神田川(2)明大前~高田馬場01-中野本町
天気 晴れ
春なのに夏日の予報、木陰もあろうかと出かけました。
明大前から先、目白までは初めて歩きますが、
中野界隈、下落合は一度訪ねて見たかった街です。
神田川の両岸のスポットを見て廻りましたが、
見所が一杯ありますね~、川辺は遊歩道になっていて
葉桜の下を気持ちよく歩けました。
・・・和泉(杉並区)
区南部に位置し東で環七通りを境として方南、南で甲州街道を境として世田谷区松原・大原、西で井の頭通りを境として永福、北で方南通りを境として大宮・堀ノ内と隣接する。甲州街道が通過し神田川が流れる。和泉の名の由来は「どんな日照りでも枯れることがなかった」といわれた泉に由来する(現在は枯れている)。(Wikipedia)
・・・方南
杉並区南東部に位置する。町域北部は善福寺川を境に杉並区和田に接する。西部は環七通りを境に杉並区堀ノ内と和泉に接する。方南を含むこの一帯は和田村といい字として方南、向方南などが江戸期より見られた。地名はかつて和田村(または杉並村)から南に向かった方という説や、かつての江戸幕府の鷹場を持つ野方領の南端という説などが見られるが詳細は不明。杉並区発足時には字方南と周辺の字を併せて方南町となった。(Wikipedia)
・・・南台(中野区)
中野区の最南部に位置する。地域の東部は渋谷区本町に、南部は渋谷区笹塚と幡ヶ谷に接する。北部は方南通りに接し中野区弥生町との境に、西部は杉並区方南に接している。(Wikipedia)
現在の南台の地域は古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は約900年前、寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮2丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正19年(1591)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会)
本堂 筆塚碑
筆塚碑
この「筆塚」の字は戸村直衛という人が書いたもので明治の初めに建てられたと考えられています。戸村氏は明治3年雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば若いころに幕府の関係者から数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。明治5年に学制が発布されるまで庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治4年当時、戸村塾の生徒は25名で教場は宝福寺や村内の民家をあて学制発布後も存続し私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。この筆塚は師弟の使用した毛筆を納めて供養し学業上達を願ったものと考えられます。これは中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。(中野区教育委員会)
・・・弥生町
中野区の南部に位置する。町域東部は渋谷区本町と新宿区西新宿に接する。南部は概ね方南通りに接し渋谷区本町と中野区南台と接する。北部は神田川と善福寺川に接し中野区本町と杉並区和田に接している。なお善福寺川は町域内で神田川と合流している。西部は杉並区方南に接している。(Wikipedia)
新宿区西新宿から渋谷区、中野区を経由して杉並区永福に至る都道である。都道14号新宿国立線に属する。当初は栄町通りと呼ばれていた。(Wikipedia)
中野車両基地
中野区弥生町5丁目にある東京地下鉄の車両基地および車両工場の総称である。車両基地の中野検車区と車両基地の中野検車区で構成され丸ノ内線の車両が所属している。(Wikipedia)
善福寺川は善福寺池を水源とした荒川水系における神田川水系に属し、区内の中央部を蛇行しながら東へ流れ、中野区との区界付近で神田川と合流します。この先台東区柳橋付近で隅田川に合流しやがて東京湾に注がれます。この神田川水系は都内の中小河川の中でも最大規模の流域を持つ都市河川です。(善福寺川流域案内板/杉並区)
善福寺川01(善福寺池)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24083934/)
善福寺川02(荻窪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24090782/)
・・・和田/杉並区
杉並区の東部に位置する。北部は青梅街道に接しこれを境に高円寺南になる。西部は環七に接しこれを境に梅里と堀之内になる。南部は善福寺川に接しこれを境に方南になる。東側は中野区との区界となり東部は中野区本町に南東部は弥生町に接する。(Wikipedia)
・・・本町(ほんちょう)/中野区
中野区のほぼ中央部に位置する。町域の東部と南部は神田川に接しており、東部は川を境に新宿区西新宿に、南部は中野区弥生町に接する。北部は青梅街道を境に中野区中央に、西部は杉並区和田にそれぞれ接している。町域内を中野通りと山手通りが縦貫している。中野区のほぼ中央部に位置するため、本町とされる。(Wikipedia)
新宿副都心が見えてきました 中野新橋
東郷の名称はこのあたりの旧町名「東郷町」からきております。宝生(ほうせい)の名称は右の建物の中に鎮座の八津御嶽神社、文治元年1185年後鳥羽天皇の御代、鎌倉時代の守護地頭職が現在の山梨県巨摩郡南部町の地になだらかな宝生山のふもと、時の地頭職八津多多聞左エ門藤原如流師の「生きている事が宝」と全国各地に神徳の教導をして以来、平成24年7月30日100周年記念として神田川遊歩道沿いの東郷町に鎮座されました。人びとの健康を守り、自家成立繁栄、子育ての力、智恵の力をいただくやすらぎのお宮です。(宝生山八津御嶽神社敬神会)
龍鳳閣 (開山堂) 圓通閣(百観音堂)
建徳2年(1371)頃-永享12年(1440))は室町時代の商人・僧侶。紀伊国の生まれ。現在の中野区から新宿区西部(中野坂上から西新宿付近)の開拓や商売で成功し、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれた人物として知られる。代々紀州で熊野神社の祭祀を務めた鈴木氏の末裔で、応永年間に武蔵国多摩郡中野邑(現在の中野区)に来たとされている。武士の出自であるが武士として生計を立てることはできず、馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓で生計を立てようとした。商売は成功し財を築き上げて近郷の誰よりも財を成し人々から中野長者と呼ばれるようになった。(Wikipedia)
・・・中央/中野区
中野区のほぼ中央部に位置する。東部は神田川を境に新宿区北新宿に南部は青梅街道を境に中野区本町に接する。北部は大久保通りを境に中野区東中野・中野に西部は杉並区高円寺南に接している。地域内を中野通りと山手通りが縦貫している。(Wikipedia)
当寺の三重塔は宝永13年に建立された塔が飛地境内の塔ノ山公園(現在の中野区立第10中学校)にありましたが、昭和20年の戦災で焼失致しました。平成20年の興教大師850年御遠忌記念として再建されました。この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さの約20mで、奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築で心柱は基壇まで貫通しております。境内には大日如来を中心とした胎蔵五仏が安置されております。(説明板)
(赤:歩行ルート 青:神田川・善福寺川 紫:青梅街道 茶:方南通り・中野通り・山手通り)
神田川(1)02-高井戸の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24061274/)
by Twalking | 2017-04-22 09:14 | リバーサイドウオーク(新規)