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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり「小野路&小野路城址」   

日時 2015.12.30(水)
天気 晴れ

年内に大山道をもう一本、と思ってましたが果たせず。
というのも、多摩丘陵との位置関係や中世武士団との
関連など整理してみないと、と感じていました。

ということで、先を急ぐより原点の鎌倉道に戻り、
近くの小野路界隈を2015年の歩き納めとしました。



・・・南野

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一本杉公園/多摩市南野


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_10373556.jpg「南野」の町名は、多摩市の「南」にあり、旧小野路町の「野」を採って命名したものです。この区域は町田市から編入した小野路と下小山田町の各一部で、町田市に同じ町名があることなどから、語調の良い新しい町名に変更したものです。 この付近は村境に近い所で、その昔は武蔵国の国府(府中)から多摩川を渡り、関戸の宿から小野路の宿を経て、相模あるいは鎌倉などへの往来で多くの人々が利用していた道がありました。 また、この辺りに大きな杉の大木があったと言われ、一本杉という地名にもなっています。 この一本杉に関する言い伝えや物語に、美しい女性に化けた狐にだまされたり、通る人に天狗が悪戯や難問を出して困らせたりする話があります。なお、この彫刻は、一本杉公園にちなんで杉をテーマとしたものです。(案内版)


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_10294955.jpg鎌倉道/一本杉公園
多摩市の関戸にあった軍事上の関所「霞ノ関」を通らずに鎌倉へ向かう、本道の鎌倉街道よりやや西方の脇街道的な道路です。府中市四谷付近から多摩川を渡り、多摩市一ノ宮の小野神社から和田「愛宕の切通し」を通り豊ヶ丘北公園(笛吹峠)付近から一本杉公園、町田市小野路へと続くルートです。本道途中の多摩市和田や百草に鎌倉時代の遊廊伝承(恋路ヶ原、女沢、鎌倉沢)や、新田義興(義貞の子)らの軍勢が笛を吹きながら豊ヶ丘(笛吹峠)から一本杉の尾根を通ったという行軍伝承などが残されています。また、幕末に新撰組の土方歳三らが、小野路の小島家(現在の小島資料館)へ出稽古に通った道でもあります。(よこやまのみち案内版)



ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_10374001.jpg鎌倉道
多摩市の関戸にあった軍事上の関所「霞ノ関」を通らずに鎌倉へ向かう、本道の鎌倉街道よりやや西方の脇街道的な道路です。府中市四谷付近から多摩川を渡り、多摩市一ノ宮の小野神社から和田「愛宕の切通し」を通り豊ヶ丘北公園(笛吹峠)付近から一本杉公園、町田市小野路へと続くルートです。本道途中の多摩市和田や百草に鎌倉時代の遊廊伝承(恋路ヶ原、女沢、鎌倉沢)や、新田義興(義貞の子)らの軍勢が笛を吹きながら豊ヶ丘(笛吹峠)から一本杉の尾根を通ったという行軍伝承などが残されています。また、幕末に新撰組の土方歳三らが、小野路の小島家(現在の小島資料館)へ出稽古に通った道でもあります。(よこやまのみち標柱)


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_20051577.pngこげ茶:鎌倉街道上ノ道(本路)
薄茶:鎌倉裏街道
青軍事戦略鎌倉道
緑;鎌倉街道早ノ道
赤斜線:現鎌倉街道の谷
赤:よこやまの道

赤丸:小野路城址
青丸:多摩センター



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多摩市ジオラマ(昭和37年)/パルテノン多摩歴史ミュージアム


・・・小野路へ下る

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小野路へ道筋はいくつかありますが、鎌倉道の特徴がよくあらわさせています


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鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡/妙櫻寺先
わが国初の武家政権である鎌倉幕府が開かれた鎌倉と、各地の武士(御家人)たちの拠点を結んだ道が「鎌倉街道(関東の主要七道)」でした。その中で、武蔵国府(府中)近くを通る上ノ道は上野国(群馬県)から続き、武蔵国を南北に走る最重要路でありました。この近くに見える山道は貝取団地の尾根へとつながり、地中や地表に残された道の跡などから、本来の鎌倉古道本路跡ではないかと考えられます。(よこやまのみち案内版)



