無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(1)赤坂~三軒茶屋03 池尻大橋   

日時 2015.11.21(土)
天気 晴れ


昔、酔い覚ましに歩いて帰った道、懐かしいですね。
当時は寺社や街道などは興味の範疇外でしたので、
あちらこちらと寄り道しながらの道中になりました。

距離の割には時間がかかりましたが、
急ぐ旅でもありませんので、それもまた良し。
久し振りに「246」を楽しみました。


・・・渋谷

渋谷区は武蔵野台地の東部にある淀橋台地に位置しています。淀橋台地は、北を神田川に、南を目黒川にはさまれた標高3060メートルの台地です。渋谷区の中央には、渋谷川によってできた開析谷とその支谷がシカの角のように西方へのびています。それを取りまいて、東に東渋谷、北東に千駄ヶ谷、北に代々木・幡ヶ谷、西に駒場・西渋谷の台地があります。(渋谷区)

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ハチ公前交差点/渋谷駅


d0183387_15183019.jpgハチ公広場
ハチ公は大正時代、松涛に住んでいた東大教授・上野英三郎氏が飼っていた秋田犬で、昭和9(1934)その忠犬さ故に銅像が建てられた。現在の銅像は昭和23(1948)再建されたもの。ハチ公広場は今、若者たちの待ち合わせ場所となっている。(みどころマップ・川崎国道)


d0183387_15265127.jpg道玄坂下スクランブル交差点 







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・・・道玄坂


坂道としての道玄坂はかつての住所で渋谷区上通3丁目に位置し、宮益坂のふもとから続いて西に上っている。上は玉川通りの道玄坂上交差点から下は渋谷駅前までである。谷底である渋谷川を挟んで宮益坂(富士見坂)と対面しており、江戸時代に著された『江戸町づくし』には、「行人坂」としても紹介されている。現在の地理では坂下にはターミナルである渋谷駅があり、坂の沿道には109など東急系の大型店舗・施設を中心に飲食店や雑居ビル、映画館などが多く立ち並んでいる。(Wikipedia

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道玄坂
江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多くの人が往来していました。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷街道に拝って松見坂までを広く呼んだものでした。江戸中期頃より道玄坂とは専らこの坂を指すようになったのです。(渋谷区教育委員会)



d0183387_15323173.jpg与謝野晶子歌碑/
道玄坂上交番の向い()
母遠(とほ)うて 瞳したしき西の山 相模か知らず 雨雲かゝる
歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(19024月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。晶子は、前年に郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、心身の負担は思いもよらず大きなものでした。歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端をこの一首の短歌は語っているのです。なお、この歌碑に彫られている筆跡は晶子自身の書簡による集字です。(渋谷区教育委員会)

渋谷道玄坂(写真左)
渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)、その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍らに道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は、神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。やがて明治になり、品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近はひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した想い出もある。これからも道玄坂は、今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。(樋口清之)


d0183387_01351989.jpg滝坂道追分/道玄坂交番前





d0183387_11391449.jpg渋谷マークシティ
渋谷区道玄坂1丁目にある(株)渋谷マークシティが運営する複合施設である。「イースト」(EAST=東)と「ウェスト」(WEST=西)の2棟のビルからなり、バスターミナル(東急多摩川線渋谷駅跡地)、東京地下鉄上野検車区渋谷分室、京王電鉄渋谷駅に跨って建てられている。(Wikipedia

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・・・大坂上

神泉
江戸時代に刊行された『江戸砂子』によると「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」とあって、古くから霊泉として知られていました。江戸時代から明治20年ころまで弘法湯として栄え、後の円山を中心とする盛り場の発祥地となりました。(渋谷区)

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大坂上/神泉町・旧山手通り


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上目黒大坂

ここは大山街道の中で一番の急坂であった所。坂上の立場からは西に大山をはじめ丹沢連山が良く見えた。明治中期の東京名所図会にその様子が描かれている。(みどころマップ・川崎国道)


d0183387_15494063.jpg厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので大阪と呼ぶようになったといわれる。この坂標識の北側の坂が旧道で、南側の坂が新道である。(標柱)



d0183387_15494464.jpg坂下/山手通り










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江戸名所図会 富士見坂一本松(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

