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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(6)寒川~平塚03 中原   

日時 2015.10.25(日)
天気 晴れ

中原街道の目的地、中原御殿にゴールしました。
現在、跡地は中原小学校、碑が建っているだけですが、
周辺を歩くと往時を偲ばせる寺社や遺跡などがあります。

虎ノ門から60km、脇往還ということで最初は躊躇しましたが、
どうして、どうして、古代・中世の漂いが色濃く残っています。
東海道とはまた違った趣き、面白さがありました。
歩いてよかったなぁ~、と思っています。


・・・真土(しんど)

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諏訪神社前に残る旧道/東真土 


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宮林交差点まで戻り左折        諏訪神社前の旧道を左折


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真土神社御由緒

創立年代 不詳 当神社の御祭神の数が多いのは真土地域内の各地に御鎮座する諏訪神社、白山神社、本宮神社、明神神社、八坂神社、稲荷神社、御嶽神社の各祭神を明治の年間に一社に合祀し真土の総鎮守としたのである。(説明板)


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宮鐘と鐘楼の由来

諏訪社 村鎮守なり、円隆寺 鐘楼 天保4年(1833)の鋳造(天明7年再鋳の鐘を再び鋳替しなり)を懸く白山社 是も鎮守なり、東光寺持 △鐘楼 鐘は元文4年(1739)鋳造なり 真土には江戸時代、村の鎮守が二社、諏訪社と白山社があり、それぞれに鐘楼があり鐘が懸けてあったと、天保12年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』に記されています。白山社の鐘は安政34月(1856)国家急海防のために供出。諏訪神社(真土神社に明治八年合祀)の鐘は、第二次世界大戦中の昭和173月(1942)供出応召された。共に時代が大きく変貌するときに大砲、小銃、弾丸に変わって往った。現在の宮鐘は大正6年(1917)に鋳造された四代目です。この鐘楼は大正6年(1917)に諏訪神社(東真土4丁目139番ノ1)より宮鐘と共に移築されたものです。供出された宮鐘の銘文によれば、初代の宮鐘は安永7年(1788)に鋳造されておりしたがって、この鐘楼は江戸時代の中頃に造られたものと思われます。

蛙股の彫刻 
この鐘楼には、近隣ではあまり例を見ない四神を彫刻した蛙股が取り付けられています。四神とは、中国の周代に始まった四方を守護する神で、東方を青龍、西方を白虎、南方を朱雀(鳳凰)、北方を玄武(亀と蛇の合体)といいます。奈良県の高松塚古墳の壁画、明日香村・キトラ古墳の壁画、薬師寺の仏像台座、群馬県の前双子山古墳の須恵器にも四神が描かれています。東・青龍は、天から恵みの雨を降らせ、豊作をもたらし、家運を隆盛にさせます。西・白虎は、女性に子宮と安産を授けて、夫婦円満に導くとされています(この白虎おなかが大きい)。南・朱雀は、その翼で災厄を払いのけて、大いなる福を招くとされています。北・玄武は、長寿と福を招く亀と災厄を寄せ付けない蛇の霊力を合わせ持ち、長寿と繁栄をもたらすとされています。(真土神社)


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左への道が残っている旧道です


d0183387_19354030.jpg古道中原街道/
真土神社前
古来より真土を斜めに横断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。家康は、関東移封のときやその後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど好んでこの道を用いた。その後、江戸が政治の中心になるにしたがい東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ脇街道となっていった。しかし、この道は起伏が少なく江戸への最短距離であったため、急ぎ旅の者や物産輸送におおいに利用された。いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは真土地区であるといわれている。この道で展開されたロマンや役割を大切に伝えていきたいものである。(真土連合会自治会 真土神社 平塚市観光協会)


d0183387_19415664.jpg真土大塚山/真土神社前 
神獣鏡の碑
真土神社の北西400mにあった真土大塚山はかつて古墳時代前期の古墳があり、昭和10年ごろから神獣鏡の出土した径22.1cm、青銅製の三角縁四神二獣鏡である。鏡の縁の断面が三角で、東王父や西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており、周囲に「陳是作鏡甚大好、上有王父母、左有倉竜右白虎、宜遠道相保」の文字が刻まれた銘帯がある。同笵鏡が京都や岡山などから四面出土しており、真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な史料である。私たち真土地域はここに碑を建立し、この郷土に宝を未来に伝える(代表 平井茂)