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道端の石仏           布田道分岐

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前方の尾根の左ピークが小路城です/小野路の郷風景



・・・小野路宿

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小野路宿通り/小島資料館前


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小野路の歴史

「小野路」の地名由来は諸説あります。「大日本地名辞書」によると平安時代の牧場地帯「小野牧」(現在の八王子市から日野市、府中市、稲城市、多摩市、町田市北部を含む地域)への入口、「武蔵名勝図会」によれば武蔵七党の一つ横山党の祖である小野氏との関係によるものと考えられ、「鶴川村誌」では「小野郷」(現在の府中市域への道筋ともいわれています。小野路は長い歴史を通して交通の要所で、江戸時代に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、また江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人々で賑わう宿場となっていました。江戸時代には近隣の25ヶ村をまとめる組合村の寄場として見張番屋が置かれ、明治時代には登記所や郵便局などの公的施設ができ、小野路は地域行政の中心的役割も果たしました。この案内板は江戸時代に法令を板面に記して村民に周知させるために高札場(現在地)に設置された「高札」をイメージして制作・設置したものです。(町田市)


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_11184012.jpg小島資料館
小野路村の名主小島家や橋本家は自宅を道場として解放、近藤勇や土方歳三、沖田総司などが村人に剣術を教えるために通ったところ。新撰組の書簡や小野路農兵隊などの資料が展示公開されている(フットパスガイド)


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_11184215.jpg小野路宿里山交流館
多摩丘陵の原風景を残す町田市北部の小野路地域には、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿があり、そこにあった一軒の旅籠・旧「角屋」を改修し観光交流の拠点として再整備した施設が「小野路宿里山交流館」です(町田市)


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ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_11233057.jpg小野神社
小野路は鎌倉みちの宿駅として鎌倉と武蔵の国府の於かれた府中に通じる要衝の地にある。宿の入り口にある小野神社は、小野篁(たかむら)の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の靈を祀ったことに由来する。小野篁は平安時代前期の人で和漢に優れた学者で、学問の神様であり、菅原道真の先輩にあたる。篁の孫小野道風は平安時代を代表する書家で三蹟として有名である。なお、小山田氏の小野路城があった城山には小野井戸と伝えられる遺址もあり、小野氏との関連が深い地である。応永10年(1403)には小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した。朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和59年に多摩市の塩沢貞氏によって復元寄進され、拝殿の右側面に設置されている。神輿は小野神社神輿保存会によって修復事業が行なわれ、昭和609月に奉納された。(掲示板)


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ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_11282854.jpg萬松寺の縁起

開山様は第52代嵯峨天皇第12皇子源融の後胤にあたる中島蔵人の子息である。幼にして薙髪、鎌倉建長寺にて修行、一旦帰省し、父母への報恩のため妙興寺創建に着工、後に再び関東に遊歴して八禅刹を建立、当山はその中の一寺である。父中島蔵人は尾州中島村(愛知県一ノ宮市萩原町中島)にある中島城の城主を勤めていた。開山滅宗宗興和尚はよく衆生を済度し民衆のため種々尽力された高僧である。永徳2年(1383711日示寂、73歳。示寂後40余年を経て第101代稱光天皇より(應永331426年)圓光大照禅師号を追贈されている。当山萬松寺は徳川時代慶安元年(1648)将軍家光公依頼代々御朱印七石を賜わる。徳川寛文年間第11世祥翁喜和尚のとき全焼。降って昭和20年(1945525日夜半今次大戦にあたり米國機の東京空襲の際焼夷弾攻撃を受け本堂玄関附属建物および過去帳仏具仏典類すべて焼亡、当時集団疎開していた品川区鈴ヶ森國民学校児童職員ら無事全員隣寺に避難した。(掲示板)


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小高いピークが小野路城址になります/万松寺谷戸


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小野路城址への尾根道

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乗越八幡跡を右折           道祖神



・・・小野路城址

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本丸址

小野路城址
小野路城址は現在の大泉寺の場所に居城(小山田城)を構えていた小山田有重が築いた副城で、その子・二郎重義が守護にあたったという。築城は承安年間(11711174)といわれ都内の古城址の中でも最も古いものの一つである。現在残っている地形から本丸を含む二つの郭(くるわ)とそれを囲む土塁、空堀からなっていたと想像される。(東京都)


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本丸南側               本丸西側
 


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_12063047.jpg小町井戸

この湧水は小町井戸と呼ばれています。平安朝のむかし、小野小町が病にかかりこの山に千日こもり、この水で目を洗ったところ全快したという伝承からでた名といわれています。また仙人水とも呼ばれたらしく「武蔵名所図会」にその記載があります。小町井戸はここから東南へ百メートル程の崖下にある「滝つば」と呼ばれる湧水とともに小野路城の水源として使われたものと思われます。(東京都)

小山田城(大泉寺)関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18395904/


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「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されてます。

