無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 平間街道(旧池上道)03-大森   

日時 2017.9.3(日)
天気 晴れ

池上本門寺から大森、大井へと向かいますが、
この一帯は古い街ですから平間街道のメインになります。
住宅街になっていますが旧蹟や古刹が多く面白いです。

途中、品川歴史博物館に寄り、大井町まで歩きましたが、
時間が遅くなってしましい寺社が閉まってました。
「大井駅家」と推定される大事な地域なので、
品川道で改めて歩き直したいと思います。


・・・中央/大田区

大田区の中央部やや北寄りに位置する。東部はJR東海道本線に接しこれを境に大田区大森西になる。西部・北部は台地(武蔵野台地)となり西隣には池上本門寺(池上)、北西部は南馬込と接している。南部は呑川を境に西蒲田と北東部は環七通りを境に山王と接する。北東から南西に池上通走っており東急バス通りとなっている。五丁目、六丁目は台地になっており明治・大正時代は著名な文豪、俳優の別荘地(馬込文士村)となっていた
Wikipedia

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街道の風景① 街道ぽくなってきました、台地の裾を東へ向かいます/中央


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長勝寺山門/中央


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長勝寺
寺伝によれば正保3年(1646)田中長勝により開創された。新編武蔵風土記稿には房州長狭郡小湊誕生寺末で、覚應山と号し、開山日繕、開闢の年代は伝えないが、2世日言が寛文11年(1671)入寂であるからそれほどの古寺ではないとある。(大田区の寺院)

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日樹上人供養塔(大田区指定文化財)
幕府の施物は信仰による布施でないとしてこれを受けることを拒否し、純信性を唱え日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした不受不施派の巨頭・池上本門寺十五世・長遠院日樹1574-1631)の供養塔である。寛永7年(1630)受側を代表する身延と不受を主張する池上は公庭に対決し(身池対論)、幕府の裁許により池上方は破れ日樹は信州飯田に流された。この塔は日樹の33回忌に近在の信徒集団によって建てられたことが銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。(大田区教育委員会)

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大田神社鳥居/中央


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大田神社
祭神:誉田別命
創建の年代はわからない。神体は那須與一宗高守本尊であったといわれている。この地域旧市野倉は小田原北条の頃は太田新六郎の領地であったので、太田氏の名が神社名となったことが考えられる。もとは家運八幡宮と称していた。(大田区の神社)

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街道の風景② なんということのない道ですが古道と思うと味があります/中央

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いにしえの東海道/小母沢公園
「この道は時代により奥州街道 相州鎌倉街道 平間街道 池上往還などと呼ばれていた古道です」

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ここの旧地名は「大田区新井宿子母沢」(現大田区中央4丁目)、作家の子母澤寛さんのペンネームは住んでいた子母沢からとられたそうです/小母沢公園

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街道の風景③
 現在は暗渠ですがかつては内川に「出口橋」が架かっていました。交差する田無道は馬込・洗足池の嶺道を通り田無方面へ向かう旧道です/大森赤十字病院先

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春日神社鳥居/中央 

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春日神社
創建は鎌倉時代と伝えられている。この頃当地に仮寓した鎌倉の残党が奈良春日大社の御分霊を勧請したのが当社の始まりといわれている新編武蔵風土記稿の新井宿の稿に『村の南の方池上道の東側にあり。本社9尺に2間半。社前30歩を隔て、鳥居をたつ。村内善慶寺持。末社。天神稲荷疱瘡神合社。本社に向ひて右の方にあり』と記されています。(大田区の神社)
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街道の風景④ この辺りが中心でしょうか、鎮守の森があると落ち着きます/春日神社前

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古東海道碑と明神橋跡の石柱       環七を潜ります   

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左手に根ヶ原神社があります。もとは第六天社と呼ばれていたそうです/山王


