府中通り大山道(2)古溝~磯部03 磯部02
天気 晴れ
磯部の渡しから中心部にある磯部城の推定地を訪ねました。
能徳寺、御獄神社、上磯部の土塁の3ヵ所ですが、遺跡などは
見つかってはいませんが、見ておきたかった所です。
もう一つは勝坂の国指定遺跡と擬洋風建築の旧中村家住宅、
閉館ぎりぎりでしたのでじっくりは見れませんでしたが、
これは珍しい住宅です、一見の価値は大いにありでした。
初めて訪ねた場所なので戻ったり、うろちょろしたりと、
ちょっと時間がかかり、日暮れてしまいましたが、
古淵、木もれびの森、磯部とそれぞれに味わい深い所でした。
・・・下磯部
下磯部地区の芝さくら
この芝さくらは相模川の自然と環境を守り、併せて景観の向上を図るため下磯部自治会、下磯部老人会及び下磯部大凧保存会の団体が連携し、平成16年7月「相模川芝さくら愛好会」を結成、それら会員の奉仕活動によって土留め作業、覆土を施し芝さくらを植栽しました。一方、この相模川の河川敷では江戸時代の享保年間から続いている相模の大凧が揚げられます。ピンクの芝さくらが咲き誇る中5月4日、5日の両日には「相模大凧まつり」が開催されています。(相模川芝さくら愛好会)
相模川伏越の誌
相模川右岸に位する愛甲郡依知村、厚木町、南毛利村、中郡成瀬村、伊勢原村、太田村、相川村、神田村、大野町、城島村、岡崎村、豊田村の水田二千余町に灌漑するため、相模川左岸頭首工より取水し此処に伏越を設けて対岸に渡した。この河床は深い砂利層で水替えが困難なので、鉄筋コンクリートの井筒を連続して沈めその中に内径1m50cmのヒューム管を2本並列し玉石コンクリートで被覆した。深さは左岸側河心の最も深い河床より2m下に埋設した。ここに川底深く築造された伏越の原型を作りこれに概要を示す。工事費:1億3千8百13万円 起工期日:昭和27年9月 完成期日:昭和29年9月 伏越の延長:612m 通水量:毎秒5m3 井筒の形状:長11m50 巾6m 高6m50 45基(碑文)
・・・磯部城址
相模原の歴史(中世)
鎌倉時代の初め、市域に勢力を持っていた横山党は建保元(1213)年の合戦で和田義盛に味方して、北条氏と戦い勢力を失いました。鎌倉時代の末には、時宗の開祖一遍上人が当麻に来たと考えられ、二世真教上人はその故地に無量光寺を建立しました。南北朝時代には、足利直義の家臣淵辺義博が淵野辺を領有していたと言われています。室町時代の後期には長尾景春の乱に際し磯部に城が築かれました。戦国時代の市域は小田原北条氏の支配下に入り、当麻に関所が置かれました。(相模原市HP)
上磯部の土塁/磯部(相模川散策路)
現存する幅約11m、長さ約60mの土塁は磯部城の附属施設の可能性を持つものです。磯部城は長尾景春(かげはる)の乱の際に、景春方の拠点「小沢城(こさわじょう)」(愛川町)の支城として文明9(1477)年頃築城され、翌文明10(1478)年頃に太田道灌の軍勢により攻め落とされたと伝えられています。磯部城の中心は御嶽神社もしくは能徳寺の付近と思われます。また、土塁の北側に堀があったことが発掘調査により確認されていますが、時期を決める遺物は出土していません。外からの見学はできますが、屋敷内に立ち入ることはできません。(相模原市HP)
能徳寺
曹洞宗。中世にあったとされる磯部城は近くの御岳神社かあるいはこの附近にあったとも推定されているが、詳しい場所などは不明。なお、磯部城の付属施設の土塁の可能性が考えられるものが相模川沿いの一角にある。(相模原散策マップ/相模原市立博物館)
正しくは磯平山能徳寺といい、鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元というお坊さんの流れをくみ、下溝の天応院の末寺です。室町時代の終わり頃に建てられました。秋になるとお地蔵さんのまわりに彼岸花が咲き、並んだ石仏にはギンナンの実が落ちてきます。相模川の水を引いた五ケ村用水はこのお寺のすぐ近くから取水されています。(新磯公民館)
