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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋01-神田   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

暑くなりそうですね~、
いよいよゴールの柳橋を目指します。
駿河台、神田、浅草橋等見所は一杯あります。

距離はありませんが下町はよく知りませんので
ひとまずさわりだけでもと、思っています。
暑いのであまり無理せず歩きます。


・・・御茶ノ水


文京区湯島から千代田区神田に至る千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名(通称)。台地上にあり、中央部を東西に走る掘割に神田川(両区の境界にあたる)が流れ、またJR東日本御茶ノ水駅がある。江戸時代は付近一帯が大名屋敷地であった。現在では地区内と周辺に明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、また、江戸の総鎮守・神田明神湯島聖堂ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在。
古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍秀忠の時代に水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことからこの地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。Wikipedia

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神田川の風景① 神田山を崩して壕割った渓谷です、右が淡路坂、左が相生坂になります/聖橋

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聖橋/本郷通り
神田川に架けられた橋の1つ。千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり本郷通り(都道403号)を結んでいる。御茶ノ水駅の東端にある。放物線を描くアーチ橋で形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで昭和21927)に完成した。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。名前は東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされており御茶ノ水駅のホームからはややそれに近い視点で見ることができる。長さ92.0m、幅22.0m(Wikipedia

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近代教育発祥の地/湯島
江戸時代このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌:しょうへいこう)があったところである。寛政9(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。明治4(1871)に文部省が設置され我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5(1872)師範学校(翌年東京師範学校と改称)が開校し、その後隣接地に東京女子師範学校が置かれた。東京高等師範学校は明治36年に大塚窪町に移転し後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京高等女子師範学校は昭和7年に大塚に移転し後に新制大学として発足の折、この場所の地名を冠しお茶ノ水女子大学と称し現在に至っている。(文京区教育委員会)

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駿河台交差点から坂上方向の景観です/本郷通り

本郷通り

千代田区神田錦町および内神田の神田橋交差点から北区滝野川の飛鳥山交差点に至る道路の通称である。文京区本郷を通ることからこの名が付けられた。国道17号線内は中山道、都道455号線内は日光御成街道(岩槻街道)の道筋である。(Wikipedia

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太田姫神社(旧地)/淡路坂上
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり 伊達家と徳川家が神田山を開削した時 江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された 昭和6年(1931)総武線開通に伴い 現在の駿河台下に移る。なお、鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり、開通時天皇家との間に「堀幅を減じない」「中で商業を営まない環境を守る」との約束がある(明治期鉄道史より)

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軍艦山/ソラシティ
大正12年(1923)の関東大震災では神田駿河台周辺においても火災により多くの建物が焼失しました。震災後の復興区画整理事業により本郷通りと聖橋が整理され、本郷通りと霊南坂の交差部分には石垣による鋭角の角地ができました。石垣をよく見ると幽霊坂側と本郷通り側では石種や石組が異なるのが分かります。この辺りは「軍艦山」と呼ばれ、特に昭和10年代には子供たちの遊び場となっていました。軍艦山先端の石垣とクスノキは往時のまま残され、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を再利用したこの歴史案内板や広場のベンチと共に神田駿河台の歴史ある風景を継承しています。(案内板)岩崎彌之助邸跡/ソラシティ

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蜀山人終焉の地/ソラシティ
太田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延2(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。明和4(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。文化9(1812)に当地に移り住み、文政6(1823)に没するまで過ごしています。(説明板)

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岩崎彌之助は嘉永4(1851)に土佐国で生まれ、明治7(1874)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。明治18(1885)に三菱2代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体として静嘉堂文庫を当地に設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。(説明板)

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幽霊坂
この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」には「紅梅坂は」「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す」とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが一般には幽霊坂の名でとおっています(千代田区)

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ニコライ堂/神田駿河台
このすばらしい聖堂は高さ約34.5m、鐘楼の高さは約37.7m、建坪は約105002あります。ニコライ堂とはこの堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、正しくは日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂といいます。建築の様式はビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく中央にドームがあり外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。そもそもこの大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代は定火消屋敷跡で火の見櫓が高くそびえており、ニコライがはじめて明治5(1872)に東京に来たい際、この地に大聖堂と心に決めた所でロシア国公使館の付属地でもありました。最初の大聖堂はロシア人・シュチュールボフの基本設計、コンドルの監督設計、長野泰輔の工事責任で、明治17(1884)に工事が始まり約7年かかって明治24年(1891)に完成しました。(千代田区観光協会)

