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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺   

日時 2017.2.4(土)
天気 晴れ 


天気に誘われて高幡不動尊から万願寺周辺を歩いてみました。
ひとつは高幡城址、それと田村氏の館跡といわれる安養寺と
土方歳三のお墓がある石田寺、ここは初めてです。

初期の甲州街道の道筋は歩きましたが、中世の日野ということで、
一度訪ねて見たかっいと思っていた所です。
土方資料館は間に合わなかったので、またの機会にです。



・・・高幡城址

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主郭部

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主郭南下                      主郭西側(「かたらいの道へ」へ続きます)

愛宕山のクロマツ
この丘はかつて愛宕神社が祀られていたので愛宕山と呼ばれている。標高約120mの東斜面から山頂にかけて残っている10数株のクロマツの古木は遠くからでもよく見える。愛宕山にはかつて相当数の松が繁茂していたが、風害や病虫害により今日では大半が消滅してしまった。現存するものにもほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷跡を根元に刻み込んでいる。東南面の1株は目通りの幹回りの周囲が3.92mもあり最も大きく、高さは約25mに達する。樹齢は350年以上と推定される。(日野市教育委員会)

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東側:多摩川&武蔵野台地の展望がよく効きます

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主郭部から続く2郭部

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高幡城址
不動ヶ丘一帯には中世高幡城が築かれました。頂上の広場が本丸のあとと伝えられています。麓には根古屋陣川など城址ゆかりの地名が残っています。(案内板)



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尾根上の3郭へと続きます

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高幡城縄張り図

高幡城

高幡城は日野市の中世城館の中では代表格の城ですが、歴史的には文献史料がないのでよくわかりません。全体的にあまり凝っていないシンプルな構造を持った城といえます。特徴は①基本構成は尾根上を中心として削平可能な所に曲輪を奥単純なもの ②曲輪の平面は地形に逆らわない不整形 ③山上の曲輪では土塁の使用がみられない ④稜線の長さに比して堀切の使用が少ない ⑤最高所付近に比較的まとまった面積の曲輪を置き、尾根先近くでは小郭を連続させることで防禦している ⑥虎口は曲輪の中程の壁面に直進して入る、平入りの坂虎口を主用している ⑦居住性のよくない谷筋にあえて大面積の曲輪を創設しているなどです。高幡城は南関東における他の多くの連郭山城に比しても明らかに古い縄張りを示しており、戦国盛期以前の城郭の形態を色濃く残す遺構であるといえるだろう。(日野市ふるさと博物館紀要4号「縄張りからみた日野市域の中世情感/西股総生」参照)

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多摩モノ程久保駅から高幡城址を望む

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高幡不動尊境内図

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浅川からみる七生丘陵/荒井橋

高幡不動尊の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/15243623/



・・・田村氏館跡


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安養寺

安養寺は真言宗智山派、高幡金剛寺の寺でした。昔、武蔵の国に勢力を持っていた武士団・武蔵七党のうちの西党由井宗弘の直系田村氏の開基によるものではないか、また、田村氏の居館跡とも伝えられています。興廃をくり返した後、正保2年(1645)に入寂した法印慶深が中興し現在に至っています。近代になり明治6年(1873)には、安養寺の本堂を校舎にして下田小学校(現在の日野市立第四小学校)が開校しています。本尊の阿弥陀如来坐像は平安時代の様式を持ち、東京都の重宝に指定されています。日野七福神の一札所でここ安養寺には毘沙門天があります。この毘沙門天は藤原時代(平安中期)作といわれる木像で日野市の文化財に指定されています。江戸時代前期の面影をとどめている本堂は昭和58年に復元工事が完成し、北側にある客殿は本堂よりもさらに古い元禄時代の姿のまま残されており見ごたえのある建物です。(日野市観光協会)

