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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林   

日時 2015.12.4(金)
天気 晴れ

三軒茶屋からのルートは二つ、まずは上町周りから。
こちらは桜に住んでましたので懐かしい道です。
とはいっても、当時は大山街道とは知りませんでしたが。

寺社や史跡などいった所もあり、知らない所もたくさん、
「街道筋」として改めて訪れてみると新鮮な感じです。
世田谷、なかなか面白い街ですね。。。


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いいお天気です、中央の高層タワーを目指します/キャロットタワー


旧ルート三軒茶屋~上町~弦巻~用賀

三軒茶屋から用賀に向かう大山街道は二本あります。右に向かう道が古く、この道はボロ市で有名な上町の世田谷代官屋敷前を通り、弦巻の追分では左の道へ。ここでは、かつて「左大山道、右登戸道」と道標が建っていました。その先、途中で大山道旅人の像や野中の地蔵を眺め、真っ直ぐな道が用賀に通じています。(みどころマップ・川崎国道)


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三軒茶屋駅前/世田谷通り


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竹園山最勝寺教学院(天台宗)/太子堂4丁目(右)
本寺は慶長9年(1604)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられたという。後、明治41年(1908)青山からこの地にうつされた。本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられる。また、不動堂の目青不動は東都五色不動の一つとして有名である。境内には相州小田原城主大久保家歴代の墓、南画家岡本秋暉、その子初夏岡本碧巌等名家の墓がある。(世田谷区教育委員会)



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目青不動の最勝寺
世田谷区太子堂にある天台宗の寺院。寛永寺の末寺の一つである。通称「教学院」、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」。「目青不動」の通称でも知られる。本堂本尊 - 阿弥陀如来、寺伝では源信(恵心僧都)の作という。札所本尊 - 不動明王、明治15年(1882)に廃寺とされた観行寺(麻布・正善寺とも)の本尊であった不動明王像。伝承では円仁(慈覚大師)の作という。江戸五色不動の1つの目青不動である。秘仏であり公開されていない。前立ちの青銅製不動明王像は寛永19年(1642)の作である。境内には小田原藩大久保氏・萩野山中藩(駿河松長藩)大久保氏・烏山藩大久保氏の歴代藩主の墓がある。(Wikipedia

大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林_d0183387_13490376.jpg五色不動(ごしきふどう)
五行思想(古代中国、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなる)という説の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称。東京(江戸)のものが有名であるが、厳密には四神や五色に関連する同様の伝説は各所に存在し、それが不動尊と関連付けられたものを五色不動と称されることがある。東京の五色不動は目黒不動(瀧泉寺・目黒区)、目白不動(金乗院・豊島区)、目赤不動(南谷寺・文京区)、目青不動(数学院・世田谷区)、目黄不動(永久寺・台東区、最勝寺・江戸川区)56個所の不動尊の総称。(Wikipedia


・・・若林

若林という地名については、はっきりした決め手はありませんが新田の古い表現だとも言われ、開発造成され植林された若い木の並んでいるところを意味するものだろうと言われています。(世田谷区)



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若林交差点/環7通り


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せたがや百景・上馬の駒留八幡神社/上馬5丁目(左)
鎌倉時代後期、このあたりの地頭だった北条左近太郎入道成願は、八幡宮の勧請を誓い、乗った馬の留まったところに社殿を造ろうとした。これが現在の地で、馬が留まったところから駒留と名付けられたといわれる。戦国時代には吉良氏との縁も深く、常盤と死産した吉良頼康の子が祀られている。(せたがや百景)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林_d0183387_14020349.jpg駒留八幡神社(若宮八幡)
祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成瀬は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治3三年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後、世田谷城主吉良頼康はその子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。(世田谷区教育委員会)

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せたがや百景・松陰神社と若林公園/世田谷区若林4丁目(右)
安政の大獄で刑死した吉田松陰は、南千住の回向院に葬られた後、門下であった高杉晋作らの手によって若林村の毛利家抱屋敷内に移されたが、明治になってここに社殿が建てられ松陰神社となった。社殿の左手奥に松陰と志を同じくした人々の墓がある。隣接の若林公園の木立は盛夏涼しい木陰を作り、人々の憩いの場となっている。(せたがや百景)

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松陰神社
松蔭神社
明治15年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。松蔭は安政3年(1865)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。松蔭は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。(世田谷区教育委員会)


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吉田松陰先生他烈士墓所
文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松蔭先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝青松院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林_d0183387_14242421.jpg松蔭神社旧鳥居柱

松陰先生50年祭(明治41年)の際に建造された松蔭神社の旧鳥居柱の一部(社殿に向って右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総重量約20t程であった。平成2310月の新鳥居建設にあたり解体。その一部を保存した。「明治四十一年十月五十年祭」の刻字は社殿向って左の柱にあったものを保存の際に移し刻字したもの。(案内板)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林_d0183387_14242062.jpg松蔭神社道の道標