・・・山王/大田区


町域内を南北に池上通りが通っている。町域東部は大森駅の西口にあたり駅周辺は商店やビルが立ち並ぶ。池上通の裏、駅前の傾斜を下ったところにある山王小路飲食店街は、かつて雨が降ると坂を上がれないことから地獄谷と呼ばれており昭和の香りを色濃く残す飲食街が並んでいる。かつては文化人や実業家、政治家の邸宅が並ぶ住宅地である。江戸時代は平間街道(現池上通り)ぞいの宿場町として新井宿と称した。大森駅前の山側は将軍家の御狩場で低地部は田畑となっていた。明治5年に鉄道が開通し(新橋~横浜間)、大森停車場が開業(明治9年)すると、多くの外国人が移り住み開発が始まった。明治20年には大森八景園が開業し、京浜の新名所となる。その後、大森ホテルや望翠楼ホテルを中心に別荘地として栄えたが、大正12年の関東大震災後は安全利便な郊外住宅地として人気を博し、各界の名士が移り住んだほか、独逸学園が横浜より移転し(1991年閉校)、現在もジャーマン通りの名称にその名残を残す。また、昭和初期には時代を代表する文学者が数多く集まり馬込文士村の一角を形成した。
Wikipedia)

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街道の風景⑤ 池上通りと合流し大森駅へ向かいます/山王 

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熊野神社参道入口            例祭日で街は賑わってました

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善慶寺山門/山王

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善慶寺
正応4年(1291)3月28日、増田三郎右衛門が日法(1252-1341)に帰依して当寺を建立した。11世日円の代までは身延山末であったが、12世日好が勝劣派の教えに従い品川本光寺末となった。昔は近くの熊野神社春日神社両社の別当を兼ねたが三派合同により日蓮宗となる。新井宿六人衆処刑に際し20世日応は死骸を当寺墓地に葬った。(大田区の寺院)

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新井宿義民六人衆墓
江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで旗本木原氏の知行地であった。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮は甚だしく過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、19ヶ条の訴状(東京都指定有形文化財「新井宿村名主惣百姓等訴状写し」)を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓6人は将軍家綱に起訴(おっそ)しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)正月2日密告により捕えられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現在の千代田区内神田1丁目2-4番)で処刑されたといわれている。
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新井宿義民六人衆による起訴事件は村人の中に語り継がれ、延宝8年(1679)義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が両親の墓を建てると称して6人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に6人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取りつけられその間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。近年の寺域整備により改葬され、その際出土した甕棺と義民六人衆の遺骸引取りの際に使役した馬の飼葉桶は境内に展示公開されている。(東京都教育委員会)

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山王熊野神社鳥居


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山王熊野神社
創建の年代は明らかでない。伝説では平将門の乱の鎮圧に下向した藤原恒望に従った熊野五郎武通が当社に戦勝を祈願したといわれている。元和年間(1615-1624)にこの地域新井宿村の地頭木原木工允が日光造営の棟梁を務めたので、その余材で当社の社殿を造ったといわれている。(大田区の神社)

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闇坂(くらやみさか)
八景坂下の山王二丁目12番と三丁目31番の間を北西に上がる坂道です。昔、坂のそばに八景園があり、反対側に加納子爵邸があって坂に八景園の樹木がうっそうと覆いかかり、昼間でも暗かったためこの名がついたといわれています。八景園とは明治17年に開園した遊園地でした。ちょうど現在の天祖神社裏手一帯にあたり、その広さ約一万坪、数百株の梅が植えられ東京湾の風光一望のもとに入る眺望であったといわれています。明治33年に大和田建樹のつくった鉄道唱歌は「梅に名をえし大森を、過ぐれば早も川崎の」と、梅の名所として八景園を歌いこんでいます。なお、闇坂という坂の名前はポピュラーで、東京では主なものが12坂あげられています(大田区)


・・・大森/大田区

大森は第二次世界大戦前の東京市時代、旧大森町(現在の大森西、大森中、大森東、大森南、大森本町)という地名として存在していた。また戦前の東京35区の時代にはこれら地域を含めた区として旧大森区が存在した。現在では旧入新井町(現在の大森北、山王、中央)の一部も大森北という地名になっている。また地名としての他に広義には大森駅周辺を漠然とさすこともあり、その場合には山王や中央、品川区南大井の一部も含まれる。地名は大森林があったことに由来するという説。この地域は大我井杜(おおもり)と言われていたことに由来するという説があるWikipedia)

