「三増峠合戦の道」01-半原
天気 晴れ
滝山城や津久井城などを歩いてみて
「志田峠」「三増峠」など三増合戦の現地を
実際に見て肌で感じてみたいと思っていました。
初めてなのでひとまず半原から志田峠越て三増原、
三増峠辺りを歩いてみました。
中津川や中津原台地からの景観は素晴らしいですね。
・・・半原
愛甲郡
愛川町、清川村。相模国に属し、元は同国最北部にあたる相模川・道志川流域の山間部も領域に含んだ。郡衙は厚木市内にあったとされるも不詳。古くは「あゆかは」と読んだ。この地名は後に「鮎川」「愛川」の地名が派生する源となった。中世、現在の厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となった。彼の子孫は毛利氏を名乗り、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名に成長した。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれていたが、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏(津久井は三浦半島の地名、後に大江氏の血統に置換したとも言われる)が城山(相模原市緑区)に城郭(津久井城・築井城)を築いて以降「津久井」と呼ばれるようになった。戦国時代には小田原の後北条氏の支配下に入った。半支配と呼ばれる武田の飛び地を抱えたが、城代内藤氏以下の苦心の統治によって甲斐国の武田氏に対する前線となった。1569年(永禄12年)現在の愛川町で両軍による三増(みませ)合戦が起きている。(Wikipedia)
まず半原の鎮守にご挨拶、祭神は建御名方命 ( たけみなかたのみこと )です。
鳥居坂
馬坂から分かれて下ってきたこの坂のことで、沢向うにあった鳥居に由来する(標柱)
愛川町
町の中央を中津川が流れ西部は丹沢山地となっている。愛名・愛甲・鮎川・愛川といった地名を一連のものと考えると大化の改新以前の記録がある相模国最古の地名のひとつである。戦国時代最初期、長尾景春の乱では反乱軍の景春・豊島氏方の有力拠点であった小沢城(こさわ)が太田道灌によって攻略されている。武田信玄が小田原侵攻に関連して北条氏康と戦った三増の戦い(みませ)は愛川町の三増周辺だったと考えられており、史跡三増合戦場跡が存在する。西部の半原盆地を中心として、元来米の生産に向かない地形から養蚕、製糸・撚糸などの軽工業、宮大工などの出稼ぎ職人の本貫として知られていた。半原宮大工は江戸城修復にかかわるなど飛騨の大工と並びその腕を称えられていた。撚糸業では群馬県富岡の機械を模倣して水力を補助動力とした軽工業が盛んだった。(Wikipedia)
八幡坂
若宮神社のわきから和平の台地のはしに至る坂をいいます。(標柱)
横須賀市水道局半原水源地
半原水源系統(旧軍港水道施設)は大正10年に完成し、これまで長い間横須賀市民の生活を支える貴重な水源として活躍してきました。しかし、水需要の減少、水源水質の悪化、施設の老朽化により平成19年度からは取水を休止していましたが 平成27年2月28日をもって廃止しました。(横須賀市HP)
撚り糸発祥の地半原
半原の撚糸業は江戸時代後期から始まり、撚糸機を作る大工の存在、中津川の水車動力によって発展しました。(標柱)
撚糸
漢字で書くと「撚糸(ねんし)」。糸に撚り(より)をかけること、または撚りをかけた糸のことです。「撚る(よる)」とはねじりあわせること。“腕によりをかける”とか、“よりを戻す”って言葉、ご存知ですよね。撚り(縒りとも書きます)は日常会話の中で使われていますが、「糸の撚り」を語源として出てきた言葉なんです。(日本撚糸工業組合連合)
仏果山
丹沢山地の東部に位置する標高747mの山。愛川町と清川村の境界線上にあり、清川村側は神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。郷土富士のひとつで半原富士ともいう。(Wikipedia)
日向橋
神奈川県愛甲郡愛川町の中津川に架かるトラス橋である。現在の橋は1930年(昭和5年)に開通したトラス橋で、河川内に橋脚を設けず洪水時の水流の妨げとならない構造とした。1991年(平成3年)には、同じ愛川町内の中津川の平山橋とともにかながわの橋100選に選定された。本橋開通以前の大正時代時代には吊り橋が架けられていた。(Wikipedia)
真名倉坂
国道412号線愛川大橋北側信号辺りから津久井町韮尾根清正公入口近くまでの坂道をいう(標柱)
国道412号
平塚市より相模原市へ至る一般国道であるが、始点より厚木市まで国道129号と重複しているため実質的には厚木市より相模原市への道路である。(Wikipedia)
・・・志田峠へ
清正光
寺号:志田山朝日寺(ちょうにちじ) 正安元年(1299)鎌倉に実成庵として中老日実が開基、昭和9年鎌倉より移転し 旧号実成庵を志田山朝日寺と改める。昭和27年「清正光」として単独の宗教法人となる。本尊:清正光大菩薩 明治10年(1877)志田山に勧請する。その神体は天の三光(太陽・月・星)で、清正光の名は三光天子(日天子、月天子、明星天子)の教えを象徴して神格としたもので「清」は清らかな汚れない光ですべての物を平等に照らしてくれる太陽の教えを「正」は不正を破り正しい道を明らかにする明星の教えを「光」は優しく愛する月の光の教えを顕しています。(環境庁・神奈川県)
志田峠
志田峠は志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵衛の 率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越をしのぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりはこの山が芝山であったことによるという。(愛川町教育委員会)
by Twalking | 2017-03-23 17:12 | たまのさんぽ道(新規)