御獄神社
下磯部の鎮守で9月1日が例祭。中世にあったとされる磯部城はこの附近にあったものと推測されているが、詳しい場所などは不明。(相模原散策マップ/相模原市立博物館)
御獄神社
下磯部地区の中央にある神社です。このあたりには磯部城があったと伝えられています。室町時代の1477年上野国(今の群馬県)を治めていた長尾景春は、関東地方を治めていた山内上杉定顕と戦いました。磯部城は景春に味方しましたが、厚木の溝呂木城などとともに滅ぼされ、関東地方は戦国の世へと移りました。この神社のお祭りは4月21日です。(新磯公民館)
長尾景春
山内上杉家の家宰を代々務めた長尾氏(白井長尾家)の一族。自分が次代の家宰だと思い込んでいたら、叔父が家宰に選ばれた為に憤慨。次第に「これは白井長尾家を潰そうという陰謀に違いない」と疑心暗鬼になり始め、主・上杉顕定に対する謀反を決意した。名門・上杉氏の没落はここから始まる。山内上杉の一大防衛拠点・五十子(いらこ)をあっさり破壊するなど怒涛の勢いで進軍するが、そこに立ちはだかったのが扇谷上杉家のIE家宰・太田道灌だった。道灌の巧みな戦の前に景春は一時雌伏の時を過ごす事になる。その道灌が主から危険視されて暗殺されると、景春は道灌亡き扇谷家と組んで山内上杉家との闘争を再開。しかしこの戦いは扇谷家が終始劣勢だったこともあって、またも彼の野望は阻止されてしまった。が、今度は顕定が越後で戦死したという予想外の出来事が起こり、景春は北条早雲と組んで三度立ち上がる。最初の挙兵から30年にも渡って山内上杉家と戦い続けた名将。反乱が成就する事はなかったが、彼の起こした戦いの長期化によって関東の情勢はますます混乱を極めてゆき、やがて北条早雲の台頭を招く事になる。(にこにこ大百科)
薬師堂は500年前からあると伝え、下磯部の東地区で管理している。堂前の不動塔は大山不動で、毎年伊勢原市の大山から御札を受けてくる。(相模原散策マップ/相模原市立博物館)
・・・勝坂
ねこ坂
昔、この坂で猫が踊っていたのでこの名があるといわれています。(標柱)
旧中村家住宅主屋と長屋門
旧中村家住宅主屋は全国的にも珍しい幕末期の擬洋風建築です。建築当初は3階建てでしたが、関東大震災後、3階部分は取り除かれ2階建てとなっています。建築を手がけたのは鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられ、板に記した設計図が残されています。建物の特徴は、1階の外観は和風の要素でまとまっていますが、2階は外壁を海鼠壁とし、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗り込め、正面に縦長の窓を配しています。長屋門は、桁行63尺(約19m)の長大なもので、母屋と同時期の慶応年間(1865~1868)に建てられたと推定されます。(勝坂散策マップ)
中村家と国指定史跡勝坂遺跡
勝坂遺跡の調査の歴史は古く、大正15年までさかのぼります。その年の夏に休暇で帰省した学生の清水二郎氏が、中村家当主であった中村忠亮(ただすけ)氏の所有する畑で採集した土器を、考古学者の大山柏氏に標本として渡し、大山氏による最初の発掘調査が行われました。この時発見された厚手で装飾性豊かな土器が注目され、後年「勝坂式土器」として、中部・関東地方の縄文時代中期のめやすとされました。発掘地点は、旧中村家住宅裏手の勝坂A地区の一画で「勝坂土器発の地」の案内板が設置されています。(勝坂散策マップ)
石楯尾神社
石楯尾神社はいつ造られたかはっきりとわかっていません。今の神社は江戸時代の寛政12年(1800)に建てなおされたものです。磯部勝坂地区の鎮守として集落を見下ろす丘の頂きにあります。鎮守とは、神様が鎮まり坐して守護するという意味です。鳥居をくぐると長い参道が続きその先に121段にもおよぶ長い石段があり、それを登りきると石楯尾神社があらわれます。社殿の天井には「鳴き龍」が描かれています。(新磯公民館)