・・・中原

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交差点を直進、その先を左折して中原御殿へ/中原北


d0183387_20025464.jpg中原上宿遺跡/中原2北交差点右角
この道路は、昭和45年から昭和56年にかけて主要地方道平塚・伊勢原線の新道として建設されたものです。建設に際して附近一帯に遺跡のあることがわかり発掘調査が行われました。発掘にあたった「中原上宿遺跡調査団」の調査によりますと、沖積低地における古代集落の解明に役立つ弥生時代の住居址、奈良平安時代の住居跡群や、大型の井戸址の存在が確認されました。この発掘調査により、古代の相模国に住んだ人びとの生活がかなりわかるようになりましたので、この成果を後に伝えるために記念碑を建てたものです。(石碑)


d0183387_20030179.jpg中原街道一里塚跡
中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢(なるせず)を江戸城まで運ぶこの場所の両側に一里塚はありました。(標柱)






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日枝神社御由緒
日枝神社は、昔は山王社と言われた。文禄年間、徳川家康公が鷹野の遊殿を中原に建設の際、当社は御殿の鬼門にあたるので方徐鎮護のため再三にわたり修営をされた。寛永1712月(1640)に御社を現在の地に遷座された。徳川家代々崇敬の厚いお社であった。明治4223日雑社東照宮を合祀した。境内地八百九拾四坪現在の社殿は昭和3710月改築した。境内社八坂神社・稲荷神社・神明社(説明板)


d0183387_20032096.jpg得願寺の礎石

この石は山王社(現日枝神社)の別当寺だった得願寺の礎石(基壇)です。得願寺は日枝神社神楽殿の南側にありました。この寺は中原御殿が寛永17年(1640)に三代将軍家光によって大改修されたとき、御殿の鬼門鎮護として山王社が「御殿後」の地から現在地へ遷座されるに伴って創建されました。しかし、明治になって神仏分離政策によって廃寺となりました。この礎石は日枝神社の鐘楼を支える四柱として用いられていたもので、平成15年の改修工事で発掘されました。そして得願寺の存在を実証する貴重な歴史的遺産として、中原の歴史再発見事業活動委員会等によってこの地に据え置かれることになりました。得願寺は明治6528日、教育施設として崇広館が開設されました。これが現在の中原小学校の原点です。中原小学校が現在地の中原御殿跡地に売ったのは明治4277日のことです。(平塚市)


d0183387_20032870.jpg庚申供養塔
 
この庚申供養塔は、平塚市中原1丁目17番(旧平塚市中原下宿169番地)の一角にあったものですが、昭和26年から始まった旧大野町土地改良区事業の一環として大山道(通称豊田道)の一部(平塚江南高校東側道路と平塚~伊勢原線旧県道の現在のT字路を更に北へ直進し、慈眼寺の東角へ向う道路の内約40m)が整理消滅したため、ここ日枝神社境内に移されたものです。この塔の正面から左側に「平塚ステーション道」と刻まれていますのは、明治20年に東海道本線平塚駅が開設されて駅に直接通じる道が整備され、それを記念して設置されたものです。そしてこの塔は、いろいろなところで紹介されていますが、現在ではかなり表面が剥落して昔の面影を失いつつあり、これを元の位置周辺に戻すには崩壊の恐れがありますので、この地に安置しています。(施主原興平 撰文 小川治良 中原の歴史再発見活動委員会)


d0183387_22262242.jpg谷川と谷川橋の跡
現在のこの道はかって谷川(やがわ)といった排水路だった。谷川は谷川堀ともいい平塚の沖積地を東西に列する平塚砂丘のうち第2砂丘列(日枝神社境内・伊勢山・大塚山等の標高12mから17mの丘)の南側の低列地にある。字谷川の舟窪の凹地の池から発源して砂丘低列の畑地の排水を集め西流し、先行流が渋田川に合した。現在は度々の改修によりその全容を失い、ついに道路敷となり消滅した。谷川は明治8年の中原上宿村誌によると幅平均2間(約3.6m)長さ1.115間(約2.007m)深さ最も深き処1丈(約3m)浅き処4尺(約1.2m)とある。またこの谷川には中原往来の石造の谷川橋が架けられていた。村誌には文政8年(1825)に再設とあるから江戸時代からあったと思われる。谷川が昔、単なる排水路でないことは諸文献などから、近世初頭の関東鷹野御殿の一つである中原御殿と中原代官陣屋に深い係わり合いがあることが散見される。それは谷川に、かって水門が設けられ上流の舟窪の池の余水と畑地の排水を貯水して、中原御殿の空堀引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが後年中原御殿引き払い、そして中原代官陣屋廃止により谷川からの堀水は必要はなくなり、水門は棄却され谷川は再び低列畑地の排水路と化して現在に至り、昔日の面影を失ったのである。(中原地区町内会・自治会連合会記)



