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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町   

日時 2015.12.4(金)
天気 晴れ

上町は懐かしい駅、通勤・通学でお世話になりました。
ここも、駅前にスーパーができて賑やかになりましたね。
桜小学校、さくら商店街、勝光院など寄り道してみました。


・・・ボロ市通り

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せたがや百景・ボロ市と代官屋敷
ボロ市通りには毎年12月と1月の中旬にボロ市が立つ。北条氏の楽市を起源に持つこのボロ市は、四百年の伝統を持ち今も賑わいを見せている。通りの中ほどには茅葺の武家屋敷門の代官屋敷がある。これは江戸時代の中ごろ、初代の代官に任ぜられて以来、代官を勤めた大場家の屋敷が残されたものだ。敷地内には世田谷区立郷土資料館もある(せたがや百景)


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世田谷中央病院右折          世田谷通り合流左折


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世田谷代官屋敷(
東京都指定史跡) 
江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永10年(1633)井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に代官に起用されました。以後、明治4年(1874)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ領内を統治してきました。屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231.4㎡)茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時代官屋敷の面影を伝えています。(東京都教育委員会)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_11171726.jpg世田谷代官大場家の家系
大場家は相模国の豪族・桓武平氏大庭氏の末裔であると伝えられています。「石橋山の戦い」で有名な大庭景親が源頼朝の平氏追討軍と戦って敗れた後、その遺児は三河に逃れ、東条吉良氏に属しました。数代を経たのち、主家吉良氏に従って東下し世田谷の地に定住したといいます。大場家の始祖とされる大庭越後守信久は「吉良四天王」と称される程の吉良家重臣でしたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で吉良氏と姻戚関係のあった北条氏が滅亡した後は、世田谷新宿(現・上町)に留まって帰農しました。徳川家康の関東入国後、検地の代行を命じられ「深沢村検地目録」等にその名を残しています。寛永10年(1633)彦根藩主・井伊直孝が江戸屋敷の賄料として世田谷15ヶ村(のち20ヶ村)を賜った時、信久の嫡孫盛長は歳僅か15歳にして世田谷代官に任せられましたが、病弱だったようで弱冠20歳の若さでこの世を去っています。こうした事情のためか、事実上の代官職は同属の大場市之丞が勤め、盛長の子孫は上町の問屋役を務めることになりました。しかし、元文4年(1739)に至り4代目市之丞が年貢末進の責を問われ、田畑屋敷没収の上追放となると、これに替わって7代目当主・六兵衛盛政が代官職に就きました。以降、暫くの間世田谷代官は2人制となりましたが、大場氏の相役に就いた飯田・荒居の両代官はいずれも2代で免職され、大場家だけが幕末までその職を全うしました。(パンフ)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_11065941.png現在の建物
大場家住宅の普請録としては、信久から7代目の大場六兵衛盛政が元文2年(1737)に建て替えたのが初見です。元文4年の「勘定帳」によると盛政は「屋敷居宅大破」のため彦根藩より米105俵を借用して改築を行っています。盛政は同4年代官職に登用されましたが、それから14年後の宝暦3年(1753)役向専用に「書院座敷」を増築し居宅部分にも改修を加えました。10代の当主・弥十郎景運は文化元年(1804)の「書院座敷」建替の際、絵図を作成していますがこれは現存する最古の代官屋敷図面です。(左:代官屋敷の古絵図面)その折改築されなかった主体部分は盛政時代そのままを描いたものと考えられます。(パンフ)


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主屋の内部(左:現在主屋平面図)
南北の入口は農家式の大戸になっています。玄関には式台が設けられ、それを上るとすぐに18畳の「板の間」があって、その西側の「役所の間」「次の間」は代官の執務室として用いられた部屋です。また、西南田端に位置する7畳半の部屋を大場家では「切腹の間」と呼び「事ある時はいちでも腹を切る覚悟で職務に当たった」と伝えられます。(パンフ)




