無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 城南五山01-花房山&池田山   

日時 2017.10.9(月)
天気 晴れ


八ツ山や御殿山は街道筋なので知ってますが、
「城南五山」というのは知りませんでした。
目黒から北品川へ続く丘陵のピークを言います。

目黒川低地の東側、山手線の内側の高台ですが、
江戸の頃は大名の下屋敷で、名の謂れとなっています。
閑静な住宅地、坂も面白そうなので訪ねてみました。


・・・下目黒/目黒区


目黒区東部地区に属する。北で目黒一~四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。一丁目と三丁目は坂が多く、なかでも行人坂は都内屈指の急坂である
Wikipedia

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街道の風景① 行人坂を目黒川へ下ります/大円寺前

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行人坂
行人坂は下目黒一丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は江戸時代に権之助坂が開かれる前は二子道として江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。「江戸名所図会」には『目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す』とある。行人坂という名称は湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ「行人坂火事」とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったのでだれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。現在、雅叙園のある付近一帯はかつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺とともに江戸中に知れわたっていたところである。(『明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり』「江戸名所図会」)。行人坂が急坂であることは権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。(目黒区)

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大円寺本堂

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大円寺/下目黒
天台宗。この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。本寺には「生身の釈迦如来」と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)「木造十一面観音立像」(区指定文化財)徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。

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明和92月(1772)本堂から出火、江戸六百余町を焼き多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。境内には「行人坂敷石石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。(目黒区教育委員会)

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川の風景 上流の新大橋(権之助坂)の景観です」/太鼓橋

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太鼓橋
太鼓橋は行人坂から目黒不動へ向かう道筋の目黒川にかかる橋です。明和61769年)に完成し、長さ83尺(約15.3m)幅2m間(約3.6m)太鼓の胴のような形をした石橋でした。広重の『名所江戸百景』の中にも描かれた橋でしたが大正991日の豪雨で崩落しました。翌年、木橋が架けられ、昭和7年に東京市編入記念事業として鉄橋に架け替えられ、平成3年の目黒川改修工事に伴い現在の橋になりなした。太鼓形ではありませんが橋名は昔のまま受け継がれています。(目黒区)

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江戸名所図会 夕日岡 行人坂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大鳥神社鳥居/下目黒

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大鳥神社
かつての目黒村(それ以前は下目黒村)の鎮守。11月に行われる酉の市でも知られる。言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願した。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年としておりこれは目黒区最古である。江戸図における最古のものとされている室町時代の長禄の江戸図には「鳥明神」として当神社が描かれており、当時の江戸図には9つの神社しか描かれていないため、大鳥神社は江戸九社のひとつとして知られている。

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また江戸名所図会では「大鳥大明神社」として描かれている。当神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことから始まったといわれている。現在でも11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ね賑わいを見せる。現在の社殿は昭和37年(1962)に完成したもの。平成18年(2006)には鎮座1200年祭が行われた。隣接する目黒通りと山手通りの交差点は大鳥神社の名前が冠せられており、交通の要所となっているWikipedia

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織部式燈籠(切支丹燈籠)
下目黒の大鳥神社所蔵で昭和38年守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示されていたものです。もとは千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものと考えられます。(境内掲示)

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大鳥神社のオオアカガシ
大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として昭和38年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は現在でもオオアカガシのタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。指定時に樹高約16m、幹周り1.6mあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが平成14年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが成功せず、平成24年に指定解除となりました。ここに説明板を設置し都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 大鳥明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景② 権之助坂(目黒通り)を目黒駅に上ります/大鳥神社先

目黒不動尊の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22246396/



・・・上大崎/品川区


品川区の北部に位置し港区・目黒区・渋谷区との区境に接する。北部は目黒区三田・渋谷区恵比寿に、東部は港区白金台に、南東部は品川区東五反田に接する。南西部は品川区西五反田に、西部は目黒区・下目黒にそれぞれ接する。山手線の線路が縦断しており目黒駅がある。また地域内を東西に目黒通りが通っている。目黒駅周辺には商業施設が見られる。上大崎一丁目付近は白金台や池田山に隣接し、上大崎二丁目付近は高速道路脇の通称「(白金)長者丸」、上大崎三丁目付近は大使館が多く集まり通称「花房山」と呼ばれ高級住宅地としても知られる。
Wikipedia

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街道の風景③ 右手がJR目黒駅、目黒区だと思ったら品川区なんですね/駅前

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江戸名所図会 富士見茶亭 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

