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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)   

日時 2016.10.27(木)
天気 晴れ/曇り


浅間下交差点が横浜道の起点になります。
東海道を歩いている時に確認はしてますが、
開港場への道、いつか歩きたいと思っていました。

また野毛山は近代水道の供給地、これも興味ありです。
何れも住宅地ですが、それでも道筋や川、説明板などを
読み返すとなんとなく当時の感じがつかめます。
野毛の展望台からの景観はいいですね~。。。



・・・浅間下追分(西区)

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街道の風景① 右手先が「横浜道」の起点になります/浅間下交差点

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浅間下公園              薬局先が起点です

西区歴史街道
(西区は道の交差点、すべての道は開港場へ)

西区は昭和1941日に中区から独立して誕生しました。今から250年ほど前までは現在の西区の区域は芝生村(しぼうむら)と平野部が東海道の景勝地である「袖ヶ浦」という三角形の内海をはさんで成り立っていました。神奈川宿台町から見た景色は大変美しく、「武蔵国第一の景」と言われるほどでした。宝永41707)年の富士山大噴火による降灰の影響で海が浅くなり湿地帯になっていくと、18世紀以降埋立による新田開発が進められ「宝暦新田」「平沼新田」「岡野新田」などが造成されました。その結果、100年ほど前の「袖ヶ浦」は畑と塩田の風景に変わりました。なお「横浜道」ができるまでは、神奈川から開港場へは洲崎神社前から渡し船によっていました。

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江戸名所図会 神奈川総図三 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_17552488.png西区は「東海道」「横浜道」「保土ヶ谷道」という3つの古道が通っていました。江戸時代の大動脈であった「東海道」は江戸方からは袖ヶ浦の海岸に沿って神奈川台(現神奈川区台町)の坂を下り、大通り(環状1号)に出て勧行寺の前を通り浅間下交差点を横切って浅間下公園の中を抜け浅間神社へと続いていました。そして追分、現在の松原商店街を通り天王町、帷子町を経て保土ヶ谷宿へつながっていました。


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_17581326.jpgわが国は安政61859)年に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が築かれました。そのとき東海道と開港場を結ぶために造られたのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。浅間下交差点先の薬局横が起点で、岡野、平沼新田の埋立地と海面の境に盛土して道とし、帷子川、石崎川の河川に「新田間橋」「平沼橋」「石崎橋」(現敷島橋)が架けられました。戸部からは野毛山に切通しを開き都橋吉田橋関門を経て開港場に重なっていました。

また「保土ヶ谷道」は保土ヶ谷宿と戸部村を結ぶ古道で、現在の保土ヶ谷区岩間町大門通り交差点から左折、藤棚商店街を通り願成寺の下の道を通り「暗闇坂」を抜け伊勢町商店街から「横浜道」に合流していました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資はこの西区内の3つの古道を頻繁に行き交いました。それにともないわが国に入ってきたさまざまな文化もこれらの道を通って全国に伝えられていきました。重要な役割を果たしてきた3つの古道の周辺にはさまざまな歴史資源が残っています。(西区・西区観光協会)

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街道の風景② 新田間川橋を渡ります

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_18182794.jpg新田間川
(あらたまがわ)
横浜市
を流れる二級河川で、帷子川の派川にあたる。江戸時代に新田の開発が行なわれた際に、石崎川とともに用水路として整備された。1859年(安政6年)に東海道と横浜港を結ぶ横浜道(現在の新横浜通り)の橋が架けられ、芝生新田(現在の浅間町)と岡野新田(現在の岡野)の新田の間を結ぶ橋であることから新田間橋と名付けられた。当時は南幸・北幸付近は入り江でありこの橋付近が河口であった。Wikipedia)帷子川 

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街道の風景③ 帷子川は元平沼橋を渡たりますが、ちょっと間違えました/平沼橋

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平沼橋                京急ガード先から商店街へ

