無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 平間街道(旧池上道)02-池上本門寺   

日時 2017.9.3(日)
天気 晴れ

旧道の脇に六郷用水跡が続くので
ついつい用水の案内板に目が行いっちゃって
肝心の『街道』が疎かになりがちになります。

これといったものがなし、歩きやすい方へでしたが
池上本門寺門前にくると、ぐっと興味が湧いてきます。
いい機会なのでじっくりと周辺を散策してみました。


・・・池上本門寺

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街道の風景① 池上は本門寺の門前町、この鍵の手の一角に面影が残ります/参道道

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題目碑(文化8・1811)/霊山橋(呑川)  両側に塔頭が並びます

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理境院山門
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理境院
元亨年間(13211324) 本門寺三世日輪聖人の住坊として開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家の一つに列せられ、古来より朱塗りの山門(赤門)を許される。延宝年間(16731681)に長澤氏の母 理境院妙性日貞尼の寄進の法功をたたえ理境院と改称。慶応3(1867) 官軍の江戸城明け渡し要求の際に、官軍参謀西郷隆盛は当院を宿舎にあてたと伝えられる。明治11(1878) 堂宇を小学校校舎に使用、池上小学校の前身となる(池上の寺めぐり)
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本門寺総門

総門と扁額
総門は本門寺山内に現存する古い建築物の一つである。広重の「江戸百景」などにも描かれ著名。建造年代は元禄年間(16881703)といわれ、高さ6.4m、主柱間5.39mあり総欅素木造りで簡素かつ壮大な構えをしている。扁額の文字は本阿弥光悦(15581637)の書を彫刻じたものである。額は複製され実物は寺宝として寺内に保管されている。名筆化である光悦の堂々たる書風を示す屈指の作品である。(大田区教育委員会)

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池上本門寺の石段
この石段は加藤清正(15621611)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品偈文九六文字にちなみ96段に構築され、別称を「偈文」(しきょうなんじさか)という。元禄16881704)の頃に改修されているが造営当時の祖型を残しており貴重な石造遺構である。清正は慶長11年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているのでこの石段もその頃の所産と思われる(大田区教育委員会)

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日蓮像
仁王門手前の石段の脇に立つ。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像である。彫刻家の北村西望の作。ここにはもと明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。Wikipedia

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長栄堂
当山の守護神として奉安し奉る長栄大威徳天は、その昔、日蓮聖人が佐渡ヶ島御配流中、塚原三昧堂に於いて日夜法華経御読誦の最中、初めて白髪の翁というお姿で御出現になり「法華経の行者を守護し、別けて海上安全・所縁吉祥の守護を成さん」とお誓いになり、日蓮聖人御生涯の間、影身にお添いしご守護し、神変不思議の通力をお現しになりました。日蓮聖人が此の池上で御入滅の後は、池上本門寺の山号の如く、長栄大威徳天と仰がれ、永くこの山に留まり量り知れない神力を持って「末法万年の末までも法華経の行者を守護すべし」と仰せになったこから、我々を済度なされる尊神として崇められるようになりました。そして、今日までその威徳は狭小なることなく広大無辺にして長栄山池上本門寺は益々隆昌し、信仰帰依の人々は御守護の御利益を戴けると言われております。(本門寺HP)

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仁王門
大堂正面に建つ二重門。旧国宝の山門は1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建された。門内には彫刻家圓鍔勝三がアントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されたが、近年修理を機に本殿内に移設。新たに仏師原田佳美作の仁王像が2001年(平成1310月に開眼供養が行われ奉られている。Wikipedia

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大堂「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいいます

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大堂
旧大堂は本門寺14世日詔の時代の1606年(慶長11年)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立したが、1619年(元和5年)に焼失。1628年(寛永6年)本門寺復歴16世日樹の代に金1万両を用いてほぼ旧規模に再建された。1710年(宝永7年)再び焼失。本門寺24世日等時代の1723年(享保8年)8代将軍徳川吉宗の用材寄進により規模を縮小の上再建された。この3代目の大堂は1945年(昭和20年)4月の空襲により焼失。1948年(昭和23年)仮祖師堂と宗祖奉安塔を建設。その後、本門寺79世伊藤日定が中心となり全国檀信徒の寄進を受け1964年(昭和39年)現在の大堂を再建した。この際仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築された(現在の霊宝殿の位置)。現在の大堂は、根崎建築設計事務所の設計による鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造。高さ27mの大建築である。第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていた(戦災で焼失)。再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額がかかる。堂内中央の厨子には日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。1966年(昭和41年)川端龍子による天井画「未完の龍」が描かれている
Wikipedia

