幕府はその土地には低給の役人に住まわせたが彼らも苦労が多かったようである。しかし河川改修などによって干拓、開拓が進み、明治時代には、神楽坂と並ぶ繁華街に発展した。地名は早くから通称として定着していた。Wikipedia


ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_11201822.jpg麻布十番稲荷神社

港区七福神の特徴でもある宝船の巡拝所。境内には、火の災難から守ってくれるとされる石のガマがあります。このガマには、池の水を吹きかけ大火を消したという伝説があり、蛙のお守りが売られています。11月には酉の市が立ち、社内には威勢のよい手締めの音が響きます。十番の由来は、江戸の前期、古川の改修工事の時にこの付近から十番目の組の工事従事者を出し、十番と書いたのぼりを立てて仕事をしたからという説と、工事の割り当てでこの辺が十番目の土置場になったためという説があります。(港区観光協会)


ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_11175657.jpg「きみちゃん」の像/パティオ十番 
野口雨情の童謡「赤い靴」の詩にはモデルがありました。その女の子の名前は「きみちゃん」。きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情でアメリカ人宣教師の養女に出されます。母かよさんはきみちゃんがアメリカに行って幸せに暮らしていると信じて雨情にこのことを話し、この詩が生まれました。しかし、きみちゃんは病気のためアメリカには行けませんでした。明治449月、当時麻布永坂町、今の十番稲荷神社のあるところにあった孤児院でひとり寂しく亡くなったのです。まだ、9歳でした。母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託して、今、みなさまの幸せを祈ってやみません。(説明板)


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善福寺/
元麻布一丁目
浄土真宗本願寺派の寺院。山号は麻布山。東京都内では、浅草寺に次ぐ古刹の一つで、境内には著名人の墓も多い。天長元年(824)に弘法大師・空海によって開山されたと伝え、当初は真言宗の寺院であった。その後鎌倉時代になって越後国に配流になっていた親鸞が当寺を訪れ、浄土真宗に改宗したとされ、その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展を遂げた。安政5年(1859)には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代アメリカ合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留していた。また、福澤諭吉も出入りしていた。
福澤諭吉の墓: 福澤は慶應義塾大学の創設者。23日は福澤の命日に当たり、(雪池忌(ゆきちき)と呼ばれている)慶應義塾の関係者らが多数当寺院にある福澤の墓所を訪れる。(福澤の墓が当寺に移ったのは1977年で、それ以前は品川区大崎にあった)
地吹雪の碑:昭和時代の歌手・越路吹雪の歌碑がある。芸能関係者らが訪れることもあり、その姿が報道されることもある。なお、越路の墓所は、当寺院ではなく川崎市にある。(墓地内は撮影禁止 Wikipedia


ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_12011165.jpg最初のアメリカ公使宿館跡 
安政5年(18586月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政6年(1859)善福寺をアメリカ公使館として8月に赴任します。当時の宿館としては、奥書院や脚殿の一部を使用していましたが、文久3年(1863)の水戸浪士の焼き討ちで書院などを焼失したため、本堂、開山堂なども使用しました。明治8年(1875)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。寺には「亜米利加ミニストル旅宿記」(港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。(東京都教育委員会)

ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_12020579.jpg柳の井戸
自然に地下から湧き出る清水である。東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。とくに現在のわれわれとしては、大正12年の関東大震災や昭和20年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。(港区教育委員会)


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江戸名所図会 麻布善福寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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仙台坂 
坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名に呼ぶことになった。(港区標柱) 

南麻布一丁目と元麻布一丁目の境を、東の二の橋から西に上っていく坂である。坂の名称は、かつてこの坂の南側に松平陸奥守(仙台藩伊達家)の下屋敷があったことに因む。坂下のほうはもと「仙台原」と呼ばれており、1899年に結成された日本最初のラクビーチーム慶應義塾のフットボールクラブは、この仙台原を練習場として使っていた。仙台坂上は麻布一帯の台地の南端に位置して各方面に通じることから自動車の交通量は多い。また、仙台坂の中腹には韓国大使館がある。Wikipedia


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七面坂 
坂の東にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
(港区標柱)