平沼

西区にある地区で、ほぼ帷子川とその派流・石崎川にはさまれた地域に当たる。この地域を開発した江戸時代の豪商平沼家の名にちなむ。この周辺は古くは袖ヶ浦と呼ばれた入江が現保土ヶ谷区東端部まで湾入していた。この入江は景勝地として知られたが、帷子川河口に位置していたため土砂が堆積し遠浅の海となっていた。このため18世紀初頭に湾奥部から埋立てと新田開発が始まった。19世紀の天保年間になると保土ヶ谷宿の豪商であった平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行い(5代目平沼九兵衛が1839年開始)、それぞれ平沼新田とその北隣の岡野新田(現・西区岡野)を造成した。これにより平沼橋駅付近までが陸地になり、さらに幕末には横浜開港に伴い当時の海岸沿い(現・横浜通り西側)に「横浜新道」が設けられ東海道と横浜港が結ばれた。明治に入ると高島嘉右右衛門によって袖ヶ浦の入口(現在の横浜駅付近、高島)が鉄道建設のために埋め立てられた。残りの水域は沼となりこれも通称「平沼」と呼ばれた。そのうちで平沼新田の地先(現・平沼一丁目東部)もまもなく平沼家によって埋め立てられ、さらに平沼新田には東海道本線が敷設された。「平沼」の残り(現・北幸、南幸、鶴屋町)も大正年に埋め立てが完了した。(Wikipedia

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街道の風景④ 石崎橋(現敷島橋)を渡ります


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_18353809.jpg石崎川

横浜市を流れる二級河川で帷子川の派川にあたる。江戸時代に新田の開発が行なわれた際に、新田間川とともに用水路として整備された。当時は横浜道の東側は入り江であり、現在の高島町交差点付近で直接海にそそいでいた。明治に入り入り江の一部を埋め立てて鉄道が建設された。Wikipedia


・・・戸部町
(とべちょう)

旧町域に戸部民部というものが居住していたことに由来すると伝えられる。武蔵国久良岐郡に属し、戦国時代は戸部郷、江戸時代は戸部村と呼ばれ、江戸幕府直轄領であった。文政年間(18181829)に村内の野毛浦が野毛村(現・野毛町)として分立する。1859年(安政6年)横浜港が開港すると横浜道が村内に開削され、横浜港を管轄するための神奈川奉行所、役宅、監獄(横浜刑務所の起源)など官庁機構が集中。また、戸部村内にも町屋が形成され戸部町と改称した。
Wikipedia)


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岩亀横丁/戸部4

横浜開港後、関内にあった「岩亀楼」という遊郭が明治6年(1873)年高島町に移転しましたが、その寮がこの地にあったといわれ、いつしか岩亀横丁と呼ばれるようになりました。明治時代に現在の「みなとみらい」の地に横浜船渠(横浜ドック)ができてからは、そこで働く人々の飲食や買い物で賑わいました。この横丁のなかほどに静養に来た遊女のお参りしたといわれる岩亀稲荷があって今も大切にされています。(西区)

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幟があるからこの路地みたいですね~・・・、面白そう/岩亀稲荷

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_18560152.jpg岩亀稲荷の由来
横浜の開港は安政6年(1859)、開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで隣接する日本庭園に岩亀楼と刻まれた石灯篭が保存されている)から高島町に移り、一二を争う大楼・岩亀楼があった。三層櫓式の楼閣がその偉大さを誇り夜目にも美しく人々の話題となった。当主は佐吉といって埼玉県岩槻の人で、その音読みで「がんき」と呼ばれていた。この岩亀楼一番の売れっ子・喜遊大夫(亀遊説もある)がペリー艦隊の軍人に言い寄られたがこれを拒み、有名な辞世「露をだにいとう倭(ヤマト)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさじ」を残して自害した。この句から幕末の遊女気質が十分伺える。遊女達が病の時、静養する寮が今の岩亀横丁にあり、遊女達が信仰していたお稲荷様が寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ、現在も信仰が受け継がれている。このお稲荷様を粗末にすると必ず近状のご婦人に災いがおこると言い伝えられ、毎年525日には盛大に例祭が行われている。有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台も喜遊大夫がモデルである。(岩亀稲荷講)

