無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(1)八王子~矢部03 矢部   

日時 2016.10.7(金)
天気 曇り

境川沿いの町田街道は車では時々通りますが混雑します。
ここを歩くのかなと思ってましたが、旧道も残っています。
旧道沿いには古刹も多く、思ったよりもいい道でした。

地図も見ずに気持ちよく歩いてしまったので、
あれ、と思って途中後戻りしながらの道中となりました。
でも鎌倉道にも出会えたし、なんとか辿り着きました。



・・小山町(町田市)

古くからの集落は町田街道に沿った街村の形態をとり、境川沿いには水田が分布した。一方、北側の多摩丘陵南斜面は森林または畑地として利用されていた。16世紀末に境川が武蔵国と相模国の境界として確定するまで、一部地域は相模国高座郡に属していた。元は境川(高座川)をはさんだ広い区域全体が「小山」を称していたが、この分割によって境川の北側武蔵国多摩郡小山村となった。一方、相模国高座郡に残った境川南岸にも17世紀初めに同郡上相原村(相原村とも)から分立した相模国高座郡小山村が成立している。地名の由来は横山党小山氏の居館があったことから。隣接する小山田(上小山田町・下小山田町。小山田氏が居館を置いた)との関連性は不明である。境川をはさんで北側に位置することから「ヒナタオヤマ(日向小山)」とも呼ばれた。一方、南側(相模国側)の高座郡小山村は「ヒカゲオヤマ(日陰小山)」と呼ばれた。(Wikipedia

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街道の風景① 町田街道の東側、丘陵に沿って旧道が残ります/小山町

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京王線を潜ります           札次神社参道


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福生寺山門/小山町片所

d0183387_14011828.jpg福生寺
付近に畠山重忠陣所跡と伝えるところがある。宗派:新義真言宗。多摩郡(旧)寺方村宝生寺末であったが、現在は京都新義真言本山智積院末。山寺号:施弥山慈眼院福生寺。昭和1010月、相模原市淵野辺鈴木孫兵衛方より左の古文書が出た。相州東郡柚木領小山田郷小山村[虫聲]蝉山福生寺言伝者、84代四条天皇御世天福元年715日弥兵衛[虫聲]蝉声股々耳、其時山伏坊姿者、清彦願出、百姓聚上下、棄差別御先祖御寺祈願説御本尊観音祈願坊、孫兵衛鎌倉願出、執権北条泰時公社寺奉行言命、年号一字賜[虫聲]蝉山福生寺云 文暦15317日 寺社奉行多治見海基 開坊 玄良法師 開基天野孫兵衛清彦かくて施弥山([虫聲]蝉山福生寺の山寺号出づと寺院ではいっている)。開山:これも右文書によって玄良法師としている。天福元年(1233)開山。開基:天野孫兵衛清彦。本堂 間口八間半、奥行七間 。正面に二間半、間口九尺の玄関をつく。本尊 不動木立像、長三尺。庫裡 面積二八坪。木造平家瓦葺、昭和二八年新築。鐘楼九尺四方。昭和2612月鋳の梵鐘あり。朱印 一二石二斗。(町田市史)

d0183387_14014809.jpg福生寺木造菩薩立像(
市指定有形文化財)
現在観音堂の本尊に随時して安置されている。本尊と同様、檜材の丸彫像で、やはり素地(きじ)をしている。天衣(てんね)および台座蓮肉部まで本体と共木で、左脇侍は格肘より先、右脇侍は右手首が後補されている。50cmに満たない小像らしく童顔風とするところが個性的で、目鼻立ちや技法などは極めて本尊像に近いが、宝冠は無文で衣文も殆ど省略されているところなどが異なる。また、大きさからも本尊と元来一具であったとは認め難い。しかし、この二像は本尊像の作風を踏襲していること充分に認められる。制作年代も本尊よりはやや遅れて11世紀末から12世紀後半とするのが妥当であろう。(町田市教育委員会)