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肥前佐賀藩主鍋島家墓所/賢崇寺(曹洞宗)
賢崇寺は肥前佐賀藩主鍋島勝茂が寛永12年(1635)疱瘡で死んだ嗣子忠直ぼ菩提を弔うために忠直を開基として創建したお寺で、忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」より、興国山賢崇寺と名づけられ、江戸における鍋島家の菩提寺となった。鍋島家墓所は、約千百㎡の範囲に画然とした墓域を形成しており、開基忠直、初代勝茂、九代斉直、初代小城藩主元茂(忠直兄)とその夫人達など一族の五輪塔の墓が並んでいる。各はかへは、参拝用の門をもつ石造の格子状の垣を巡らして聖域を形作り、各門の前両側には石燈籠が配されている。門の扉は既に失われているが、江戸時代の有力な大名家の墓の形態をよく遺している。とくに、墓石のすべてが五輪塔に統一されていることは興味深い。勝茂の墓の裏には、勝茂の死に際して殉死した重臣たちの板石状の墓30基が整然と並んでいる。これは殉死という江戸初期の武士の遺風を知るうえで貴重である。(東京都港区教育委員会)


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大黒坂 
大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。
(港区標柱)


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一本松坂 
源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来、植えつがれている一本松が、坂の南側にあるための名である。
(港区標柱)

ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_12584693.jpg一本松
一本松坂の上には一本松と呼ばれる松の木がある(冠の松ともいう)。この松は明治以後二度植え替えられているが『江戸名所図会』にも麻布一本松として紹介されている。一本松の交差点は暗闇坂、一本松坂、大黒坂、狸坂と四つの坂の合流点となっている。


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狸坂 
人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。(港区標柱)

かつてこの坂に古狸が棲んでおり、その狸が人を化かして、石の地蔵や石塔を道端に捨てられた赤ん坊に見せかけ、捨て子を不憫に思った人間にこの坂まで運ばせるということがしばしばあったという。そのため、この坂には絶えず地蔵や庚申の石塔等が転がっており、これが評判となり、この坂に「狸坂」という名がつけられたと伝えられる。麻布區史には「暗闇坂の南、一本松町との境をなす坂、一に旭坂ともいう。古時、古狸が出没して人を化かして困ったという」とある。暗闇坂 樹木が暗いほどおい茂っていた坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。Wikipedia


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暗闇坂 
樹木が暗いほどおい茂っていた坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。(港区標柱)

港区麻布十番
二丁目から元麻布三丁目方面に上る坂。別名くらがり坂、また元の地名(麻布宮村町)から宮村坂とも言われた。名前の由来は、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が茂り、狭い坂道に覆いかぶさっていたからといわれる。暗く見通しの悪い急な坂道のためか、妖怪、幽霊が出没するなどといった伝説が生み出された。実際に追い剥ぎなどが現われる物騒なところであった。坂はかなりの急勾配で、下から見て右側が高い崖になっていて、かつては木々が覆いかぶさるように茂っていたが、現在は木が少なくなり昔日の面影はない。中腹の左側にオーストリア大使館が建っている。さらに上ってゆくと道は大きく左に曲がる。Wikipedia


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江戸名所図会 麻布一本松 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


元麻布 
現在の町名では元麻布一丁目から元麻布三丁目までで構成され、麻布地区総合支所管内にあたる。隣接する南麻布と同じく江戸時代は街外れで農耕地、雑木林、町屋、大名、小名の下屋敷からなる閑散とした地域であった。明治より大正時代にかけて町づくりが成され、太平洋戦争終結後は国際的な盛り場として発展していく六本木至近ということや他所から移動した大使館が加わった事もあいまって徐々に今日の国際色豊かな都心の高級住宅街へと変貌を遂げていった。町名は江戸時代、麻布村の中心地であったことに由来する。現在のところ、文献に「あざぶ」の名が登場するのは、戦国時代末期の1559年(永禄2年)小田原の北条氏(後北条氏)の軍役賦課台帳「小田原衆所領役帳」に「阿佐布」とあるのが最初とされている。江戸中期の明暦年間に至り、ようやく「麻布」の表記が定着した。当時、この地で麻布(あさぬの)の生産が盛んだったからとも言われるが、定かではない。Wikipedia