本地域は歴史的遺産(小野路城址、小町井戸、乗越八幡塚、こうせん塚など)と一体となった良好な自然を保存することから「東京都における自然の保護と回復に関する条例により、図師小野路歴史環境保全地域に指定されています。
本地域は丘陵と谷戸が複雑に入り組んだ地形で、旧領地の雑木林と谷戸部の耕作水田や湿地草地からなる里山の景観を形成しており、多様な環境を反映して様々な野生動物が生息、生育しています。豊かな里山の自然環境を保全するため地域住民からなる町田歴史環境管理組合に植生管理を委託し、昔ながらの農業手法による管理がなされています。地域内に農家をはじめとする個人の民生地があり、現在も営農や管理行為により自然環境が保全されていますので、立ち入りには十分注意してください。地域住民は自然を保全して私たちの生活環境をより豊かにするためのものです。一人ひとりが次のことを守ってこの自然をいっそうすばらしいものにしましょう。
・木を切ったり植物や虫、鳥をとらない  
・自転車やオートバイを乗り入れない  
・田畑に入らない ゴミを捨てない 
・キャンプやオリエンテーリングをしない
(東京都)

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小野路城址周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)




・・・奈良ばい谷戸

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北側から振り返った風景


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奈良ばい谷戸の風景


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ヤマザクラの古木           右は小野路城への上り、ここを左折



・・・尾根幹線へ

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浅間神社               都道に合流


ぶらり「小野路&小野路城址」_d0183387_13285741.jpg奥州古道と石仏群
ここから約250m南の町田市の尾根上には小野路浅間神社があります。その先の中尾から大沢の白山神社前(小山田緑地東側入口付近)へと下る古道は座間や厚木への道であり、さらに奈良や京都の都まで続く「奥州古道(国府街道)」の一つでした。この地区の開発で行き場を失った江戸時代の石仏たちが心ある人の手によってこの古道筋に集められ、石仏群となって残されています。(よこやまのみち標柱)


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小野路周辺地図/まちだフットパス(青丸:小野路城址)



・・・神明谷戸(乗越八幡跡を直進)


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長尾根を下ります

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こうせん塚
スダジイ(椎の木)の大木の根元にある塚は「こうせん塚」と呼ばれており、小さな石祠には「文政10年(1827)10月施主天野勘左衛門」と刻まれています。昔、麦こかし(こうせん)にむせて死んだ老婆を祀ったもので、咳の病が治るよう茶碗や竹筒に茶を入れて奉納し祈願するようになったそうです。小野路城の関門があって「通せん場」と呼ばれたのが「関の神」「咳の神」と変じたという説や、落城のおりここで交戦があり死者を祀った墳墓が「交戦場」と称され、その後「こうせん婆」と変じたとする説もあります。(東京都)


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神明谷戸               図師半沢通り方面へ


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赤:小野路城址 橙:長尾根



・・・・・
資料ファイル

多摩の地理と歴史

地形は、全体的に多摩川と平行して走る一連の丘陵と、南に伸びる数上の丘陵に囲まれている。北方の多摩川に面した平坦地(京王線聖蹟桜ケ丘付近)は標高約53m、東南方の八坂神社付近で標高約161m、西南方町田市と八王子市の境界付近で標高約170mある。

市内に人間が生活するようになるのは、今から約2万年前の旧石器時代である。約12000年前には土器と弓矢が発見され縄文時代に入る。この時代の遺跡は市内に多数存在するが、約2300年前の弥生時代に入ると水田耕作に適さないためか市内は無人に近い状態になる。再び人間の生活が確認されるのは1700年ほど前の古墳時代になってからである。

鎌倉時代になると、諸国と鎌倉を結び付ける街道筋が大きな賑わいをていしはじめ、当地に置いても町田市の真光寺南大谷をぬけ小野路から貝取の瓜生に出る新道が開設され、乞田の大橋で従来からの国府街道に合流した。更に、当地は鎌倉防衛の要害の地であることから関所が設けられ、その入り口である関戸付近は宿場として栄えたが、江戸時代になると政治の中心が移り、賑わいは下火になった。鎌倉時代末期になると、北条政権にたいする不満が高まり、幕府の存亡をかけ北条氏と新田氏が戦いを繰り広げた。

江戸時代においては、格別大きな事件もなく旧8か村(関戸村、連光寺村、貝取村、乞田村、落合村、和田村、寺方村、一ノ宮村)でそれぞれの代官や地頭の支配のもと、村役人が日常の行政を司っていた。各村は、関戸村が宿場であったほかはすべて純農村であった。