大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_17460075.jpg世田谷代官の職務
大場氏は、寛永10年(1633)より彦根藩世田谷領2300余石の代官を代々勤めました。この世田谷代官は、佐野奉行(下野国佐野と世田谷にある飛地の地方支配役。一般にいう郡奉行に当ります)の配下に属しましたが、江戸詰の御元方勘定奉行および御賄方からも直接指示を受ける立場にありました。世田谷代官の職務のうち最も重要な仕事は年貢の収穫に関することで、時にはその職務を賭さなければならない程の大切な職務でした。また、代官は領内の治安についても気を配らなければならず、村々の名主年寄りを指揮して犯罪の防止や取締りに当ったり、変死人の検視・災害場所の見分・市の見回りに出向いたりと多忙を極めました。代官屋敷には、犯罪人捕縛のための三ツ道具や手鎖が常備されていました。白州では桜田の上屋敷や佐野で開かれる裁判の下調べが行なわれました。現在、屋敷の西側にある「白州跡」の玉砂利は当時のものですが、白州自体は現状よりやや北東にずれた所にあったと伝えられます。さらにまた、世田谷領が井伊家の江戸屋敷賄料として与えられた関係で、年中行事や生活上必要な品々を調達納入することも世田谷代官の職務に含まれていました。毎年、井伊家へ納入される品としては正月のお飾り用の竹木、節句用の餅草・菖蒲、蚊遣り用の杉葉、入浴剤として使用する桃葉等があげられます。それに加えて普請・草刈・垣結・米搗等々の使役される人足、菩提寺・豪徳寺で執り行われる法要・葬儀の際の人夫も世田谷領内から微発しなければなりませんでした。ここには書ききれませんが、その他にも世田谷代官には沢山の仕事が課せられていました。大庭弥十郎の書いた「世田谷勤事録」には、世田谷代官の職務について詳しく書かれておりその苦労の程がよくわかります。(パンフ)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_17550754.jpgたぶのき(一名:いぬぐす)
くすのき科 暖地の海岸地に多い常緑の大高木で、初夏に黄緑色小花を群生する。老樹の材の木月が巻雲紋を現しているものをタマグスと呼び、高く評価される。


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_17582868.jpgけやき












大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_14305342.jpg世田谷のボロ市
 
東京都指定無形民俗文化財(風俗習慣)伝承地:世田谷区1丁目・弦巻5丁目・
ボロ市通り・世田谷通り(一部)・駒沢公園通り(一部)
世田谷のボロ市は、天正6年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の1ヶ月に6日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に1回、1215日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけでなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。この市は明治6年(1873)の太陽暦の採用によって、翌7年から旧暦の歳の市に相当する115日にも開かれるようになり、また明治中期には16日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町(いちまち)」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや古着などが市商品の大半と占めるようになったからである。ボロ市は400年以上にわたりそれぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。(世田谷区教育委員会 写真:ボロ市と代官見廻り/郷土資料館ジオラマ)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_18264050.jpg上町天祖神社
祭神天照大御神相殿倉稲田魂尊である。今度中宮として保存された本殿の沓石に刻まれた記録に「此の祠は昔伊勢森にあった。その始めは不詳、今嘉永己酉(1849)夏予小吏郷民に命じて新しく祠を字上町に造らしめた」とある。今より120年前に現在の地に移されたことがわかる。明治41年には全国にわたり政府の合祀奨励があって、当神社も明治426月、世田谷八幡宮に合祀され、土地は個人名儀に書き変えられたが、其後上町の人々が神霊を奉祀することを要望したため、昭和6年に本殿を建て、年々祭典を執行して終戦を迎え、昭和29年設立登記し、社殿ならびに社務所を建設して現在の荘麗な神社となった。祭典は914日。(せたがや社寺と史跡)


・・・上町


鎌倉時代に鎌倉街道に沿ってできた世田谷新宿は上宿(上町)下宿(下町)に分かれていました。現在はこの二つの住居地名はありません。


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東急世田谷線上町駅前/旧世田谷通り


世田谷城内にある御所桜という桜の木に因み、明治初期に世田ヶ谷村の小字、桜木とされた。1879年(明治12年)この地に桜学校(下町円光院本堂仮校舎、現:桜小学校)が完成。その頃から慣習的に当地域は小学校名により木の文字を省いて「桜」と呼ばれるようになった。昭和41年世田谷区世田谷より「桜」として分離。(Wikipedia


