無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 平間街道(旧池上道)01-池上   

日時 2017.9.3(日)
天気 晴れ


天気が良さそうなので出かけました。
多摩川を丸子の渡し~平間の渡し辺りで渡り、
下丸子、池上、大森、大井へ向かう古道があります。

平間街道・池上道等と言われる道で、古東海道の
道筋とか、鎌倉の頃は鎌倉道下道のルートのようです。
資料が少ないですが、先ず歩いてみ見ることにしました。


・・・上平間
/中原区

川崎市
中原区最東端、多摩川とJR南武線に挟まれた地域である。工業地帯と住宅地が混在し平間銀座商店街として商業地も形成されているWikipedia

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街道の風景① 南武線平間駅からガス橋へ向かいます/平間駅

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上平間八幡神社鳥居/上平間


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上平間八幡神社
祭神:誉田別命。創立年月は不詳であるが、口碑に依れば往古多摩川大洪水の際、東京府下府中の上石原八幡宮社殿流失し、同社安置の御霊が当村に漂着した。住民相寄り一祠を建立して之を祀った。其の後社殿を改築し村内日蓮宗法田寺住職が別当職となったという。尚配祀の天照皇大神は宝永21114日、当村住民勘左ヱ門なる者、伊勢大廟より御分霊を背負いて僻村し、村民一統協力して多摩川の流域に一同を建立したのに起因する。明治612月村社に列し、明治43113日無格社須賀神社、天満宮、神明宮等を合祀、大正1344日神饌幣帛料供進神社に指定された(神奈川県神社誌)

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川の風景① 上流側に丸子橋が望めます、左岸は武蔵小杉、右岸が下丸子です/ガス橋(多摩川)

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ガス橋
県道大田神奈川線が多摩川を渡り東京都・下丸子へ通じる地点に架かる橋で、橋長388mの鋼橋。ガス橋の名前の由来は、昭和4年に川崎側の工場から東京ヘガスを送るためにガス管専用橋として架けられたことによる。当初は14連の鋼トラス橋だったが、昭和35年に旧橋の橋脚と橋台を使用した薄肉鋼断面の鋼床版箱桁橋を中央3径間に持つ近代的な橋梁に架け替えられた。また、直径67cmのガス管を左右に1本ずつ橋中に抱きかかえている。この橋梁の建設は新しい時代の鋼橋桁橋建設技術の先駆けとなったものとして高い評価を得ている(かながわの橋百選)


・・・下丸子/大田区

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ガス橋通りの桜並木

新大田区百景「ガス橋通り欅並木」/下丸子
ガス橋は下丸子と川崎市平間間に昭和4年(1929年)鶴見工場のガスを東京に供給するために架けられたもので、昭和35年(1960)に近代的な橋が架けられ自動車の通行が可能となった。古くは平間の渡しがあった。大田区民プラザ近くの環状八号線からガス橋に至る道で、道の両側には欅が植えられている。欅並木は全長約900m(大田区)

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天祖神社                  下丸子耕地整理事業完成記念碑 

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区画整理前の下丸子町
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区画整理後の下丸子町

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街道の風景② 平間街道は直進、右が新田道(矢口の渡し)への分岐/光明寺裏

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光明寺道標
この道標は区民プラザから環八に出る道の角に立っています。嘉永4年(1851)建立。折れた上部は光明寺内に保管されています(大田区)

筏道・下丸子周辺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25462327/


・・・千鳥
(ちどり)/大田区

1968
年までは多くが調布千鳥町呼ばれていた区域である。町域内の千鳥町駅もそれに因んでいる。千鳥二丁目内で現在短冊状になっている街区には1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで慶應義塾大学の総合運動施設(新田運動場)があった。15000人収容の野球場(新田球場)を備え東京六大学野球の試合が行われた。運動場が横浜市日吉に移転するとその跡地に住宅街を整備した財団法人同潤会1939年(昭和14年)に「調布千鳥町住宅」として分譲し現在に至る。また、千鳥町駅は1926年(大正15年)の開業から1935年(昭和10年)末まで駅名が「慶大グラウンド前駅」であった(Wikipedia

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街道の風景③ 環八を越えて久が原台地の下を東へ向かいます/千鳥

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左が池上道、右が奥州古道/ぬめり坂下  六郷用水南北引き分け跡

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南北引き分け跡
多摩郡和泉村(狛江市元和泉)で取水され約11kmを流れた六郷川の本流は、この地で池上・新井宿方面への北堀蒲田・大森方面への南堀分流されました。南北引き分け地点は水量を公平に配分してきた重要な地点です。そのため南北両堀の巾を一定に保ち、底を平らにするなどの管理には細心の注意が払われてきました。大正時代以降はコンクリートの底敷となり、これを堰箱と呼んだと言います(六郷用水物語)
(赤:旧池上道 橙:平間道 青:六郷用水)

