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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり「多摩自然遊歩道」   

日時 2016.1.2(土)
天気 晴れ

いいお天気に誘われて、ひと歩きしてきました。
選んだのは小沢城址のある多摩自然遊歩道。
ここは南山から続く尾根筋で変化に富み、
コースの案内もしっかり、お勧めのコースです。


・・・菅仙谷(すげせんごく)

川崎市多摩区の北西部に位置し西側は稲城市と接する。多摩丘陵の南山から続く里山(現在は多くが宅地化している)が多くを占め、ふもとには三沢川が流れる。南部には遊園地のよみうりランドがある。地名はスゲ(菅)が多く生えていたことと、寿福寺西の谷戸、仙石谷(せんごくやと)に仙人が住んでいたとされることから。Wikipedia

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左手の小沢城址を目指して尾根を登ります/寿福寺・庚申坂

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京王稲田堤駅から旧三沢川・指月橋へ、ここを川沿いに右折します/指月橋

指月橋
1186年源義経が藤原秀郷を頼って奥州へ赴く途中、寿福寺で一夜をすごすためにこの橋に来たものの朽ちて穴が開いていたため馬から下り橋を点検した。夜空を見上げると満月が輝いており満月を指さしたことが由来とされている。Wikipedia

指月橋の物語
皆さんが、何気なく渡っているこの橋にも歴史の1コマが秘められております。橋の袂には「指月橋」と刻まれております。これは文治2年(1186)今から815年前の出来事に由来します。皆さんもご承知の通り義経と弁慶たちは義経の兄である源頼朝に追われる身となりました。それは一の谷の戦いで平家を傷め付け、壇ノ浦で滅ぼした功績により後白河法皇から検非違使の位(盗賊の逮捕、風俗の取り締まり、非法の弾圧にあたる任務、現在の県警本部長に相当する位)を授かりました。これが頼朝の耳に入り、兄の許しも得ず平家を滅ぼし朝廷より過分な位まで授かった事への怒りをかってしまったのです。そこで頼朝は「義経、弁慶どもを捕らえよ」という布令を出したのです。そうとは知らぬ義経達は京から鎌倉を目指していました。しかし、途中の静岡あたりでその事に気付きました。そこで鎌倉へは向かわず、義経が幼い頃より青年時代までを過ごした岩手県の藤原秀衛の元に逃れる事にしました。その道すがら一夜の宿を寿福寺に求めてこの橋まで来ました。しかし橋板が朽ちて穴があいていました。(私が10歳、つまり昭和9年頃は直径10センチ位の松の丸太が敷き詰められていました) このまま馬に乗って渡ったのでは馬の足がはまって骨折してしまうため、馬から降りて点検することにしました。ふと夜空を見上げると満月が光々と輝いていました。その満月を指さして「今宵もよい月じゃのー」と言ったかどうか定かではありませんが 指月橋の指月とはまさにそれなのです。(小沢城址里山の会)

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尾根からは東(多摩川)の景観が望めます

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稲田堤側の登り口、崖下には遊歩道があります/三沢川合流地


ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_13075355.jpg防空隊の物語
皆さん。この真下の窪地にも歴史が秘められております。太平洋戦争の終わった昭和20815日まで、ここに防空隊の探照灯が設置されておりました。今から半世紀も前の事実です。今はこの様に草木に覆われて見る陰もありませんが、これより30m先にB29の爆音を聞き取る聴音機が設置されてお りました。その傍らに電気計算器があり、高度や方向を割り出しその信号が探照灯の覆いを開き、銀色に輝くB29を照らし出しました。そして、ここから4km離れた升形山に高射砲陣地があり、照らし出されたB29を射撃したのです。この様な事が56年前に行われておりました。兵どもの夢の跡です。私は映像制作をいたしております。それでこの場所を高射砲を操作していた兵隊さんが、いつかしら現れることを願って、兵隊さんが分宿していた農家に、訪ねてきたら知らせてほしいと、お願いしておきましたら一昨年の8月に訪ねて来たことを知らせてくれました。お願いしてから10年目にようやく会う事が出来ました。そして、この場所で当時の事を詳しく説明していただきました。その様子をカメラに収録し当時の事柄がよく分かりました。歴史の生き証人ですから。私も10年待った甲斐がありました。(小沢城址里山の会)