勝源寺
新編相模風土記稿(天保12年・1841成立)によれば、龍鳳寺(厚木市)の末寺で山号を金澤山といい、千手観音を本尊としています。当寺には「六本庚申」と呼ばれる青面金剛像が安置され、明治から大正時代にかけては養蚕守護を願う参拝客でにぎわったといいます。(勝坂散策マップ)
勝源寺の大青面金剛王(六本庚申)
青面金剛王尊(しょうめん)は仏法の守護神として知られる帝釈天の使者ともいわれ、病魔、災難を除く神として、また民間に盛行した「庚申信仰」の本尊として信仰されてきました。当山に祀られいる青面金剛像は「六本庚申」「千本庚申」とも呼ばれ、養蚕に効験のある庚申様として広く信仰を集めました。現在お像脇に納められている焼物のミニチュア像も、往時は千体あったと伝えられています。人々は養蚕の始まる頃に参拝しミニチュアのお像を借りて家に祀り、養蚕が終わるとお参りしてお像を納めました。4月の庚申の日あたり行われたお祭りには露店が出され、大神楽が行われるなど近隣ほもとより遠方からも大勢の人が参拝に訪れ賑わいました。この勝坂周辺には庚申塔が多く建てられており、六本庚申との深い関わりがあることがうかがわれます。(金澤山勝源寺・写真は案内板のもの)
・・・史跡勝坂遺跡公園
国指定史跡・史跡勝坂遺跡公園
縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡です。大正15(1926)年、大山柏(かしわ)氏によって発見されて土器は、装飾的な文様や顔面把手(とって)(顔を表現した取っ手)などによって注目を浴び、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされました。また、同時に発見された多くの打製石斧(せきふ)を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されました。(勝坂散策マップ)
4700年前の住居を復元しました。勝坂遺跡D地区では、堅穴住居跡が80軒以上発見されていますが、同時に存在したのではなく長い年月の間で住居の構築・建替え・廃絶が繰り返して集落が継続された結果と考えられます。東京都港区の伊皿子貝塚で発見された焼失住居の調査で、屋根葺材と考えられるアズマネザサが発見された事例を参考に、全国的にもめずらしい笹葺住居として復元しています。時期:縄文時代中期後半(約4700年前)。(勝坂散策マップ)
堅穴を掘った土を屋根に葺いて利用した土葺住居は保湿性に優れており、石囲いの炉に火を焚いて暖をとっていたと考えられます。一方で雨漏りや湿気のため、湿潤な時期に住むのには適さず寒い時期だけの「冬の家」とも考えられています。時期:縄文時代中期後半(約4700年前)。(勝坂散策マップ)
打製石斧など土掘の貝を使って深さ1m前後まで掘られる竪穴住居は、10数年程度で住居としての役割を終えたと考えられています。竪穴住居の内部には、やがて土が流れ込んで埋まり始めます。縄文集落の一般的な景観とはこのように現に使われている住居と廃絶されて住居「跡」となった窪地が見えていたと考えられます。その後窪地は格好のごみ捨て場として利用されており、発掘調査すると大量の土器や石器が発見されます。(勝坂散策マップ)
敷石住居展示
縄文時代中期の終わりごろになると、それまでの竪穴住居から構造が大きく変わり、柄鏡(えかがみ)の形に石を敷いた住居(柄鏡形敷石住居)が登場します。30号住居は発掘当時の状況をレプリカ展示してあります。(勝坂散策マップ)
埋没谷
勝坂遺跡は鳩川流域沿いや湧水の流れる谷戸沿いにつくられた縄文集落群です。勝坂遺跡D地区は北と南に集落がつくられており、その周りに埋没した谷が走っていました。(勝坂散策マップ)
田んぼ、畑、湧水などが見られ、野鳥など多様な生き物が生息しています。(勝坂散策マップ)
有鹿神社
