無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道・成瀬R-01 本町田   

日時 2016.6.17(金)
天気 晴れ

恩田川と鎌倉道・成瀬ルートを絡めて歩きましたが、
手前の小野路宿里山交流館や薬師池にも寄り道したので
今井谷戸からのスタートが遅くなりました。

天気に誘われて飛び出しましたが、寄って正解、
それに本町田周辺もじっくりと見れましたので、
良かったかな~と思います。


・・・本町田

町田市中部に位置する面積の広い町域で、大規模な集合住宅も集中するため市内で最も人口が多い。多摩丘陵の南西縁に接し、近隣の中町・原町田などが多摩丘陵と相模原台地の境界部となる。江戸時代以前の町田とはこの地域を指し町田村の中心地であった。Wikipedia

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七国山を下ると今井谷戸、左の山裾を南へ向かいます/鎌倉街道(今井谷戸)

市域の鎌倉道
町田の市域には鎌倉幕府が開かれる以前から、鶴間の町谷(まちや)付近より小野路を通って武蔵国府のおかれていた府中へいたる道が開かれていました。この道が幕府の成立によって鎌倉まで延長され、鎌倉道となりました。市域を通って鎌倉と府中を結ぶこの鎌倉道は鎌倉時代を通じて武蔵路とよばれ、府中からさらに北武蔵や上州(群馬)・信州(長野)方面にのびる街道としてさかんに利用されました。鎌倉から境川左岸を北上してくる武蔵路は飯田(横浜市戸塚区)をへて、横浜市瀬谷区と町田市鶴間の境を越えて鶴間の大ヶ谷戸に入ります。道はこれから本町田へ向かいますが、その道筋は二本ありどちらも鎌倉道と言い伝えられてきました。二本の道筋のうち一本境川沿町谷金森原町田と北上して本町田へいたる道で、現在は市役所の横から都立町田高校の前を通って菅原神社前(写真)に出ていますが、古道は町田第一小学校・町田第一中学を横切り、市営球場の西側を通って本町田にいたる道筋でした。もう一本は、大ヶ谷戸集落の東寄りを北進して小川成瀬高ヶ坂(こうがさか)-南大谷と大きく弧をえがいて本町田にいたる道筋でした。両道は本町田の養運寺付近で合流し、宏善寺の横を通って今井谷戸に通じていました。なお養運寺の下のあたりは宿(しゅく)という小字ですので、この付近は武蔵道の宿駅としてさかえたものと思われます。(町田市史)


d0183387_14250529.jpg本町田の旧字-今井(今井谷戸)
町田川の源流付近であり、深い谷戸沿いに広がる地区。鎌倉街道は向村及び宿より一色・後田を経由し、今井から七国山方面・薬師池方面へと抜けていた。現在の今井谷戸交差点付近。Wikipedia


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街道風景① 山裾には今井川(恩田川源流)が流れ、丘にはひなた村があります。

本町田の
旧字-一色
町田宿の北端付近から町田川(現在の恩田川源流端の一部で今井川)沿いに広がる地域。鎌倉街道は一色付近から向村の南までの間、町田宿を経由するルートと経由せずに菅原神社の裏側を抜けるルートが存在しており、町田宿からは更に成瀬方面を経由するルートに分かれていた。現在の木曽団地東交差点(ひなた村停留所)・本町田停留所周辺の広い範囲。Wikipedia


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ひなた村入口             本町田遺跡公園

本町田の歴史

縄文時代から集落があったことがわかっているが集落は散在する程度と考えられている。鎌倉時代頃より鎌倉街道の要所として宿場街となり次第に栄えていった。南北に縦貫する鎌倉街道の経由地となる井出の沢(菅原神社)にて北条時行と足利直義が争ったとされる。地名の由来は天正10年(1582)農地拡大のため近隣の原野を開拓、町田村から原町田村を分村した際、町田村が本町田村と称したことから。Wikipedia