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浅間山

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18215127.jpg浅間神社の物語

皆さん、この小さな神社は浅間神社と申します。この神社は富士山の守り神です。どうして小沢城のこの峰に祀られているのでしょうか。不思議でしょう。でも、歴史をひもとくと判りました。戦前は我が国は神国でしたね。そのため信仰心が旺盛で、多摩区や麻生区の富士講の人たちが登山するには多摩丘陵の峰つたいに、この小沢城に来て、これより山を下って菅村を通り、多摩川を渡り調布より甲州街道を登山口のある山梨県の吉田口まで歩いて行きました。そして「富士登山三十三回」の大願も成し遂げ、その記念にこの峰に祭り、登山の際には道中の無事を祈りながら旅を続けたことでしょう。また、この神社と関係のある石碑が頂上にありますのでご覧下さい。こんな小さなお宮にもこの様な歴史が秘められております。(小沢城址里山の会)


・・・小沢城址

多摩丘陵の先端に位置し、鎌倉道・矢野口(多摩川)の渡しを抑える交通の要衝、丘のふもとを三沢側が流れる要害の地である。平安時代末期、稲毛三郎重成により築かれると伝わる(あるいは重成の子小沢小太郎が築城とも)。観桜2年(1351)、足利義直方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落とす。この時焼失した。享禄3年(15306月には、小沢城から出陣した北条氏康が、北条領に侵攻した上杉朝興を迎え討つ小沢原の戦いが起こり、氏康が上杉勢を退け初陣を飾る。戦国時代以降は廃城となり放置されるが、江戸時代に入ると富士講が流行し、峰を富士塚として利用されるようになる。文化3年に祠が万永元年に富士登山三十三度大願成就記念碑などが建てられている。(Wikipedia)

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ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18423098.jpg小沢城の概要

小沢城址全体図によるとこの辺りが城址の中心部で、物見台、馬場、烽火台などがあったものと想像されます。当里山の会ではなるべく自然のままに残すため保全管理を行っています。(小沢城址里山の会)


ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18394019.jpgお台場の物語

皆さん、ここがお台場と言って人馬が待機していた所です。いつ如何なる事態が起きようと対応することが出来るように。そして下の竹薮の中を見てください。平らになっている所に武士の舘がありました。その下にもあり、計二棟あり、一棟の地積から想像すると40人ぐらいが住んでいたと思います。二棟ですから80人の武士が生活しておりました。そして武器庫もあったと伝えられております。このような所です。(小沢城址里山の会)

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18503391.jpg古井戸の物語
皆さん、この穴は古井戸か又は狼煙の跡かと言われておりますが、地元の私たちには古井戸であるという確証がございます。それは下の竹藪に館があり生活用水が必要であること。また明治の中頃、子供が落ちたので危険であると言うことで、頂上に沢山あった投石用の石で埋めたと言い伝えられているからです。私が幼い頃(昭和8年頃)これより2m位深かったのですが 半世紀以上も経つとこの様に風化されてしまうものなのですね。(小沢城址里山の会)

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18504887.jpg物見台の物語

皆さん、ここが物見台です。前面の木を切り開くと右手方面は東京即ち江戸、左は秩父連峰まで見渡すことが出来ますね。だから関八州が見渡せるので八州公園とも呼ばれております。ここは、鎌倉時代より南北朝・室町・戦国時代に至る約380年にわたって敵を見張っていた所です。そして思うに、6月頃より9月頃にかけては蚊の大群に襲われ、12月頃から2月頃までは身も凍る寒風なされざれ、その辛苦が偲ばれますね。そして何時か経つと、先程のお台場に待機していた武士と交代するのです。自然の地形を利用した素晴らしい物見台ですね。(小沢城址里山の会)

