府中通り大山道(1) 図師&小野路
天気 晴れ
尾根緑道のついでに図師・小野路の大山道を歩いてみました。
この道は家康の遺骨を日光に運んだ御尊櫃街道と呼ばれる道、
小野路まではよく行きますが、図師は初めてです。
芝浦街道を境に両側が山間部、登り下りが続く嶮しい道です。
旧道が残り、古刹や地蔵などの史跡もあって面白い道でした。
浜街道で木曽宿は通りますので、これはちょっと楽しみですね~。
・・・芝溝街道芝
相模原大蔵町線(芝溝街道)
通称名はかつて東京の芝と上溝を結ぶ道路として建設されたため。神奈川県北部の相模原市と東京都南部の町田市を結ぶ幹線道路で、相模原市中央区内の上溝本町交差点(県道相模原茅ヶ崎線)より分岐して東進し、都県境を越えて町田市内の鶴見川に沿って行き、金井入口交差点で鶴川街道(世田谷町田線)に接続する。途中、相模原市内の淵野辺交差点で国道16号と平面交差し、同市内の2つの鉄道であるJR相模原線上溝駅前と、JR横浜線淵野辺駅前付近を通過する。町田市内の一部区間は別名「芝溝街道」とよばれる。(Wikipedia)
・・・図師町(ずしまち)
町田市にある町名。小野路町に跨る北部の丘陵地帯は「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されており、全体として典型的なかつての多摩丘陵の景観を示している。承久年間(1219~1221)、時の領主の小山田二朗重義が半沢山にある「白山社」を修理しようとして、別当の大蔵院長栄に社にある地形を尋ねたところ、長栄は図を画き、重義がそれを誉め長栄を図師法印半沢坊と称し、領地の一部を社領として寄贈し「図師領」と称したと伝わる(Wikipedia)
乱闘場
今から500年以上も前、扇ヶ谷上杉氏と山内上杉氏が埼玉県川越市付近で戦いました。その時、図師の農民に対して食料などの運搬を命じました。戦いが終わり扇ヶ谷軍が図師村に板碑を持って立寄り「55人の農民は戦いに巻き込まれて死んでしまった。これで供養して欲しい」と55枚の板碑を置いて行きました。伝承を基に大正時代にある考古学者が発掘調査をしたところ、55枚の板碑が発見されました。年号は全て明応2年(1493)3月と8月で、サイズは45cm×20cmでした。残念なことに現在所在は不明。場所はこの説明板の後方と推定されます。(図師郷土芸能文化保存会)
図師熊野神社
創立の年代は不詳。貞享4年(1687)2月、熊野権現領として畑一反二畝四歩の除地があり、また天神領畑九畝十歩と神明領の畑二畝四歩と除地分があった。文久2年(1862)から明治9年(1876)、10年以上を要して社殿は再建された。明治44年南の稲荷社、東の天満社・若宮八幡社、東北の熊野社、中央の神明社を、また大正5年には白山社を合祀した。大正5年に村社に列せられた。祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大神、素戔嗚尊、宇迦之魂神、応神天皇、菅原道真を奉斎している。(町田史誌)
左下の記号はイギリス式の高低差記号で、明治新政府が刻みました。非常に珍しいものです。(標柱)
几号(きごう)水準点
明治初期に内務省地理寮(国土地理院の前身の一つ)が高低測量の標識の様式を定め、全国の地図作成の基礎とするため各地に測量標(几号水準点)を設置している。設置された几号水準点の一部はなお各地に現存しているが、これらは現行の水準点としては機能していない。(Wikipedia)
・・・府中通り大山道
現在の春日部市から府中を経て大山へ向かうものである。1616年(元和2年)に死去した徳川家康の遺骸を翌年久能山(静岡市)から日光へ移すことになり、江戸幕府はその一行が通る小野路村(町田市)に道を整備するように命じた。この時、小野路に一里塚が築かれた。大山講が盛んになると、小野路は宿場として栄えるようになった。幕末期には近藤勇、土方歳三、沖田総司ら後の新選組の浪士が調布からこの小野路村の名主・小島家(小島資料館)まで剣術の出稽古に通ってきたという。さいたま東村山線が近似したルートを辿っている。