夕日の岡
目黒駅のあたりは高台の地で目黒川に続く荏原台の方角に沈む夕日が趣深く「夕日の岡」と呼ばれていました。江戸後期に刊行された『江戸名所図会』には挿絵入りで紹介されていますが『昔は紅葉が一面に生い茂り、晩秋の頃は夕日が照り映え見事であったが、今は紅葉も少なく、その名だけが伝わっている』と書かれていて、当時、既に様子が変わっていたことがわかります。しかし、はるか西南に富士山を望む景勝地であったことに変わりはなく『江戸名所図会』には行人坂上富士見茶屋で人々が休憩する様子も描かれています。(文化財めぐり/目黒区)

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生誕八幡神社
鳥居/上大崎


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生誕八幡神社
当神社は文明年中(1469-87
太田道濯公の勧請により創立され、明治維新前は誕生八幡宮と称し高福院別当であったが、維新後、下大崎村鎮座の雉子神社の摂社として八幡神社と称して永峯町、六軒茶屋町二力町の崇敬者によって維持奉祀されてきた。明治42614日、六軒茶屋町551番地の稲荷神社を合祀した。戦後社号を誕生八幡神社と改称して現在におよんでいる。(東京都神社名鑑)

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高福院山門/上大崎

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高福院
高野山真言宗。寛永年間(1624年から1644年)に香川の高松藩主松平讃岐守が現在の国立自然教育園一帯に下屋敷を拝領した折に創建したといわれています。墓地には大正から昭和期にかけて活躍した劇作家・小説家の長谷川伸、版画家の恩地孝四郎、江戸時代後期の蘭学医石井宗謙の墓があります。石井宗謙はシーボルトの鳴滝塾に学んだ人物で、シーボルトの娘いねに産科の技術と知識を指導しました。(文化財めぐり/目黒区)


・・・花房山

城南五山
東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称である。いずれも山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての地域にあり、古くからの高級住宅街として知られる。島津山 池田山 花房山 御殿山 八ツ山で構成されるWikipedia

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この辺りがちょっと小高い感じがします/花房山通り

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花房山
花房山の桜並木。周辺は静かな住宅街。そばにはJR山手線が通る(写真:コロンビア大使館)

「花房山」の由来
住所は上大崎3丁目山手線に沿った地域。目黒駅の東側、目黒通りをはさんで南側に位置するのが花房山。明治末、花房子爵が屋敷を構えたことによる呼称で、現在も山手線沿いの道路に「花房山通り」の名称がつけられている。花房子爵とは花房義質という明治、大正期の高名な外交官。爵位授爵の際にこの高台に邸を構えた。(品川観光協会)

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街道の風景④ 山手線に沿って五反田へ下ります/花房山通り

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旧・播磨三日月藩森家上屋敷跡/上大崎3丁目播磨国
(現・兵庫県)森家上屋敷は品川区内の大名屋敷の中で唯一の上屋敷である。三日月藩は1万5千石の大名で、上屋敷と地続きの抱屋敷を含めて約1万坪余の広さがあった。屋敷一帯の字は「森ヶ崎」と呼ばれているが、森家の「森」と舌状台地の先端を示す「崎」から名付けられたとされている。安政3年(1856)頃の三日月藩主は森伊豆守俊滋。(品川区教育委員会)


・・・東五反田/品川区


品川区の北部に位置する。町域北部は品川区上大崎・港区白金台に接する。東部は港区高輪、南東部は品川区北品川に、南部は目黒川に接しこれを境に品川区大崎に接する。西部は山手線の線路に接しこれを境に品川区西五反田に接する。東五反田三丁目付近は通称「島津山」、東五反田五丁目付近は通称「池田山」と呼ばれておりこれらの付近は高級マンション、邸宅などが見られ山の手を代表する高級住宅地としても知られる。皇后美智子も当地(東五反田五丁目)の出身であるWikipedia

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街道の風景⑤ 坂下の外苑西通りを上り返して先を右折、池田山に向かいます

外苑西通り

東京都道418号北品川四谷線のうち富久町西交差点から四谷四丁目、南青山三丁目、西麻布、天現寺橋を経由し、白金六丁目で左折して白金台交差点に至る区間には「外苑西通り」の名称がついており、これは1984年(昭和59年)の「東京都通称道路名設定」にも含まれている。外苑西通りは1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された通りであるWikipedia


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インドネシア大使館先にねむの木の庭  この先が池田山公園入口です


