八王子通り大山道(1)片倉~橋本02 橋本
天気 晴れ
住宅地になってますが、境川への下りは急坂です。
下ると境川、両国橋を渡ると橋本宿になります。
旧道には長屋門の立派な門構えのお宅が多いですね。
橋本は道路が複雑で渋滞しますので敬遠気味でしたが、
こうして歩いてみると、旧道筋は落ち着いた街並み、
寺社の創建も古く、由緒があって見応え十分です。
・・・相原町(町田市)
町田市北西部、境川の北側に位置し東西に細長い地域である。北側は丘陵地とそれを刻む谷戸が分布し南の境川に沿って平坦地が細長く伸びる。この平坦地を町田街道が東西に貫通し、これに沿って集落が街村状に広がっている。古くは粟飯原とも表記し、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡を中心に割拠した武士団「横山党」のうちの粟飯原氏の名字の地とされる。(Wikipedia)
東京都道47号八王子町田線
八王子市から町田市に至る主要地方道である。この道路は通称町田街道と呼ばれる。ほぼ全区間東京湾と相模湾の分水界に沿っているほか、町田市相原町字橋本付近から町田駅付近までは旧来の絹の道(浜街道)の道筋とほぼ一致する。陸上距離:26.774km起点:八王子市東浅川町(町田街道入口交差点)終点:町田市原町田(三塚交差点)(Wikipedia)
宗派:臨済宗。京都妙山寺末。山寺号:瑞石山清水寺。本堂:寄棟御堂造り。中央に銅製宝珠を置く。そしてその下正面に二個の葵の定紋を配す。向拝銅葺唐破風。二重棰造り。正面二間、奥行九尺。また本堂は四間四方の総欅造り。花鳥、河川、人物遊戯等の彫刻を四方に施し、向拝左右の角柱にも16の花丸を刻し町田市稀有の建築である。堂正面には澄川翁の書「施無畏殿」四文字の額を掲げ、23段の石階上にある。水屋:幅一間、奥行四尺の欅造り。亜鉛葺合掌屋根の下に石の手洗いを置く。この屋根にも葵紋あり。鐘楼:九尺四方天井に25の花丸を描くも今は明確には見えない。入母壁、亜鉛葺。梵鐘、天保13年鋳鐘、太平洋戦に供出し、昭和33年新鋳のもの。「南無観世音菩薩」と刻す。
本尊:観音立像。『風土記稿』には「釈迦木の坐像にて長一尺ばかり」とある。しかし「相原村誌」に「本尊は聖観音にして」とあるものと今はしている。この観音像は丸山の観音山にあったが、武田信玄小田原侵入の際寺院焼失し、わずかに全焼を免かれた一木像だが昭和34年東京都多摩丘陵調査の際、丸尾彰三郎調査員によって藤原時代像だろうとされた夜叉神とならんで古代仏像であろうといわれている。ただ惜しむらくは焼痕のため鮮明を欠く。
町田市指定文化財。以上本堂・御水屋・鐘楼は相原町丸山長福寺建築後、嘉永3年(1850)3月15日、時の相原村名主青木助次郎易直の手によって新築されたもので、一連一体の建築物のため昭和48年3月8日市重宝に指定された。庫裡:寄棟亜鉛葺。木造平屋、間口五間半、奥行五間、一間の式台入口を設く。付属文化財:この寺には、さきに市が天然記念物に指定した数種類の樫の群落があり、また善寧児の碑がある。善寧児碑はこの種の碑としては日本最古の碑で明治25年4月に建てられている。そのそばに近藤勇の碑もあって門人53名の手で建てられた。勇の風貌を偲ぶに足るであろう。(町田市史)
清水寺観音堂
清水寺観音堂は桁行三間・梁行四間・正面一間に軒唐破風の向背を設け宝形造・平入・銅板葺で四周に疑宝珠高欄付の縁を設けている。大きさは桁行24.5尺(約7.45m)梁行24.7(約7.49m)で、柱径は来迎柱、側柱とも0.995尺(約0.3m)である。向背は二重肘木を用いた横拡のある斗栱をくみ、向背木鼻から中備まで龍の彫刻で飾り、堂本体とのつなぎも雲龍の丸彫になる。堂の側廻りは、長押・頭貫・台輪でつながれ、柱上に尾垂木つき三手先斗栱をくみ、お垂木は龍および模形の彫刻となり、軒支輪も浮彫で飾って軒の二軒とする。当観音堂は本格的な三手先を用いながら彫刻装飾を多用した堂で、よく幕末期の傾向をあらわしている。建立は、嘉永3年(1850)再建とされている。(町田市教育委員会)
精進場
橋本宿の北端にある両国橋の上流に「精進場」と呼ばれるところがあり、大山参りの人たちがそこで水を浴あびたと伝えられています。武州方面からの旅人は御殿峠を越えると清らかな流れの境川にたどり着つきます。そこで人々は川に入り「六根清浄」と唱えながら水を浴びて体を清め、また大山を目指しました。「精進」とは体を清めることを言います。(発見さがみはら/橋本図書館)
・・・橋本(相模原市緑区)