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せたがや百景・宮ノ坂勝光院と竹林/桜1丁目
世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格のある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが鋳つぶされず、10年ほど前に元の姿で無事戻ってきた。(せたがや百景)


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延命山勝光院 
勝光院は初め金谿山竜凰寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝える。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同10年客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。同19年、徳川家康から寺領30石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千手観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。(世田谷区教育委員会)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_19030162.jpg勝光院書院
世田谷区指定有形文化財(建造物・非公開)
桁行4.5間(8.1m)梁間4間(7.2m)寄棟造 茅葺附 棟札文政610月再建、柱枘2点 版木4
この書院は文政6年(1823)に横根村(現在の大蔵1丁目付近)の棟梁・岡庭政右衛門の手で建立されたもので、本堂の裏手に位置しています。寄棟造茅葺の建物で、南側に表座敷二間と北側に裏座敷、納戸座敷を配した四室からなっています。内部は数奇屋風の書院造りで、上座敷には平書院、床脇を備えた床構えがあります。(世田谷区教育委員会)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_18542717.jpg勝光院の梵鐘
本梵鐘は元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され今日に至っている。梵鐘の形姿は、優美で均整がとり各地に見られる装飾も堅実な出来栄えであり工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。本梵鐘は吉高いの力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は井伊家文書中の「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この次期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。近世世田谷の歴史を知るうえでまた、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも本梵鐘は貴重な遺品である。(世田谷区教育委員会)


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吉良氏墓所
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り世田谷地域を支配していた。16世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。(世田谷区教育委員)

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上町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

吉良氏・世田谷城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21642253/



・・・弦巻 

「弦巻」の由来は諸説あり、これと言った決め手に欠く。一説に武将(源義家あるいは北条氏など)が弓弦をはずした、あるいは巻いた場所であるという。他には、水流(つる)が渦巻く場所など。しかし、弦巻は世田谷区内でも、ほぼ最高地点に近い台地である。一方で土地に起伏もあり、今は多くが暗渠となったが小さな川もある。弦巻という名は14世紀後半に初めて見える。永和2年(1376)吉良治家寄進状)に「絃巻」(弦でなく絃の字)という地名が出てくる。江戸時代初期に荏原郡弦巻村として成立。
Wikipedia
 


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次の桜小前信号を左折/世田谷通り


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_19293285.jpg登戸道追分に建つ道標/
鈴正畳店前(右)
ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す(大場代官屋敷保存会世田谷上町町会)






大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_00204967.jpg道標(世田谷資料館にある元の道標)

銘文:(正面)左延享三丙寅 さがみ 月吉日(梵字)大山道 世田谷上宿同行五十人 年代 延享三年(1746
伝来:この道標は、もと弦巻51631の三叉路にあったが、交通量の増加に伴ない、通行車両の振動や接触などで下部は土中に埋没した状態になっていた。そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって当館へ移設されたものである。なお、道標のあった場所には、そのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。財)大場代官屋敷保存会世田谷上町町会」(世田谷区教育委員会)


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山門(松丘小側)

せたがや百景・弦巻實相院界わい/弦巻3丁目

吉良家開墓の寺院で、正式には鶴松山實相院。禅寺にふさわしく、境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。まちの中の寺とは思えない風情があり、鳥の声に耳を澄ましたくなる。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。(せたがや百景)


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実相院
(曹洞宗に属し勝光院の末寺で、鶴松山実相院という)

寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。天正181590)年、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は城を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。徳川家康が江戸入府後、氏朝は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長81603)年示寂した。「新編武蔵国風土紀稿」には、「今境内二氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鳩松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌のみ本堂に安推せらる。
慶安元年(1648)年、家光より朱印地1022升を賜っている。(世田谷区教育委員会)



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高橋是清之鬚墓            多宝塔



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大山道旅人の像/弦巻5丁目(左)
江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から青山、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を経て用賀、二子玉川に行っていました。しかし、大山詣はしだいに信仰は口実となり、帰り道東海道に出て江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わっていきました。この像は、そんな大山詣をする商人の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に接地したものです。(世田谷区)