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次太夫の生家/千鳥いこい公園入口
小泉次大夫の生家といわれる植松家は、富士山の中腹に近い駿河国富士郡小泉郷(富士宮市)で、代々樋代官(といだいかん)をつとめてきた治水土木専門の家柄です。当然、次大夫もその知識や技術を身に付けていたと思われ、徳川家康にとり立てられた理由もここにあると推定されます小泉次太夫物語

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砂子の里/千鳥いこい公園先
小泉次太夫は天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府に随行し川崎の砂子に移り住む。慶長2年(1597年)の用水開削に至るまでの役7年間の砂子での生活ははっきりしていませんが、用水敷設の前提となる多摩川の水防・改修等の工事に専念していたのではないかと考えられます小泉次太夫物語

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第二京浜を横断            六郷用水の標柱/池上警察横


・・・池上/大田区


大田区内大森地域に属する。東で中央・西蒲田と南で東矢口、西で国道1号(第二京浜)を境に久が原・千鳥・仲池上、北で南馬込と隣接する。池上本願寺門前町。南北にやや細長い形をしている。南北に池上道が西側に国道1号が通り域内北部を呑川が流れている。
Wikipedia

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街道の風景④ 
文化8年(1811年)建立の題目搭が建っています/池上

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徳持神社鳥居/
池上 

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徳持神社
御創建は建長年間1249-55)と伝え、豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請奉斎、御幡山八幡宮とも称され、荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として尊崇せられ、元徳持の南地区(本村)に鎮座(現池上七丁目曹善寺付近)明治39年(1906)池上競馬場(当時日本一の規模といわれた)設置のため現在地(旧大字徳持809番地 当時境内510坪)に移転、明治415月再建、同年915日徳持上宿に鎮座の稲荷神社を合祀、竣功遷座を執行、社名八幡神社を徳持神社と改称する。

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德持について
德持神社の徳持はかつての地名から名付けられたものです。地域の範囲は現在の池上3丁目のほぼ全域と4丁目の一部地域、6丁目の全域、78丁目のほぼ全域、東矢口1丁目と千鳥1丁目の一部地域に当たります。古代からの幹線道路である平間街道が地区を東西に横切っており、古くからの集落であるのは間違いないようですが、残念ながら地名の由来については分かっていません。江戸時代の始めには灌漑用に六郷用水が引かれ、江戸後期に編まれた『新編武蔵風土記稿』によると徳持村の戸数は60軒ほどで水田が多く営まれていたとの記述が見られます。明治5年(1872)の統計には戸数54戸、人口302人と記録されており、22年に池上村と合併し池上村大字徳持となりました。(德持神社HP)

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街道の風景⑤ 左が平間街道、右が六郷用水の跡になります/池上

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糀谷の領主
六郷用水および川崎の二ヶ領用水の大事業を成し遂げた次太夫は、その功績により本領750石余の他に開発した新田の十分の一にあたる300石余の地(現在の大田区北糀谷・西糀谷付近)徳川家康から拝領して糀谷の領主となり、併せて実盛の刀を授けられたといわれています(小泉次太夫物語)

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妙遠寺の逆修塔/池上図書館前
六郷用水完成後の慶長17年(1612年)、次太夫は代官職を退き神奈川(川崎の砂子の里ともいわれる)に隠居、元和9年(1623年)84歳で没したと伝えられる。川崎市の妙遠寺は次太夫の逆修搭(生前に自分の供養にために建立する搭)が現存している(小泉次太夫物語)


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街道の風景⑥ 門前には相模屋、池田屋、萬屋と老舗が建ち並びます/本門寺参道

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平間道道標/相模屋
元禄9年(1696)に相模屋初代店主・山本彦兵衛が平間街道(旧池上道)に建てたものです。側面「是よりひたり(左)かわさき道・古川道(古川薬師・安養寺)」裏側「是よりみき(右)・こすきみち(小杉道)・新田道」と刻まれてます。

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六郷用水は池田屋の西側を流れます   新参道を越えます


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堤方の八寸という堰跡
六郷用水北堀はここで直進して大森・蒲田方面への流れと、北を上って呑川をわたり新井宿方面へ向かう流れ、南へ下って女塚方面へ向かう流れと三つに分かれていました。ここに設けられた堰はふつうの堰板ではなく、水流方向に直角に八寸角の角材がいけこまれた「八寸の水はかり」と呼ばれた独特のものでこの場所の由来ともなっています(六郷用水物語)