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日朝堂
このお堂は本門寺の境内に古くからありました。享保10年(1725)ごろの本門寺絵図にも現在の位置に常唱堂と書いてあります。昭和20年(1945415日に本門寺全山は大空襲を受け、その時に常唱堂も焼失しました。そのお堂は寛政11年(1799)に加藤甲斐守が建造したものでした。現在のお堂は、昭和47725日に多くの信者の丹精によって新築されました。このお堂のご本尊は大曼荼羅で、その前に行学院日朝上人の尊像が安置してあります(本門寺HP)

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梵鐘
青銅製鋳造、総高225cm。正徳4年(1714)紀州粉川(粉河)の鋳物師木村将監安成によって改鋳されたものである。宝永7年(1710)の火災により旧鐘が損傷し改鋳したと伝えられる。旧鐘の銘本が再刻されており、正保4年(1647)瑶林院(紀伊徳川頼宣の室、加藤清正の娘あま)によって寄進されたことが知られる。昭和204月の空襲で一部に亀裂と歪みを生じ、現在は鐘楼脇に保管されているが江戸時代初期の形式を示す作品であるとともに、旧鐘の銘分が再刻されていることも貴重である(大田区教育委員会)

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経蔵
構造・形式は方三間裳階(もこし)付き、宝形造、銅板瓦棒葺、輪蔵形式。経蔵内部に心柱を軸に回転する八角形の書架(輪蔵)があり、かつては一切経(区指定文化財)が収められていた。経蔵内部の柱等には工事に関係した職人をはじめ、講名や氏名、住所等が刻まれ、経蔵建立時の寄進者が広範囲に及んだことがうかがえる。「新編武蔵風土記稿」によれば天明4年(1784)に再建されたものと伝えられる。昭和46年(1971)境内整備により現在地に移築されたが、江戸期の輪蔵形式の経蔵は都内でも残存例が少なく貴重である(大田区教育委員会)

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本殿
本殿とは本師(釈尊)のおわします殿堂との意味。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネール首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。他に四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を安置するWikipedia

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日蓮上人御廟所
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正面:日蓮大聖人御廟 左側:第二祖日朗聖人御廟 右:第三世日輪聖人御廟)

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日朗聖人墓塔
安山岩製 石造宝塔 高さ160cm(失われているは反花座を補うと推定190cm)池上本願寺二世日朗の墓塔であり、塔身正面に一塔両導(中央に題目 その左右に釈迦如来と多宝如来)を刻み、基部背面には日朗聖人の没年(天応2年・1320)や造立願主の名等が刻まれている。表面の剥離や損傷のため銘文は判読しにくいが、塔の形式から室町時代(15世紀中頃)に造立されたものと推定される。この形式の宝塔は当時、南関東の日蓮宗寺院において多く造立されているが、その中でも特に大きいものとして注目される。(大田区教育委員会)



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宝塔(東京都指定文化財)
かつて灰堂があったという記録が見られるが、この宝塔は棟札抄により文政11年(18281113日日蓮聖人の550遠忌を記念し、前犬山城主成瀬候らを本願主として再建された。作者は小木新七その他。その後嘉永4年(1851)に修理されている。石造基壇は高い方形基壇および蓮台形台座からなる。木造建築の軸部は平面円形でやや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し内部には四天柱を立てている。伏鉢部の上に12本の側柱および8本の柱を円形に配して上層をなしている。附の宝塔は四天柱の内に安置され、意匠は本堂塔に類似している。この宝塔は富山県本法寺蔵の重要文化財絹本着色法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に類似しており、建設時代は新しいが宝塔形式遺構としてはほとんど類例がない(東京都教育委員会)

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池上本門寺五重塔
構造形式:方三間五層塔 一・二層は本瓦葺 三層以上は銅板瓦葺  総高約31m 塔高29.37本門寺の五重塔は二代将軍徳川秀忠の乳母の正心院日幸尼(岡部局)の発願により慶長12年(1607)に着工し、翌13年(1608)に完成しました。当初、五重塔は仁王門を入った右手、現鐘楼堂と対の位置に建てられたが、直後の慶長19年(1614)の大地震で大被害を受け、五層屋根が瓦葺から木瓦葺に葺き替えられました。その後、元禄15年(1702)から翌16年(1703)にかけて五代将軍綱吉公の命で現在地へ移築し修復された。その後、数度の修復を経て平成9年(1997)~同13年(2001)に日蓮聖人立教開宗750年慶讃記念事業の一つとして、全解体修理が施され全容を一新し現在に至る。この五重塔は関東に四基現存する幕末以前の五重塔で一番古い塔である。また桃山期の五重塔は全国でも一基だけで、建築の特徴なども極めて貴重な塔建築であり、価値も極めて高い文化遺産である。国宝・重要文化財(説明板)

