ぶらり本郷~巣鴨04 巣鴨
天気 晴れ
少し時間が早かったので地蔵道通り商店街から
染井霊園をひと廻りしてみました。
今回はなんやかやと15km以上歩いたでしょうか、
坂道や路地は変化があって面白いですね、
天気にも恵まれ、楽しいいウオークでした。
巣鴨
江戸時代、武蔵国豊島郡巣鴨村。大池に鴨が巣を作っていたからとする説、古くから「州賀茂」「菅面」「州鴨」「州処面」とも表記され、砂洲(州処(すが)や沼地があり葭が茂った村とする説がある。なお、旧染井村は「ソメイヨシノ」の発祥の地。(日本辞典)
地蔵通り商店街
地蔵通り商店街の道筋は旧中山道。商店街周辺は「おばあちゃんの原宿」として多くの高齢者で賑わっている。東京のマスコミによる高齢者のインタビューはここで多く行われる。入り口にある真性寺には、江戸六地蔵の第四番、2.68mの銅造地蔵菩薩坐像がある。
真性寺縁起(しんしょうじ)
当寺は医王山東光院真性寺と称し、真言宗豊山派に属し奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。当寺の開基は聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(1615)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして古来より秘仏として一切開扉されて来ておりません。当寺は江戸時代より弘法大師御府内八十八霊場第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっています。巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、八代将軍吉宗公が度々狩に来られ当寺が御膳所とされていました。(真性寺)
江戸六地蔵尊第3番縁起
当寺境内に安置されております江戸六地蔵第3番の尊像は地蔵坊正元が発願となって、宝永3年(1705)造立の願を発してから享保5年(1720)に至る15年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された6体の大地蔵尊の一体で正徳4年(1714)に完成されました。発願主の地蔵坊正元は若い頃に大病を患い、両親が地蔵菩薩に一心に祈願を込められている姿を見て、自らも御利益が得られたならば世の中の人々に地蔵菩薩の御利益を勧め、多くの尊像を造立して人々に帰依することを勧めたいと地蔵菩薩に誓ったところ、不思議な霊験があって難病から本復したことにより、誓いの通り地蔵菩薩像を江戸の出入り口にある六ヵ寺に造立されたのであります。(真性寺)
高岩寺
豊島区区巣鴨にある曹洞宗の寺院。山号は萬頂山。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵の通称で知られる。慶長元年(1596年)扶岳太助が江戸神田湯島に創建。のちに下谷屏風坂(現・岩倉高等学校)に移る。1891年(明治24年)巣鴨に移転。東京大空襲で建物を全焼し、現本堂は1957年(昭和32年)に再建されたものである。
とげぬき地蔵の由来
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ死に瀕していた。又四郎が夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にも利益があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。(Wikipedia)
本妙寺
豊島区巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。山号は徳栄山。院号は総持院。本尊は十界勧請曼荼羅。1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在岡崎市)の檀家であった武将を開基として、問う遠江国曳馬(現在浜松市中区曳馬)に創建された寺である。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷代将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(文京区本郷五丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)(そのため、現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある)。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。(Wikipedia)
遠山金四郎景元墓
遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政5年(1793)遠山景普の子として生まれた。文化6年(1809)金四郎と改名し、文政12年(1829)家督を相続、天保7年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保11年(1840)3月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による天保改革が始まったが、その進行中の天保14年(1843)町奉行を罷免され、大目付に異動させられた。弘化2年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永5年(1852)3月まで7年間にわたり勤役した。下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行といわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を送ったが安政2年(1855)2月29日61歳で病死した。法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、本妙寺が明治44年この地に移転した時に改葬された。(東京都教育委員会)
本因坊歴代の墓
「本因坊」の由来 囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海(後の算砂)が居住していたことに由来します。算砂は本坊因家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、また1603(慶長8)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。「碁所」とは江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど囲碁界最高の地位を保証された棋士です。碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。その理由に実子相続とする世襲制ではなく、弟子の中で優れたものが相続する実力制だったことが挙がられます。本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43)現在地に移転しましたが、その時に碁所の配置はほぼ現在の形となり、4世本因坊道策より21世本因坊秀哉に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。(説明板)
慈眼寺
了現院日盛が深川六間掘猿子橋に創建しました。元禄6年(1693)本所猿江に移転、のち身延山久遠寺末から水戸久昌寺末となりました。明治45年(1912)谷中妙伝寺と合併の上、当地へ移転、山号を正寿山と改号しました。現境内には、芥川龍之介、谷崎潤一郎墓等の墓があります。
芥川龍之介の墓
大正期の代表的小説家。代表作「羅生門」「きりしとほろ上人」「或る阿保の一生」「歯車」「河童」「西方の人」等。死後芥川賞が設けられた。(東京都)
東京都指定旧跡司馬江漢墓
江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享4年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和7年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明3年(1783)腐触銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)10月21日72歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には、「西洋画談」「春波楼筆記」「和蘭通舶」などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化7年)寿塔である。(東京都教育委員会)
染井霊園
豊島区駒込にある都営霊園。旧称の染井墓地で呼ばれることも多い。水戸徳川家墓所。水戸徳川公爵家や府中松平家の江戸期の墓。徳川斉昭の生母や徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓がある。面積は67,911平方メートル、およそ5,500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さい。1872年に明治政府によって播州林田藩建部邸跡地に神葬墓地として開設される。1874年に東京府の管理下に置かれ宗教によらない公共墓地となる。1889年には東京市に移管され、1935年に染井霊園に改称された。園内には約100本のソメイヨシノ(染井の地が発祥といわれる)が植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっており桜の名所として親しまれている。(Wikipedia)
染井吉野命名の由来
江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。(Wikipedia)
by Twalking | 2015-11-17 13:34 | 東京散歩(新規)