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街道の風景⑤ この辺りから登りになります、左手が掃部山公園です/戸部3

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日本庭園

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_19193534.jpg掃部山公園

現在掃部山公園になっている土地は、明治初期の新橋横浜間の鉄道敷設に携わったエドモンド=モレルなどの鉄道技師の官舎が建てられていたほか、ここの地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから、鉄道山と呼ばれていました。その後、明治17年に本市の開港にゆかりの深い井伊直弼の記念碑建立の際に、横浜正金銀行松井十三郎ら旧彦根藩士により買い取られ井伊家の所有となりました。掃部山公園内の日本庭園などは井伊家所有の時代に築造されたものと考えることができます。その後、大正3年にこの土地が井伊家より本市に寄附され掃部山公園として公開されました。公園の南西側の一角にある能楽堂は、平成83月に完成したもので、横浜市の有形文化財に指定されている旧染井能舞台を館内において移築・復元しているものです。この染井能舞台は、もともと明治初期に加賀藩主だった前田斉泰公が東京根岸の自邸に建てたもので、後に東京駒込の染井に移築され、戦後には能楽再興の本拠地となっていたものです。このように明治以来の長い歴史と文化的要素を有する掃部山公園では、地域の人達が中心となってこれらの歴史とゆかりの深い薪能や虫の音を聞く会などのお祭りが催されるなど、地域の人々に親しまれています。(案内板)

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_19170811.jpg井伊掃部頭守ゆかりの地

明治427月横浜開港50年記念に際して旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老・井伊掃部頭守直弼の銅像を戸部の丘に建立し、その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。当時の銅像は藤田文蔵、岡崎雪声によって制作され、その姿は「正四位上左近近衛権中将」の正装で、高さは3.6mを測りました。しかし当初の銅像は昭和18年に金属回収によって撤去され、現銅像は昭和29年横浜市の依頼により慶寺丹長が製作したものです。その重量は約4tあります。台座は妻木頼黄(よりなか)の設計で高さは約6.7mあり、創建当初のものが残っています。(横浜市教育委員会)


・・・紅葉ケ丘

昭和3年に伊勢町・戸部町の一部から成立。紅葉坂上の丘陵地で、神奈川奉行所跡の神奈川県立青少年センター、県立音楽堂、掃部山公園内の横浜能楽堂がある文教エリアとなっている。
Wikipedia)

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みなとみらい21へまっしぐら、いい坂ですね~/紅葉坂

横浜紅葉坂

国道16紅葉橋交差点と横浜根岸道路とを結ぶなだらかな坂。歩道から車道まで横浜でも珍しい総石畳の風情のある道で全長は約300m程。昔は楓の木が多かったため紅葉坂と呼ばれるようになった。起点の紅葉橋交差点は横浜ランドマークタワーから西側に約300m進んだ場所にあり、横浜みなとみらい21のビル群などが間近に見られる絶景ポイントである。Wikipedia 


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保土ヶ谷道と合流、左が紅葉坂です   左青少年センターが神奈川奉行所跡です

神奈川奉行

神奈川奉行は横浜港が開港された安政6年(1859)に設置された役職である。設置当初の神奈川奉行は、青木町(神奈川区青木町)に会所、戸部村宮ヶ崎(同西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センター)に奉行役所を置き、また、横浜村(同中区日本大通、現・神奈川県庁付近)の波止場近傍に運上所を置いて事務を執った。奉行役所は戸部役所と呼ばれて内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では関税及び外務全般の事務を取り扱った(Wikipedia


・・・宮崎町

明治3年に成立。旧来の地名の宮ケ崎と当地に創建された伊勢山皇大神宮に因んで命名された。宗教施設が多く、皇大神宮のほか成田山横浜別院延命院、曹洞宗萬徳寺、日本基督教団紅葉坂教会がある。Wikipedia