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丘の風景① 振り返って見る浜見場、右手は武蔵境駅です/福生寺


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街道の風景② 一旦町田街道に出ますがここから再び旧道へ/小山駐在所

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秋葉大権現・片所講中とあります    稲荷神社御岳堂


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街道の風景③ 「萩原家」の屋敷、重厚な長屋門が目を引きます


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御嶽神社参道/小山町


d0183387_14533704.jpg御嶽神社
創建の年代は詳らかでない。寛文61128日の検地の際には、御嶽社領として五升五合六勺の除地をあたえられたのである。また、境内地三反歩は朱印地である。宝暦年間(18世紀中ごろ)の棟札は社宝である。祭礼には湯花の神事を行なう。祭神は日本武尊を奉斎している。例祭日は毎年8月の末日である。境内坪数892坪。町田市小山町2112番地に鎮座している。(町田市史)


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街道の風景④ 尾根幹線を横断して中村地蔵尊へ/小山交差点付近

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石灯篭(慶応元年・1865)&馬頭観音  普門品供養塔(文政10年・1827)&太子塔(弘化3年・1846)

献燈修復之記
沼町内会は歴史あるこの献燈(慶応元年設立)を町民の総意によって永く後世に保存するため当時この献燈を建立されたかたがたの御子孫と沼町内会の尊い浄財によって修復を行う。昭和518月。(碑文)


d0183387_15445505.jpg長泉寺門前の道祖神




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長泉寺山門
/小山町


d0183387_14570644.jpg長泉寺
宗派曹洞宗。山寺号『風土記稿』には医王山とあるが、今は蒼竜山長泉寺。もと柚木永林寺末であったが、これも今は福井市永平寺末となった。開山 照室恵鑑。天正年間示寂と『風土記稿』は伝う。本堂 木造瓦葺平家。間口九間、奥行五間。向拝とも50余坪。向拝は唐破風を有し、昭和3527世一宗代新築した。本尊 釈迦。木座像。長一尺余り。朱印 寺領九石四斗あった。庫裡 48坪。元農家を慶応3年(1867)移築。現在にいたる。木造平屋。

d0183387_14591499.jpg鐘楼 木造欅造り九尺四方。梵鐘。昭和35年春東京浅草翠雲堂鋳造とあり。山門 入口九尺。袖左右とも九尺。境内1200坪。子育地蔵 境内にあり。地人の信仰篤し。慶安の舟形親子地蔵である。『風土記稿』には薬師堂、衆寮などもあげられているがいまはない。薬師は木座像、長八寸行基作と伝えられていた。(町田市史)


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街道の風景⑤ 町田街道合流地(右)に中村地蔵尊があります/小山郵便局前

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中村地蔵尊/小山郵便局
中村地蔵尊は宝暦6年(1756)に創立され明和4年(1767)一体、明和5年(17685体、安永9年(17802体、天明2年(17822体、天明3年(17832体と合計13体建立されています。史書に照合してみますと当時代は大飢饉・大洪水・悪疫等が続発しています。地蔵尊建立当時の人々の願望は一に在住民一般の平穏安寧と特に二世安楽を祈願しています。(案内板)


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中村不動/小山町
信号に中村不動とありましたので寄ってみましたが詳細は分かりませんでした。

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小山町周辺マップ
(赤:浜街道 橙:町田街道 緑:尾根幹線 紫:ニュータウン通り 青:境川)


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街道の風景⑥ 町田街道のコープ先右手に旧道がのこります/常盤町



・・・矢部館跡(上矢部/相模原市)