旧大山道(矢倉沢往還・現在の世田谷通り)から松蔭神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設した。(案内板)




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松陰神社通り商店街



・・・世田谷


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旧道はここを左折してボロ市通りへ/世田谷通り世田谷駅入口



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大吉寺/世田谷4丁目(右)

吉良氏祈願所として創建されたというが、その年代は不詳。品川より現在地に移転し今日に至る。焼亡した泉沢寺移転再興を吉良頼康に進言した在誉上人は当院の僧。(世田谷区郷土資料館)
(「はぐれ念仏」で直木賞を受賞した寺内大吉氏の生家)


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円光院/世田谷4丁目(右)  
吉良氏祈願所として天正年間盛尊が創建したという。勝国寺薬師如来立像の胎内納入文書に「円光坊盛尊」とある。(世田谷区郷土資料館)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林_d0183387_15101408.jpg門前右手の歩道上に櫻小学校發祥之寺の石標(桜小学校は 明治12(1879)に円光院を仮校舎として開校、 翌年円光院から 500メートル西に本校舎が完成し移転した)


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若林周辺地図(赤:大山街道 橙:世田谷通り)

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大山街道(若林)周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:大山街道 紫:滝山道 青:烏山緑道)



・・・
資料ファイル
『せたがや散歩みち 歴史コース』

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せたがや百景・招き猫の豪徳寺/豪徳寺2丁目
井伊家の菩提寺。幕末の大老井伊直弼の墓もここにある。区内有数の名刹で、広い境内には江戸開府のころ「オイデオイデ」の手招きで井伊直孝を危険から救ったという招き猫の伝説の招福堂や鐘楼、本堂が立っている。福を呼ぶ招き猫が門前で売られている。(せたがや百景)


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大谿山豪徳寺(だいけいざん) 
安政の大獄で尊皇攘夷派の政敵を弾圧し、その反発を受けて万延元年(1860)桜田門外の変にて暗殺された大老・井伊直弼の墓が、世田谷の豪徳寺にある。皮肉にも安政の大獄で処刑された吉田松陰とその同志の墓もほど近い松陰神社にあり、「歴史探訪ウォーキングツアー」と言った感じの年配のグループが墓前の説明板を熱心に見たり、リーダーらしき人の講釈に耳を傾けていた。江戸時代の世田谷は彦根藩の所領であったが、豪徳寺はその彦根藩の菩提寺である。歴代藩主の墓がならぶ墓所の入り口に建てられた石灯籠には明治三十六年一月九日舊彦根藩同志謹獻忠正公墓前と彫られていた。なぜ彦根ではなく江戸に墓所を持っているのか、ちょっと不思議な感じがする。梅を期待して出かけたのだが、境内では楓としだれ桜の木がまだ寒そうに枝を広げているばかりだった。それぞれが色づく頃は見応えがありそうだ。一帯は戦国時代にこの地を治めた吉良氏の居城の跡で、隣接する世田谷城阯公園でその遺構の一部を見ることができる。(世田谷区教育委員会)


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彦根藩主井伊家墓所(国指定史跡)

井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武上で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く2代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝が没したのは万冶2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な通産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20328日、国史跡に指定された。(世田谷区教育委員会)

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せたがや百景・世田谷城址公園/豪徳寺2丁目

初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて、築城したのが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であったが、現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。(せたがや百景)


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せたがや百景・奉納相撲の世田谷八幡/宮坂1丁目
石の鳥居をくぐると、右手に弁天池がある。その少し上手に土俵が設けられ、観客席がちょうど円形劇場のように広がっている。奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になり、現在も秋季大祭の9月15日には、学生や若者の奉納相撲が行われる。(せたがや百景)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川01 若林_d0183387_13101356.jpg世田谷八幡宮

この神社は、源義家が奥州の内乱をとりしずめた記念として建てたとつたえられる。その後、天正15年(1587)に世田谷城主の吉良頼康が、新しく建てた。宮坂八幡・宇佐八幡とも呼ばれ、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后をまつる。社殿は、文化10年(1813)の建築で現在の社屋の中におさめてある。昔から行われている秋祭の奉納角力は有名である。(世田谷区教育委員会)
(江戸近郊三大相撲:渋谷氷川神社(渋谷区)、大井鹿嶋神社(品川区)、世田谷八幡宮(世田谷区)の三社)

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『せたがや散歩道 歴史コース』地図(緑:大山街道 橙:世田谷通り 青:烏山緑道)

『せたがや散歩道 歴史コース』関連記事はコチラヘ(http://teione.exblog.jp/21642253/)


by Twalking | 2015-12-06 14:51 | 大山街道(新規)

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