相模国の延喜式内13社のひとつである有鹿神社(海老名市)の奥宮といわれ、4月に海老名の有鹿神社関係者により「有鹿さまの水もらい」と呼ばれる神事が行われています。現在は簡素化していますが、明治時代までは本宮から神輿で御神体が渡御し、4月8日から6月14日までの2ヶ月あまりの間、御神体をここに留め置いたといわれています。(勝坂散策マップ)
有鹿の里(海老名)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22928853/)
(赤:大山道 緑:散策ルート 青:鳩川)
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資料ファイル
相模原市博物館
勝坂遺跡の発掘調査で縄文土器が11個体と土器片593点が出土した。調査翌年の昭和2年に刊行された「報告」では、縄文土器の実測展開図まで掲載され、土器の装飾、形態、製作について触れ、その内容は精緻極まるものである。翌昭和3年には縄文土器の編年研究を進めていた山内清男によって、縄文時代中期の標準となる土器として「勝坂式土器」と呼ばれるようになる。勝坂式土器は現在、中部・関東地方に広がる土器型式で、造形的にも豊かな勝坂式土器は日本を代表する縄文土器のひとつといえる。(相模原市博物館展示パネル)
大正15年出土の勝坂式土器
大山柏が調査した勝坂遺跡の出土品は戦禍で全て失われてしまっており、残された数少ない写真資料、実物大。(相模原市博物館展示パネル)
関東山地をつくる地層
神奈川県で最も古い地層は約1億2000万年~6500万年(中生代白亜紀の後期)に作られた「小仏層群」と約6500万年~2400万年前(新生代古第三紀)に作られた「相模原層群」です。これらは関東山地、特に秩父山地をつくっている地層のひとつで、市内では大島の河原で見ることができます。(相模原市博物館展示パネル)
段丘の姿
相模原台地をはじめとして相模川沿いには河成段丘がよく発達し、日本を代表する段丘地形として知られています。河成段丘とは、昔の河原の一部が削られて階段状に残った地形です。この段丘を調べると、相模川は気候変動や地面の変化、地殻変動などによって浸食と堆積を繰り返してきたことが分かります。相模原台地は相模川が山間部から平地部に出た所につくられた大きな扇状地の一部で、高い方から相模原段丘、中津原段丘、田名原段丘、陽原段丘に大きく分けられます。(相模原市博物館展示パネル)
台地の崖に見る大昔の河原
台地の崖にはしばしば火山灰層の下に河原の石や砂からできた地層が見られます。これはかつてそこに相模川が流れていた証拠で、段丘砂礫層と呼ばれ平らな段丘面をつくっています。段丘面とその砂礫層が高い位置にあるほど河原であった時代は古く、その上の火山灰層も低い段丘より厚くなっています。(相模原市博物館展示パネル)
約250万年前の相模原
約250~200万年前の相模原の様子は、田名付近の相模川の崖の地層で知ることができます。あまり固まっていないこれらの岩石は、暖流の流れ込む浅い海に堆積した中津地層群です。軽石が多く、今の丹沢付など近くで火山(島)が活動していたことを示します。このころの相模原は浅い海の底で、丹沢はまだ山ではなかったようです(相模原市博物館展示パネル)
相模原市博物館/中央区高根3-1-15
博物館には「川と台地と人々のくらし」をテーマにした自然・歴史展示室、「宇宙とつながる」をテーマにした天文展示室、様様な企画の展示を行う特別展示室の3つの展示室、210人が一度に観覧できるプラネタリウムがあります。プラネタリウムでは生解説による星空の投影のほか、迫力ある大型映像の映画(全天周映画)の上映も行います。(相模原市HP)
「道」再発見-道の役割とその移り変わり/相模原市立博物館発行より
(2016.12.4追記しました)
by Twalking | 2016-12-04 11:37 | 大山街道(新規)