北を流れる境川をはさんで町田市と隣接する。矢部という地名は元来、近隣の相原、小山、鶴間などと同様に境川の両岸にまたがって広がる地名であった。平安時代末期から鎌倉時代にかけてこの地域を拠点に活動した武士団に矢部氏を名乗るものがあり、上矢部五丁目には矢部氏の居館跡(矢部城)が残されている。1593年(文禄3年)の検地の際に境川が武蔵・相摸両国の国界として確定し、右岸(西側)側が相模国高座郡、左岸(東岸)側が武蔵国多摩郡に属するものとされて、相模国分を上矢部村、武蔵国分を下矢部村と呼ぶようになった。上矢部村は幕府直轄領(天領)とされたのち、享保13年)に下野化烏山藩領となり、明治4年の廃藩置県まで続いた。Wikipedia

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境川の風景① 旧道を右折し、矢部氏館関連遺跡に寄り道します/常矢橋


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上矢部御嶽神社鳥居/上矢部2

d0183387_00412670.jpg上矢部御嶽神社
 
旧矢部村の鎮守社で建久年間(1190年〜1199年)に矢部義兼によって「三嶽社」として勧請され、その後、建武年間(1334年〜1338年)に「御嶽大権現」として再建されたと伝えられている。祭神は日本武尊で九月の例祭には市内でも珍しい湯花神事が行われます。横山党矢部氏居館の鬼門にあたるといわれています。(大野北公民館)


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参道                 地神塔

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上矢部の土塁/上矢部2

d0183387_00523639.png上矢部の土塁

「横山党」と呼ばれる武士団は12世紀後半八王子から南に進み、境川流域の相原に館を構え粟飯原と名乗り、この兄弟の一族が勢力を広めて小山、矢部、田名氏などと名乗りました。上矢部の土塁は古くより矢部氏の館跡といわれ、近くには和田合戦(1213)で滅亡した矢部氏の供養のために建てられたといわれる板碑があります。現存する土塁の西側があったと考えられ、土塁の外側に箱薬研形の堀があったと発掘調査で確認されています。(相模原市教育委員会)

薬研堀 (やげんぼり)
底がV字形の尖った断面をもつ堀。薬研(漢方薬などをつくるとき薬効を持つ薬種を細粉にひくのに用いる器)の窪みに形状が似ていることに由来する。底部の通行が困難であるため、空堀に使われることが多い。Wikipedia


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道路側                西側

矢部城
矢部氏館
鎌倉時代に横山党の一員であった矢部義兼がつくったものとされる日本の城。矢部義兼は1213年の和田合戦で戦死してしまう。享年67といわれている。現在上矢部には板碑が残っている。板碑には本来の板碑は表に梵字や仏像が刻まれているがこの板碑には上部に阿弥陀如来の像があり下には左右に蓮の花が、中央には「乾元28月日」と書かれている。これは1303年に遺族や家臣が義兼の追悼のためにたてられた物だといわれている。相模原指定重要文化財に指定されている。Wikipedia


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d0183387_16342396.jpg板碑の鞘堂
上矢部乾元2年の画像板碑
指定板碑は上部に阿弥陀如来の像があり、その下の左右に蓮花の花瓶を刻み、中央に「上矢部乾元28月日」と記している。この板碑の由来について、土地の人々は鎌倉時代に居館をかまえた矢部義兼の供養碑だといっている。義兼は横山党の一族藍原三郎大夫孝遠の三男で野部三郎といった。横山氏の祖は遠く小野妹子から出ている。義兼は建暦3年(12135月の和田合戦で戦死したので90年後の乾元2年(13038月遺族や旧臣たちがその追善供養のためこの板碑を建てたのだという。(相模原市教育委員会)


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上矢部薬師堂/上矢部4

本寺を町田市図師町の長慶寺にもち本堂には安永9年(1780)と記された建立棟札があります。建立地は鎌倉時代の横山党の矢部氏居館の裏鬼門にあたるといわれ、魔除け、安産にご利益があると地元の振興を集めています。本開帳は33年毎に、中開帳は17年毎に行われています。(大野北公民館)

