善福寺川01-善福寺池
日時 2017.4.10(月)
天気 晴れ/曇り
小さい頃吉祥寺に住んでいましたが、
記憶にあるのは井の頭公園と善福寺池でしょうか。
善福寺はザリガニ、どこにあるのかは覚えていません。
善福寺川は神田上水の水源ですし神田川に合流しますので、
懐かしさも手伝って何十年ぶりで訪ねてみました。
初めてみたいなものですがいい所ですね、くつろげます。
・・・善福寺/杉並区
杉並区の最北西部に位置する。町域の北部から西部にかけては弧を描くように練馬区清町南に接している。西部は一部練馬区立野町にも接する。南西部は武蔵野市吉祥寺東町に接する。北東部から東部一帯にかけては青梅街道に接しこれを境に北東部は杉並区上井草に、東部は今川に南東部は桃井に接する。町域中央付近の2丁目と3丁目には善福寺公園が作られている。この善福寺池を水源に善福寺川も流れ町域内も流れている。また東部の青梅街道沿いには井草八幡宮がある。地名の由来となっているとされる元の善福寺は善福寺池のほとりにあったが、江戸時代に災害により壊滅しそのまま廃寺になったため現存しない。(Wikipedia)
池の風景① 名の記憶はありますが風景は覚えていません、いいですね~/上池
左が上池、右が下池です/渡戸橋 内田周五郎翁の像
善福寺池
東京都杉並区北西端にある池。江戸時代、池畔に善福寺、万福寺があり名の由来というが、現在ではその跡は不明である。三宝寺池(練馬区)井の頭池(三鷹市)とともに武蔵野台地のなかの湧水として3名池の一つに数えられた。池は上池、下池に分かれあわせて面積約1万m2、周囲は武蔵野のおもかげを残す善福寺公園で、池水は善福寺川の水源で神田川に注ぐ。(コトバンク)
池の風景② この滝が現在の善福寺川の源流になっているようです/上池
遅野井の滝
その昔、源頼朝が奥州征討のためこの地に軍を率いて宿った。氏神八幡宮に誓願し無事征討を終えこの地に戻った時、折からの干ばつで軍勢は渇きに苦しんだ。頼朝は弁才天に祈り、弓で7ヶ所掘った。軍勢は水が出るのが遅い、遅の井と言った。すると忽然と7ヶ所から水が湧き出し渇きを癒した。その後、江ノ島弁才天をこの地に勧請して善福寺弁才天を創建したと言う。(説明板)
市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)
この島に鎮座する社は市杵嶋神社といい祭神は市杵嶋姫命です。当社は江戸時代、善福寺池の弁才天といわれ『新編武蔵風土記稿』には「池の南に弁天の祠あり。一尺(約30㎝)四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて長八寸(約24㎝)はかり」とあります。また、寛永年間(1624~44)にはそれまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれ、それ以降その島を「元弁天」という様になりました。「善福弁才天略縁記」によれば、この地域の旧名「遅の井」の地名譚(源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈(ゆはず・弦をかけるところ)で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈りやっと水を得た)に倣い、建久8年(1197)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。このことから甘水に霊験ありとして、旱魃(かんばつ)の折には区内はもとより練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒2本を竹竿につるして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り太鼓をたたいて「ホーホィ、ナンボェ~」と唱えながら村境を巡りました。また氏神の前に井戸水に池水をはった四斗樽4個をすえ、四方に散水しながら祈ったともいわれています。この様に旱魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も昭和24年(1949)を最後に見られなくなりました。(杉並区教育委員会)
池の風景③ 桜も散り始めですが美しい風景です/下池
左手のハケに流れがあります 雑木林の道は気持ちいいですよ
善福寺公園の生い立ち
この公園は多摩川から東京湾に流入して形づくられた隆起扇状地で、武蔵野台地の一部をしめております。標高50m、西側はほぼ平坦な台地で、東側は石神井川、妙正寺川並びに神田川などが流れ起伏に富んだ丘陵になっています。また善福寺池は三宝寺池・妙正寺池並びに井の頭池と共に武蔵野台地の東側にあって、地底や水辺から湧水によってできた池である点が共通の大きな特徴となっています。善光寺の名称の起源については、昔丘の西側に善福寺・万福寺の二寺があり、その一つが池の名となって残ったともいわれています。ここは交通の便に恵まれなかったため自然の景観がよく保存されたいましたが、その後周囲の住宅化や近代設備の設置などによってこの風致を保有するために、昭和5年10月都市計画法によって風致地区に指定してこの地域では建築物その他工作物の築造、土地の形質変更、樹木・土石の採取あるいは風致維持に影響ある行為を制限することにしました。昭和32年に東京都市計画公園として決定され、その一部が昭和36年6月に東京都善福寺として開園し現在に至っています。(説明板)
