無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」02-三増   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


志田峠をくだり三増合戦跡の周辺を散策しました。
陣立図をみると逆のような気もしますが、
素早く反転して高位を確保したんでしね?

それを追う形で戦った北条勢ですが、別働隊に背後を
つかれて総崩れしたと解説されています。
詳しくは分かりませんが感慨深いものがありました。
違うルートでいつかまた訪ねてみたいと思います。



・・・志田峠

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峠の風景① 南から志田峠を振り返ります

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街道の風景① 左の谷を志田川が流れています。静かないい道です

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相模原側は舗装されてます           ケート辺りが境、愛川町に戻ります



・・・旗立ての松


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玄関にお地蔵さん/志田山ホーム        旗立松の案内板を左折

d0183387_11423038.jpg三増合戦場旗立ての松の由来/東名厚木CC
永禄12年(1569106日三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。北から西へ連なる三増の山並みを越えて甲州に通ずる道には、三増・中・志田の三峠があるがそのうちで最も高く嶮しいのが中峠であった。信玄は相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り追撃する北条軍に備えた。中峠近く高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻本陣を置き合戦の指揮をとったのである。往時を知らす緑の松は小学生が56人でとり囲むほどの太さであった。惜しいかな大正12年の失火により枯れて今はなく、ただ記念碑と旗立て松二世に戦の跡をしのぶのみである。(愛川町教育委員会)

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ここから更に登ると中峠になります

d0183387_11470015.jpg武田信玄立松の趾碑の解説文

右手に立っている「武田信玄旗立松之趾碑」文は日本紋章学の権威沼田頼輔氏によるもので、概略次のようなことが書かれています。高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。山の峰に一本の老いた松が青々と茂り天に伸びています。里の人はこれを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは永禄12108日信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り旗をこの松の上に掲げたという由来により、こうした名称になったということです。つまりこの地こそは信玄が足跡を印した所であって松の樹もまた信玄の心に触れたものということができます。

d0183387_14503867.pngそれから350余年を経て、松に吹く風は今なおその余韻を伝え人々にその当時を偲ばせていたのですが、近年の火災により惜しいことに昔からある老松をもう一度見ることはできなくなりました。高峰村青年団諸君はここに一見の価値のある史跡が空しく消えてしまうことを惜しみ、石碑をたてて何時までも伝えようと考えその碑文を私(沼田頼輔)に依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお心に刻まれています。これまでのことを聞いて感慨も更に切なるものがありよって拙さをも顧みずこの文を作りました。昭和39月中旬 沼田頼輔撰、高梨貞義書 (愛川町教育委員会)

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峠の風景② 相模川(左)と中津川(右)に挟まれた中津台地、南に3段で下っています。/中峠

中津原
神奈川県中央部、相模川とその支流の中津川にはさまれた台地で北半は愛甲郡愛川町、南半は厚木市に属する。台地の東西両側が2河川に臨むところは急崖であるが、表面はおおむね平たんで高度は北端部で約180南端部では約50である。相模川東岸の相模原台地と同じ地質で表面は厚さ1014mの関東ローム層におおわれその下に段丘礫層があり地下水面は深い。台地は一面が桑園であったが第2次大戦末期に中央部の中津に陸軍飛行場が設けられ、その跡地に1966年神奈川県企業庁によって内陸工業団地が造成された。(コトバンク)



・・・三増合戦場跡


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麓へ下ります             右折して合戦碑へ/中原


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史跡三増合戦場跡

d0183387_15353021.jpg三増合戦のあらまし
永禄12年(156910月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は2万の将兵を従えて小田原城の北条氏康らを攻めその帰り道に三増峠をえらんだ。これを察した氏康は息子の氏照氏那、娘の夫綱成らを初めとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが武田軍の近づくのをみた北条軍は半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。信玄はその間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出てその左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いていつでも参戦できるようにした。北条方はそれに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき山県の一隊は志田峠を越え北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。北条氏康、氏政の親子は助けの兵を連れて萩野まで駆けつけてきたがすでに味方が負けてしまったことを知り空しく帰っていった。信玄は勝ち戦となるやすぐ兵をまとめ反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない甲府へ引きあげたという。(愛川町教育委員会)

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あいかわ景勝10選三増合戦碑と志田峠(左鞍部が志田峠 中央奥が中峠・旗立松)