道玄坂(巻之三 天璣之部)
富士見坂の下、耕地を隔てて向かふの方、西へ登る坂をいふ(この坂を登りて三丁目ほど行けば岐れ路あり。直路(すぐじ)は大山道にして、三軒茶屋より登戸の渡し、また二子の渡しへ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り、北沢淡島への道なり)。世田ヶ谷へ行く道なり(道玄、あるいは道元に作る)。里諺(りげん)にいふ、大和田氏道玄は和田義盛(11471213)五月、和田の一族滅亡す。その残党、このところの窟中に隠れ住みて、山賊を業とす。ゆゑに、道玄坂といふなり。(江戸名所図会に見る坂・井上のり子氏)


・・・大橋(目黒区)


地名は目黒川に架かる大橋にちなんでいる。古くは荏原郡上目黒村の駒場の一部などであった。北は駒場、東は青葉台、南は東山(以上目黒区)、西は世田谷区池尻に接する。地形的には武蔵野台地と大橋(橋梁)のある低地部にまたがり、南向きの傾斜地が多くを占める。学校、各種官公庁関係施設等が比較的多い。
Wikipedia

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氷川神社前/大橋・玉川通り(246号)


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上目黒氷川神社/大橋信号手前(右)
祭神は素盞鳴命を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(15731592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1812)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。境内には目切坂上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され「目黒富士」と称す登山道が築かれています。(目黒区教育委員会)


d0183387_16330350.jpg目黒富士

江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地に作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化91812)切坂上(上目黒1-3)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。昭和52年(19777月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。(目黒区教育委員会)


d0183387_16331223.jpg参道
大山道の道標:『右ひろう・めぐろ・池がみ・品川みち』左側面『左青山・あざぶみち』
再建供養塔:正面に『天下太平・坂再建供養塔・国土安全 武刕荏原郡右菅苅庄目黒郷 惣氏子・着者中』




d0183387_16494618.jpg目黒天空庭園・クロスエアタワー(左)
目黒区大橋に存在する屋上庭園。首都高速道路の大橋ジャンクションの屋上に造成され、20133月にオープンした。ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11メートルから35メートル、延長距離は約400メートルで、平均勾配約6%のループ状である。最も低い部分は歩道橋経由で国道246号へと通じている。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられている。Wikipedia



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大橋

目黒区大橋の目黒川に架かる国道246号(玉川通り)の橋である。上には首都高速3号渋谷線が通っている。目黒川はこの橋から下流が開渠である。記録に残る最初の架橋については、文化・文政期に編まれた新編武蔵風土記稿の「上目黒村」の項に『大橋目黒川ニ架ス、土橋ニテ長サ七間幅九尺、此橋の傍に水車アリ、文化年中、村民勘右衛門ト云う者願上テツクレリ』とある。往時は、矢倉沢往還(大山街道)上での道しるべとなる地点の一つでもあった。Wikipedia


d0183387_14312463.png清流の復活-目黒川
目黒川は世田谷区池尻を上流端として、品川区東品川で東京湾にそそいでいます。目黒川上流は昭和の初めごろまではかんがいの水源として、下流は河口から現在の船入場までは運河として利用されていましたが、都市化の進展や陸上交通の発展とともに利用状況が大きく変化し、水質の悪化や水量の減少がみられました。そこで、平成7年(19953月より東京都では清流復活事業を実施し、目黒川で清流の復活を行ないました。この目黒川に流れている清流は、新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を利用しています。東京都では、都民が水辺に親しむことができるとともに、水辺に多様な生物が生息できるよう、水質の工場や水量の回復により、心のやすらぐ水辺環境づくりをめざしています。(東京都環境局自然環境部)


・・・池尻(世田谷区)