経路:日光街道粕壁宿(埼玉県春日部市)-岩槻-大宮-中山道浦和宿-荒川・羽根倉の渡し又は秋ヶ瀬の渡し-宗岡村(志木市)-清戸(清瀬市)-東村山(東村山市)-甲州街道府中宿(府中市)-中河原(関戸)の渡し(多摩川)-関戸(多摩市)-乞田-瓜生-小野路(町田市)-図師-木曽-境川-淵野辺(相模原市)-磯部(猿ヶ島)の渡し(相模川)-猿ヶ島(厚木市)-下川入村-三田村-八王子通り大山道を経て大山へ(Wikipedia)
九尺に二間の地主神。中に三尺坊烏天狗の石碑、三尺のものを納めている。そして、この稲荷祠前に東京都指定天然記念物ハリギリの大樹がある。
町田の民話と伝承 地頭旗本・梁田氏(やなだ)の墓
木曾村・山崎村の地頭だった梁田氏の祖は、代々織田氏につかえ、特に桶狭間の戦いの第一功労者として名高い家柄である。織田氏が滅びたあと文禄4(1595)年に梁田半兵衛正勝は徳川氏の家臣になった。2代将軍秀忠、3代将軍家光につかえ、武蔵国多摩郡木曽村・山崎村に知行地4000石を賜り地頭となった。没年承応元(1652)。家督は長女の婿半兵衛直次が継いだ。直次は幕府の御納戸番の頭、女院付などの要職を歴任し、寛文6(1666)には従五位下隠岐守に任せられ、梁田隠岐守直次を名乗る。知行地はしばしば加増され1500石、他に侖廩米(りんまい・幕府の蔵に貯えられていた米)200俵余の待遇を得た。没年天和3(1683)年。以後、直次のあと淡路守直彦、主殿直治と2代つづくが、元禄9(1696)年に主殿(ともの)の死を最後に梁田氏は断絶した。主殿に継子がいなかったためである。東向山梁田寺は山寺号は梁田家の菩提所という意味と、かつて「東香寺」及び「東岳寺」という寺が地形により、寛永6(1629)年に名付けられたものである。本堂の裏に開基梁田半兵衛正勝夫婦を供養する大五輪塔と大宝篋印塔があり、旗本家の墓塔といては異例の大きさ、建立した隠岐守の隆盛がしのばれる。
龍王池の伝説
むかし、東向山梁田寺の本堂裏には大きな淵があり梁田池と呼ばれた。池の主大蛇(おろち)で暴風雨や雷鳴が轟くときには姿を現し、柚木村別所(現八王子市)の長池の間を行き来した。ある日、大蛇は片目の両汝に身を変じ「当山にそのうち“大徳”が出現し、きっと衆生を救済するであろう」と里人に告げ、ふらりふらりと東の方へ立ち去った。それから龍王池はしだいに小さくなってしまったという。(「町田の民話と伝承第2集 町田文化財保護審議会編」から 町田市教育委員会)
新編武蔵風土記稿には『承久の頃、小山田二郎重義がこの地を領せしとき、白山権現の社破壊せしにより、別当大蔵院、修造の事を乞しに、重義、社地の景色を問けるとき、かの僧、ことごとく図してさゝげしかば、重義見て歎て云く、われ図を師として未だ至らざるところの景色を知れりと。これより、かの僧の聡明にめでゝ深く帰依し、常に称して図師の法印と呼び、白山社領を寄附せしをも図師領と唱へしにより、つひに地名となりしとぞ』と記されています。
・・・野津田
・・・小野路
小野路の一里塚
古来、鎌倉みちは幕府のあった鎌倉から武蔵の国府である府中を抜けて上州の高崎方面に続いていた。府中の手前にある小野路の宿は鎌倉時代にできたと考えられる。駿河の久能山に埋葬された徳川家康の遺骨を江戸時代の初期の元和(げんな)3年(1617)3月に日光東照宮に移したときに街道の整備と共に小野路の一里塚は造られた。伝承によると御尊櫃(ごそんひつ)を乗せた輿が向阪を下ったとき壊れ、一行が難儀し鍛冶屋を呼んで修理した。この時の小野路村の労苦に対して幕府は以後助郷を免除した。この街道は御尊櫃御成道、また矢倉沢往還として利用され、東海道平塚宿と甲州道府中宿を結ぶ脇往還として賑わった。江戸期に盛んになった大山詣での道として小野路宿は賑わい幕末頃は旅籠が6軒あった。東海道一里塚は五間四方あったというが小野路の一里塚は一回り小さかった。榎の木が植えられておりここで旅人は一服つけたのではなかろうか。町田市では他に木曾の一っているが、多摩市貝塚にあった塚は現在残っていない。(小島政孝稿・説明板)
(赤:大山道 橙:八王子道 緑:布田道 紫:鎌倉古道 黄:旧神奈川道 青:小野路川)
小野路周辺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22740847/)
by Twalking | 2016-09-29 10:50 | 大山街道(新規)