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三増合戦場陣立図

d0183387_15270577.jpg志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130m程の桑畑の中「塚場」と呼ばれる地点で人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は武田・北条の二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとののあり三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。(愛川町教育委員会)


d0183387_16021694.jpg首塚

不動明王を祀る小高い所を首塚という。 宝永3年(1706)建立の供養塔がある。このあたりは三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。この戦いのあと戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_16034498.jpg胴塚
永禄12年(156910月当町三増の原で行われた「三増合戦」は甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようでともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級はここから150mほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸はすぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され塚を築いてそのしるしとした。この地ではそれを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。(愛川町教育委員会)


・・・田代上原

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街道の風景② 田代へ下る甲州みちです。陣立図にある志田沢が横断しています/上志田バス停

d0183387_16251544.jpg上原の庚申塔

田代上原の庚申塔は数ある町内の庚申塔の中でも最も古く寛文8年(1668)の造立である。碑面には神像とも仏像ともいわれる珍しい異形像が浮き彫りされており、初期庚申塔の一形態を示している。下部には三猿が刻まれ「相州愛光郡上川入田代村」とある。庚申とは干支のうち庚(かなえ)と申(さる)の組合さった日で、この日を特別な日として信仰行事が行われていた。これを庚申待ちといい塔を建てる習慣があっつた。(愛川町)

d0183387_16251967.jpg田代上原道標

この道はかつての甲州みちであった。厚木市上荻野の打越から当町の海底(おぞこ)を経て中津川を渡り関場坂からここに至り、それから志田峠を越え津久井の鼠坂(ねんざか)の関所を過ぎて吉野宿へと通じる小田原から甲州への通路であった。道標には「甲州道中」「左吉野ねんさか」とあり江戸中期ころの建立とされている。また近世には領主の使臣が村々を巡視する道筋であったことから「巡見道」よも呼ばれ、ほかに「津久井道」「志田道」の名もあった。(愛川町教育委員会)


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バス停に田代城の案内板        愛川中学校

田代城址/愛川中学
田代城は室町時代の山城で自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。築城の年月は不詳。城域は230002ほどの広さをもち南の方を表口としていた。城主は小田原北条氏の幕下にあった内藤氏下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行2代が在城し、田代・半原・小曽郷(海底)・隅田(角田)・箕輪下村・坂本・五坊(北原)・磯辺を領地としていた。永禄12年(156910月、武田信玄小田原攻めのおりにこの城は落城したと伝えられる。城址には石塁跡と守護の八幡社があり位置場、うまやなどの地名を残している。(愛川町教育委員会)

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愛川中裏側に八幡神社がありますが、遺跡らしきものはないようです
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街道の風景③ 経ヶ岳でしょうか、下ると田代ですが戻ります/愛川中学バス停

経ヶ岳
丹沢山地の東部にある標高633mの山。厚木市、清川村、愛川町の境界に位置し、神奈川県立丹沢大山自然公園に属する。郷土富士のひとつで荻野富士ともいう。(Wikipedia



・・・三増

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街道の風景④ 「三増合戦みち」の名がついてます。平だと思ったら意外とアップダウンがあります

d0183387_20252595.jpg三増中原辻の神仏/中原
辻(岐路)はそれぞれの地域への分かれ道であるため村や集落(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえこの境い目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり、村落へ入ってくる悪霊や邪鬼を追い払うところでもあった。そのためいつしか祭の場所として特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音像」「如意輪観音像」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子講供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫座像」「舟形浮彫地蔵像」等である。(愛川町教育委員会)

d0183387_20261765.jpg深堀沢

三増桶尻の奥を水源とし南に流れる沢。戸倉地区で志田沢と合流し中津川に注いでいます。三増合戦の記録にも見られます。(標柱)


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三増諏訪神社鳥居祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です

d0183387_22191167.jpg三増の獅子舞(神奈川県指定無形民俗文化財)
三増は甲州街道宿場として中世から知られているところで、伝統の獅子舞はこの宿場の諏訪神社(伝1235年創建)の摂社である八坂神社のお祭に行われます。これは一人立ち三頭獅子舞で関東一円に分布するものと同じ系統に属し、約300年の星霜を舞い継いできています。またこの獅子舞は古くから諏訪神社を中心に一町(約110m)以外の土地に踏み出さない掟がありました。獅子がしらは父・母・子の三頭で父を老獅子、母を玉獅子、子を剣獅子といい祭り当番の家から「道行きの渡り拍子」で神社まで行進し、忌竹をめぐらせた舞場の中で舞います。この他、天狗、教導役としてバンバささら摺り役などがつきその舞ぶりは大きく優雅で他に類のないものといわれています。(愛川町教育委員会)