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街道の風景⑥ かなりの急坂です。古の坂下は海岸線、大森駅の高台は荒藺ヶ崎(あらいがさき)と呼ばれ、『草陰の荒藺の崎の笠島を見つつや君が山路越ゆらむ』と万葉集に詠まれた景勝地です/大森駅手前

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天祖神社参道/山王

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神明山天祖神社
お社は江戸時代神明社といわれ主神は天照大御神を祭神とし、おおよそ享保年間(約300年前)に土地の庄屋、年寄、百姓が相謀り伊勢神宮の参拝を目的に「伊勢講」を作り伊勢皇大神宮に詣で分霊をお受けして祭祀したのを初めとする。八代将軍徳川吉宗が将軍就任と共に伊勢の橋爪源太郎が享保2年(1717)幕令を受け「綱差役将軍の鷹狩の時に捕えられた鳥に餌付けする役職で、彼は鶴の生捕り飼育に長けていた」として不入斗を構え菩提寺は円能寺にある。新井宿村の伊勢講の成立ち、並びに遂行管理に伊勢出身者の彼が便宜を図ったことが予測されるので、このころには創建された根拠になっている。
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伊勢神宮は天照大御神を主祭神とし、天手力男神、万幡豊秋津姫命を相殿に奉るに従い、本神社も三種の神器の一つの八咫鏡(やたのかがみ)を神体としている。お社は八景坂の西上に当り、境内は48段の石段を上りたる幽邃(ゆうすい)の地にして、延宝5年(1677)江戸幕府の命により円能寺の別当するところになり、明治初年まで同寺の管理下にあった。明治5年(187211神仏混淆禁令に伴い、円能寺の手を離れ神明社は伊勢を意味していたので、神社ではあるが区内唯一冠称を付け「神明山 天祖神社」と名を改め地元の鎮守として、階段下の神社の大きな標柱にも「鎮守 天祖神社」と刻字され物語っている。(由来説明板)

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伝承
境内社殿脇に大きな松があったが徐々に枯れて対照6年(191710月の暴風雨で倒れたが、この松は平安時代末期、寛治5年頃(1091)鎮守府将軍八幡太郎義家(源頼朝の高祖父)が後三年の役に奥州征伐に赴くに当たり駒を止め、鞭を下し、鎧を掛けて土地の風景を眺め、暫し汗を拭い取ったとのことで「八幡太郎鎧掛けの松」と古来伝承され、その孫松の切株は当社拝殿の中に大切に保管されている。

浮世絵などの史実
安永9年(1780)の大橋方長の著作「武蔵演路」天保5年(1834)の長谷川雪旦の「江戸名所図会」初代歌川広重の「名所江戸百景」「絵本江戸土産」等にも八景坂鎧掛松として描かれている。往時は社から眺める風景は田園、海岸、遠くは房総まで一望の下に見渡すことが出来たという。(説明板)

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庚申供養塔
寛政12年(1800)造立。区内唯一神社の崖下を刳り抜き、入口は狐格子、駒型青面金剛立像で、線香台も八幡海岸(現在の大森本庁一帯)石工「石政」の刻字が残されて珍しい。(説明板)

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江戸名所図会 本門寺  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

八景坂/天祖神社入口
今でこそゆるやかな坂道であるが昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研(やげん)のようだったところから別名薬研坂と呼ばれた。この坂の上からはかつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という八景が選ばれ八景坂というようになったといわれる。かつて坂上には源義家が鎧をかけたと伝えられるがあり、広重らの浮世絵に描かれ有名であった (大田区教育委員会)

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清浦さんの坂/山王
大森駅前池上通りから山王の高台に続くこの坂道は、大正から昭和にかけて坂の中ほどに居を構えた第23代内閣総理大臣「清浦奎吾」にちなんで「清浦さんの坂」と呼ばれていました。都心から程近く、海の見える緑豊かな大森山王周辺の高台は、閑静な住宅地として人気があり多くの政治家や文人などが暮らしていました。(大田区)

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街道の風景⑦ 坂上の山王口、左手が中世道路の発見地のようです/山王口

