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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(5)桜ヶ丘~寒川02 用田   

日時 2015.10.22(木)
天気 晴れ

秋の好日、広々とした相模野台地を西に向かいます。
綾瀬市から藤沢市、そして寒川町へ、ほぼ県道を進みますが、
ちょっと街道から入ると長閑な田園風景、いいですね!

葛原にも寄りたかっんですが、場所探し等に手間取ってしまい
残念ながらお預け、又の機会に譲りたいと思います。


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相模野台地/綾瀬市役所・展望室

相模野台地

多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地である。旧国郡では大部分が相模国高座郡に属し、境川左岸は上流側が武蔵国多摩郡(1878年以降は南多摩郡)、下流側は相模国鎌倉軍に属する。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。大きく分けて35段、詳細には十数段の段丘面に区分される。(Wikipedia


・・・吉岡東 

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緩やかに相模野台地を下ります/綾瀬市吉岡


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御岳神社/
吉岡交差点(左)
祭神は、櫛真知命で、火災・盗難よけの神とされています。鳥居の右にある不動明王は、安政3年(1856)の造立です。その手前には庚申塔があり、造立は天保9年(1838)で、銘文には「東江戸道・南 ふしさハ(藤沢)道・西 大山道・北 ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。(綾瀬市教育委員会)


・・・女坂(めざか)/藤沢市

「藤沢」の地名の起源については巷間に諸説があります。(ア)藤(ふじ)の多い水辺の地(イ)藤沢次郎清親(鎌倉時代)の居住地(ウ)淵(ふち)や沢の多い土地などが代表的なものです。しかし、藤沢がとくに植物の「ふじ」に関係が深い(ア)とは考えられませんし、(イ)の人名と地名との関係については、むしろ地名が先で人名が後だとする見方が強く、従って淵沢(ふちさわ)が藤沢(ふじさわ)に転化したとする説(ウ)が最も妥当と考えられています。(藤沢市)



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もう一段下り、新幹線を超えて用田辻へ/藤沢市松葉


・・・用田

昔、寒川町の寒川神社の所領の御用田があったので用田と呼んだと言われている。一説に昔角田氏の勢力があったころに、伊豆より伊東氏がきてその勢力に敗れて「ク」を取り用田となった説もあるが、今に残る文書から角田氏が領主のころ、用田郷の地名が見られたといわれる。(藤沢市)


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中将姫/新幹線手前を右折、坂上(右)
中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い継母に育てられました。しかし、その美貌と秀でた才能から継母に嫉まれ、命を狙われ面で顔を隠す逃亡生活であった。その面は寿昌寺に預けられた後、用田の寒川神社へと納められたが盗難に遭い現存していない。その後、姫は父と再会し一度は都に戻りましたが願いにより当麻寺へ入り、17歳で中将法如として仏門に入り称賛浄土経一千巻の写経を達成した後、阿弥陀如来と観世音菩薩のお力の元に、百駄の蓮の茎より一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げになりました。その後29歳を迎えられた中将法如は、光仁天皇の宝亀6年(775314日、諸仏の来迎を受けて大往生を遂げられました。(案内板)


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寿昌寺
護法山と号する用田の字中条にある曹洞宗の寺院です。1613(慶長18)年に創建され、開基は用田区の豪農にして大庄屋として知られる伊東家の伊東孫右衛門、開祖は僧・通山です。元遠藤宝泉寺の末寺で、6世悦道が中興の祖とされています。山門付近には大銀杏が2本あり当寺のシンボル、続く参道も石燈籠が並び豊かな緑に囲まれています。また、創建以来ほとんど火災に会っていないほか、関東大震災でも倒壊しなかった数少ない寺院のひとつで、本堂には地獄絵図2幅、十六羅漢像、まわり地蔵などが残されています。(御所見まちづくり推進協議会)


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法華山示現寺
/新幹線先・左折
示現寺は永禄3(1560)108日、当時の豪族伊東孫右衛門祐矩公により永禄山観生寺(禅宗)として開かれ、人々の信仰を受けていま したが、第二次大戦後に継承者不在の為、衰退の道を辿りました。その後数十年間廃寺となっていたこの寺を、平成元年5月に前住職 (自修院日得聖人)により新たに開山し寺号を示現寺(日蓮宗)として改宗復興、その後単立宗教法人を取得し、平成164月山号を法華 山と定め「法華山示現寺」として歩んでいます。(藤沢市)


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用田辻へ上ります/寿昌寺入口



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用田寒川神社/新用田辻左折

天正2年(1574)伊東孫右衛門により勧請。大鳥居の右側にご神木であるモミの大木がそびえており、砂利を踏みしめながら100mほどの参道を行くと木立の中に社殿 が現れる。この周辺は寒川町の寒川神社の御用田だったところから「ようだ」とよばれたという。(藤沢市)