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境内の石造群             上矢部街道の標柱

水汲み街道
矢部新田を開拓した方々が境川まで水を汲みにいくために使ったため「水汲み街道」ともいわれたそうです。(標柱)

横山党の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22965590/


d0183387_22403544.jpg椿稲荷/上矢部4

江戸中期に開拓されたといわれる「四軒村」の守護神として祀られたもので、かつて境内にご神木の大椿があったと伝えられています。御神徳は家運隆盛、厄除削除等の諸願が叶うとされています。(大野北公民館)




・・・矢部町
(町田市)

町田市の西部に位置する。西から南へ都県境に沿って境川が流れる。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて武蔵国南西部から相模国北部で活動した横山党と呼ばれる武士団に「矢部氏」の名が見られ、相模原市側も含めた当区域の周辺を本拠としていたとされている。1594年(文禄3年)の検地(または元禄の改め)の際に境川(高座川)が武蔵国と相模国の境界として確定され、右岸の相模国側は高座郡上矢部村とされた。これに対して左岸の武蔵国側は下矢部と呼ばれるが江戸時代には単独の村とはされず、多摩郡木曽村の一部とされた。江戸時代後期の文化・文政年間に編纂された「新編武蔵風土記稿」には木曽村内の小名として「下矢部」の地名が記されている。地名は古くからの地名である「矢部」による。旧称の「下矢部」は境川右岸(相模国側)の「上矢部」(現相模原市中央区)に対するもの。Wikipedia)街道の風景⑤ 


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街道の風景⑦ 街道に戻り、その先右手に旧道があります/常盤駐在所北

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旧道出口のお地蔵さん         桜美林学園です


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箭幹八幡宮参道/矢部

d0183387_17374393.jpg箭幹八幡宮(やがらはちまんぐう)
推古24年(616)当社が勅令によって勧請されたと「八幡宮記」にある。また推古天皇病気平癒のため社殿を修造されたともいっている。康平5年(1062)には源義家が戦勝を祈願されたとの伝承がある。天明8年(178812月には当時の代官梁田隠岐守により社殿の再建あり。その後再々の火災にあう。現存する本殿および随身門は享保5年(1720)の建造になるものである。今次戦争で献納してしまったため現存していないが、古鐘は寛文5年(1665)従五位下高木伊勢守源守久が奉献したものであり。現在の鐘は昭和28年(1953)氏子一同にて奉納したものである。祭神は応神天皇を奉斎している。例祭日には、市無形文化財の獅子舞が奉納され、毎年915日である。境内坪数2999坪。町田市矢部2666番地に鎮座している。(町田市史)

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d0183387_10430134.jpg八幡宮由緒
康平五年、源義家阿部氏を討ち奥州より帰る途中、木曽に宿り、病にかかって毎夜悪鬼に責められる夢に見た。当社に祈願せしめられたところ、夢に神翁現れ、悪鬼を射倒すと見て病忽ち快癒した。ここに於て本宮末社に至るまで尽く再興して神思に報いたと言い、この時屋根に羽矢を挿し入し、又境内に矢竹繁茂せるを以って箭幹八幡宮と名づけこの地を矢部と称したと伝う。時代は下って、保元平治の乱に破れた源義賢は大蔵の館に拠り、これを迎撃した源義平は木曽仲三兼任、渋谷金王丸、鎌田正清を率いて図師原付近に於いて会戦した。勝負容易に決せず両軍乱戦死闘、義平軍が危うしと見えた時突如老翁と童子現れ、矢を拾って郷土軍に授けた。ここに於いて将兵等これを八幡宮の化身ならんと神意を恐れ、遂に和睦を誓った。この時甲冑の矢の根を埋めた所を根岸と名付けた。小山田有重所領17郷の総鎮守として尊信篤く、社地、建造物の寄進も多く、社参の道に今も鳥居坂の地名が残っている。寛文5年代官高木伊勢守大鐘を鋳し鐘楼に掛け、後の代官梁田隠岐守亦社殿を再建して奉建して領民と共に盛大な祭儀を奉行した。明治に至り宮号は廃止されたが、戦後再び古名に復した。祭神の神徳広大、学問、産業、災厄防除の守護神として広く尊信されている。(碑文・間違いヶ所あると思います)