・・・池田山


品川区東五反田45丁目付近の高台に相当する。名称は備前岡山藩・池田家の下屋敷があったことに因む。池田山には池田山公園やねむの木の庭といった公園も整備されている。


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ねむの木の庭/東五反田

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ねむの木の庭
品川区東五反田五丁目にある品川区立の公園である。当地にはもともと皇后美智子生家として知られる正田家の邸宅があった。1933年(昭和8年)に日清製粉正田英三郎社長邸として当時の清水組が設計施工した。趣きのある建物だが故正田英三郎の遺産にかかる相続税の一部として2001年(平成13年)に国に物納された。建物の老朽化が激しく、建物の保存を求める要望書の提出のほか、署名や募金を呼びかけたり長野県軽井沢町への移築も検討されたりしたが、建物は2002年(平成14年)に解体された。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得して整備、2004年(平成16年)「ねむの木の庭」として開園した。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因む(Wikipedia)

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眩いばかりの緑、これが紅葉したら美しいでしょう
ね~/池田山公園

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池田山公園
品川区東五反田にある品川区立の都市公園である。当地一帯は江戸時代、岡山城主・池田氏下屋敷があったところであり、付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれた。廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていた。やがて池田山付近は宅地化され邸宅が立ち並び、池田山は山の手有数の高級住宅街として知られるようになった(そのなかの邸宅のひとつに皇后美智子実家である正田家の邸宅があった。現在建物はなく跡地はねむの木の庭という小さな区立公園になって一般に公開されている)。

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また、池田山公園のあるところは池田家の下屋敷の奥庭の部分であった。戦後しばらく私人の邸宅があったところであったが品川区が庭園を保存すべく土地を取得し公園として整備し、1985年に区立公園として開園されたものである。現在でも江戸時代回遊式庭園が良好に整備・保存されており一般に公開されている
Wikipedia
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谷戸にひっそりと佇む大池、オアシスですね、美しい

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街道の風景⑥ 池田山を下ると中原街道、南側の丘が島津山になります/東五反田

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目黒駅周辺地図(180°回転)
(赤:歩行ルート 青:目黒川 緑:目黒通り・山手通り・外苑西通り)

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目黒駅周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:目黒道 紫:中原街道 青:目黒川)


・・・・
資料ファイル


江戸の大名屋敷
大名屋敷に上屋敷・中屋敷・下屋敷の制が整えられたのは明和31657)の大火以後のことである。上屋敷は藩主やその家族が住む居屋敷として江戸城周辺に、中屋敷は隠居や嗣子(しし)の住む屋敷として主に江戸城の外堀の内側に営まれ、上屋敷罹災の折予備の邸宅にあてられた。下屋敷のうち海浜、川辺のものは国許から送られてくる物資の荷揚場・蔵屋敷として、また江戸近郊に設けられてものは避難用の屋敷として位置づけられたが、いずれも築山や園池を配し休息用の別荘としても利用されていた。これらは、幕府から大名が拝領するもので(拝領屋敷)、大名自ら土地を買い上げて屋敷にする抱地・抱屋敷とは異なる。
当時江戸近郊に位置した品川地区には大名・旗本などの下屋敷・抱屋敷が多くみられた。大井村の島津(薩摩藩)、山内(土佐藩)、上大崎村の一橋、真田(松代藩)、下大崎村の伊達(仙台藩)、北品川の細川(肥後宇土藩・熊本藩支藩)の屋敷などである。(品川歴史館解説シート抜粋)

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品川区域の武家地一覧(安政3年・1856頃)/品川歴史館


目黒道

江戸市中から品川宿を経由しない主な道筋をみてみましょう。今の港区二本榎から中原街道を利用して東五反田一丁目付近から西に入り、徳蔵寺・谷山橋・安楽寺を経て目黒不動へ、もしくは徳蔵寺に向かわず直進し今の本村橋を渡ってから安楽寺方向へ行く道筋でした。また今の港区白金(江戸時代の白金大通り)から六軒茶屋町、今の誕生八幡神社付近から目黒駅近くの行人坂を経て目黒川に架かる太鼓橋を渡って目黒不動に至る道筋がありました。さらに港区赤坂・麻布付近からは広尾を経て爺ヶ茶屋 (じいがじゃや)(目黒区三田2丁目)を通って茶屋坂から目黒川に架かる田道橋などを渡り、大鳥神社から目黒不動へゆく道などもありました。 このように目黒不動尊へは江戸からも周辺の村々からも多くの道筋がありました。当然、参詣者も多く目黒駅近くの上大崎4丁目から下目黒2丁目に下る行人坂をすぎるあたりから竜泉寺門前まで酒食の茶屋や土産物屋が連なっていたといいます。(江戸時代の道/品川区より抜粋)



by Twalking | 2017-10-13 12:39 | 東京散歩(新規)

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