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太田姫稲荷神社鳥居/駿河台道灌通り

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太田姫稲荷神社
千代田区にある神社である。旧社格は村社。社伝によると室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。徳川家康江戸入府後、慶長11年(1606)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の千代田区神田駿河台4丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。明治5年(1872)村社に定められ名も太田姫稲荷神社と改めた。大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが昭和3年(1928)に再建された。昭和6年(1931)に御茶ノ水駅の総武線拡張により現在地遷座した。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。Wikipedia


・・・神田

1947
年に神田区が麹町区と合併し千代田区が発足する際、神田区内の町名にはすべて「神田」を冠称する町名変更がなされた.元は現在の大手町の平将門首塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城・城下下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通り北側地域を指すようになった。江戸時代後期には幕府が武芸修練所として現在の小川町に設置した講武所や、北辰一刀流の玄武館などの剣術道場があった。伝馬町牢屋敷も置かれ安政の大獄では多くの人物が処刑された。Wikipedia

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今回は淡路坂(右岸)を昌平橋へ下ってみました/駿河台

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淡路坂
この坂を淡路坂といいます。この坂には相生坂、大坂、一口坂(いもあらいざか)などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷がありこれが町名・坂名の由来といわれます。一口坂太田姫稲荷が一口稲荷(いもあらいいなり)と称したためです(標柱)

神田淡路町(右岸)

代田区の北部に位置し神田地域に属する。主に商業地として利用される。江戸時代は武家地だった。1872年(明治5年)神田淡路町12丁目が起立する。1911年(明治44年)に神田の冠称を外したが1947年(昭和22年)に神田区が千代田区に合併すると同時に冠称を復した。地名は淡路坂に由来する。淡路坂は江戸前期に坂上西側に鈴木淡路守の屋敷が存在したことに由来し一口坂(いもあらいざか)相生坂とも呼ばれた。一口坂は坂上東側にあった太田姫稲荷神社旧称に由来する。相生坂とは本来神田川を挟んで並行する坂との総称だが、現在ではそちらの坂のみを相生坂と称する。(Wikipedia

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街道の風景① 昌平橋を挟み昌平橋架道橋(手前)松住町架道橋と歴代の鉄道橋が架かります/淡路坂下(外濠通り)

昌平橋架道橋
千代田区神田須田町1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道経(架道橋)、JR東日本中央本線を通している。中央本線が昌平橋駅から万世橋駅まで延長された際、昌平橋駅-万世橋駅間(紅梅河岸高架橋-万世橋高架橋間)の一等道路第二類の道路(現在の外濠通り)に架けられた橋梁である。橋長:44.2m 線数:複線(3線)竣工:1908年(明治41年)(Wikipedia

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神田川の風景② 上流側にはお馴染みの総武線神田川橋梁が架かります/昌平橋


神田川橋梁

千代田区外神田1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道橋、JR総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅-秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁である。橋脚は八の字形のラーメン形式であるのが特徴である。本橋梁の御茶ノ水方はコンクリート製橋台が中央線上り線を跨ぐ形となっている。秋葉原方はコンクリート製橋台を挟んで松住架道橋へと繋がる。橋長:56.0m 線数:単線×2 竣工:1932年(昭和7年)(Wikipedia


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神田川の風景③ 下流側は万世橋&秋葉原、右岸は旧万世橋駅跡(現マーチエキュート神田万世橋)になります/昌平橋


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昌平橋
外濠通り上にあり上流側・下流側に歩行者用の橋が併設されている。橋の北は千代田区外神田1丁目・同2丁目、南は千代田区神田淡路町2丁目・神田須田町1丁目で、北側の総武本線松住町架道橋・南側の中央本線昌平橋架道橋(昌平橋ガード)に挟まれた場所にある。この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間1624 -1645)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで同年22日(169131日)に「昌平橋」と命名された。Wikipedia

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神田川の風景④ この一帯がハつ小路、筋違い見付があった所です/神田須田町

神田須田町(右岸)