相模国高座郡に属し元は相原村の一部であった。橋本の地名は八王子・川越方面と厚木・小田原方面とを結ぶ中世以来の主要街道(八王子街道または大山街道、国道16号旧道)が、境川を渡る地点に架けられた両国橋に由来するとされている。橋の南側に橋本宿が形成され宿を中心に橋本村として江戸時代初めに相原村から分立した。江戸時代には旗本支配地となり、明治政府成立後の1868年(慶応4年・明治元年)に神奈川府(間もなく神奈川県)の所属となった。明治の大合併(明治22年)によって隣接する相原村、小山村、清兵衛新田と合併して高座郡相原村の一部となり、旧橋本村の区域をもって大字橋本が編成された。合併以前の旧相原村(大字相原)は村域内の西部に位置するが、村役場や小学校などはいずれも橋本に置かれ、明治41年に橋本が開設されたこともあって橋本が相原村の中心集落の地位を占め続けた。(Wikipedia)
橋本宿
武州(埼玉)方面から八王子を通とおって大山参りに行く人々は、御殿峠を越こえて境川を両国橋で渡わたり橋本宿にたどり着つきました。橋本宿のあった橋本村は正保3(1646)年相原村から分れて誕生しました。宿場がいつ頃ころできたのかははっきりとはわかりませんが、享保21(1736)年の村明細帳には「毎日伝馬4頭、人足4人が用意されていて、48軒の家があった」ことが記録されています。両国橋から香福寺近ちかくの山王山(現在、徳本念仏塔や秋葉大権現の碑が残のこされている辺)まで、大山道をはさんだ両側に発達した宿場は、南から上宿、中宿、下宿とわかれていました。 また両国橋付近の宿場入り口の両側には幕府の高札場があったと言われています。残念なことに天保12(1841)年、橋本宿は大火事で家や文書類が燃もえてしまったため、現在はあまりくわしい資料が残のこっていません。(発見さがみはら/橋本図書館)
この長屋門は桁行9.5間(約17.1mm)、梁行2.5間(4.5m)堂々たる構えです。建築年代は近世末と推定されています。相模原に現存する長屋門としては規模の大きなものです。また、軒のセガイは柱に腕木をほぞ差しとする古い形式です。部材は全体に太く、冠木の丈は1.4尺(42cm)、その上に乗る梁は約1尺(30cm)です。登録年月日平成15年4月1日(相模原教育委員会) 注:外からの見学はできますが、屋敷内に立ち入ることはできません。(相模原市)
瑞光寺
元橋本町のバス停「橋本本町」より西200mにある曹洞宗の寺院です。『風土記稿』によると高乗寺(八王子市)の末寺で山号を橋本山といい釈迦如来を本尊としています。開山は聖山大祝(天正19年・1591没)で、開基は瑞光月心(天正14年・1586没)としています。この瑞光月心は俗称を勘十郎といい、武州下相原村(町田市)の人であったようです。また、当時は境内に百観音を安置する観音堂や筑波山麓の桑寺から勧請した蚕影山権現などがあったようですが現存していません。
当寺も古くから教育の場として活用され、江戸時代には寺小屋が開かれ、明治6年(1873)からは現在の旭小学校の前身ともいえる「本然学舎」が開校されています。ちなみに教育には当時の住職であった19世蔵宗があたっています。昭和59年、当時の生徒の子孫らにより「本然学舎橋本学校開設の地」の記念碑が山門前に建てられました。(平成さがみはら風土記稿)
秋葉大権現について/香福寺横
静岡県袋井市の可睡斎三尺坊秋葉大権現を本山とし、古来より火伏の神として信仰されています。境内の櫛形角柱塔は天保5年(1619)に建立され、前面に秋葉大権現と彫られています。右側に出羽三山の参詣供養塔、三王社など石仏が並んでいます。手前にある燈籠は東日本大震災で一部損傷を受けましたが修復して昔の姿を残しています。火伏祈願祭は毎年11月中旬に大きなのぼり旗をたて、香福寺住職による法要を行います。本山へは講全員の参拝と役員の代参を隔年で行っています。(橋本本町秋葉講)
香福寺
橋本のバス停「橋本出張所前」のすぐ前にある臨済宗建長寺派の寺院です。『風土記稿』によると、建長寺(鎌倉市)の末寺で、山号を橋本山といい地蔵菩薩を本尊としています。開山は建長寺67世の蔵海性珍(応永18年・1411没)で、矢嶋左近某(寛永17年・1640没)が中興したとしています。また、本尊の地蔵菩薩像は鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝えていますが定かではありません。当寺には支院として「延寿堂」と「常慶庵」がありました。「延寿堂」は病憎などの診療所であり、「常慶庵」は常慶(延宝7年・1679没)が開いたと伝えられていますが、ともに『風土記稿』が編さんされた頓にはすでに廃寺になっていたことがわかります。境内には薬師堂や江戸時代後期に建てられた鐘楼・四脚門があります。また、境内中央のマキの大樹は樹齢400年といわれています。(平成さがみはら風土記稿)