旧・荏原郡池尻村。吉良氏の部将である橋本天王丸の子・兵庫重寿が17世紀前半に開発したとされている。1945年までは国道246号の南側のほとんどの区域を陸軍の練兵場が占めていた北沢川と烏山川が合流し目黒川となる付近で沼沢地帯を為していた。池尻の「尻」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを示している。「いけしり」や「いけのしり」という呼称もある。(Wikipedia

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池尻大橋駅から左手に旧道が残ります。


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旧道入口/池尻大橋駅          旧道出口/三宿交差点

大山街道沿いの陸軍施設
明治24(1891)より翌25年にかけて、上目黒から池尻の高台に騎兵第一連隊、近衛輜重兵大隊等の施設が移転してきて、その一帯は「騎兵山」と呼ばれた。兵舎の北側には駒場練兵場もできた。(みどころマップ・川崎国道)


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せたがや百景・大山道と池尻稲荷/池尻2丁目
大山道の面影を訪ねることができる。街道沿いにあった池尻稲荷には「涸れずの井戸」がいまもこんこんと湧いている。江戸市中を発った旅人は道筋ここまで飲み水がなく、この井戸で喉を潤したという。(せたがや百景)


d0183387_14311024.jpg池尻稲荷神社御由緒 
世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)をお祭りしたもので、今から約1300年の昔、和銅4年の2月の初牛の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したものが始まりです。この神は「稲がなる」イナリに別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のある神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内にも祭られています。当池尻稲荷神社は、今から約350年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村、池沢村の両村の産土神として創建鎮座になったものでそれより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。俗信仰としては古くから「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。当時は大山街道(今の旧道)のほとりに常光時の一隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往還(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休息して江戸入りする道筋にありました。又、江戸から大山詣での人々が大阪(現在、目黒区青葉台上通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。なお、境内にある井戸水は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。


d0183387_17121847.jpg涸れずの井戸
この池尻稲荷神社の入口わきに、昔「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸がありました。これはどんなに日照りが続いても、涸れることなしに、いつも豊かな水をたたえていたので、こう言われていました。この前の大山道旧道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民ののどをうるおし、まわりの人々に大変喜ばれました。とくに、雨乞いのための大山詣での際には、必ずここに立ち寄ったと言われます。現在も、この水は、境内の中にあり、みなさんにおいしい水を提供しています。この像は、江戸後期近くの商店に奉公しに来ていた少女が、奉公先の子どもといっしょに、ここに水を汲みに来た際、たぶんついでに「かごめかごめ」の遊びをしたのであろう様子を想像してつくったものです。どうぞ、昔の風景を思いうかべてみてください。(大山街道歴史と文化の散歩道・世田谷区)


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江戸名所図会 北沢粟島社 池尻祖師堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・三宿


この近辺には、幕末の頃まで「蛇池」とも「龍池」とも呼ばれていた池があり(北沢川と烏山川の合流点付近から目黒川大橋付近まで沼沢地帯を形成していた、近辺には「池尻村」「池沢村」と池の名がつく村があったこと、現在も国道246号北側の池尻・三宿には地形的に池のような低地部があること、その低地部の北に「池ノ上」があることからも窺い知ることができる)、水の宿る地ということで「水宿」とついたものから転じて「三宿」となったものといわれる。
Wikipedia

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せたがや百景・世田谷公園/池尻1丁目
中央広場の噴水を挟んで北側がスポーツ施設。南側の公園ではプレイパークが開かれている。園内の小高い丘には区制50周年(昭和57)を記念して、子ども達から50年後の子ども達へのメッセージなどを入れたカプセルが埋められている。ミニSLは土・日や祝日、学校の休みに合わせて走り大変な人気を集めている。(せたがや百景)


大山街道沿いの陸軍施設
明治30(1897)以降、大山街道の南側一帯に駒沢練兵場、近衛野砲兵連隊、野砲兵第一連隊、野戦重砲兵第八連隊等の兵舎が次々とでき、さながら陸軍の町と云う景観をみせていた。第二次世界大戦後、その跡地は世田谷公園、防衛庁中央病院、昭和女子大学キャンパス等の用地に利用されている。(みどころマップ・川崎国道)