千代田区の北東部にある地区。かつては中央線の前身甲武鉄道の始発駅万世橋駅や青物市場があったところで、明治・大正期は一都心部を形成して繁栄。その後、1936年に万世橋駅は廃止となり、駅舎跡には交通博物館が建てられた。青物市場も関東大震災後は外神田、さらに大田区に移転。江戸時代の柳原土手の古着市の伝統を受継ぎ服地、洋服付属品の問屋が多く卸売えい商業が盛んである。(コトバンク)

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御成道/マーチエキュート神田万世橋
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡りこの道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また代々餅で売出した有名な店もありました。(千代田区)
(青:神田川 紫:御成道 橙:中山道 緑:八つ小路 赤:筋違い御門・筋違い橋・昌平橋)

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江戸名所図会 筋違ハツ小路 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
左が筋違い御門・筋違い橋、右手が昌平橋になります。万世橋が架けられたのは後の時代です。

中山道(湯島聖堂・神田明神)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21114882/

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旧万世橋駅(右)
かつて中央線の神田~御茶ノ水間に明治451912)年に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18年に休止になりましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にホームや階段など駅の施設が一部残っていました。「旧万世橋駅」はこれら駅の遺構を再生し歴史的価値ある遺構を随所にご覧いただける施設です。開業当時の姿をほぼ留めた「1912階段」や交通博物館開館時に設けられた「1935階段」をはじめとする遺構を公開するほか、旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設けた“2013プラットホームにはフリースペースやカフェがあります。このほかにも万世橋駅の足跡を今に伝える展示も実施しています。(東日本鉄道文化財団)


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万世橋と神田祭
外神田にある神田明神平将門を祀った江戸の総鎮守として、古代以来柴崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸城築城にあたり慶長8年(1603)に神田駿河台、元和2年(1616)に現在地に移った。江戸時代の神田祭は山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭と神田祭は隔年で執行され、各所が自前の山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩くので、祭礼番付とよばれたパンフレットが毎年作られるなど各所化されていった。神田祭は915日に庶民の祭礼として執り行われ雉子町の名主である斉藤月琴(げっしん)が著した「江戸名所図会」や「東都歳時記」によれば贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷を造って見物したとある。明治時代の「新撰東京名所図会」によれば明治17年神田祭は40余りの山車が八辻(筋違八小路)に集合し、万世橋を渡り聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向ったとある。電線の設置など都市の近代化によって明治期以降、山車行列が難しくなり巡行が少なくなっていく。(説明板)

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神田川の風景⑤ 上流側の昌平橋方向の景観です/万世橋

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万世橋
中央通り(国道17号)上にある。万世橋の歴史は1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋に遡る。当橋は徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第にまんせいばしという音読みが一般化した。眼鏡橋とも呼ばれた。上流の昌平橋1873年に洪水に流され1896年(明治29年)に復旧されるまでは、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。この期間は万世橋の下流に昌平橋があったことになる。1903年(明治36年)一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋は1906年(明治39年)に撤去された。新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災したが、直ちに修復された。(Wikipedia

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震災復興と万世橋
明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年その石材を再利用して筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。この橋は当時の東京府知事・大久保忠寛が萬世橋(よろずはし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に万世橋東側木橋を架けて馬場鉄道が開通する。明治361903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名前を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。この元万世橋には路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアイーチ橋に架け替えられた。現在神田川に架けられている橋の多くは震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架け替えられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋のお茶の水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など神田川にある震災復興橋梁は様々な構造で造られ、親柱や欄干にデザインに特徴を見出すことができる。(説明板)

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神田旅籠町/万世橋
この周辺はかつて神田旅籠町と呼ばれていました。昌平橋北側に当たるこの地は中山道の第一宿場である板橋宿日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として旅籠が数多く立ち並んでいたため「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は五街道のなかでも遠く京都に通じる東海道と中山道の整備に特に力を入れていました。

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また、日光御成街道は将軍日光参拝の際必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。しかし、天和2(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大樋です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄7(1694)には浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも1丁目と2丁目ができました。さらに明治2(1869)昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町3丁目と改称されました。さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠はわずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町はその後、活気あふれる商人の町として生長をとげたのです。(千代田区町名由来板)

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街道の風景② 万世橋を渡ると秋葉原、賑やかな街です/万世橋(中央通り)