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安養寺山門

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安養寺本堂

安養寺はその創立は明らかではないが、中世のこの地方の豪族・西党日奉氏の一族田村氏の居館跡といわれる。現本堂は再建されたもので昭和5758年(198283年)の修理時の調査等から、その建立は18世紀初頭を下らないものと見られる。建物は方丈形式で、元は茅葺であったが大正7年(1918年)の修理時に向拝を取付け鉄板葺とし、上記昭和の修理時に屋根構造を復し銅板葺となった。庫裡も本堂と同時期の建立と見られ、江戸時代に造営された方丈形式の本堂と屋根が現存する好例である。(日野市教育委員会)

木造毘沙門天立像

毘沙門天は仏法を守護する四天王のひとつで多聞天とも呼ばれる。この像は鎌倉時代初期作と推定される。右手で戈をとり、左手に宝塔を捧げ、腰を大きくひねって足下に邪鬼を踏む姿は、力量感あふれる像である。本像は桧材の寄木造り、体軀は前後を矧ぎ合わせている。頭部と両腕は肩から先が近年の修理による後補である。均斉のとれた体軀は写実に富み、細部まで神経の行きとどいたつくり、とくに胸甲から腹部の獅噛みの表現は見事である。やや誇張された腰の動きではあるが、藤原時代の優美な姿態のなかに写実的な力強さも加わり、関東地方でも傑出した仏像のひとつである。邪鬼も左腕等の一部をのぞいて当初のものと思われる。(日野市教育委員会)

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八幡大神社鳥居

 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_17594465.jpg八幡大神社

創建年代は不詳。伝によれば暦応2年(1339)武蔵七党の西党の嫡流西太夫宗忠の弟由井別当宗弘の孫・田村駄二郎知実がこの地に住み男山八幡宮を勧請して社殿を建立、田村山安養寺がその別当となったと言う。同寺の住職周盛の遺文によれば、その後の修復は天文5年(1536)・貞享5年(1688)・宝暦3年(1753)の各年代に行われた模様である。以来興廃を経て昭和2410月境内神木を伐採して拝殿を新築した。

 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_17594713.jpg境内十二天社はもと下田200番地にあったが、明治11年(1878)同所に下田小学校開設のさい一時その敷地の西北隅に移したが、その後八幡大神社拝殿の南側に移し、大正年間さらに現在地に三遷されたものと伝える。江戸時代末まで別当安養寺によって祭儀が行われてきたが、明治2年以後は神職に替わった。(日野市史)


・・・石田寺

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石田寺山門

 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_18144478.jpg愛宕山地蔵院石田寺

宗派は真言宗、高幡山金剛寺の末寺で石田寺は「せきでんじ」と読みます。新選組副局長土方歳三が生まれた石田村「いしだむら」にあります。多摩川と浅川の合流地点にあるこの寺の起源にも川の流れが関っています。寺伝によると、南北朝時代の康安元年(1361)吉祥坊慶興という僧が建立したものの、永和3年(1377)頃から衰えて一時は廃寺となった場所に、百数十年を経た天文13年(154479日多摩川に大洪水が起こり一体の観音像が石田に流れ着きました。それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけになり文録2年(1593)に慶心という僧が一宇を建立、石田寺と号したといいます。(日野市観光協会)

 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_18543700.jpg観音堂

この11面観音は古くから勝負運、また病魔退散、子育ての北向き観音と呼ばれ多くの信仰を集める。このお堂は元禄9年(280年前)に再建され今日復元されたもの(案内板)


 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_18544181.jpg石田寺のカヤ

多摩川と浅川の合流点近くに位置する石田寺のカヤは本堂右側にあり、樹高約26m、目通り幹囲4.2m、根元から2.5mの高さから三岐し共にやや北向きに直生している。枝張りは四方に約5m、かつて南西に張り出した大きい枝を切除したことがあるが今はその跡すら見いだせない。樹勢は極めて良好で樹齢は400年以上と推定される(日野市教育委員会)