d0183387_22262580.jpg中原宿高札場跡/御殿入口角

中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向う大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。高札場とは、幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のことです。「中原御宮記」(長谷川雪堤画)を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられる部分には屋根がついていました。(平塚市)


・・・中原御殿跡

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中原小学校、御殿跡です

中原御殿

江戸時代初期、現在の平塚市御殿2丁目にあった徳川将軍家の御殿(別荘)である。1596年(文禄5年)に徳川家康の命により、江戸・駿府間の往復や鷹狩りの際の宿舎として建てられた。「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいったが当時の呼称は「御旅館」。神奈川県内には他に、神奈川御殿(横浜市神奈川区)、小杉御殿(川崎市中原区)、藤沢御殿(藤沢市)があった。規模は東西約140m、南北約100mで約7100坪の広大な敷地を持っていた。現在跡地には平塚市立中原小学校があり、御殿跡碑が設置されるのみである。周囲に約10m幅の堀をめぐらしていたといわれ、中原小学校の北側道路が堀跡といわれる。1640年(寛永17年)に一度修理をしているが明暦の大火のあった1657年(明暦3年)、取り払いとなる。平塚市内にある茅葺きの善徳寺三門は、この御殿の裏門である冠木門を遷したものと伝えられている。中原街道はその名をこの御殿に由来するが、街道そのものはすでに後北条氏の時代には整備されていたものであり、もともとの起点は大磯宿外れの化粧坂である。また、御殿造営の頃よりこの地や平塚宿などに黒松を中心とした植林がなされた。合計127町歩に及んだ松林は中原御林(なかはらおはやし)と呼ばれ厳重に保護された。(Wikipedia

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中原御殿跡を描いた「中原御宮記」(天保1018399月)平塚市博物館蔵(説明板の写真)


d0183387_22262979.jpg中原御殿/中原小学校前
徳川家康が鷹狩りなどの折に宿泊所とした中原御殿が、中原小学校を含む一帯にありました。御殿の規模は東西78間(約141m)南北56間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし東側を表としていました。御殿が造られたのは慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説がります。寛永19年(1642)に修復されますが明暦3年(1657)には引き払われました。その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」(平塚市指定重要文化財)の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。(平塚市)


d0183387_22265337.jpg相州中原御殿之碑(
徳川崇敬 題額)
この地は 慶長年間 江戸に幕府を開いた徳川家康公が 旅のやどりとして造営した相模国大住郡 中原御殿の跡である。御殿は またの名を雲雀野御殿ともいい 家康公が鷹狩り 江戸と駿府往来の途次に宿泊した   文献によると文禄元年 肥前国名護屋陣に赴くさい 中原に止宿したのを始めとし 係わりは深いものがある中原は 御殿の勝地にとどまらず この地方に与えた影響は大きい 江戸時代初期の大住郡の行政 中原御林 中原街道など 皆この地より発したという 明暦360有余の歳月を経た御殿は 惜しくもお引き払いとなり中原を去ったここに 近世初頭の光彩を放つ著名史跡を末永く顕彰するため 建碑したのである (平塚市長石川京一 撰 平塚市文化財保護委員 高瀬慎吾書)


・・・御殿周辺

d0183387_23275904.jpg船に乗ったお地蔵さん/南原








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善徳寺と三門/
舟地蔵先(右)
善徳寺は浄土宗に属し南原山永琳院という。開山の善徳徹巌は俗名を大館玄誉といい、久しくここに庵室を構えていたが、のち一宇を建立し天正2年(1574)正月没したと言われている。この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移建したものであると、昔からいい伝えているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。(案内板)

