当麻道 下溝~上溝02 上溝
天気 晴れ
当麻から台地を横断する形で道保川公園のハケへ。
七曲りや園内の森は緑豊かで、段丘の様子や植生など
四季折々の楽しみがあるな~と感じます。
上溝への道は旧道ではないのかもしれませんが、
家並みも落ち着いていますし、寺社の歴史も古く
見応えがありました。
車では通ったことがありますが、この段丘中段の
町がかつての中心地であるとは思いませんでした。
次は相模川を渡り中津原台地へ向かいたいと思います。
・・・上溝①/中央区
神奈川県北部、相模川左岸に形成された上・中・下3段の河岸段丘からなる相模原台地の「中段」上に位置する。段丘崖(ハケ)はしばしば崖上の上段部分も合わせて「横山」と呼ばれ、崖の大部分は雑木林に覆われている。台地中段上を北西に隣接する下九沢方面から鳩川が南東に流れ、鳩川と同様に段丘崖下の湧水などを集めて当区域内に源を発する姥川と道保川が鳩川および段丘崖に並行して流れる。上溝の旧市街は鳩川と姥川の間を北西-南東方向に通過する八王子往還(大山道、国道129号旧道、現県道508号)に沿って形成され、ここを中心に早くから市街地化が進んだ鳩川とJR相模線にはさまれた区域で昭和51年に住居表示が実施されて上溝一丁目〜上溝七丁目となった。道路交通上の要衝に位置することから上溝は幕末・明治初期以来、神奈川県北部の商業中心地の一つとして発展し、1941年(昭和16年)の相模原町発足後も同町、および昭和29年の市制施行後は相模原市の中心商業地域の地位にあった。
番場諏訪神社
諏訪神社のご祭神は建御名方神、またの名を建御名方富命です。年月は不明ですが36軒村のできはじめに、相模国東郡渋谷庄上村の総鎮守として、八幡社地内に祀りました。文禄3年(1594)7月21日に今の境内の隣地、小山家所有地に移しました。ところが大正2年12月21日、内務省令により小山家より村社・亀ヶ池八幡社へ玉串を捧げ合祀しました。その後大正7年8月23日に再びこの地に勧請しました。(上溝公民館史蹟めぐりマップ)
稲荷大明神/諏訪神社先
旧清水家主屋・長屋門
旧主屋は19世紀中頃と推定される六間取(むまどり)の大型民家です。屋根はトタンがかぶせられていますが茅ぶきで、養蚕のために土間側をカブト(兜)造としています。反対側は入母屋造です。長屋門は、大型で瓦ぶきですが、当初は茅ぶきであったと思われます。外からの見学は出来ますが屋敷内に立ち入ることはできません。模型(1/20)が市立博物館に展示されています。(相模原市教育委員会)
旧清水家復元模型(昭和時代の初め・1/20)
清水家は上溝地区の要職を務めた旧家です。昭和の初め頃には垣根に囲まれた敷地内にさまざまな設備が整えられていました。そこからは清水家を取り巻く状況やその暮らしぶりを感じることができます。この家が建てられたのは江戸時代の終わりころと推定されています。(相模原市博物館)
姥川(うばがわ)
相模原市を流れる相模川水系の準用河川。相模原市緑区下九沢から中央区上溝にかけてのハケと呼ばれる段丘崖の湧水に源を発し南東に流れる。上溝駅や原当麻駅付近の商店街の中を蛇行しながら流れ、相模原市磯部付近で相模川の支流である鳩川に合流する。水源地付近は日金沢と呼ばれており「照る手姫伝説」にまつわる遺跡も多い。源流付近は指定緑地として公園としての整備が進みつつある。相模原台地の上段の淵沿いを流れる為、ハケからの湧水が常に本流に流れ込んでいるので、比較的水質は良く川幅は規模のわりには広い。(Wikipedia)
田尻から八王子道(橙)と大山道(紫)が分けれて西に向かいます(青:鳩川 緑:横浜水道道)
・・・道保川公園
道保川公園は、道保川の水源と横山丘陵の自然を都市緑地として保全しながら、水と緑が一体となった自然とのふれあいの場として活用するために、風致公園として整備しているものです。現在、公園計画面積8.8haのうち7.7haを開放し、身近に野鳥や植物の観察を体験しながら自然への認識を深め、生きた環境学習、野外教育の場としてご利用いただいています。(相模原市)
妙見参四顔
自転車をおりて押しゆく落葉坂 七曲りすれば 故郷の見ゆ(上溝・小形重雄作)
七曲り(西見坂)
いく重にも曲がっている坂なので七曲りと呼ばれています。明治30年に改修され西見坂とも呼ばれるようになりました。(標柱)
道保川(どうほがわ)
相模原市内を流れる総延長約3.7kmの河川で相模川の支流である。相模川が中・下流部の左岸に形成した河岸段丘のうち中段の田名原段丘内にある相模原市上溝1359付近の湧水を水源とし、JR相模線下溝駅付近で鳩川分水路に注ぐ。当川から相模川寄り500m内に姥川・鳩川が並行して流れている。源流付近のほとんどが首都圏近郊緑地保全法の近郊緑地特別保全地区に指定されており、相模原市の道保川公園が整備され、環境庁の日本の音風景100選にも認定されている。(Wikipedia)