大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_20050451.jpg洗い場跡



大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_23020576.jpg蛇崩川(緑道)
世田谷区弦巻五丁目の馬事公苑付近に源を発する。昔は品川用水の悪水吐からの水を受けていたものと考えられている。東流し、弦巻三丁目にて桜新町二丁目からの支流を合わせる。弦巻通りと平行、玉川通りと交差し下馬一丁目にて野沢公園付近からの支流を合わせ目黒区に入る。この付近を蛇崩という。中目黒駅付近で目黒川に合流する。大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきたからなどいくつかの説がある。Wikipedia


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旧道を用賀宿までまっしぐら/弦巻5丁目


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昭和薬科大学世田谷校舎跡地 (左)と衛生材料廠跡(右)/陸上自衛隊信号付近


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大山新道との合流地(左:旧道 右:新道/用賀3丁目

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この先の坂を下る/坂上         坂下に道標/新道合流地


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用賀宿旧道風景


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上町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:大山道 紫:滝坂道 青:烏山川)



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資料ファイル

世田谷区立郷土資料館
世田谷区立郷土資料館は、区政30周年事業の一環として昭和39(1964)9月10日に開設された都区内初の公立地域博物館です。


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地形ジオラマ(赤:郷土資料館 黄:世田谷城址 青:田園都市線)

世田谷の地形と遺跡
いわゆる「武蔵野台地」と呼ばれる地域は、古多摩川の形成した東西50km、南北30kmにおよぶ広大な扇状地であり、富士・箱根などの火山灰を厚く堆積させている。この台地のほとんどは多摩川の浸食によって作られた武蔵野面に相当するが、その東端にはこれより古い海成の高位段丘が2ヶ所島状に残されている。淀橋台と荏原台で、いずれも下末吉面に相当する。世田谷区において淀橋台は区東北部(代沢~桜上水方面)に、江原台は区東南部から中央付近(玉川田園調布・等々力~砧方面)にかけて樹枝状に分布している。世田谷の地形はこの下末吉面を最古として、以下武蔵野面・立川面・沖積地の順に形成された。この4つの地形面は、古多摩川によって形成された河成段丘であり、最高位の下末吉面から沖積地に向かって順次低位となる。このうち沖積地を除いた地形面は、それそれ黒色土以下に関東ローム層が堆積しており、下末吉面には立川・武蔵野・下末吉ローム、武蔵野面には立川・武蔵野ローム、立川面には立川ローム層が見られる。武蔵野面と立川面との境にある高低差20mにもおよぶ崖線は「国分寺崖線」と呼ばれる。(展示解説シート)


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世田谷区航空写真(赤:郷土資料館 青:田園都市線 紫:玉電)


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世田谷知行図(近世中期以降)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_15363302.jpg世田谷城主吉良氏
吉良氏は清和源氏・足利氏のの支族で、三河国幡豆郡吉良庄より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖とし2代当主経氏の時を吉良姓を名乗ったと伝えられる。経氏の孫・貞家は建武政権・室町幕府の要職を歴任した後、奥州探題となって陸奥国に下向し勢力を拡大した。しかし、3代将軍義満の治世に至って奥州探題が廃止さrたので、貞家の子・治家は鎌倉公方・足利基氏の招きによって上野国飽間に移住することになった。世田谷城はこの吉良氏が世田谷の地に築いた居館でるが、その構築年代は明らかではない。しかし、治家が鎌倉八幡宮に宛てた永和2年(1376)の寄進状から、この時代には既に吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことだけは確かである。世田谷と蒔田(現横浜市)の2ヶ所に本拠を置いた吉良氏は「世田谷吉良殿」「せたがや殿」あるいは「蒔田御所」と称せられ、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる特異な存在であった。臨済宗の僧・万里集九が書いた「梅花無尽蔵」には「閣下」の尊称を付けて「吉良閣下」と記されており、その地位の高さをうかがい知ることができる。(文面)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_15512708.jpg江戸氏と喜多見氏
喜多見氏は武家の名門・江戸氏の末裔である。喜多見氏の系譜については現存する江戸氏(喜多見氏)の系図に良質なものがなく、その記載もまちまちなことから判然としない部分が多く残されている。しかし、現在までの研究成果を総合すると、喜多見氏は「関東一円の大福長者」とよばれた江戸重長の孫・重方から連なる家系で、室町時代の中頃まで江戸庄に住していた江戸氏の直系と考えられる。この江戸氏が喜多見の地に移り住んだ時期についてははっきりしないが、「平氏江戸譜」には三郎・右京亮(8代目康重、嘉吉頃の人)の代に至って武蔵国木田見(喜多見)牛丸郷を本拠とした江戸氏庶流木田見氏の嫡流が木田見の名跡を継いだこの時期を、その移住期と考えるのが自然であろう。江戸時代に入ると、その末裔・喜多見重政が2万石となり本拠地・喜多見の地には陣屋が置かれることになった。(文面)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_15571952.jpg山吉講富士登拝記念碑
 