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前田利家の室の層塔
この塔は前田利家の側室・寿福院が元和8年(1622)に自身の逆修養のために建てた十一重の層塔である。このことは当時15(復歴)日樹の銘文でわかる。寿福院は3代加賀藩主利常の生母で、秀吉没後徳川家との微妙な臣従関係を解決するために江戸に差し出され、人質となった。現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合からみて様式的に古い形を示し注目される。なお、天保4年(1833)の修復銘もある(大田区教育委員会)

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加藤清正正室の層塔
この塔は江戸時代に建立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、8層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永3年(1626年)に11層の石塔として建てられた。加藤清正(15621611)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(16011611)の母である正室応院が、生前に自分のために仏事をおさめ死後の冥福を祈るという逆修供養のために建てたものである。本門寺15代日樹が開眼している。初層の塔身に追刻されている慶安3年(1650)の銘は正応院の命日である。(大田区教育委員会)

南洲海舟評議の処(松濤園)
慶応4年(18683月、倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒幕軍の主席参謀であった西郷隆盛と幕府軍の勝海舟がこの地で会見をし、江戸城無血開城の交渉を行った。会見は松濤園内の四阿で行われているが、建物は現存しない。この石碑は昭和16年に建てられたもので、西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫になる。なお本門寺には倒幕軍本陣が置かれていた。東京都指定旧跡(東京都教育委員会)


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池上本門寺
大田区池上にある日蓮宗の大本山。寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている。弘安5年(128298日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。918日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。同年1013日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺境内となっている。本門寺は鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。Wikipedia

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本行寺山門

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赤門
本行寺の正面玄関です。門の手前右側の大坊坂は大本山池上本門寺や荼毘所に通じており『新編武蔵風土記稿』には「大坊坂方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」との記述があります(本行寺HP)


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本行寺(ほんぎょうじ)
山号は長崇山。池上本願寺の子院、理境院・照栄院と共に池上三院家のひとつ。池上・大坊顕の字法縁。本行寺の境内は1282年(弘安5918日)に常陸国へ湯治に向かう途中の日蓮が身をよせ、同年1013日に病没した池上宗仲の館跡にあたる。1015日にこの地で日蓮は荼毘に付され、遺骨は遺言により久遠時寺に納められた。本行寺の起源は1276年(建治2年)に池上氏館内持仏堂法華堂とされたことに始まり、日蓮入滅後間もない1283年(弘安6年)に日朗の弟子九老僧の大乗阿闍梨本成院日澄に池上氏館の地共々寄進されて本行寺が開創されたとされる。以来宗祖入滅の霊場として池上本門寺の子院(末頭)のなかでも特に格式の高い、池上三院家の筆頭として大乗坊日澄の名から「大坊」と称された。元々中本山であったが昭和61年に本山(由緒寺院)に昇格した。また池上法縁五本山の1つにも挙げられている。当寺の伝承に「お会式桜」と「ひきずり豆腐」がある。お会式桜は日蓮が入滅した時、庭の桜が時ならぬ花を咲かせたと伝えられ、今もその桜が現存している。ひきずり豆腐は日蓮が池上家に到着した折、宗仲夫妻が差し上げた料理と伝えられるWikipedia

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日蓮聖人坐像(大田区指定有形文化財)
像高56.7cm、木像寄木造り、彩色、玉眼。胎内腹部に「武州立花之郡稲毛之庄渋口郷施主尾曽川忠盛(花押)仏師鎌倉伊与守」と墨書銘があるが、記年はない。渋口郷は現在の川崎市高津区子母口で、この地の旧家小(尾)曽川氏は同所の日蓮宗円融寺の檀越で、同寺の墓域には同氏の先祖の五輪塔などがいまも残されている。円融寺の開山は池上本門寺9世日純(1482-1550)で大坊本行寺から栄進した僧である。おそらく小曽川氏との信仰関係が深かったに違いない。本像は円融寺が開創されたと伝えられる天文3年(1534)この年の12月大坊も焼失からそう時代を経ない中世の作品と考えられ、鎌倉仏師の作風を示す日蓮像としても注目されよう。(大田区教育委員会)
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日蓮大聖人御入滅之霊場