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18505681.jpg空堀の物語
ここが空堀です。人為的にこの様に掘って敵の来襲を防いだ所です。なだらかな傾斜の所に掘られております。皆さんがここまで来る途中険しい絶壁が続きましたね。その裾を多摩川の本流が涛涛と渦を巻きながら流れていたと伝えられておりますので、北からは絶対に攻められない自然の要塞にも拘らず、更にこの様な空堀を掘ったのです。諺にあるように「念には念を入れて」「石橋は叩いて渡れ」のたぐいでしょうか。いかに小沢城が重要な所だったかがよく分りますね。(小沢城址里山の会)

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ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_18594733.jpg小沢城址

川崎市の北西端、稲城市と市境を接する丘陵地に小沢城址はあります。「新編武蔵国風土記稿」の伝えるところによると、鎌倉時代初頭の小沢城址は小沢小太郎の居城だったようです。この小沢小太郎は源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子で、この地域を支配していた人です。ここは丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になりました。城の形跡として空堀・物見台・馬場などと思われるものがあり当時を偲ばせますが、現在は小沢城址緑地保全地区に指定され自然の豊かな散策路としても貴重な存在です。(川崎市)

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_19003710.jpg富士登山の碑
皆さん、この石碑は何の記念碑でしょうか。おわかりの方はおられますか。一見すると何やら小沢城に関係ある石碑かと思われますが、実は歴史をひもとくと小沢城とは無関係は物で、これは富士登山の記念碑なのです。右の大きい碑には富士登山三十三回大願成就と刻まれております。この様な小沢城の所にと不思議に思いませんか。その訳を話しましょう。昭和20815日、太平洋戦争が終わるまで我が国は神国でした。昨年6月頃、森首相が「我が国は神国だ」と言ったために世論が沸き立ちましたね。私たちの時代は神様の時代でしたから信仰心が旺盛せした。多摩区や麻生区の柿生・岡上・鶴川方面の富士講(富士山の参拝者がつくった講社)の人たちは、多摩丘陵の峰づたいに小沢城に来て菅村を通り多摩川を渡り、調布より甲州街道を歩いて登山口の吉田口まで行きました。登山するにも四・五日かかりました。大正初期に中央線が開通したので三鷹駅から汽車に乗ることができ、富士講の人たちは大変喜びました。右の大きな碑は明治9年に建てられたもので125年経ちます。そこに三十三回と書かれている訳ですから、明治9年以前に33回富士登山をしたことになります。つまり江戸時代後期から行われていたことになります。また、左の小さな碑は更に古く万延元年ですから今から141年前に建てられたものです。この様にこれら石碑にも歴史が秘められています。先人達が残してくれた貴重な遺産を後世に伝えるため、小沢城里山ボランティアの私たちが山林管理作業を行っています。そこで、ここを訪れる皆さんにもご協力を頂いて植生豊かなこの小沢城の環境を共に守っていきたいと思います。(小沢城址里山の会)

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_19014577.jpg馬場跡
皆さん、ここは馬場跡です。今このようにナラ・クヌギ・シラカシなどが植生し豊かに茂っておりますが、鎌倉時代より南北朝・室町・戦国時代に至る約380年にわたって鎌倉幕府の北の防衛線として守られ、ここで武士達が馬術を磨いた所です。小沢城の戦乱期は今申した380年間に67回の戦いが行われました。一番激しい戦いは新田義貞と北條高時との戦いでした。時代は南北朝、元弘3年(1333)今から668年前の出来事です。新田軍は今の東京都府中市の多摩川べりの分倍河原と言う地名の所に陣をとり、一方、北条軍(当時は鎌倉幕府軍)はこの多摩丘陵の先の関戸と言う地名の所に陣をとり、多摩川を挟んで相対しました。そして6月の夏草を血で染めながら食うか食われるかの大激戦の末、新田軍の勝利となりました。勝ち誇る新田軍はその勢いに乗り関戸城を破りこの小沢城も落とし入れ、北条軍の館を初め神社・お寺なども焼き払い猛り狂う猛者のごとく一気に鎌倉幕府を滅ぼしました。そんな兵共が馬術を磨いた夢の跡なのです。(小沢城址里山の会)

ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_19181450.jpgここを下ると穴澤天神社/天神坂 