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街道の風景⑤ 三増の町並みです、ここを左折して三増峠に向かいます/三増バス停

県道65号厚木愛川津久井線
厚木市(129号山際交差点)相模原市(大沢交差点)に至る県道(主要地方道)である。日赤前交差-大沢交差点は旧津久井街道で国道413号(津久井-橋本)の前身である県道55号(国道昇格で現在は欠番扱い)の旧道である。Wikipedia


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軒岩院山門


d0183387_22302020.jpg軒岩院(とうがんいん)

曹洞宗。本尊の薬師如来は今から410年前(1597)に祀られたものである。慶長年間(1596-1615)に入る頃流行病に悩む者が溢れ、時の本寺である勝楽寺四世棟岩宗梁禅師がこの三増地区に寺を作り本尊として薬師如来を祀りこの地の人々を病から救ったことが棟岩院の縁起。(いいお墓)


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清徳寺山門

d0183387_22333436.jpg清徳寺

真言宗大師派。石段を登ると入母屋造り銅葺、間口9間、堂々とした本堂がある。本尊は弘法大師作と伝える大日如来(秘仏)、脇士に僧・行基作の十一面観世音と弘法大師(融通大師)が奉安されている。応徳元年(1084)高野山の僧・真海によって開創され、文亀2(1502)僧・珍算により再興された。かつては古義真言宗の関東法談所36院の一つに数えられ別格本山である。この寺は一般に「融通大師」で知られ、お大師さんがどんな願い事でも融通して必ず叶えてくださることから庶民が信仰することになった。(関東88ヶ所霊場)


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街道の風景⑥ 前方の鞍部が三増峠でしょうか/上三増

d0183387_23411725.jpg勝負谷戸(庄兵衛谷戸)

この道を北に進むと現在は開発されているが昔は狭い谷戸道であった。三増には三栗山系を越え津久井郡の葉山島に通じる古道が三筋ある。そのうち最も上手に位置したのがこの谷戸道で、道沿いのあたり一帯を「勝負谷戸」または「庄兵衛谷戸」と呼んでいる。勝負谷戸の名の由来は永禄12年(1569)の三増合戦のときこの谷戸でも戦闘があって武田勢を勝利に終わったという伝承からである。また別の説ではむかし庄兵衛という人がこの谷戸を開墾したので庄兵衛谷戸の名が起こったのだとも伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_23453544.jpg三増峠

三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越えまたは三増通りの名がある。中世の頃は信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉へ向かう古街道であった。永禄12年(1569)北条・武田両軍が戦った三増合戦の折、武田方小荷駄隊が通行したといわれる道で信玄道の名を残している。皇国地誌殘稿に「松ヶ平より西北へ上ること5673尺(約1km)にして嶺上に達し是より津久井郡根古屋村に連なる険にして近便なり」とある。(愛川町教育委員会)

d0183387_23531120.jpg三増トンネル(トンネル上の左手が峠)

愛川町三増と相模原市緑区根小屋を結ぶ県道65号愛川津久井線のトンネルである。トンネルが貫通する山塊には三増峠があり戦国時代、武田信玄軍と北条氏康軍が激戦を繰り広げた三増す峠の戦いの古戦場でもある。1992年(平成4年)竣工。全長462m。元々、古道・歩道しか存在しない僻地であったが津久井方面と愛川方面を繋げる道路として開発された。周囲に神奈川県愛甲郡愛川町三増新宿、上宿、下宿といった大字が残っているとおり中世から江戸時代に亘って甲斐国より相模国小田原大山への街道として宿場が設けられた地方であり古く交通の要衝であったということができる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 林道がありますが通行止めになっていました/三増峠 

d0183387_00130521.jpg三増峠登り口
この峠は三増合戦のおり武田勢が帰陣に用いたと伝えられるなど愛甲と津久井・山梨方面とを結ぶ道筋の要衝であった。(標柱)




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つづらに上ります           峠のお地蔵さん

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愛川町イラストマップ

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津久井地域の古道/津久井湖城山公園パークセンター
(赤:津久井道 橙八王子道 茶:津久井往還 紫:甲州街道 緑:矢倉沢往還)

津久井城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23941501/


by Twalking | 2017-03-24 14:15 | たまのさんぽ道(新規)

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