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宏善寺総門 

d0183387_14525300.jpg宏善寺
町田市本町田にある日蓮宗の寺院。久住山善立院。旧本山は身延山久遠寺、池上芳師法縁。日蓮が鎌倉から佐渡へ配流された文永8年(1271)、井出の沢にあった真言宗の小庵を日蓮宗に改め創建したと伝わる。近隣の養運寺などと度々戦火で焼亡失したが、慶安2年(1649)江戸幕府より寺領7石の御朱印状を拝領し、伽藍が整備された。総門:昭和47年・1972に再建。正面二間、両袖各一間、奥行二間の素木造)本堂 室町時代様式を模した鉄骨鉄筋コンクリート造建築。昭和42年(1967年)落慶。Wikipedia

d0183387_14530186.jpg日朝堂 
間口三間、奥行四間。日朝(戦国時代に身延山久遠寺を再興した高僧で、眼病平癒のご利益があるという)と七面天女を合祀する。建築年代未詳。



d0183387_14525715.jpg仁王門 
明治18年(1885年)再建。入母屋木造瓦葺総欅建築。金剛力士像は江戸時代中期製作と伝わる。仁王門に安置。





d0183387_14530747.jpg番神堂 
小像の番神三十軀を安置するという



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安養寺山門

d0183387_15104962.jpg安養寺
浄土宗、鶏足山智光院養運寺と称す。開山:永禄10年(1567)光蓮社伝誉上人。本尊:阿弥陀三尊養運寺本堂におまつりされている仏様は、阿弥陀様を中尊に向かって右側に観音菩薩様、左側に勢至菩薩様の弥陀三尊です。それぞれ木造で室町時代中期の作と考えられます。阿弥陀様は西方極楽浄土におられ、教えを説き無量の光で衆生を救済してくださる仏様です。臨終のときには自ら来迎して、我々を極楽浄土へ導いてくださります。観音様は人々の救いを求める声を見聞きし、それぞれの苦悩や願いに応じて救いを差し伸べる慈悲の菩薩様です。勢至菩薩様は智慧の力で人々の迷いを取り除いてくださる智慧の菩薩様です。(養運寺HP)

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丘の風景① 相州大山&丹沢を一望できます/養運寺境内


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丘の風景② 本路の向かう町田方向、右手は菅原神社でしょうか/養運寺境内 


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街道風景② この門前辺りで二つの道が合流していたようです/安養寺門前

本町田の旧字-宿
町田村中心地で、鎌倉街道の宿場として栄えた。近年までかつての雰囲気を残す街並みがあったが、鶴川街道の拡幅や宅地化に伴い姿を変えつつある。現在の日向台住宅南部・日向台交差点・養運寺付近。Wikipedia


d0183387_15520032.jpg鶴川街道

調布から原町田の町田街道(旧道・原町田中央通り)へと続く路線。都道19号の下石原1丁目交差点- 真光寺十字路交差点、都道139号の真光寺十字路交差点 -鶴川駅東口交差点、都道3(世田谷町田線)の鶴川駅東口交差点- 菅原神社-原町田をあわせて鶴川街道と通称している。一部区間は拡幅されたものの町田高校付近は狭隘である。なおこの狭隘区間は旧来の鎌倉街道の道筋に近い。Wikipedia


d0183387_15452853.jpg本町田の
旧字-向村
菅原神社
が置かれている。かつては湧水地があったことから、付近は井出の沢(井手の沢)と称されることもあった。現在の菅原神社交差点付近。Wikipedia






・・・南大谷
(みなみおおや)

町域の中心部を小田急線が通っているものの駅はないため、最寄駅は近隣の町田駅もしくは玉川学園前駅となる。江戸時代には大谷村と呼ばれていた。1878年に南多摩郡が成立した際、現在の八王子市域にも大谷村が存在したので、両者を区別するため北大谷村南大谷村とした。水田のある谷戸の幅が現在の南大谷のあたりで最も広く深くなっていたので、大谷になったと言われる。
Wikipedia