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随身門

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箭幹八幡宮随身門 
特徴:入母屋造銅板葺、軒唐破風付 時期:江戸中期  随身門とは、神社外郭の門で武宮姿の随身像を左右に安置した門のことをいう。当、箭幹八幡宮の随身門は、桁行三間・梁行二間の入母屋造りのもんで、桁行中央の間を通りとして軒に唐破風付を設け、両脇間に神像を安置している。軸部は、腰貫・内法貫・頭貫・台輪で固められ桁行の内法は虹梁を用い、中央はかえる股で飾られている。桂上は実肘木付の三斗組とし、中備に撥束を配している。尚、妻飾り・懸魚・隅木等の一部に後補と思われる改造が見られる。制作年代は絵様、刳型及び細部の造りから考え十八世紀前半と思われる。(町田市教育委員会)


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箭幹八幡宮獅子舞
箭幹八幡宮獅子舞の獅子舞は、一説には元亀・天正のころ(1570年代の戦国乱世のころ)から始められたといわれる。獅子舞を関東に流布したのは小田原の北条氏であるともいわれるので、あるいはかなり古い伝統の流れを引くのかも知れない。この獅子舞は木曽や矢部の例祭や奥宮開扉の大祭などに行われる。舞は「道行」(みちゆき)と「御庭舞」とにわかれており、特徴は獅子宿から社前に向うときの「道行」と木曽町を神輿巡行のとき先導する役目をすることである。また獅子舞するものの腰にさした五色の御幣(ごへい)をもらった人は、その年は無病息災で家内安全であるといわれている。(町田市教育委員会)


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境川の風景② 鎌倉道のようですね、箭幹八幡宮を望みます/両国橋


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右に行くと六面地蔵           左へ行くと阿弥陀堂

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境川の風景③ 上流側、前方に多摩丘陵が望めます/両国橋



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戻って山王日枝神社に向かいます/淵野辺本町


d0183387_11202092.jpg山王日枝神社
祭神は大山咋命 飯綱大神 大鳥祖神。山王日枝神社は第94代後二條天皇徳治2年(西暦1307年今より693年前)、大将軍久明親王・執権北條貞時僧となり淵野辺に遊歴して官吏の善悪賞罰を正す。その時各所より溝流れ入り池となり大蛇あらわれ、人民を食せし故、貞時溝内の高山に山王大権現を祈願し、淵野辺伊賀守義博に命じて大蛇をうちころす。住民大いに喜こび、山王大権現を淵大水有主神として祈願、天文11827日北條氏康関東平定のため大友義家山王大権現を祈願所とする。其の悪病流行の時伊賀権現大酉明神のおつげにより知行岡野孫一郎の命を受け氏子一同827日及び11月の酉の日に五穀豊穣氏子安全福作永年を祈る。日枝神社社殿は元和2年、元禄12年、寛保元年、文化3年等度々の修復をして、現在の社殿は平成25年に再建したものです。(境内掲示)


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やまねの坂(山王坂)         延命地蔵尊/淵野辺本町

延命地蔵

本地蔵尊の起源は鎌倉時代にさかのぼるといわれています。新生児の生命を守るなそ諸願をかなえてくれることで信仰を集めています。(大野北公民館)


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街道の風景⑧ 町田街道に戻り少し行くと芝溝街道です/根岸西


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矢部町・常盤町マップ
(赤:浜街道 紫:芝溝街道 青:境川 緑:尾根緑道)


尾根緑道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23515579/
  



by Twalking | 2016-10-14 09:42 | 浜街道(完)

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