無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(1)赤坂~三軒茶屋01 赤坂   

日時 2015.11.21(土)
天気 晴れ

大山街道歩いてみたいと思います。
平河町や渋谷、世田谷などは勤めたり住んだりで、
懐かしい、好きなところです。

少しは見知った地域を一本の道、街道として繋ぐのも
また違った面白味があるかも知れません。
出会いを楽しみに、とりあえず西へ、GO!してみます。


・・・三宅坂


坂の名前は江戸時代、この坂の途中に三河国田原藩(現在の愛知県田原市)三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来する。当時はこの坂に沿って、三宅家のほかにも近江国彦根藩井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もあった。また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)であるが、堀端に皀莢(さいかち)や橿(かし)の木が植えてあったため「皀莢坂(さいかちざか)」「橿木坂(かしのきざか)」の別名があった。明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞だった。(Wikipedia

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渡辺崋山も関わりがありそうなので、ここからスタート/三宅坂交差点


d0183387_10564171.jpg渡辺崋山生誕地/小公園(右角)
ここに三河田原藩の上屋敷がかつてありました。渡辺崋山は名を定静、通称を登といいます。三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政5年(1793)に上屋敷内の長屋で生まれました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。天保3年(1842)に年寄役末席となり海防掛を兼務して以来、小関三英や麹町に塾を開いていた高野長英らと蘭学研究を始め尚歯会を結成しました。天保10年(1839)いわゆる「蛮社の獄」により捕縛・投獄され同年12月に在所蟄居を命ぜられ田原に向かうまで、40年余りをこの地で過ごしまた。(千代田区教育委員会)


d0183387_11285053.jpg隼町(はぶさちょう)
江戸城内堀に面したこの界隈には徳川家康が江戸にやってきた当初、鷹匠(たかじょう)たちの屋敷がありました。鷹匠とはタカやハヤブサを飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。つまり、隼という町名は鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。江戸時代、このあたりには播磨明石藩松平家や、三河田原藩三宅家などの武家屋敷や、火消役屋敷がありました。田原藩の家老となり、画家・思想家としても名高い渡辺崋山もこの地に生まれ、生涯の大部分を過ごしました。元禄年間(1688年~1704年)、麹町通りに面した町屋裏の武家地(現・麹町一丁目5番地および7番地)は町人地となり、麹町隼町と呼ばれていました。それが、明治5年(1872年)麹町1丁目に含まれることになったため、南側の武家地だったこの一帯に由緒ある「隼町」という町名が付けられることになったのです。(千代田区)


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年(明治33)黒田清輝ここに住む/森タワー先(右)
重要文化財「湖畔」や「智・感・情」などの作品を描いた明治・大正期の洋画家。この年これらの絵画をパリ博に出品し銀賞を受賞した(街の記憶)


d0183387_12085493.jpg平河町

菅原道真公を祀った平河天満宮が起源であるといわれています。しかし、この界隈が「ヒラカワ」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのことです。江戸時代のこの一帯は、旗本の屋敷が立ち並ぶ武家地でした。一方、この界隈には狭いながらも商人や職人が集まる町屋も存在していました。古絵図を見てみると、武家地の北側に湯島亀有町代地や教授所附町屋敷、木挽町四丁目裏上納地替地など独特の名をもつ町が見受けられます。また、現在の平河町二丁目16番あたりは通称で「三軒家(さんげんや)」と呼ばれていました。町会の資料によると、この呼び名は両替商伊勢武の田中武兵衛、三河屋酒店の磯貝善兵衛、魚や伊せ彦の永田安次郎の三軒の店から付けられたようです。三軒家をかたどった図柄は、町内の祭礼等に使う手拭いなどに印され、町のシンボルとして大切に受け継がれています。(千代田区)

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三宅坂付近地図(赤:大山街道(246号)紫:甲州街道)


・・・赤坂御門跡

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街道の起点になります/赤坂御門跡・紀尾井町(右)


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史跡江戸城外堀跡・赤坂御門

正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門を見ることができます。赤坂御門は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤去され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。(東京都教育委員会)


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弁慶橋                弁慶濠

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・・・元赤坂

古くは現在の千代田区永田町あたりに所在した豊島郡赤坂庄下一木村という集落でしたが、徳川家康の関東入国後の天正年中(15731592)に町となり、寛永14年(1637)江戸城総構建設の一環である赤坂御門建設のため、赤坂御門外(現在の元赤坂一丁目)に移転しました。町名は、赤坂で最も古くより開けた町であることから、元赤坂町と唱えたと伝えられます。明治5年(1872)、江戸期からの元赤坂町は、赤坂裏3丁目(後の赤坂伝馬町3丁目)と合併し、旧来、紀州徳川邸(現元赤坂2丁目 東宮御所)であった町域を新たに元赤坂町としました。(旧町名由来板)