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街道風景③ 左手の森が天神社です/南大谷

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d0183387_16094539.jpg南大谷天神社

正保2年(1645225日、五十嵐豊前守勝春の末男五十嵐次郎左衛門が大谷村の村長となり御神像を島山屋法春につくらせ天満宮を鎮守とし奉安したと伝えられております。享保5年(1720225日、地蔵の伊勢守平正清の家人(名主)であった五十嵐伝兵衛敬孝が村の代表として平正清とともに京都にゆき御神像を大仏師康伝に依頼し、修飾させております。文化7年(1810925日社殿再建、現社殿は昭和39年年412日に竣工したものであります。本殿は流造、拝殿は入母屋造、町田三天神の一社で京都北野天満宮を本社とする。(説明板)


d0183387_16062546.jpg虚無僧寺南松寺の由来 
普化禅宗金先派南松寺は南大谷天神社の開創(1645)と同時期に開山悟心源了和尚・開基2代五十嵐伝兵衛采女正・境内寄進開基2代佐藤右により別当寺として創建され、場所は現社務所の南側にありました。それ以来二百数十年にわたり天神社の別当管理などを行い、共に栄えて来ましたが明治四年太政官布告により廃宗廃寺となりました。その後跡地は荒廃していましたが、昭和38年に宅地開発されるに当たり氏子一同の協力により歴代住職の墓碑が観音堂の裏に移転安置されました。また観音堂には本尊・歴代住職の位牌が奉安されており、その他にも本堂額・石仏・井戸などが残っております。これら虚無僧寺の遺物の現存は全国的に珍らしく町田市の貴重な歴史遺産であります。(説明板)


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小田急線高架             右手を恩田川が流れます

恩田川の関連記事はことらへ(http://teione.exblog.jp/23231735/


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本町田付近の地図
(赤:成瀬ルート 橙:本路 黄:現鎌倉街道 紫:鶴川街道 赤丸:今井谷戸・菅原神社 青:恩田川)

鎌倉街道(多磨~町田)関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17960720/)



・・・・・・・
資料ファイル

小野路の歴史
「小野路」の地名由来は諸説あります。「大日本地名辞書」によると平安時代の牧場地帯「
小野牧」(現在の八王子市から日野市、府中市、稲城市、多摩市、町田市北部を含む地域)への入口、「武蔵名勝図会」によれば武蔵七党の一つ横山党の祖である小野氏との関係によるものと考えられ、「鶴川村誌」では「小野郷(現在の府中市域)への道筋ともいわれています。小野路は長い歴史を通して交通の要所で、江戸時代に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、また江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人々で賑わう宿場となっていました。江戸時代には近隣の25ヶ村をまとめる組合村の寄場として見張番屋が置かれ、明治時代には登記所や郵便局などの公的施設ができ、小野路は地域行政の中心的役割も果たしました。この案内板は江戸時代に法令を板面に記して村民に周知させるために高札場(現在地)に設置された「高札」をイメージして制作・設置したものです。(町田市)

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小野路宿略図(江戸時代後期)


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鎌倉古道

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関屋の切通/旧布田道

関屋の切通し

此の道は布田道にて、幕末に近藤勇らが通いし道に御座候。是より関屋を経て2町程にて小野路宿に着き申し候。(案内板)

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小野路周辺の古道マップ(赤:鎌倉古道 橙:旧布田道 青:現鎌倉街道)


小野路宿里山交流館

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小野路宿里山交流館
多摩丘陵の原風景を残す町田市北部の小野路地域には、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿があり、そこにあった一軒の旅籠・旧「角屋」を改修し観光交流の拠点として再整備した施設が「小野路宿里山交流館」です(町田市)

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鎌倉街道の地図小野路宿里山交流館)

鎌倉街道(古道)
関東を通る鎌倉とを結ぶ街道は地図のように大きくは3本あり、小野路を通っていたのは上の道です。この道は現在の野津田公園~七国山~原町田を通り、鎌倉に通じていました。

小野路は街道の要所

小野路は大和政権の時代より国府のあった厚木と府中を結ぶ道筋でした。鎌倉時代には「いざ、鎌倉」に備え、武士団の通る軍用道が小野路を通っていました。江戸時代になり徳川家康の遺骨を久能山から東照宮に運ぶ御成道が小野路を通過し、のちにこの道は大山街道の一部となり、宿場として小野路は栄えました。幕末にはのちの新選組の中心となる近藤勇や土方歳三らが武術の出稽古のために小野路に通う布田道も小野路を通り、長い歴史を通じて小野路は街道の要衝でした。(説明板)