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中土手
堤方の八寸から直流した六郷用水はこのあたりで呑川合流し、現在の上堰橋下流(池上第二小学校付近)から双流橋付近までの呑川の中央に築かれていた「中土手」と呼ばれた分水堤で分流され、東側は大森方面へ、西側は蒲田方面へ南下していました。この中土手はしばしば上流部の溢水の原因となっており、農業用水としての利用が減少した昭和6年に撤去されています。(六郷用水物語)

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川の風景この先に中土手を置き分流させていました/堤方橋(呑川)

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六郷用水と呑川
六郷用水北堀は南北引き分けから東進してくると呑川に突き当たります。そこで呑川を横断させ新井宿(現在の中央一帯)方面へ流すため「八寸」と呼ばれる堰が設けられました。この堰で分流された流れは北上して旧池上道の山下橋(現存しない)をくぐり、養源寺橋の上流で呑川と一旦合流しました。ここは、少し下流に設けられた堰によって呑川からの水量を確保し分流された分水路の跡です。


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呑川
呑川は大田区のほぼ中央を流れる延長約9kmの二級河川です。かつての呑川は水田の灌漑用水路として重要な役割を担っていました。また飲料水としても使用できるほどのきれいな水で、多くの魚類がみられました。しかし、昭和40年代から周囲の開発が進むにつれ工場や住宅の排水が流れ込むようになり水の汚れが進みました、さらに下水道の普及とともに水源が失われ流水量が減り水質はさらに悪くなってきました。こうした状況のなか豊かな清流を取り戻すため平成7年度から落合処理場(新宿区)からの高度処理水を導き入れて水質の改善を進めています(説明板)
(青:呑川 紺:旧呑川 
橙:東海道・中原街道 赤:平間街道・池上道・新田道)


・・・・・・
資料ファイル

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東海道
品川区域を含む武蔵国ははじめ東山道に属していましたが、のち宝亀2771年)に東海道に属するようになりました。当初の東海道は走水 (はしりみず)(横須賀市)で海をわたり安房・上総国(房総半島)に続いていました。
武蔵国が東海道に属してからの道筋は平安時代中期の辞書『和名類聚抄』 (わみょうるいじゅうしょう)によって国府の位置、律令の施行細則『延喜式』による駅家の地名から次のように想定されています。武蔵国の国府は府中の大国魂神社付近にあり、武蔵国の駅馬店屋小高大井豊島4駅があったとされ、それぞれ現在の町田市鶴間、川崎市高津区、品川区大井に推定されていますが、豊島駅については諸説あって確定されていません。町田市から大山厚木街道(国道246号線)を川崎市宮前区で東に方向を変えて高津区千年中原街道に合流し、丸子橋付近多摩川を渡り、品川区大井付近を通っていたと考えられます。しかしながら古代の東海道とされる道路遺跡の発見は僅かで、静岡市の曲金北遺跡、平塚市の東中原E遺跡などでそれぞれ巾9mほどの道路が見つかっているだけです。多摩川を渡ってからの古代の東海道の道路は発見されていなかったのですが、平成13年大森貝塚に近い大田区山王一丁目で中世の道路跡が見つかり、この道は古代東海道の小高駅から大井駅に至る道筋とも推測されています。
鎌倉時代になると京都と鎌倉を結ぶ東海道が最も重要となり室町時代まで続きました。この東海道は京都から下るときには東山道(後の中山道)をとおり不破の関跡(岐阜県関ヶ原)を過ぎて江戸時代に美濃路といわれていた街道を通り、熱田から東海道に入ったとされています。源頼朝の上洛をはじめ鎌倉将軍も多くこの道を利用していました。鎌倉幕府の成立によって相模国の東海道の基点は鎌倉になり、道筋は海岸沿いとなって箱根峠から大磯・茅ヶ崎・藤沢を経て鎌倉に入ったのです。鎌倉に至る道を「鎌倉道」「鎌倉街道」といいますが、武蔵国を通る鎌倉道は3あり上ツ道・中ツ道・下ツ道で、それぞれ枝道があり各地に鎌倉道が存在していました。品川区域の鎌倉道は下ツ道で、現在の池上通りに平行してはしり池上から高輪へ至る道筋でした。品川区内では大井五・六丁目付近の来迎院(鹿島神社)、光福寺・西光寺とつながる道が鎌倉道といわれています。戦国時代になると、諸大名はそれぞれの領国内に伝馬の制を設け、街道には宿を設けて一定数の馬の提供を義務づけました。これが拡大され整備されて江戸時代の宿駅・伝馬の制度が出来たのです。(江戸時代の道/品川区)
(図は「相模国の駅路」(東海道への誘い/横浜国道工事事務所)を参照しました)

中原街道・平塚(四之宮)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22391357/



by Twalking | 2017-09-06 10:44 | 東京散歩(新規)

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