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伊勢山皇大神宮拝殿

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伊勢山皇大神宮/宮崎町

宮司龍山庸道。祭神天照皇大神。もと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園東北端あたり)にあった大神宮(「武蔵風土記稿、戸部村」)を、明治3年神奈川県権知事井関盛艮の告諭により、野毛山に遷して伊勢山皇大神宮と称え横浜の総鎮守と定めた。翌4415日神殿造営の工が成り、正遷宮式執行。これより所在地は伊勢山と呼ばれた。社殿は大正12年の関東大震災で倒壊焼失したが、昭和3年再建復興した。境内社、本殿左側に杵築宮・子の大神(子神社はもと野毛の鎮守で旧所在地野毛町)。裏参道に水神宮。神殿唯一神明造、鋼板茸。境内3955坪。例祭日515日。境内には明治10年西征陣亡軍人之碑(明治12年建立)、以徳報怨・蒋公領徳碑(昭和61年)、万葉歌碑(犬養孝書・昭和63年)などがある。(横浜西区史)

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成田山横浜別院延命院(真言宗智山派)/宮崎町

住職鶴見照碩。本尊不動明王。明治3年本山成田山新勝寺より分霊を勧請して、太田村(現南区西中町)普門院境内に遥拝所を設立。同9年高島嘉右衛門から敷地の施入を得て現在地に移り成田山教会と改めた。その後、明治26年本山塔頭より寺号を転じて延命院と号した。通称野毛不動と呼ばれている。(横浜西区史)

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浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_21073351.jpg穐葉山万徳寺/宮崎町

(曹洞宗、本山福井県永平寺、鶴見総持寺)
住職横山正彦。本尊如意輪観音。脇立秋葉三尺坊大権現、道了大薩垂。明治11年当所に曹洞宗布教所が設けられ、明治26年、静岡県山名郡久努村(現静岡県袋井市)より退転に及んでいた万徳寺を移し、福井県総持寺より(西有)穆山瑾英を請じて伝法開山とした。開基太田治兵衛。(横浜西区史)


・・・野毛町


江戸時代末期
に東海道と横浜港を結ぶ横浜道がひらかれ、野毛山の中腹に切り通しで道が作られたことで同地区は交通の要所となった。その後明治時代の陸蒸気の開通により桜木町駅の開業、三菱重工業横浜造船所の開設などで繁華街として栄えてきた。古くは武蔵国久良岐郡戸部村の字で野毛浦と呼ばれていた。町名の「野毛」は、「ノツケ」(「突端」または「崖」を意味)から転じたとされる(Wikipedia
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街道の風景⑥ 野毛の切通を下ります

戸部・野毛の丘
開港間もない頃の戸部・野毛の丘には、横浜の行政事務や地域の取締りを行う神奈川奉行所や官舎などが置かれていたほか横浜道、保土ヶ谷道に沿って関門や番所が設けられるなど官庁街が形成されていました。また現在の野毛山公園辺りは原善三郎、茂木惣兵衛といった有力な横浜商人たちが別邸を建てた土地でもあり、山手・根岸の丘の上にあった英仏領事館や外国人の西洋館に対抗したといわれています。山手・根岸の丘に対して開港場を挟み反対側の戸部・野毛の丘は開港期横浜の発展を支える日本人の拠点となっていました。(標柱・西区)

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_21223821.png野毛の切通し
寛政61859)年東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すため野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行きかい、輸入された文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。現在の切通しは昭和31928に市電長者町線の整備の際に道路を拡幅・切り下してできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸 石積み擁壁及び煉瓦塀・市指定歴史建造物)と共に往時の壮観を今に伝えています。(西区)

亀甲積み
石材を六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの石垣の一種である。亀の甲羅の模様ように見えるためこう呼ばれる。力が均等に分散するため崩れにくいが、江戸後期に低い石垣に用いられた例のみである。Wikipedia)

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街道の風景⑦ ここから直角にまがり吉田町へ下ります/野毛坂