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用田交差点              大山道道標/用田交差点右角

柏尾通り大山道

東海道方面からの経路で、現在の横浜市戸塚区から大山へ向かうものである。この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、講衆同士が大げんかを始め「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった。なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至る。県道401号瀬谷柏尾線・22号横浜伊勢原線などが近似したルートを辿っている。(経路)東海道戸塚宿不動坂(横浜市戸塚区柏尾町)-岡津(横浜市泉区)-中田-和泉-上飯田村-境川-七ツ木村(藤沢市)-長後-用田-門沢橋(海老名市)-戸田の渡し(相模川)―下津古久(厚木市)-下落合(伊勢原市)-下糟屋-青山通り大山道を経て大山へ。(Wikipedia


・・・宮原(みやばら)

高座郡寒川町宮山にある相模一の宮寒川神社の社地であった原野を開拓したところからこの地名が付いたといわれている。村の中央を中原街道が通り、北町に大山街道がとおっていた。街道には旅人の往来も多く、当時の様子を思い起こさせる屋号も多く残っている。(藤沢市)


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この辺りは植木屋さんが多いですね/宮原南


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双体道祖神
/宮原中央信号(左)     メンチカツお奨め!/御畜食肉センター


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宮原寒川神社/宮原中央信号・右折
祭神は品陀別命(応神天王)、寒川彦命、寒川姫命で本殿は明神造、拝殿は入母屋造となっている。一帯は寒川神社の宮地であった原野を開拓して村を作ったので宮原とよばれるようになったという。大正4年(1915)神饌幣帛料供進神社に指定された。(藤沢市)


中原街道(5)桜ヶ丘~寒川02 用田_d0183387_09352647.jpg観蔵寺

観蔵寺は、藤沢市宮原にある宮原山不動院と号する真言宗の寺院です。創建時期は不明とされていますが、安土桃山時代と推定され、寛永年間(162444)に僧・成印により再興されたと伝えられています。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄していました。本尊不動三尊、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷にあった西福寺の旧本尊です。現在の本堂は大正大震災後に改築されたものです。(御所見まちづくり推進協議会)


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街道からちょっと入ると長閑な田園風景が広がります、いいですね!/宮原 


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資料ファイル

御所見(ごしょみ)の歴史

その昔、桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)親王より出た板東平氏の一族である長田氏が平安時代、葛原の地を私領、垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に館を構えたので里人が垂木(タルキ)御所と呼んだ。その御所が菖蒲沢の塚より展望できたのでこの塚を御所見塚と呼んだ。また、別の伝えでは葛原親王が当地に下向し葛原の地に御所を造り、付近を散歩のおりこの塚より御所を眺められたとも言われている。後に塚の名前が御所見村の名となり藤沢市合併後、御所見地区と呼ばれている。(藤沢市)

御所見の起源

平成5年度から始まった横浜伊勢原線、用田バイパス工事に伴い遺物が大量に発見されています。旧石器時代の末期の土器や住居跡、動物を捕るために使ったであろう落とし穴、また、この時代ではほとんど確認することができなかった木材が炭化した状態で出土し注目を集めました。また、富士山の噴火で埋没した溝や道、地震のあった痕跡等がみつかっています。御所見の環境を考えるとはるか18000年前から人々が生活していたことが伺えます。(藤沢市)

御所見の交通
江戸から14里(約56km)のところにあり、商店が連なる用田の県道横浜伊勢原線は昔の大山街道、用田辻で交差する県道丸子中山茅ヶ崎線は中原街道であった。また、大山街道は御所見中学校前で厚木街道(県道藤沢厚木線)交わっている。用田辻付近は旅籠や茶店が集まり、大山参りの人たちでにぎわったといわれている。江戸時代には旅人が一休みし、雄大な富士山の景観を楽しんだ後に、大山へ向かって歩き始めた。(藤沢市)

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御所見のルーツコース地図(御所見まちづくり推進協議会)

皇子大神(おおじおおかみ)

葛原の鎮守さまとして親しまれている神社。美しい木々に囲まれた社と長い参道は、桓武天皇の第三皇子、葛原親奉祀するにふさわしいただずまいを見せています。

瀧山不動尊

滝不動は、もと明滝山長盛寺の廃跡にあるお堂です。天保12(1841)成立の『新編相模国風土記稿』によると、慶安5(1652)に村人の与右衛門に夢のお告げがあって、境内の滝のそばから不動像が出現したと伝え、当地の領主であった旗本の長田重正が承応3(1654)に病気になった時、その霊験で治癒したので、翌年にお堂を建てたということです。

中原街道(5)桜ヶ丘~寒川01-綾瀬の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22311545/

by Twalking | 2015-10-23 17:17 | 中原街道(完)

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