中世道路発見の地/山王口
平成134月ビル建設による遺跡調査において道路跡が発見されました。調査の結果、長さ約16・幅約4の道路跡が発掘されました。中世後期(室町時代)の陶器が出土したことから中世の道路跡と考えられます。また、この道路跡は池上通りの前身である江戸時代の池上道に沿っており、池上道が鎌倉街道に関係することから注目すべき発見といえます。また道路跡の路面下から奈良時代の須恵器が出土しておりこの道路跡が古代東海道の「大井駅」に至る駅路に関連する道路の可能性が考えられます。今回の発見は、大田区の交通史を考える上で重要なものです。(大田区教育委員会)

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日枝神社鳥居/山王


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日枝神社
もと新井宿村の名主酒井権左衛門の庭内社であった。延宝5年(1677円能寺が別当となり明治初年迄同寺の管理下にあった。この頃は山王社と呼ばれていた。(大田区の神社)

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円能寺山門/山王

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円能寺
真言宗智山派。寺伝によれば開創は天正年間(1573-92)とされているが、「新編武蔵風土記稿」には開山の年代不明であるが第4世永範の寂年が延宝元年(1673721日であるから、創建年代は推して知ることができるとある。しかし当寺の歴代には永範の名を見られない。(大田区の寺院)
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街道の風景⑧ この鹿島神社から右折して旧道が多い街へ続きます。右手が大森貝墟碑、300m先に大森貝塚史跡庭園があります/池上通り・品川区

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平間街道(池上本門寺~大森)ルート図
(紫:平間街道 赤:品川道 茶:旧東海道 緑:古奥州街道)


・・・・・
資料ファイル

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大森貝墟碑/大田区山王

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大森貝墟(かいきょ)碑の由来/大田区山王
大正1412月大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース
博士の訃報が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郞・臼井米二郎・佐々木忠次郎・松村瞭・宮岡恒次郎の6名が発起人となり、大森貝塚の顕彰とモース博士の偉大なる功績を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の日誌と記憶、ならびに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより小林脳行店主の臼井米二郎所有地(東京府荏原郡入新井町字新井宿山王下255番地・現在の大田区山王1丁目31号)とされた。21名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけたが昭和2年アメリカで起きた世界恐慌が日本にも及び、献金は集まらず臼井米二郎が土地と資金を提供し《大森貝墟》碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っている。

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除幕式は昭和5413日におこなわれた。碑の材料は仙台石で高さ六尺、幅三尺これに二段の台石を据え、碑の表面には碑名、英文記事、発起人の氏名を刻み、裏面にはモース博士の貝塚発見の由来を彫った。昭和30324日《大森貝墟》碑は品川区の大森貝塚遺跡庭園内にある《大森貝墟貝塚》碑とともに国の史跡に指定された。史跡《大森貝墟》碑は日本の歴史に輝きをあたえた大森貝塚とその発掘者モース博士をたたえるとともに、師を敬愛する明治期の人々の意気が感じられる。私たちはこの碑を国の文化財の象徴として末永く保存管理する使命をもっている。この像は《大森貝墟》碑の約2分の1寸法のレプリカです。実物は左のNTTデータ敷地通路奥の階段を下りた先にあります(東京都大森貝塚保存会 会長 関俊彦)

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モース博士と大森貝塚
アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は明治10年(18776月横浜から新橋へ向かう車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を『SHELL MOUNDS OF OMORI』として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。モース博士は東京大学の動物学の教授となり進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績を残しました。また独立心と独創性をもちたえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます(東京都大森貝塚保存会 日本電信電話公社)


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大森貝塚碑/大森貝塚遺跡庭園(品川区)

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大森貝塚
品川歴史館から徒歩5 分ほどにある大森貝塚遺跡庭園(品川区大井6)は、モースの手によって明治10(1877)に日本で初めて科学的な発掘調査が行なわれた日本考古学の発祥の地・大森貝塚である。大森貝塚は縄文時代後期から晩期(3500-2400年前)を中心とする集落を伴う遺跡である。遺物は多種におよぶ貝のほか魚や動物の骨、土器、石器、人骨など多様なものが出土しており、昭和30(1955)には国の史跡に指定されている。海の恵みをうけた品川の地に、太古から人聞が生活していたことを示す証が大森員塚である。