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池尻大橋駅付近の地図(赤:大山街道 橙:246号 紫:山手通り 青:目黒川)


・・・太子堂


文禄4年(1595年)に阿闍梨法印(真言宗の僧位)の賢恵和尚が、十一面観世菩薩像と聖徳太子像を背負って、大和の久米寺から関東に下って村の民家に一泊しました。そのとき夢に聖徳太子が現れて「この地に霊地あり、円泉ヶ丘という。恒に霊泉湧き出ず。永くこれに安住せん。汝もともにとどまるべし」と告げられたといわれています。これにより賢恵和尚は翌年には本堂、聖徳太子堂、庫裡を完成させて手厚く祀った。それ以後この地は栄えたので村の名を太子にちなんで太子堂と名付けました。(世田谷区)

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せたがや百景・太子堂圓泉寺とけやき並木/太子堂3丁目
聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景)


d0183387_10312279.jpg円泉寺
聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄5(1579)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ太子堂の地名はこれにもとづいている。世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。先生は、明治3年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校と、なまえは変わっても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。(世田谷区教育委員会)


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太子堂                   円泉寺門前風景                 


d0183387_10241623.jpg林芙美子旧居/太子堂三丁目29
此の路地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です。その一軒には壺井繁治、栄夫婦が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。芙美子の処女作「放浪記」にはこの頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。壺井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言っていいでしょう。(世田谷区教育委員会)



・・・三軒茶屋

d0183387_14423999.png江戸時代の中期以後、江戸市民の大山詔が盛んになると最初は世田谷新宿回りの道が使われていましたが、やがて三軒茶屋と用賀の間に近道が開かれて、一般には両道とも大山道といわれるようになりました。そして、大山道に沿った三差路に信楽、角屋、田中屋という三軒のお茶屋ができ、旅人の道中の憩いの場として繁昌しました。ここが旅人の道中の目標となり、いつしか三軒茶屋と呼ばれるようになりました。(世田谷区)


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三宅坂から8km、日本橋から11.8kmの標識/三軒茶屋交差点手前



d0183387_17561576.jpg大山街道道標/銘文
(正面)左相州道 大山道(左側面)右富士 世田谷・登戸道(背面)天下太平国土安穏 寛延二己巳年 石工 江戸本材木町八丁目・石田屋花押)建立 文化九壬申年 昭和31年丙申3月吉日石工石峯(再力)建 五穀成就萬民家樂 (右側面)此方 ニ子通 年代 寛延2年(1749)文化9年(1812)再建 
伝来大山道は矢倉沢往還の俗称である。この道標は旧大山道(代官屋敷前経由)と文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。大山は古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町民などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。この道標は玉川電車の開通や東京オリンピックの道路の拡張などにより点々と移されたが、昭和585月に三軒茶屋町会結成50周年記念事業の一つとして元の位置近くに復された。(備考1この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。(2)相州通・ニ子通はほぼ現在の玉川通りである。富士・世田谷通・登戸道はほぼ現在の世田谷通りである。(世田谷区教育委員会)


d0183387_17595956.jpgキャロットタワー(CarrotTower

世田谷区太子堂にある商業施設、及びホール施設併設のオフィスビル。三軒茶屋駅周辺の再開発事業により1996年に完成した。東急世田谷線に直結、東急田園都市線三軒茶屋駅にも地下通路で接続されている。周囲に中低層の建物が多い中、レンガ調外壁の一際目立つ建築物で、周辺のラウンドマークにもなっている。名称は公募から選ばれたもので、建設中の外壁の色がにんじん(英語でキャロット)色に見えたことからその名が付いた。世田谷区内の中学生の命名である。(Wikipedia)


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世田谷の富士/キャロットタワー展望室


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三軒茶屋から用賀へは上町経由と桜新町経由の二つの道があります/大山街道歴史と文化の散歩道
(赤:上町R・慈眼寺R 紫:新町R・行善寺R 橙:246号 青丸:三軒茶屋・用賀・二子玉川)


by Twalking | 2015-11-25 14:35 | 大山街道(新規)

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