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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター   

日時 2015.12.16(水)
天気 晴れ

近くなので、何度か訪れたことがあります。
久し振りにぶらりと「縄文の森」散策してみました。
この時期は紅葉もいいし、静かで、憩えます。


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遺跡庭園「縄文の森」

1987年(昭和62年)多摩ニュータウンNo57遺跡を保存する目的で整備されました。No57遺跡は縄文時代の集落跡で、前期の住居跡2軒、中期の住居跡5軒の他、落とし穴などが発掘され、南側の半分については現状のまま盛り土をして保存されています。「縄文の村」に復元された3棟は住居内で、防虫・防腐をかねて日替わりで火焚きが行われており、運がよければ実際の火焚きが見学できます。このほか園内には、発掘時の状況を再現した住居跡の模型や湧水などもあわせて再現し、「縄文の森」の景観を体感することができます。


遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_00433051.jpg多摩ニュータウンNo57遺跡

多摩ニュータウンの建設にともない遺跡調査が始まった昭和40年から、本遺跡は多摩丘陵における代表的な縄文時代集落として保存が検討されてきた。昭和45年台地の先端側にあった送電鉄塔が現在地に移設されるために遺跡の主要部分が発掘調査された。このとき、多量の土器や石器とともに竪穴住居跡(縄文前期・中期)・敷石住居跡(縄文中期末)それに獣捕獲用と思われる落とし穴(縄文早期)等が数多く発見され、遺跡の重要性が裏付けられた。昭和62年に開園した「遺跡庭園」の復元住居は、この調査で検出された住居跡を基に設計されたものである。庭園の下には、未調査の住居跡がまだ何軒も埋蔵文化財として眠っている。(東京都教育委員会)


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(A)敷石住居(4500年前)
八王子市堀之内のNo796遺跡で発見された住居を移築したものです。床に大きく平たい石が敷かれていることから、敷石住居と呼ばれており、およそ4500年前の多摩地域の住居の特徴をよく示しています。床面積は約7m2と少し小さめです。


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(B)中期の竪穴住居(5000年前)
鉄塔の東側に発見された住居をモデルに復元した住居です。壁沿いの5本の柱で屋根が支えられており、床は長径5m、短径4mの楕円形で、面積約152は縄文時代中期の標準的な大きさを示しています。


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(C)前期の竪穴住居(6500年前)

発掘調査当時の位置に復元された住居です。床の形が長辺7m、短辺4.5mの長方形で、面積は約302とかなり広くなっており、56人くらいは十分に住めそうです。住居の棟の上には屋根がうき上がらないよに土で押さえてさらにヒバなどの草が植えられています。


遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_00534741.jpg(D)穴住居の模型

発掘調査後の住居跡に盛り土をして、発見当時の竪穴住居2軒分の様子を模型で再現しました。中央には炉があり、まわりの柱が立っていたと思われるところには実際に短い柱を建ててみました。



遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_00535343.jpg(E)湧水

北側斜面の小さな谷に湧水をためる小さな水場がつくられています。現在は水脈が切れて湧水は見られませんが、かつてはどんな日照りのときでもかれることはなかったようで、きっと縄文人もこの水を利用していたのでしょう。


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園内マップ(パンフレットより)


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遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_14362702.jpg東京都埋蔵文化財センター
都内の埋蔵文化財の調査、研究、収蔵を行うため昭和55年(1980年)に設立。建物は多摩ニュータウン内で出土した土器・石器類などの出土遺物を収蔵する目的で昭和60年(1985年)に建設された。研究成果を展示する施設として「展示ホール」、復原施設として「遺跡庭園」を併設している。

遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_14343804.jpg展示ホール
常設展示は旧石器時代の石器(約32,00025,000年前)から展示をしている。多摩ニュータウン地域では縄文時代早期(約10,000年~6,000年前)から縄文時代前期(約6,000年~5,000年前)、縄文時代中期(約5,000年~4,000年前)を中心に多くの縄文人が定住していたため、多数の縄文土器や石器、土偶などを展示している。一部、実際に出土した縄文土器に手を触れることもできる。他、弥生時代、古墳時代、奈良、平安時代、中・近世の遺物についても土器などを中心に展示をしている。Wikipedia

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都心部の江戸遺跡尾張藩上屋敷跡(
新宿区市谷本村町)

尾張藩上屋敷跡は防衛庁の移転に伴い平成3年~13年に調査された江戸時代の大名屋敷(尾張徳川家上屋敷:市ヶ谷邸)の調査によって30350年前の武家屋敷の暮らしぶりを示す資料などが多数発見されました。やきものや生活道具のほんの一部を紹介します。(説明板

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江戸の上水

正徳(171116)末期江戸の上水の広がりを示した図です。飲料水の確保は江戸が都市として発展していくために欠かせない都市整備事業でした。井の頭池、善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水と多摩川を水源とする玉川上水の大きく2系統より分かれていました。上水は自然地形の傾斜を利用した自然流下法で行い、取り口から運河で引き、江戸市中は石樋や木樋で通しました。この上水は明治31年(1898)に東京の水道が加圧式に変わるまで改良しながら使われました。

遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_14483044.jpg汐留遺跡の上水施設

汐留遺跡で確認される上水は玉川上水系に属し、その末端部にあたります。取り口の羽村から遺跡までの距離は約50kmあり、その比高差124mほどの傾斜を利用して引いています。龍野藩、仙台藩、会津藩の各がそれぞれ1ヶ所から屋敷内に上水を引き込んでいたようです。屋敷内には桶や枡と木樋をつなげて必要な位置に配置しています。水はけのよくない土壌がさいわいして、木材はよく保存されており上水の使用方法をりかいすることができます。(説明板)


遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_15343526.png大丸遺跡(No513遺跡)
稲城市大丸にあった遺跡で、昭和5661年にかけて発掘調査されました。現在は平らに削られ住宅地になっていますが、かつては多摩川に面した標高75mの小高い丘でした。丘の斜面からは奈良時代の瓦を焼いた窯跡15基や中世の経塚1基、板碑群3基などが発見されました。奈良時代の窯跡群奈良時代の窯では多摩川対岸の武蔵野台地に造営された武蔵国分寺創建期の瓦が焼かれていました。8世紀中頃の重弧文軒平瓦や八葉複弁軒丸瓦が多数発見されました。


遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_14582116.png奈良時代の窯跡群

奈良時代の窯では多摩川対岸の武蔵野台地に造営された武蔵国分寺創建期の瓦が焼かれていました。8世紀中頃の重弧文軒平瓦や八葉複弁軒丸瓦が多数発見されました。 



遺跡庭園「縄文の森」/東京都埋蔵文化財センター_d0183387_15000720.png大丸城
この模型は室町時代に物見として造られた大丸城を復元したものです。大丸城は多摩川をはさんで武蔵国守護のいた府中(国府)の対岸に位置しています。丘陵の頂部に空堀と土塁をめぐらした長方形の主郭があり、そこに見張り台と柵列がつくられています。緊急時にはのろしを上げて他の場所と連絡したかもしれまえん。大丸城の主な入口(虎口)は北東にありますが、崖崩れでもとの地形の下半分が失われました。(説明版)


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稲城市
(平安末期)現在の市域は小沢郷に含まれ、武蔵七党うち秩父党に属する小山田氏の支配となった。小山田氏は多摩川の対岸にあった官牧の小山田牧が私有化された小山田荘を所有した豪族であるが、後に稲毛氏と名乗り、鎌倉幕府の有力御家人となる。
(鎌倉期)稲城氏は鎌倉時代も引き続き武蔵国小沢郷(現在の大丸から矢野口)を所有した。しかし北条時政が執権の時、稲毛重成・小沢重政の父子は畠山重忠とともに滅ぼされている。その後、小沢郷は、重成の妻が北条政子の妹だった縁で北条氏の支配下に入ったと考えられている。またこのころ、大丸の窯址には砦(大丸城)が築かれていた。

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(南北朝期)市域も足利尊氏と足利直義の戦闘の舞台となり、穴澤天神社の南にある小沢城が尊氏側の部隊によって焼き払われている。この時期の小沢郷は摂津親秀を当主とする摂津氏が所有していたが、親秀の孫の満親は小沢郷を京都の南禅寺に寄進してしまう。その後の小沢郷の消息は文献上しばらくたどれない。
(戦国期)次に小沢郷が文献に登場するのは戦国時代である。小沢城は世田谷城などとともに後北条氏の支配下にあり、1530年には上杉朝興の部隊に攻め落とされるなど最前線の軍事拠点となっていたことがわかる。後北条氏の家臣団で小沢郷を与えられていたのは垪和氏(はがし)である。(Wikipedia稲城市の項より抜粋)

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武蔵国府を中心とする古代の窯跡と関連遺跡

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瓦屋根窯跡群

古代の武蔵国には大きく4の窯業生産の場所がありました。北から埼玉県末野釜跡群比企窯跡群東金子釜跡群、東京都南多摩釜跡群です。多摩丘陵には南多摩釜跡群が分布していますが、更にいくつかの支群にわかれており、そこでは瓦や須恵器などが生産され寺院や官衛に供給されていました。上の図は製品の供給先を示しています。また国分寺跡から発見された「郡名瓦」からどこの役所が納めたのかが分ります。(説明板)


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縄文海進
温暖な気候は縄文時代前期中頃(6000年前)にピークとなり海水面は現在より35ほど上昇していました。栃木県の南部まで海水が入り込んでいたため、当時の海岸線に沿って多くの貝塚が見つかっています。(日本第四紀学会1987を元に作成)/説明板






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立川ローム層断面
富士山の火山活動により約3万年~1万年前の間に立川ローム層と呼ばれる赤土が関東地方に降り積もりました。多摩丘陵では厚さが4mもあります。この層の中頃には2.8万年前位の噴火により九州から飛んできた姶良(あいら)丹沢火山灰という火山灰も発見され、遺跡の年代を決める手掛かりになっています。立川ローム層の中からは後石器時代、旧石器時代の石器や礫群いう石を集めた調理場がたくさん見つかっています。(説明板)


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多摩ニュータウン位置図(緑部)

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多摩ニュータウン遺跡分布図

by Twalking | 2015-12-17 19:34 | たまのさんぽ道(新規)

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