その後の発掘
品川区によって2度の発掘調査が行われました。昭和59年(1984)の調査では広範囲の貝層が確認され、モースが未出と指摘していた石鏃や貝製装飾品などを含む多くの遺物が見つかった。また、平成5年(1993)の調査では貝層の他にも6軒の住居跡が確認されるという重要な発見もあった(品川|歴史館解説シート)


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日本考古学発症の地・国指定史跡大森貝塚
大森貝塚は明治10年(1877)アメリカ人エドワード・S・モース博士によって発見され、日本で初めて学術調査が行われた縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡である。品川区はモース博士の生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携を記念してこの碑を建立する(品川区教育委員会)

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二つの貝塚碑
大森貝塚発掘の記念碑は2つ存在する。一つは大森員塚遺跡庭園の「大森貝塚碑 (品川区大井6)で、もう一つはNTTデータビル敷地内の「大森貝境碑( 大田区山王1)である。大森貝塚碑は大坂毎日新聞社社長であり考古学者でもあった本山彦ーが発起し、大山柏らが中心となりモースの教えを受けた佐々木忠次郎や石川千代松らの賛同を得て昭和4(1929)に建立された。一方、大森県境碑は東京大学のモース記念事業の一環として、モースと共に発掘に携わった佐々木忠次郎の記憶をもとに昭和5(1930)建立された。当時、モースが発掘した場所は発掘調査報告書に正確な場所や遺跡周辺の地図が記されていなかったことや、その後の景観の変化などによって分からくなっていた。しかし昭和52( 1977)モースが発掘に際して地主・殿村平右衛門との聞に交わされた発掘保証金関係の文書の中から「大井村2960 番地字鹿島谷 (現・品川区大井6丁目)記載とその付図が発見された。また発掘調査でも縄文後期の貝層住居跡が大森貝塚碑付近で発見されたことなどもありモースの発掘した大森貝塚の所在が裏付けられた(品川歴史館解説シート)

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大森貝塚遺跡庭園
大森貝塚碑を中心とした一帯は、昭和59年に品川区とモース生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携締結を記念して整備され、翌年には大森貝塚遺跡庭園として開園した。さらに平成8(1996)に敷地を拡張し現在の大森貝塚遺跡庭園となった。庭園には学習広場や体験広場が備えられ、大森員塚碑をはじめモースの銅像やポートランド市との姉妹都市提携記念碑も設置されている。また品川|歴史館の展示と同じく貝層の剥離標本も設置しており、区民の憩いの場として、また日本考古学発祥の地を偲んで絶えず人々が訪れている(品川|歴史館解説シート)

海進と品川周辺の遺跡/説明板
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最も海進が進んでいた時期と現在の海岸線(関東地方)

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居木橋遺跡に人が住んでいた時期(縄文前期)と現在の海岸線

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大森貝塚に人が住んでいた時期(縄文後晩期)と現在の海岸線

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大森貝塚の貝層の位置

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大森貝塚の貝層の断面図

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馬込文士村散策のみち/天祖神社参道脇(大森駅)

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馬込文士村
馬込は昔から九十九谷と呼ばれ、丘と谷が複雑に入り組む起伏に富んだ地です。優位は大榎燭と雑木林、都会からも離れたこの九十九谷に尾崎士郎宇野千代夫婦がやって来たのは大正12年のこと。面倒見がよく親分肌の士朗の誘いに関東大震災後の住宅難も手伝って多くの文士が誘いにのり、以前から住んでいた画家や作家も加わって馬込はにわかに騒がしくなってきました。それがのちに「馬込文士村」といわれるもとになりました。互いの家を行き交い酒を酌み交わしては文学談義に花を咲かせ、麻雀やダンスに興じてはハメを外し、果ては離婚騒動までもち上がった文士村。文化的に転換期を迎え時代の間で漠然ととした不安にからればがら、次代の文学を構築する彼らの人間味あふれる生き生きした姿がそこにありました。今では残っている旧宅もわずかですが、文士たちが通った九十九谷にひたってみてはいかがでしょうか。(案内板)

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馬込文士村散策のみちマップ

by Twalking | 2017-09-10 19:50 | 東京散歩(新規)

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