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豊川稲荷(右)手前から旧道へ/豊川稲荷歩道橋


d0183387_12561605.jpg東京・赤坂豊川稲荷別院の御縁起
豊川稲荷は昔、順徳天皇第三皇子寒巌禅師が最初感得された稲穂を荷い白狐に跨り給う端麗なお姿の豊川豊川吒枳尼天という霊験あらたかな仏法守護の善神です。当別院は江戸時代、大川越前守忠相公が信仰された由緒あるご尊像をまつり、もと赤坂一ツ木の大岡邸あったものを、明治20年、現在地に奉遷し、愛知県豊川閣の直轄別院となり今日に至ったものです。(パンフレット)


d0183387_13145656.jpg九郎九坂
(くろぐざか)
江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって、鉄砲坂ともいう。(標柱)





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旧道がわずかに残ります/山脇学園先


d0183387_13204767.jpg牛鳴坂(旧道入口)
赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。(標柱)


d0183387_13210238.jpg弾正坂(旧道途中)
西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。(標柱)


d0183387_13210824.jpg薬研坂(やげんざか・旧道出口)
中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で何右衛門坂とも呼んだ。(標柱)





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公園内にある日本庭園


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高橋是清翁記念公園の沿革/赤坂7丁目(左)

この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家『高橋是清』翁(18541936)の邸宅があったところです。翁は、昭和11年(1936226事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(19416月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955)に再建されました。現在の面積は5320㎡で、国道246号線の拡幅工事等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。(港区)
(赤坂の旧高橋邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにあって敷地は約2,000坪、現在公園に隣接しているカナダ大使館も往時は高橋邸の一部であった)

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青山通り赤坂7丁目付近地図(赤:大山街道 紫:外苑東通り 緑:坂)

(赤坂見附周辺の関連記事はコチラへ http://teione.exblog.jp/22043854/


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資料ファイル

矢倉沢往還

江戸から大山への経路として代表的なものである。矢倉沢往還の街道は律令時代より東海道の本道にあたり、鎌倉時代に湯坂道(箱根峠)が開かれるまで官道として機能していた。江戸時代に入って大山講が盛んになる享保年間から、江戸から大山へ、あるいは足柄から大山への道としても機能する。急峻な箱根峠に対して足柄峠は緩やかであり、また、江戸-沼津間の短絡路であったために、東海道の脇往還としても発達した。神奈川県内の区間は大正時代になると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として機能している。Wikipedia


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相州大山/三軒茶屋キャロットタワー


青山通り大山道

矢倉沢往還の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。途中の下鶴間宿に大山阿夫利神社の分社が存在する。現在でも神奈川県内で「大山街道」の名が定着している道である。
(経路)
赤坂- 青山- 渋谷- 三軒茶屋- 二子の渡し(多摩川)- 溝口(川崎市)- 荏田(横浜市)- 長津田- 下鶴間(大和市)- 国分(海老名市)- 厚木の渡し(相模川)- 厚木(厚木市)- 愛甲- 下糟屋(伊勢原市)- 上粕屋 - 石倉 - 田村通り大山道を経て大山へ(茶:人馬継立場)
Wikipedia


国道246

東京都千代田区(起点:三宅坂交差点=国道20号交点)から神奈川県県央地域を経由して静岡県沼図師市(終点:上石田交差点=国道1号交点)に至る一般国道である。路線延長125.3 km(実延長125.3 km、現道123.4 km)。
(歴史)律令時代の頃、西国から東海道の東国を結ぶ道として足柄峠を越える「足柄道」があり、本道として利用されていた。ただし、現在の国道246号は足柄道にほぼ沿ってはいるが必ずしも重複せず、国道246号の直接の祖が現れるのは江戸時代の頃となる。江戸時代に東海道が整備されると、ほぼ足柄道に沿う形で新たに「矢倉沢往還」が整備され、東海道の脇往還として利用されるようになる。享保年間になると大山講が盛んになり、江戸から山岳信仰のある大山に詣でるための街道としても賑わった。この頃より「大山道」(大山街道)とも呼ばれるようになる。


d0183387_01243651.jpg青山通り/赤坂見附先
起点の三宅坂から赤坂、青山、表参道を経て渋谷に至る区間は「青山通り」の愛称で知られる。






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玉川通り/明治通り交差点
明治通り交点(渋谷署前交差点)から多摩川(新二子橋)の区間は「玉川通り」と呼ばれ、城南地域の交通の軸である。世田谷区新町から瀬田交差点の間は、現在のルートが新道として開通するまでは、桜新町、用賀を通っていた。この旧道に、1907年(明治40年)から1969年(昭和44年)までは玉電(玉川電気鉄道→東急玉川線)が併用軌道で走っていた(一部専用軌道)。旧道は現在は旧大山街道と呼ばれ、新町から桜新町駅前付近まで世田谷区道、桜新町駅前付近から瀬田交差点までが都道427号瀬田貫井線となっている。Wikipedia



by Twalking | 2015-11-22 19:14 | 大山街道(新規)

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