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ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_12581842.jpg氷川神社 
港区元麻布
にある神社である。素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主祭神とし、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀する。天慶5年(942)、源経基が平将門の乱平定のため東征した折、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現・麻布一本松)の地に創建されたと伝えられる。他方で、文明年間(15世紀後半)に太田道灌が勧請したという説もある。2,000坪以上の社有地を有したといわれるが、創建地が増上寺の所領となり、万治2年(1659)当地へ遷座した。江戸時代は江戸七氷川に数えられた。東京大空襲で、本殿・社務所等が焼失、戦後に再建されている。周辺には麻布宮村町、麻布宮下町、麻布鳥居坂町等、関連する地名が残っていたが、住居表示実施による町名変更に伴いこれらは公式の町名としては廃止された。Wikipedia


ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_12581137.jpg日本基督教団 
安藤記念教会会堂
この教会堂は、関東大震災前に竣工してその姿を留めている貴重な教会建築である。大谷石(一部小松石)の組積造で、南西の角に出入口の塔屋を設けている。北と南の壁面には小川三知が制作したステンドグラスが嵌め込まれている。この教会の創立者安藤太郎がハワイ総領事であったことから南面のアーチ窓のステンドグラスには、布哇(ハワイ)初回受洗者を記念する文字が日本語と英語で表わされている。(東京都)


ぶらり六本木~麻布02  麻布_d0183387_13153869.jpg元麻布ヒルズ 
森ビルが開発した高級レジデンス群である。フォレストタワー(地上29階 地下3階)・フォレストテラスイースト(地上6階地下1階)・フォレストテラスウェスト(地上5階地下1階)の三棟で構成されている。一本松坂沿いにメインゲートがあり、四季の丘を通りフォレストタワーへと続く。本地の敷地の大部分は善福寺の所有地であったが、バブル景気直前(1983)に善福寺より譲り受けた事を発端に開発に着手され2002年竣工した。善福寺正面から山門を見上げると巨大な和蝋燭状のシルエットが借景としての趣を醸し出せるように意匠されている。Wikipedia


南麻布 
江戸時代は街外れで麻布村の主要耕作地だったほか、寺社地も多く、また大名、小名の下屋敷が置かれていた。今に残る仙台坂、南部坂、北条坂、青木坂は各藩の屋敷に由来する。江戸中期には、将軍家の別荘である白銀(しろかね)御殿(麻布御殿・富士見御殿とも呼ばれる)が存在した。明治から大正時代にかけ開発が行われ、後に各国の大使館が設置されるに伴い徐々に今日の国際色豊かな都心の住宅街へと変貌を遂げていった。Wikipedia

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有栖川宮記念公園/港区南麻布

この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていましたが、明治29年有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となりました。大正2年、同宮家が絶え、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになりました。その後、児童福祉を目的とする遊び場に深いご関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9115日にこの地を東京市に賜与されました。そして、東京市は同年11月に記念公園として開園しました。その後、北東部を編入し、昭和50年には港区に移管されて多くの人に親しまれています。(港区)


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北条坂 
坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったために、この名がついた(港区標柱)


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木下坂
北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。(港区標柱)


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南部坂 
有栖川宮記念公園の場所が、赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)(港区標柱)

東京には江戸時代からの南部坂がふたつあり、ひとつは港区麻布盛岡町の南部坂で、もうひとつは同区赤坂福吉町と麻布今井町との境にある南部坂である。どちらの南部坂も名称の起源は坂のそばに南部屋敷があったことであり、赤坂の南部坂のほうが麻布の南部坂よりも古い。正保元年(1644年)の江戸絵図には赤坂・南部坂の坂上、現在の赤坂氷川公園・氷川小学校のあたりに「南部山城守下屋敷」が記されているが、それから約30年後、寛文13年(1637年)2月の寛文図では同所が「浅野采女」に変っている。一方、はじめ麻布盛岡町(後年の地名)の現在の有栖川宮記念公園には「浅野内匠下屋敷」があったが、ここが寛文図では「南部大ゼン」に変っている。この南部邸と浅野邸の入れ替わりは、明暦2年(16562月に南部山城守重直の中屋敷(赤坂築地)と浅野内匠頭長直の下屋敷(麻布)との相対替(あいたいがえ)が行われたことによる。Wikipedia

by Twalking | 2015-09-17 22:24 | 東京散歩(新規)

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