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日蓮上人入滅の旧跡(東京都指定旧跡)
日蓮(1222-1282)は鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖。安房国に生まれ若くして天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修業し、仏法の真髄が「法華経」にあるとしきびしく他宗を排撃したため、諸宗・為政者から圧迫を受けた。 晩年は甲斐身延山に隠棲し弟子や信者の指導にあたっていたが、弘安5年(128298日病の悪化とともに身延山を出発、18日に武蔵国千束郷池上右衛門太夫宗仲(現・本行寺境内)に到着し、1013日の朝この場所で入滅した。病中の日蓮が身延山を立ってここに移ったのは、その昔、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮(東北方)にあたる工匠純陀の家で入滅した故事にならったものである。(東京都教育委員会)

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池上宗仲夫妻坐像
木像寄木造り、彫眼、像高217cm。本像の寄進者は丹波屋半兵衛、開眼の導師は身延山久遠寺33世日享で、至徳4年(1714)に造られたことは台座の銘文によってわかる。よく祖型を残し、後補された様子もなく、小型ながら肖像彫刻として極めて精巧なものである。胎内には曼荼羅本尊などを記した小紙片が収められているが筆者を詳らかにしない。宗仲夫妻は日蓮の大檀越(篤信者)で日蓮が夫妻の邸で入滅したのは有名である。(大田区教育委員会)

池上宗仲(むねなか)
鎌倉時代
の武士で日蓮の有力檀越。官位は日蓮の書状によると右衛門大夫。大中臣氏を自称しているが、池上氏は藤原忠平又は藤原良相の子とされる池上忠方末裔を称する家柄である。日蓮に深く帰依し、弟の池上宗長とともに池上兄弟と呼ばれた。父は鎌倉幕府の作事奉行だった池上左衛門大夫(池上康光とも)。母は印東祐昭の娘で、比昭は母方の叔父、同じく母方の従兄弟に日朗日像がいると伝わる。また、江戸時代中期の豪農としても知られる池上太郎佐左衛門幸豊は24代目にあたるとされる。父の左衛門大夫は真言律宗の忍性(極楽寺良観)の熱心な信者だったため、日蓮の信徒となった宗仲は健治2年(1276)・同3年(1277)の二度にわたり父から勘当された。しかし日蓮の慰留もあって日蓮宗への信仰を守り、弟の池上宗長を勧誘するなどしている。勘当が解かれたのは弘安元年(1278)でのち父・左衛門大夫も入信している。弘安5年(1282918日、師の日蓮が病気治療のため常陸国へ旅する途中、武蔵国池上郷(現・大田区池上)にあった彼の居館(池上邸)に滞在し、同年1013日に日蓮はそこで入滅した。正応元年(1288)日蓮七回忌の際、宗仲は日蓮の六老僧の一人・日朗と協力して日蓮の御影像を造った。この御影像を安置したのが池上本願寺である。宗仲は日蓮入滅後、館やその周辺の土地を寺に寄進し寺領とした。この寄進地が池上本門寺の基礎となった。そのなかでも彼の居館は日蓮入滅の霊場として重要視され、長崇山本行寺(池上本門寺の院家)となっている。Wikipedia


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御硯井戸
日蓮聖人が身延山からご到着になられた翌日、この井戸の水で墨をすり、9年の間庇護をして下さった波木井実長にあてた礼状などをしたためられました(本行寺HP)


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毘沙門堂
夜叉を従えた北方の守護神で、暗黒界の長とされ、鬼門の守り神とされる毘沙門天(漢訳では多聞天)のお堂です(本行寺HP)



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御灰骨堂
日蓮聖人ご入滅の後、ご遺体を荼毘(だび)にふした際の御灰(中にご真骨を蔵す)を収取し、安置してあります。現在のお堂は昭和54年(1979年)3月、本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものです(本行寺HP)
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本行寺境内案内図

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照栄院山門

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照栄院
正応四年(1291日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間(1441-1444)に再興された。元禄二年(1689南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治2年(1869)に廃されるまで多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文4年(1664)加藤清正の娘瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して奉納したもの。(池上の寺めぐり)

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日朗聖人坐像(大田区指定文化財)
木造寄木造、彩色、玉眼、像高50cm。当院の開山・本門寺二世日朗(1243-1320)の像である。像底の銘文により元和7年(1621)に造られ本門寺十六世の日樹により開眼されたことがわかる。区内に現存する開山像の中でも最古に属するもので、また「不受不施派」の中心人物であった日樹の自筆銘文が書かれた像としても注目に値する。近年、補修彩色が行われ像底の下部が半分ほど塗りつぶされ銘文が判読できなくなってしまったのは惜しい。(大田区教育委員会)