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野毛3丁目               野毛山ノーエ節

野毛節
野毛山節、あるいはノーエ節などとも呼ばれる。幕末に始まったお座敷歌で関内の外国人や兵隊の(当時の日本人から見ると珍奇な)様子を野毛山から眺めた歌詞となっている。作者不詳で、曲調は行進曲を摸したものとも言われる。旋律や「ノーエ」の掛け声を同じくする民謡は全国にあり、中でも三島市の「農兵節」が有名である。野毛節がこれらの元祖とも言われているが定かではない。Wikipedia

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街道の風景⑧ 大岡川を渡ります、下流側の景観です/都橋

大岡川

横浜市内を流れ横浜港に注ぐ二級河川。江戸時代に今の南区~中区域に及ぶ吉田新田の干拓事業による埋め立てが行われるまで(今の横浜市南区堀之内の寶生寺辺りまで入り江)は、下流域の大半が大岡湾或いは蒔田湾と呼ばれる入り江だった。大岡湾(蒔田湾)部分を除いた上流部では本来の大岡川の名称では呼ばれず、旧久良岐郡松本村の小字で関之下と呼ばれた地域の日野川と笹下川の合流地点より下流の名称として大岡川と呼ばれる。Wikipedia

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_23102125.jpg都橋

中区の大岡川に架かる橋である。初代の橋は、東海道と横浜港を結ぶ横浜道の一部として1859年(安政6年)に架けられた。当時は「野毛橋」と呼ばれる木造橋であった。1868年(明治元年)に大雨で流失、橋の下に船を通せるよう半円形の反りを持たせた木造橋に架け替えられた。1872年には増加する馬車の往来に耐えられるよう、幅の広い橋に架け替えられた。この時に橋の位置を上手に5mほど移され、橋台を新製した。近くに柳橋と桜橋があり、古今和歌集の「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」の歌から「都橋」に名を改めたのもこの時であるWikipedia


・・・吉田町/中区

伊勢佐木町と野毛町の間の横浜市の中心街に位置する。現在の吉田町を含む一帯は江戸時代初期までは大岡川河口の入り江で、1656年(明暦2年)より吉田勘兵易衛によって開墾され、のちに吉田新田と呼ばれるようになった。吉田町はその東北端に位置する。1859年(安政6年)に横浜港が開港すると、東海道から平沼橋、野毛坂、野毛橋(現:都橋)を経て吉田町を通り太田橋(現 吉田橋)を渡って横浜港へ通じる横浜道が設けられた。開港後、浪士らによる外国人襲撃事件が相次ぎ、駐日イギリス総領事のラザフォード・オールコックスの直談判を受け幕府は吉田橋ほか6ヶ所に関門を設けた。これ以降、馬車道など関門の内側にあたる地区を関内、関門外側の吉田町や伊勢佐木町などを関外と呼ぶようになった。吉田町は1862年(元治元年)に元町とともに関外で初めてできた街である。Wikipedia

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街道の風景⑨ この先が伊勢佐木町になります/吉田町


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西区歴史街道-横浜道マップ(180°回転させてあります)
(赤:横浜道 橙:旧東海道 緑:保土ヶ谷道)

浜街道(4)星川~関内01-芝生追分の関連記事はこちらへ(浜街道(4)星川~関内01 芝生追分 : TEIONE BLOG - 平山 貞一 (exblog.jp)


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資料ファイル

野毛山公園

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野毛山公園散策路

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_20364656.png野毛山公園の歴史

野毛山区園は日本の公園発祥の地である横浜で、横浜公園や掃部山公園に次いで長い歴史を持つ公園です。明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域は茂木惣兵衛の別荘がありました。1923年(大正12年)91日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けました。震災後、被災地復興事業の一環で都市防災の要地、また市民の憩いの場として野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地を合わせ公園利用地を取得し1925年(大正14年)に着工、翌1926年に一般公開されました。開園当時は回遊式庭園(現野毛山動物園)西洋庭園(現配水池地区)折衷公園(現散策地区)の三つの様式を持っていました。