昭和3941日町制を施行し多摩町になった。昭和40年新住宅市街地開発法によるニュウータウン建設区域の決定がなされ、当町の約6割が同地域に含まれることとなった。昭和46年には多摩ニュウータウン諏訪・永山地区において入居が開始された。こうしたなかで46111日、市制を施行し多摩市となった。(多摩市)



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昭和37年(1962)の多摩市/パルテノン多摩歴史ミュージアム


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現在の多摩市/パルテノン多摩歴史ミュージアム


多摩市の地形・地質

多摩市域の地形は、いわゆる多摩丘陵の北端部を占めるやや開折された丘陵とこれを刻む小河川沿いに発達する谷底平野等よりなります。北方の聖蹟桜ヶ丘駅周辺には多摩川の運んできた砂礫泥によって構成されている沖積低地がみられます。本地域周辺の多摩丘陵の高度をみると南西方面がもっとも高度が高く、漸次北東方面へ高度を下げていきます。町田市西方の八王子市との境界付近の御殿峠付近で海抜200m前後の高度となりもっとも高くなっています。市域内では天王森公園付近が海抜160m前後で最も高く、多摩川沿いの低地では約50m前後となり最も低くなっています。
この多摩丘陵は、西南西ないし東北東方向の流路をもつ乞田川や大栗川によって分断されています。本地域の基盤となっているのは、新第三紀鮮新世紀末期から第四紀洪積世前期にかけて浅海に堆積した上総層群です。この上総層群はより西側にみられる地層ほど古く、多摩市域に見られる地層は下位より平山砂層・連光寺互層・稲城砂層などの各層より構成されています。連光寺互層は礫・砂・泥の互層です。これらの地層はいずれも東側に56度で、きわめてゆるやかに傾斜しています。平山砂層、連光寺互層中には内湾浅瀬海棲のマガキ・ウネナシトマヤガイ・アズマニシキなどの貝化石を含んでいます。

上総層群をおおって御殿峠礫層が分布しています。この御殿峠礫層は古相模川によってはこばれた河原の砂礫が堆積してできた地層で、古期のものと新期のものと2段に区別することができます。御殿砂礫層の上位はいわゆる関東ローム層となっており、下位より多摩ローム層下末吉ローム層武蔵野ローム層立川ローム層に区分されています。この関東ローム層は赤土とも呼ばれ、箱根火山や富士火山などの噴出物が偏西風によって運ばれて推積したものです。関東ローム層中には、しばしば黄色や白色の鮮やかな帯状の地層を見つけることができます。これらは軽石と呼ばれる火山噴出物の一種が推積してできた地層です。大栗川や乞田川沿いには、点々と武蔵野ローム層推積期や立川ローム層推積着の河成段丘が数段みられます。また、これらの小河川沿いには、沖積低地となっており、柔らかい砂礫泥などから構成されています。(多摩市)


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調布玉川
惣画図にみる関戸&多摩丘陵/パルテノン多摩歴史ミュージアム(多摩市教育委員会所蔵)


多摩ニュータウン
東京都稲城市・多摩市・八王子市・町田市にまたがる多摩丘陵に計画・開発された日本最大規模のニュータウンである。開発主体は都市再生機構、東京都、東京都住宅供給公社、稲城市、土地区画整理組合と多岐にわたる。区域は東京都の稲城市、多摩市、八王子市、町田市の4市にまたがる面積約2,884ヘクタールで、主に京王相模原線に沿った東西約15km、南北約5kmに広がっている。基本方針としては、すぐれた自然環境と調和した良好な居住環境を備えた住機能の充実と、教育、文化、業務、商業の機能を備えた活力ある新市街地の形成を図るものとしている。また、多摩地域の自立化を推進する拠点都市として、広域的な都市機能を充実し、周辺地域と連携した複合都市づくりを目指している。また、多摩丘陵の自然と地形をいかしながら自動車交通と立体分離された緑豊かな歩行者専用道路のネットワークを整備し、周辺地域との融和を図り、優れた住環境を整えた魅力ある都市づくりを心掛け、「安全なまち」「健康なまち」「利便性のあるまち」「快適なまち」「文化的なまち」の形成が目標とされた。第1次入居は1971年(昭和46年)3月諏訪・永山地区において開始された。Wikipedia


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多摩丘陵/遺跡分布図・東京都埋蔵文化財センター
(赤:よこやまのみち 赤丸:多摩センター 青:橋本・多摩境:南大沢・唐木田・永山・若葉台・稲城)

by Twalking | 2016-01-06 10:03 | たまのさんぽ道(新規)

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