薬師堂
『風土記稿』によるとこの薬師堂はもともと橋本の本宿というところにあったことがわかります。それがいつの頃にかなくなり、本尊の薬師如来とその脇侍のみが香福寺に安置されるようになりました。また、同書ではこの薬師如来の製作者を聖徳太子であるとし、矢島出雲という人が安置したことを伝えています。薬師如来の開帳は明治34年(1901)以来、現在に至るまで33年ごとに行われています。この開帳の時には薬師如来の手から紅白の綱がひかれ、これに触れて安産守護の利益にあやかろうとする人々で賑わいます。(平成さがみはら風土記稿)
蓮乗院
東橋本のバス停「小山本町」より北へ200mのところにある真言宗智山派の寺院です。『風土記稿』によると薬王院(八王子市高尾)の末寺で、山号を天縛山といい阿弥陀如来を本尊としています(現在の本尊は不動明王)。また小山村の鎮守である天縛皇神社の別当であり阿弥陀堂などを持っていました。慶安2年(1649)には朱印地8石4斗が与えられています。その創建について寺伝では、天文3年(1534)に長尊という僧が安楽坊と法泉坊という小堂を合わせて一院として開き、それを元和元年(1615)から翌年にかけて、円西が再建したと伝えています。やがて亨保9年(1724)に薬王院の新末寺に編入されています。
当寺には清兵衛新田の開発で知れる原清兵衛の墓碑がありますが、天保14年(1843)、この新田の開発にあたり江川代官所の役人たちは本寺を宿泊所としてその職務にあたっています。また、脇侍の薬師如来は江戸の人々にも信仰されていたと伝えられ、戦時中に供出した梵鐘は江戸講中によって寄進されたものといわれています。なお、当寺も江戸時代には寺小屋が開かれ、明如寺代には「養麟学舎」が開校されています。(平成さがみはら風土記稿)
神明大神宮
神明大神宮は旧大山道に沿う橋本商店街の中にあります。細長くのびる参道のまわりにはまだ若いイチョウの木が立ち並んでいますが、以前は樹齢が400年を越す大松が生い茂り、昼でもなお暗い神城を成していました。しかし、昭和34年の伊勢湾台風などの被害により次々と枯死してしまい、現在ではずいぶんとさっぱりとした境内になっています。この神社の創建は永禄12年(1569)と伝えられています。しかし、天保年間(1830~44)に地域全域を襲う大火があり、貴重な記録のすべてが焼失してしまいました。そのため地域の歴史やこの神社の詳細を調べることは非常に困難となっています。ただ、この神社の境内は古くから「お伊勢の森」と呼ばれ、伊勢神宮をお詣りに行く人はここで旅の安全を祈願してから出かけたといわれています。境内には天満宮や八坂神社が合祀されていますが、昭和46年には商売繁盛を願う商店街の人々により大鷲神社が勧請されました。そのため毎年11月の「酉の市」では縁起ものの熊手などを求める参拝者でにぎわっています。この「酉の市」には手作りのあんどんが参道いっぱいに並べられるため「あんどん祭り」と呼ばれています。(さがみはら風土記稿)
酉の市由来
大鳥神社の本社はもと官幣大社で大阪府堺市の鳳町にあった。昔は武士が武運長久を祈る神だったのが次第に商売繁昌を祈り客商売の開運の神として信仰されるようになった。東京都足立区花畑町の大鷲神社(旧葛西の花又村)の方が大酉又は本酉とよばれていた。千住勝泉寺(台東区千束長国寺か?)の鳳明神は中の酉とよばれていた。東京を中心に酉の市が行われ、縁起物を取り合わせた熊手を売る熊手市で有名である。三の酉まである年に火事が多いなどと言う俗信も残っている。(案内板)
大山道道標
大山参りの人々がよく利用したの道だったのでこの名があります。また「埼玉往還」「八王子道」などとも呼ばれ、橋本はこの宿場としても賑わいました。(標柱)
棒杭
この辺りを棒杭といいます。この近くにある石仏がそのように呼ばれているためですが、大山参りの人々が利用した大山道は、ここで田奈方面と当麻方面に分かれており、この石仏はその道しるべでもありました。(標柱)
橋本の棒杭(大山道道標)
大山道の追分に立てられたものですが、区画整理により旧道を失いながらも地域の人々によって守られてきた貴重な遺跡です。道標の高さは151cm・幅35cmで安政2(1855)年に建てられました。正面に「右大山みち」右側に「北八王子道」左側に「南あつぎ道」とあります。この標石からこの地域は「ボウグイ」と呼ばれ小字としても親しまれていました。(相模原市HP)
(赤:大山道 緑:鎌倉道 橙:旧16号 紫:町田街道・16号BP・129号 赤丸:棒杭 黄色丸:橋本駅)
by Twalking | 2016-11-16 15:13 | 大山街道(新規)