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_20411704.jpgその後第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は昭和32年まで米軍に接収され公園として利用できない時期が続きました。米軍の接収解除後、昭和24年に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第1会場に野毛山公園、第2会場に反町公園を利用して開催された博覧会は、野毛山公園を現在の形に整備する契機ともなりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分に噴水池がもうけられました。噴水池は博覧会終了後競泳用プールになり、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。さらに昭和26年には様式庭園だった部分に児童公園が造られ動物園と合わせて「野毛山遊園地」として開園しました。昭和39年明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになり、児童公園を閉鎖して整備することになりました。地か配水池整備後は自上部を公園とし、動物広場、子供広場が設けられました。2002年に動物園の再整備に着手し、2014年現在の野毛山公園の形になりました。


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_20431552.jpg佐久間象山碑

ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました。
佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主・真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者に任じました。その後象山は兵学を学び大砲やガラスの製造を手掛けるなど西洋の技術、学問を説教的に取り入れました。1852年(嘉永5年)江戸に赴いた象山は幕府に戦略上の視点から開港場に選ばれた下田ではなく、横浜に開港場を提言しました。その後1864年(文治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊衛門、川上彦斎らによって暗殺されてしまいました。象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしょう。公園内に顕彰碑が立っています。


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_20433136.jpg汀女はこの野毛山で俳句をつくりました。

中村汀女は昭和の著名な女流俳人で、日常を題材にしながらも抒情性に富む句によって知られています。汀女は本名を破魔子といい、1900年(明治33年)熊本に生まれました18歳のとき「ホトトギス」に投句を始めました。1920年(大正9年)に結婚、夫の転勤によって日本各地を転々とし子育てにも追われ、その間は創作活動を中断せざるをえませんでした。その後創作活動を再開したのは1930年(昭和5年)夫が横浜税関長となって横浜(西戸部町)に移り住んだ時からでした。高浜虚子に師事し1934年(昭和9)「ホトトギス」の同人となって頭角を現します。戦後「風花」を創刊主宰、後の女流俳人に多大な影響を与えました。汀女は生涯を通じて郷里の実家近くの江津湖を愛したといい、1979年(昭和54年)には熊本名誉市民となりました。又郷里に残した母を想って詠んだ句も多数あります。1988年(昭和63年)9月その生涯を閉じました。散策路には句碑があります。


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ヘンリー・スペンサー・パーマー
横浜にきれいなミスを届けてくれた恩人です。
港後の横浜は海や沼を埋め立てて市街地を造成したため、水質が悪く衛生的な生活用水の供給が強く求められていました。1883年(明治16年)3月、イギリス工兵中佐のパーマーに水道建設を一任しました。1885年(明治18年)4月に水源を相模川支流道志川に定め、野毛山配水池に至る48kmの水道建設工事に取り掛かりました。1887年(明治20年)9月に完成し、1017日より市内への給水を開始しました。これが日本初の近代水道の始まりとなったのです。今もパーマーが築いた道志川から西谷浄水場を通り野毛山へと続く上水道は「水道道」となってその道筋を追うことができます。旧野毛の配水池に胸像が立っています。

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横浜水道マップ


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_23163732.jpg日本最初のガス灯は花咲町から始まりました。
1872年(明治5年)929日、花咲町から送られたガスによって大江橋から馬車道、本町通りにかけてガス燈が灯りました。これは日本初のガス灯の一般事業化であり、日本近代化の歴史的瞬間となったのです。ガス灯は開国当初の1867年(慶応3年)にアメリカ人によりガス灯建設の提案が出されたのをはじめとして、横浜の外国人を中心に建設申請が出されるなど強い要望がありました。神奈川県知事井関盛良と大参事内海忠勝はガス灯の利権を外国人に独占されるのを嫌い、日本人とドイツ商社との共同経営を提案しました。しかし明治の実業家高島嘉右衛門は、横浜の有力者8名と「日本社中」という会社を作り日本人によるガス事業を目指しました。日本社中はフランス人技師アンリ―・オーキュスト・ベルグランを上海から招き、花咲町の伊勢山下石炭蔵跡(現本町小学校)にガス工場を建設し点灯に成功したのです。(案内板)