絹本着色法然上人像一幅

善徳寺は善徳徹厳(1574年没)によって開創されたと伝えられる浄土宗の寺院です。法然上人(源空11331212)は浄土宗の開祖であり、その肖像画は数多く描かれております。本図もその1つで左を向いて礼盤(らいばん)の上に座し、数珠をつまぐっています。法然像の形式としては最も一般的なもので、京都の二尊院が所蔵する「足曳御影(あしびきのみえい)」の像容を踏襲しています。上部の賛(画に書き添えた文)は、弟子の勝法房が法然の肖像画を描いたときに、法然自身が書いて授けた賛を引用したもので「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」にみえる勢至菩薩の悟りの強さを説いたものです。本像の制作された場所や善徳寺に伝来した経緯はよくわかりませんが、制作年代は、全体の描法や用いられた絹の特徴などから室町時代前期と推定されます。本像のように中世にまで遡る法然上人像は神奈川県下では極めて珍しいものです。(平塚市教育委員会)
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旅の終わりは高麗山の美しい夕景でした/国道1号線


・・・・・
資料ファイル

平塚市
神奈川県のほぼ中央、相模川右岸(西側)に位置し、南は相模湾に面する。相模川から金目川までの間は市域北端部まで平野となっており、南部には市街地が広がる。金目川より西側は大磯丘陵の一部となる丘陵地帯であり、緑も多い。(歴史)4世紀後半:真土大塚山古墳、塚越古墳(現在は消滅)が築造される。(奈良時代・8世紀ごろ)現在の平塚市四之宮周辺に下ノ郷廃寺が存在し、国厨・郡厨・大住厨と書かれた墨書土器が出土していることから、既にこの時期に相模国大住郡という行政組織が機能していたことが窺える。また相模国国府跡とも大住郡庁跡ともいわれている。(9世紀終~10世紀初頭)伝承によると、この頃平真砂子(高望王の妹)がこの地で没する。(11世紀から13世紀前半・和田合戦まで)高望王を祖と号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党の岡崎義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺、その子佐奈田義忠が真田周辺を支配。1199年:相模川に架けた橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが頼朝の死去につながったという説があり、以降の相模川は馬入川の別名で呼ばれることになる。1416年:上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。1512年:北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏の領するところとなる。1596年徳川家康により中原御殿(現 平塚市立中原小学校 - 日枝神社)が造営される。現代の名阿原海道という街道名はこれに由来する。また、同時期に造営された小杉御殿は現在の川崎市中原区にあった。伝承ながら御殿裏門が市内南原の善徳寺三門に移築され遺構として残る。Wikipedia


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平塚の塚

平塚市にある、当地地名の由来となったとされる史跡である。新編相模風土記稿、或いは当地の伝承によると桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子との表記もある)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされる。真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高見王の妹、平国香(平氏着流、平清盛の祖) 平良将(平将門の父) 平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母に当たる。故に「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もある。高望王は寛平元年(889)宇多天皇の命により平姓を賜って臣籍に降り、平高望を名乗った。その後、昌泰元年(898)上総介に任じられた。当時上級地方官に任命された者は任地には赴かない遙任が多かったが、高望は子の国香等を伴って実際に上総に受領として赴任し、その子孫は東国に勢力を伸ばしていった。(Wikipedia


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平塚宿史跡絵地図


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東組問屋場跡             江戸方見附跡

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東海道五十三次 平塚 (広重)

東海道平塚宿
平塚の名は『吾妻鏡』に「範隆寺平塚」「黒部宮平塚」とあるのを初見とする。宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、正和五年(1316)ごろ鎌倉に滞在していた益性法親王の上洛の際の書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿としての機能を整えていたことがうかがえる。東海道の宿駅には慶長6年(1601)に指定される。慶安4年(1651)に平塚新宿を加宿に編入。明治4年(1871)廃藩置県により平塚宿および加宿平塚新宿村は足柄県に編入された。宿内は江戸方から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町と続き、街道北側二十四軒町に脇本陣安兵衛、同じく西仲町に本陣加藤七郎兵衛、二十四軒町と東仲町の間に東組問屋、西仲町に西組問屋があった。宿場の長さは九町五間(約1km)、道幅四間一尺(約7m)から六間(約11m)であった。(東海道への誘い・国土交通省横浜国道工事事務所HPより)

東海道平塚宿はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17193047/)


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中原街道コース図(起点:虎ノ門 終点:中原御殿跡)


by Twalking | 2015-10-29 10:32 | 中原街道(完)

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