 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_18544505.jpg土方歳三義豊之碑

カヤの大木の下を墓所に進むと右手に「土方歳三義豊之碑」が立てられています。これは早くして両親をなくした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄・喜六の曾孫にあたる土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したものです。186712月(慶応3年)王政復古の大号令があり翌18687月に江戸が東京と改名、同年9月には元号が「明治」と改元されました。歳三が亡くなったのは翌明治21869)年5月、その時には蝦夷地だった場所も同じ年には名称も北海道に改められ開拓使も設置され、北海道の開拓が本格化していきました。この碑から明治100年に込められた子孫の方の想いがはかられます。(日野市観光協会)

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土方歳三墓所


 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_18545243.jpg土方歳三

土方歳三義豊は天保6年(1835)土方義諄の4男として生まれた。青年時代は家業(農業、薬の製造・販売)を手伝いながら近藤周助について天然理心流を学び近藤勇・沖田総司らと知り合った。文久3年(1863)幕府は将軍家茂の上洛の際、京都における警護の浪士を募集し近藤・土方らも浪士組に加わり新選組を結成した。近藤が局長、土方が副長となり京都の治安維持に努めた。その後、慶応3年(186710月の大政奉還により慶応4年(18681月、鳥羽伏見の戦いが勃発し土方らも参戦したが敗れた。以後勝沼、宇都宮・会津と転戦し仙台で榎本武揚率いる幕府艦隊に合流した。そして、北海道へ渡り箱館政府設立に参加し土方は陸軍奉行並に選任された。明治2年(1869)官軍の反撃が始まった。土方は弁天砲台に孤立した味方を救出するために箱館市内に突入したが、午前10時頃腹部に銃弾を受けて戦死した。511日没、35歳。法号 歳進院殿誠山義豊大居士(日野市教育委員会)

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 ぶらり日野(2) 高幡&万願寺_d0183387_19031717.jpg土方歳三生家跡
土方歳三生家跡 新撰組副長土方歳三の生家はここより約300東、石田寺の北方にあった。弘化3年(1846)歳三が12歳の6月末、長雨による増水で多摩川・浅川の堤防が決壊し万願寺や石田村などは大洪水に見舞われたが、歳三の生家も土蔵などに被害を受けた。その後、残った母屋や土蔵をこの地に解体移築した。歳三はその家で文久3年(18632月京都に上洛するまでの青春時代を過ごした。現在、屋敷内には歳三の植えた矢竹が繁り新築された家屋には相撲の稽古をした大黒柱、歳三の遺品などが保存されている。なお歳三の墓は石田寺にあり、いわゆる引き墓(供養のために造られた墓)でありそこに埋葬されたわけではない。(日野市教育委員会)


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万願寺一里塚/甲州街道

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街道の一里塚
江戸幕府は江戸日本橋を基点に街道を整備し、慶長9年(1604)に大久保長安が一里(約4km)ごとに塚を築かせえました。一里塚という名称は一里ごとに存在したことに由来します。一里塚は道を挟んで両側に造られ、平面規模は5間四方(約9m)を基準とし、高さは1丈(約3m)と大きなものです。旅人には距離の目安となり、塚の頂上には榎が植えられることが多く、大きく成長すると夏場には木陰を与えるものでした。市域には万願寺と現在の日野台に築かれましたが、現存するのは万願寺の一里塚のうち北側の南側の1基だけです。北側の塚は昭和43年に取り壊されました。

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道と渡船場そして宿場
当初の甲州街道は青柳(国立市)付近から万願寺渡船場で多摩川を渡り、万願寺一里塚を通り日野宿に入りました。この一里塚は江戸日本橋から9里目にあたり、参勤交代の大名、甲州勤番や茶壺道中の役人も行き来しました。その後貞享元年(1684)に甲州街道は上流の日野渡船場へと改められました。しかし万願寺渡船場や日野宿へと至る道はその後も利用され、多摩川を渡ってこの塚を越えると日野宿に到着することから、この辺りは塚腰と呼ばれていました。(日野市教育委員会)


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甲州街道の変遷と一里塚(赤:帝京元年以降 緑:帝京元年以前 赤丸:万願寺一里塚)


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高幡・満願寺周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照


ぶらり日野(3)日野本町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23830616/

by Twalking | 2017-02-06 22:17 | たまのさんぽ道(新規)

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