善福寺山門
善福寺
当寺は福寿山と号する曹洞宗の寺院で本尊は阿弥陀如来立像です。開創は詳かではありませんが、開山は御堂阿闍梨と伝えられ中興開山は月山機法です。古くは無量山福寿庵と称する浄土系の小庵でしたが、宝永6年(1709)に観泉寺(今川2-16-1)持となりました。(一説に享和年間1801-4ともいわれます)。往古、池畔に「善福寺」という寺院があったといわれています。文政9年(1826)にできた「新編武蔵風土記稿」に「往古は善福寺・万福寺とて二ヵ寺ありしが、いつの頃か廃絶して今はその跡さえも知れず・・・此善福寺の廃せしは、千年大に自身せしとき池水溢れいで、堂宇これが為に破壊に及びしが遂に再修に及ばず、其名空くただ池の称のみ残れりと。思うに此時、寺をば何へか引移せしものならん」とあります。
この「善福寺」と当寺との直接の関係については明らかな資料はありませんが、小庵から引きついでいる机に「文化
12年・・・無量山善福寺福寿庵」とあるところからも「善福寺」という名が代々伝わっているものと思われます。また、本尊の阿弥陀如来立像は室町時代の作といわれ衣丈が流れるような美しい優雅な像です。その他、境内には浄土系寺院時代の歴代住職の墓石や建武元年(
1334)銘板碑、享保
2年(
1717)銘地蔵石像などがあります。(杉並区教育委員会)
井草八幡宮楼門
井草八幡宮
この神社は旧上・下井草村の鎮守です。御祭神は八幡大神で、明治時代までこの付近の古い地名から遅野井八幡宮とも呼ばれていました。境内東側付近からは縄文時代中期(約四千年前)の住居址が発見され、多くの土器が発見されました。その中の顔麺把手付釣手形土器は国の重要文化財に指定されております。このように当社周辺は太古の昔から森もあり水も豊かで、生活に適した景勝の地であったと思われます。当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前には源頼朝が文治2年(1186)奥州藤原泰衡征討の際、戦勝を祈願して手植寄進したという天然記念物の大きな松がありましたが残念ながら昭和48年枯れてしまいました。また、江戸時代の慶安2年(1649)徳川家光は社殿を造営させ朱印領6石を寄進しております。祭日は10月1日を中心に3年ごとに神輿の渡御、5年ごとに鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬の神事が行われています。(杉並区教育委員会)
神門 北鳥居
頼朝公御手植の松
鎌倉代初頭の文治5年(1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の討伐に向かう途次、当社に立ち寄り戦勝祈願に立寄りました。その後、無事奥州平定に成功した頼朝公は、その宝賽として建久4年(1193)社頭に雌雄2本の松を自ら手で植え奉献されました。その後雌松(赤松)は明治時代初頭に枯れてしまいますが、雄松(黒松)は約800年の間井草地域の標徴として仰ぎみられていました。東京都の天然記念物に指定され、高さ約40m、周囲約5m大人3人でやっと抱えられる程の威容を誇っていました。しかしながら昭和47年2月強風により二股に分かれた大幹の一方が折れ落ちて以来急速に衰え終には枯れてしまいました。現在、神門内側にある衝立はその根を輪切りにしたものです。現在の松はその末流にあたり二代目の「御手植の松として大事に育てられています。(説明板)
富士塚/浅間神社
こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので富士信仰とも言われました。富士信仰は集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。富士講は戦国時代末に長谷川角行によって創初され、18世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。
富士塚は実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約
50ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並
区内では唯一のものです。以前は本殿西南側にあったもので昭和
50年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。(井草民族資料館)
・・・善福寺川
善福寺川の風景①美濃山橋から下ります。狭いですが両岸に側道がついてます
善福寺川
by Twalking
| 2017-04-13 12:05
| リバーサイドウオーク(新規)