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秋葉原(左岸)
東京都の千代田区と台東区にまたがる地名。JR秋葉原駅周辺の外神田134丁目、神田佐久間町12丁目一帯を指す。1869(明治2)12月の火災以後、火よけ地を置き70年に秋葉神社をまつり秋葉ヶ原と称したことに由来する。かつては〈あきばはら〉と呼ばれていたが、駅名の〈あきはばら〉の方が一般化した。神田川北岸に位置し江戸時代から町屋(商店街)として発達してきた。JR山手・京浜東北両線と総武線が交差し、貨物駅もあり、また駅に隣接してあった東京中央卸売市場神田分場は1989年、大田区東海の東京卸売市場大田市場(386000m2)が開設されて移転した(コトバンク)

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神田川の風景⑥ 新幹線を潜ると柳森神社があります/神田ふれあい橋

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神田ふれあい橋
神田川に架かりJR東北新幹線のすぐ東側にあります。同新幹線の工事用の橋でしたが、地元の要望により工事完了後も撤去しないで平成元年(19894月から歩道橋として供用されています。神田須田町2丁目と神田佐久間町1丁目を結んでいます。それまで遠回りしなければ行き来できなかった両地区の住民が直接往来できることになったので親しみをこめて「神田ふれあい橋」と命名されました。長さ48.6m、幅2.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

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柳森神社鳥居/神田須田町(右岸)

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柳森神社
祭神:倉稲魂大神 境内社:倉稲魂大神
今を去る500余年の昔、この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄2年(1457太田道灌公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ、神田川土堤一帯柳の木を多数植え繁茂したるに依り、柳原の名と共に柳森神社の起源となった。其の後、江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁盛の神として非常に賑わいを極めたのである。元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正129月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した。尚其頃迄には柳町・小柳町・元柳町向柳町・柳原河岸などと柳に因んだ町名のあったことも此の柳の森より起因したものである。昭和30年が当神社創建500年祭に相当するので、崇敬者の発願に依って祈念事業として此の神楽殿を建立し、同年515日楽慶大祭を執行した次第である。例大祭は毎年51415日。昭和365月吉日(境内説明板)

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おたぬきさん・福寿神御由来
江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して漸く泰平の世を迎えた5代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。桂昌院は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて3代将軍徳川家光の側室となり5代将軍徳川家綱吉の生母となる。大奥の御女中衆は他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したという。後世、元倉前甚内橋際・向柳原の旗本・瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治2年現在の柳森神社に合祀されました。開運、諸願成就の福寿神として殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。なお当社において頒与する〝おたぬきさん〟と呼ばれる土製の親子狸のお守りは素朴で大変に愛されております。(説明板)



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富士講関係石碑群
柳森神社は延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を相殿・合祠しました。また『東都歳時記』には天保期(18301844)頃の「富士参」の例として柳森神社が上げられています。これらのことから柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群はこの時再建された富士塚の周辺に移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築きこの周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。

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各石碑の名称/制作年代/寸法(高××厚、単位cm)/作製者は以下の通りです。①北富士分教会の碑/昭和5年(193011月改築/83.5×79.4×7.5/不詳 ②神田八講の碑/大正14年(19256月再建/141.5×67.5/13.4/神田八講③北口神田講社の碑/昭和5年(193061/139.5×64.2×12.7/山京講④小御嶽大神の碑/(年代不詳)/61.0×35.0×./不詳富士講とは浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には多くの講社が姿を消していきました。したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、台東区の「下谷坂本の富士塚」(台東区)豊島区の「豊島長崎の富士塚」練馬区の「江古田の富士塚」は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。「富士講関係石碑群」は江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。(千代田区教育委員会)

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力石
「力石」とは一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石にかかわる信仰は多い。また「力石」に於ける伝承の一つとして「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)この境内にある「力石」は大正年間(19121926)、当時この道の力士として有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で有名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治()郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。これ等「力石」は江戸・東京の若者たちの生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。(千代田区教育委員会)

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神田川の風景⑦ 昔は左岸が佐久間河岸、右岸は柳原堤が続いてました/神田ふれあい橋

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御茶ノ水駅周辺マップ(青:神田川 橙:中山道 紫:御成街道)

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by Twalking | 2017-05-23 23:19 | リバーサイドウオーク(新規)

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