富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に富士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身録(じきぎょうみろく)が現れて庶民救済の教義を提唱した18世紀以降のことである。食行身録の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの技講が生まれることとなった。こうして、富士講は19世紀の初頭にしの隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。当富士登拝記念碑は、三軒茶屋の富士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の33回富士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂4丁目438番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際、北口本宮富士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう一基記念碑を建てており、それも同所に現存している。堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つ田中屋を経営した旧家である。(世田谷区教育委員会)


大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_16392956.jpg庚申塔
右り江戸道 左り世田谷 四ツ谷道 文政10年・1827)(伝来)中国の道教では人間の体内にいる三戸(さんし)が庚申の夜に抜け出し、天帝にその人の罪を告げるということで、庚申の夜には身を慎んで徹夜せよと説いた。この守庚申の信仰は日本に伝わり奈良・平安時代には宮廷を中心に広がったが、民間に浸透するにあたって仏教や神道の影響を受け変容した。江戸時代には庚申堂が建てられ、庚申講が組織されるようになっつた。この庚申塔は用賀村下講中によって建立されたもので、道しるべの役割を持つものである。青山追おう尼道が三軒茶屋で二手に分かれて用賀3丁目で再び合流する地点にあったものである。交通量の増加に伴って一時真福寺境内に保管されていたが、同寺から当館へ寄贈されたものである。

大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_00121773.jpg狐の石造
(伝来)主神に従属しその先触れ(みさき)となって働く神霊や小動物のことを「使わしめ(神使・神令)」という。狐は稲荷の使わしめであるが、「伊勢屋稲荷に犬に糞」という江戸に諺の通り、世田谷の村々でも屋敷神に稲荷を祀るこたが多く、これが具象化されて祠の前に鎮座した。






大山街道(2)三軒茶屋~二子玉川02 上町_d0183387_16093143.jpg地蔵菩薩立像(写真3番目)

銘文〔左側面〕武州荏原郡瀬田谷領 内若林村 男同行弐拾六人 〔正面〕宝暦六丙子年 念講供養仏 八月二日 〔右側面〕 是より南 いけがミみち 年代 宝暦六年(1756
(伝来)この地蔵菩薩像は、宝暦六年に若林村の念仏講の人々によって建立された。念仏は四方浄土への往生の業として唱えるもので、念仏講は、来世すなわち死後に対する信仰という面が強く、死後の世界の道案内者と信じられていた地蔵像を建立することが多い。この地蔵菩薩立像は、現在の常盤橋陸橋付近にあったが、環状七号線施設工事のおり、旧若林村の名主であった根岸家の敷地内に移され、昭和57年、現当主根岸武守氏により当館に寄贈された。


摺臼と搗臼・麦打ちコロ(写真4番目)
(伝来)
摺臼は、上臼と下臼を重ね合わせて上臼を回転させるものである。接合面に目を切り、その間に穀物などを通して製粉するものである。搗臼は、上部を刳(く)り、これに穀物などを入れて杵で搗き脱穀や精白を行なった。これらの臼は、火薬をつくるための焔硝(硝酸カリウム)の原料である硝石などの粉砕に用いたものと伝えられている。いずれも松原二丁目大庭信一氏から当館に寄贈されたものである。麦打ちコロは、牛などで牽いて麦を脱穀したものである。莚(むしろ)に刈った麦を敷き、この上を転がして実を外した。大正14年製で、昭和44年に祖師谷1丁目田中良平氏から当館に寄贈された。(世田谷区教育委員会)


by Twalking | 2015-12-08 14:40 | 大山街道(新規)

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