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江戸名所図会 本門寺  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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堤方神社鳥居/池上


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堤方神社
祭神:大鷦鷯命(仁徳天皇)創建之年代はわからない。もと若宮八幡社と呼ばれていたが、明治42年旧堤方村村内にあった三所神社(江戸期には熊野社といった)、十二神社(江戸期には十二天社といった)、稲荷神社、境内の稲荷神社を合祀し、翌43年堤方神社と改称した。(大田区の神社)

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めぐみ坂               曙楼門柱跡


めぐみ坂

池上一丁目18番と19番の間を堤方神社脇まで上がる坂道。坂を上がる左側にめぐみ教会があるためこの名で呼ばれることが多いようです。ところが、昭和5年発行の『大東京川崎横浜復興大地図』では、この坂は「あけぼの坂」となっています。明治時代中期に徳富蘆花の小説『富士』にもでてくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会の敷地に開業し、それにちなんだ名であろうと思われます。「あけぼ乃楼」は明治大正期は大変繁盛し元勲、貴族が連夜宴を催し日露戦争の戦勝祝賀会も催されたと伝えられていますが、昭和4年に廃業しました。地元の古老の方々によるとこの坂は古くは相の坂とも呼ばれていたそうです。(大田区)

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街道の風景② 本門寺参道を直進し呑川を渡ります/浄国橋

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浄国橋から本門寺を望みます      旧道を中央に向かいます

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池上本門寺周辺地図
(赤:平間街道・池上道 紺:六郷用水北堀 青:呑川)


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資料ファイル

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池上道
池上道は弘安 5年(1282年)に創建されたという大田区池上一丁目の本門寺向かう道です。池上本門寺は弘安5年に日蓮聖人が入滅(臨終)した地であることから、江戸庶民の霊場信仰の対象となり祥月命日の1013日とその前夜はお会式、古くは御影講 (おめいこう)・御命講 (おみょうこう)と称して江戸市中および近郊の日蓮宗信者は集団で池上に参詣する習わしでした。現在でも団扇太鼓に鉦を手に、万灯 (まんどう)や講中の名を染め抜いた幟 をもち、集団で池上本門寺に参詣し賑わいは昔とかわりません。江戸時代後期に十方庵が著した紀行文「遊歴雑記」に、池上本門寺に参詣したのは日蓮宗信者だけではなく、特に秋のお会式のころには大田区矢口の新田明神(現在の新田神社)や大田区六郷の安養寺・古川薬師への参詣あるいは紅葉見物を兼ねた周遊コースとなっていた様子が記されています。

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さて、江戸の町から池上本門寺に向かう主要な道は東海道を通り南品川宿から大井村を通るいわゆる現在の池上通りに近い道でした。この南品川宿から池上道に合流する道筋はいくつもあったと考えられますが主な道筋3あり、その1つは南馬場から今のゼームス坂通りに近い道筋から立会川に架かる上立会橋を利用する今の池上道に合流する道筋で、道幅は3間(5.4m)でした。

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2つ目は青物横町から仙台坂、立会川の中立会橋を渡って大井三ッ又で今の池上通りに合流する道、
3つ目は青物横町から伊達家下屋敷付近を南に折れて今の月見橋を渡って西光寺・光福寺の前を通って来迎院付近で池上通りに合流する道です。また、品川宿から東海道をさらに進み現在の京浜急行梅屋敷駅付近から本門寺へ向かう道も利用していました。このほかに、中原街道からは平塚橋で折れて中延村へはいり通称「中通り」といわれる道で、法蓮寺の前を通って馬込村から池上に達する道などがありました。
次に、現在、品川区内に残っている池上道を示す道標についてお話しましょう。その場所は大井一丁目の清護稲荷神社 (せいごいなりじんじゃ)内と西大井一丁目の路傍、豊町の大原不動堂内と中延五丁目の庚申堂脇と路傍の合計5が残っています。そのうち2基は日蓮宗信者が建てたもので、大井一丁目清護稲荷神社にある天保9年(1838年)造立の道標は品川宿と日本橋の講中が建てたもので、正面に池上本門寺の貫主の筆による題目が刻まれています。中延五丁目のものは「下中延村題目講中」の人たちが天保2年(1832年)に建てたものです。このほか池上道を示す道標は目黒区・大田区・世田谷区の各区には合わせて22基が現在も残っており、江戸近郊の広い範囲から池上本門寺を目指して人びとが集まってきていたことがわかります(江戸時代の道/品川区)


by Twalking | 2017-09-07 15:48 | 東京散歩(新規)

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