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上溝亀ヶ池八幡宮
主祭神は誉田別命(応神天皇)この神社の創建年代は不明です。しかし、暦応2年(1339)には社殿を再建し、慶安2年(1649)には幕府より社領として7石の朱印を受けていたことが記録されています。この神社が「亀ヶ池八幡宮」という名称になったのは明治2年(1869)になってからのことで、それ以前は単に「八幡大菩薩」と呼ばれていたようです。「亀ヶ池」と呼ばれるようになったのは神社の東側にあった池に亀がたくさんいたためです。本殿のなかに祀られている木造神像座像は暦応4年(1341)の年号が刻まれている古いもので、市の重要文化財に指定されています。毎年9月15日の祭礼の時にここで番田亀山家の神代神楽が演じられますが、これは市の重要文化財に指定されています。(相模原市 相模原市観光協会)
上溝亀ヶ池八幡宮御神体
本像は旧上溝村鎮守亀ヶ池八幡宮のご神体で衣冠束帯姿の坐像である。一見素人の作かと思われる素朴な像である。背銘には「暦応4(二が二つ横に並べて彫られてある)年正月 たんなさえもんのたゆう藤原吉高朝臣」と刻んである。「たんな」は檀那で当時の地頭ではないかと思われるが、人物については不明である。暦応4年(1341)は北朝の年号で南朝の年号では興国年である。ちょうど南北朝の争乱のころで、市域の社寺の年次の明らかな木像としてはもっとも古いものである。(相模原市教育委員会)
御神門
拝殿の東西から延びる廻廊がおよそ170坪の内庭を作り、白御影石が敷き詰められています。その内庭への入口が檜造切妻屋根の御神門です。およそ6mの高さがあります。(亀ヶ池八幡宮HP)
御祭神は宇迦之御魂神(倉稲魂神)。当八幡宮では亀八招福稲荷大明神と称し商売繁盛、五穀豊穣、家運隆昌の神様として崇め奉り、先の亀ヶ池八幡宮御鎮座800年奉祝記念事業において旧御本殿であった建物を現在の場所に移築し、ご遷座しお祀り致しました。社殿は文禄5年(1596年)建築で、建築年代の判明する一間社流造としては県内最古、市内最大規模のお社です。平成28年4月1日、相模原市有形文化財に指定されました。(亀ヶ池八幡宮HP)
一ヶ所七福神
平成7年7月に参拝者皆様の開運を祈願して創設されました。亀ヶ池八幡宮では1ヶ所で七福神全てにお参りでき、愛嬌のある七福神石像を撫でながら祈願できて、目も和んで楽しい心持ちになれると評判になっております。(亀ヶ池八幡宮HP)
ゴールド神社
無事故無違反の証であるゴールド免許証にあやかって、八幡大神様の御分霊をお祀りして創建された神社です。この御社の前で交通安全・車のお祓いを行っています。(亀ヶ池八幡宮HP)
宝来寺
この寺は曹洞宗下溝天応院の末寺で、山号を「秀珍山」といいます。縁起によると天文年間(1532-1554)当時地頭であった大石源左衛門定久が出家して真月斎道俊と称し、娘の向西尼とともに上溝本郷の境に「向西庵」という庵を結んで修業したといわれています。その後慶長年間(1596-1615)に名主の佐藤対馬が現在の場所に移し「宝光寺」として開基したと伝えられています。(相模原市 相模原市観光協会)
上溝市場開設記念碑
上溝市場開設50周年を記念して建てられた石碑が本町自治会館広場に芭蕉の句碑と並んであります。上溝市場は明治3年(1870)に開かれました。毎月3と7のつく日(月に6回)に開かれて「溝市」と呼ばれていました。当時この地方は養蚕が盛んで上溝に蚕糸関係の取引所が多くありました。「市」は本町通り(旧国道129号線)の路上(道の真ん中に溝が掘られてあった)に幅6m、長さ約390mに店が背中あわせに並びました。店の種類も日用品から農機具、種苗、衣料品までさまざまで、特に7月のお天王様の前や暮れの大市には近くの町や村からも大勢の人が集まって来て、大変にぎわいました。子供たちも大人の人に一緒に連れてきてもらい、用事のすむのを待って、帰りにはお土産を買ってもらっていたと言うことです。業者は八王子や町田方面からもたくさんの品物を持って来ていたそうです。昭和に入り戦争が激しくなりやがて市場は廃止されました。(上溝公民館史蹟めぐりマップ)
姥川/姥川橋 上溝駅
てるて通り
てるて通りの絵タイルには、上溝の思い出の風景や建物が描かれています。まつり通りにはその名にふさわしく「お祭り」をテーマに一般公募された、歩いていて楽しくなるような絵を絵タイルにしています。ぜひ足を止めてみてください。(上溝公民館史蹟めぐりマップ)
(赤:歩行ルート 橙:神奈川往還 緑:16号・129号)
「道」再発見-道の役割とその移り変わり/相模原市立博物館発行より
by Twalking | 2016-12-16 17:12 | 大山街道(新規)