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穴澤天神社
当社の主祭神は少彦名大神を御祀りした社である。創立は孝安天皇43月で、後に元禄7年社殿を改修し菅原道真公を合祀する。例大祭は毎年825日で、当日は神職山本家に伝わる武蔵流の指定文化財・江戸の里神楽が奉奏され、又三頭の獅子と天狗により神社入口の石段を舞いながら勇壮に登る市指定の獅子舞が奉納される。 境内には江戸時代の終わり頃に、筆学を業とした原田金陵の功績をたたえて建てられた市指定文化財の筆塚がある。現在の社殿は昭和6112月に修復した。(案内板)

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江戸名所図会 谷之口穴沢天神社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



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きたん坂を下ります

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ふれあいの森             谷戸の風景


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調布玉川
惣画図にみる穴澤天神社&小沢城址/パルテノン多摩歴史ミュージアム



・・福寿寺

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ぶらり「多摩自然遊歩道」_d0183387_20594030.jpg寿福寺

静かな佇まいをみせる仙谷山寿福寺は、縁起によると推古天皇6 年(598 年)の開基とされ、永徳2年(1382 年)鎌倉建長寺の大安法慶禅師によって開山中興された臨済宗の寺です。御本尊は虚空蔵菩薩立像で、本堂の国一禅師坐像と大般若経600 巻は川崎市重要歴史記念物に指定されています。また源義経と弁慶が奥州へ逃れる途中、本堂裏の洞窟で大般若経を書写したともいわれています。境内一帯の樹林は、川崎市と緑地協定を結んで保全されています。(川崎市)

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江戸名所図会 寿福寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

江戸時代後期に刊行された『江戸名所図会』に寿福寺とともに周辺の景観「仙谷十景」も紹介されている。境内一帯の樹林は川崎市と緑地協定を結んで保全している。山号にもなっている地名「仙谷」は文字どおり仙人が住むような山谷であったことから。寺伝によると「この山に仙人道鏡がこもり、練行修身をつんだので″仙谷″と呼ばれた」とあり「道鏡谷」とも呼んだという。Wikipedia


・・・菅さくら公園

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川崎市農業技術支援センター/菅さくら公園

農業技術支援センターでは主な事業として農産物の生産に係る技術の向上・農業経営の安定化・援農ボランティアの育成等の支援を行っています。園内では噴水庭園や熱帯果樹温室等が見学できるほか、管理棟3 階の休憩室兼展望室からは都心のビル群や東京スカイツリー等が一望できます。(川崎市)

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庚申坂                途中の階段を上る/桜並木


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よみうりランドの裏側にでます/菅さくら公園角・ヴェルディグランド


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菅さくら公園             横断歩道の階段を下り健康の森へ


・・・多摩美ふれあいの森(麻生区)


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多摩丘陵の自然樹木の間を多摩自然遊歩道が続いている。途中、麻生区市民健康の森があり、その先には多摩美ふれあいの森がある。広々とした緑豊かな公園で、春には桜も美しい。(麻生区)


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小笹の径を下ります 


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竹林を下ります


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読売ランド側入口         小田急よみうりランド前駅


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多摩自然遊歩道マップ

多摩自然遊歩道
多摩丘陵に残されたクヌギやコナラの樹林の中を歩く多摩自然遊歩道、小沢城址があるなど豊かな自然の中で土の道を歩きながら、多摩区のルーツに出会えるコースです(川崎市)

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多摩区航空写真/かわさき宙(そら)と緑の科学館
(赤:小沢城址 青:稲田堤駅・中之島 緑:ランド前駅・生田)

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菅仙谷周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:多摩自然遊歩道 橙:府中街道・津久井街道 青:三沢川 紺:二ヶ領用水)

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コース図

京王稲田堤駅→指月橋(旧三沢川)→登り口(三沢川合流地)→小沢城址→寿福寺→農業技術センター→菅さくら公園→市民健康の森・多摩美ふれあいの森→小田急読売ランド前駅(距離5km)


by Twalking | 2016-01-04 19:04 | たまのさんぽ道(新規)

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