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幕末の小路村絵図 
古来、鎌倉みちは幕府のあった鎌倉から武蔵の国府である府中を抜けて上州の高崎方面に続いていた。府中の手前にある小野路の宿は鎌倉時代にできたと考えられる。駿河の久能山に埋葬された徳川家康の遺骨を江戸時代の初期の元和(げんな)3年(16173月に日光東照宮に移したときに街道の整備と共に小野路の一里塚は造られた。伝承によると御尊櫃(ごそんひつ)を乗せた輿が向阪を下ったとき壊れ、一行が難儀し鍛冶屋を呼んで修理した。この時の小野路村の労苦に対して幕府は以後助郷を免除した。この街道は御尊櫃御成道、また矢倉沢往還として利用され、東海道
平塚宿と甲州道府中宿を結ぶ脇往還として賑わった。江戸期に盛んになった大山詣での道として小野路宿は賑わい幕末頃は旅籠が6軒あった。東海道一里塚は五間四方あったというが小野路の一里塚は一回り小さかった。榎の木が植えられておりここで旅人は一服つけたのではなかろうか。町田市では他に木曾の一里塚が残っているが、多摩市貝塚にあった塚は現在残っていない。(小島政孝稿)

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徳川家康の御尊櫃経路(小野路宿里山交流館)


d0183387_12322587.jpg小野路を通った御尊櫃御成道

德川家康は駿府(静岡)で元和21616)年417日、75歳で病死しました。「遺体は久能さんに埋葬し、葬儀は江戸増上寺で営み、位牌を三河国大樹寺に立て、遺骨は一周忌を過ぎてから日光山に勧請せよ」との遺言により、久能山から日光まで運ばれました。1300人位のお供があり。20日間ほどかかって運んだといわれています。元和3315日に久能山を出発し、木曽から小野路には321日に通過しています。平塚の中原御殿から府中御殿までの道中の一部で、この道は御尊櫃御成道と呼ばれています。小野路には一里塚(写真)が築かれています。(説明板・小島政孝氏作成)


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小野路周辺(北側から)/小野路宿里山交流館
(赤:鎌倉古道 橙:布田道 緑:現鎌倉街道 紫:尾根幹線 ①小野路 ②野津田公園 ④別所 ⑤一本杉公園を着色)


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小野路周辺(南側から)/小野路宿里山交流館
(赤:鎌倉古道 紫:現鎌倉街道 黄:横山の道 ①小野路 ②野津田公園 ④別所 ⑤一本杉公園を着色)


・・・

d0183387_13020248.jpg瓜生一里塚跡
/瓜生せせらぎの道(多摩市)
瓜生一里塚は多摩市内では唯一の一里塚で、ここから西南70mほど離れた鎌倉街道を挟んだ両側に径.6m、高さ3mほどの塚が存在していた。江戸時代初期の元和3年(1617)駿河国久能山(現在の静岡市内)に埋葬されていた徳川家康の遺骸を日光東照宮に移すため街道の整備を行ない、この一里塚が作られたといわれている。家康の柩が通ったことから「御尊柩御成道」(ごそんしつおなりみち)とも呼ばれている。また、一里ほど離れた町田市小野路にもこの時造られたと思われる一里塚が残されている。(多摩市)


d0183387_12550526.jpg中原御殿/中原小学校前(平塚市)

徳川家康が鷹狩りなどの折に宿泊所とした中原御殿が、中原小学校を含む一帯にありました。御殿の規模は東西78間(約141m)南北56間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし東側を表としていました。御殿が造られたのは慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説がります。寛永19年(1642)に修復されますが明暦3年(1657)には引き払われました。その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」(平塚市指定重要文化財)の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。(平塚市)

中原街道(平塚)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22394241/


d0183387_12550827.jpg府中御殿
府中市本町にある「御殿山」と呼ばれた御殿で1646年に建造されたもの。徳川家康・徳川秀忠・徳川家光が鷹狩・鮎漁をした際に休憩や宿泊をしたという、富士山が見える景勝地の御殿跡(1646年の大火により焼失)が発掘された。御殿跡は国の史跡に追加指定(武蔵国府跡に包括)した。茶屋としても使用されたもので、水を汲む御殿坂を通り多摩川へ至る道は現在でも「御茶屋街道」と呼ばれている。Wikipedia

府中郷土資料館の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22009122/


by Twalking | 2016-06-20 18:22 | 鎌倉街道(新規)

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