・・・展望台から見える風景

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野毛山展望①(北)みなとみらい21(左)・神奈川県警(右奥)右奥ベイブリッチ

浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_23434462.jpg横浜のまちづくり

1859年(安政6)横浜港が日本の玄関として開港されてから開港場を中心に、貿易に必要な施設や外国人が住む居留地、日本人の商人が店を構える町並みなど建設が急速に進められました。開港場は海と山に囲まれた土地で、入口には関門が置かれました。この関門の海側にある町を関内、伊勢佐木町側を関外と呼びました。明治時代を迎えると、関内を中心に西洋風の煉瓦造りの建物が次々と建てられました・貿易が盛んになるにつれ、西洋の文明が次々と横浜港から入ってきて、横浜は日本でも最もハイカラな町に成長していきました。(案内板)

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開港前の横浜              開港後の横浜

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明治はじめの横浜            明治半ばにかけての横浜(左:居留地 右:日本人町)


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野毛山展望②(東)根岸方面の展望です


浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)_d0183387_00391389.png吉田新田ができるまで
今の横浜の中心地・関内駅のあたりは約350年前までは内海でした。そこを江戸の木材・石材将商であった吉田勘兵衛らが中心になって埋め立て、新田(田んぼや畑)をつくり新田と呼ばれるようになりました。吉田新田という名前は勘兵衛の苗字からつけられています。吉田新田は大岡川と中村川、JR京浜東北線によって囲まれた釣鐘の形をした範囲で、今は中区と南区に含まれるます。広さは約57万坪(18810002 横浜スタジアム72個分)で、このうち3/5が田んぼや畑・宅地などで、残り2/5が道路や河川等になっていました。新田開発工事は明暦2年(1656)に始まり、翌年の大雨で潮除堤が流されて失敗しましたが、万治2年(1659)に工事を再開し寛文71667)に完成しました。その後海側の部分が埋め立てられ建物がたくさん立てられました。そして横浜の中心部として発展していきました。開港後横浜に住む人の数はどんどん増えていき、湊には外国の船がたくさん訪れました。(案内板)

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吉田新田ができる前(約400年前)      完成した吉田新田(約350年前)

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野毛山展望③(南)ぴ~んとは来ませんが南区になるのでしょうか

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野毛公園マップ

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昭和30年代              現在(「温故知新の道」マップ/西区)


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西区「歴史さんぽみち」マップ

旧東海道

昔、現在の横浜駅の一帯から久保町方面にかけては袖ヶ浦とよばれた内湾であった。旧東海道は神奈川宿から海に沿って(現在の楠町から浅間町)保土ケ谷宿へ通じていた。あたりは静かな入り江に白帆が浮かぶなど、大変景色のよい所として有名であった。江戸時代、街道沿いの宿と宿の間には人足や馬の休憩場所としての立場(たてば)があった。神奈川宿と保土ケ谷宿の間の芝生村(しぼうむら・現浅間町)はこの立場として発展した村で、農場のほかに飯屋や酒、わらじの販売など商業も営まれていた。

横浜道

安政5年(18586月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になってやっと工事が始まるという状況であった。当時は東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)この道は芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。

保土ヶ谷道

戸部村と保土ケ谷宿との往来に使われたのが保土ケ谷道である。この道は戸部町の稲荷神社の庚申塔からくらやみ坂を通り、西前町交差点で左折して願成寺門前へ出たあと藤棚地区商店街を通り過ぎて、JR東海道線を越え保土ケ谷区岩間町大門通りで東海道に合流する。また、戸部町の稲荷神社から東へは、野毛切り通しを通って野毛坂を下り野毛浦に達していた。(西区HP)


by Twalking | 2016-11-02 11:46 | 浜街道(完)

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