城南五山01-花房山&池田山
天気 晴れ
八ツ山や御殿山は街道筋なので知ってますが、
「城南五山」というのは知りませんでした。
目黒から北品川へ続く丘陵のピークを言います。
目黒川低地の東側、山手線の内側の高台ですが、
江戸の頃は大名の下屋敷で、名の謂れとなっています。
閑静な住宅地、坂も面白そうなので訪ねてみました。
・・・下目黒/目黒区
目黒区東部地区に属する。北で目黒一~四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺(目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。一丁目と三丁目は坂が多く、なかでも行人坂は都内屈指の急坂である(Wikipedia)


行人坂は下目黒一丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は江戸時代に権之助坂が開かれる前は二子道として江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。「江戸名所図会」には『目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す』とある。行人坂という名称は湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ「行人坂火事」とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったのでだれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。現在、雅叙園のある付近一帯はかつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺とともに江戸中に知れわたっていたところである。(『明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり』「江戸名所図会」)。行人坂が急坂であることは権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。(目黒区)












目黒不動尊の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22246396/)
・・・上大崎/品川区
品川区の北部に位置し港区・目黒区・渋谷区との区境に接する。北部は目黒区三田・渋谷区恵比寿に、東部は港区白金台に、南東部は品川区東五反田に接する。南西部は品川区西五反田に、西部は目黒区・下目黒にそれぞれ接する。山手線の線路が縦断しており目黒駅がある。また地域内を東西に目黒通りが通っている。目黒駅周辺には商業施設が見られる。上大崎一丁目付近は白金台や池田山に隣接し、上大崎二丁目付近は高速道路脇の通称「(白金)長者丸」、上大崎三丁目付近は大使館が多く集まり通称「花房山」と呼ばれ高級住宅地としても知られる。(Wikipedia)


夕日の岡
目黒駅のあたりは高台の地で目黒川に続く荏原台の方角に沈む夕日が趣深く「夕日の岡」と呼ばれていました。江戸後期に刊行された『江戸名所図会』には挿絵入りで紹介されていますが『昔は紅葉が一面に生い茂り、晩秋の頃は夕日が照り映え見事であったが、今は紅葉も少なく、その名だけが伝わっている』と書かれていて、当時、既に様子が変わっていたことがわかります。しかし、はるか西南に富士山を望む景勝地であったことに変わりはなく『江戸名所図会』には行人坂上の富士見茶屋で人々が休憩する様子も描かれています。(文化財めぐり/目黒区)


当神社は文明年中(1469-87)太田道濯公の勧請により創立され、明治維新前は誕生八幡宮と称し高福院が別当であったが、維新後、下大崎村鎮座の雉子神社の摂社として八幡神社と称して永峯町、六軒茶屋町二力町の崇敬者によって維持奉祀されてきた。明治42年6月14日、六軒茶屋町551番地の稲荷神社を合祀した。戦後社号を誕生八幡神社と改称して現在におよんでいる。(東京都神社名鑑)


高野山真言宗。寛永年間(1624年から1644年)に香川の高松藩主松平讃岐守が現在の国立自然教育園一帯に下屋敷を拝領した折に創建したといわれています。墓地には大正から昭和期にかけて活躍した劇作家・小説家の長谷川伸、版画家の恩地孝四郎、江戸時代後期の蘭学医石井宗謙の墓があります。石井宗謙はシーボルトの鳴滝塾に学んだ人物で、シーボルトの娘いねに産科の技術と知識を指導しました。(文化財めぐり/目黒区)
・・・花房山
城南五山
東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称である。いずれも山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての地域にあり、古くからの高級住宅街として知られる。島津山 池田山 花房山 御殿山 八ツ山で構成される(Wikipedia)


「花房山」の由来
住所は上大崎3丁目山手線に沿った地域。目黒駅の東側、目黒通りをはさんで南側に位置するのが花房山。明治末、花房子爵が屋敷を構えたことによる呼称で、現在も山手線沿いの道路に「花房山通り」の名称がつけられている。花房子爵とは花房義質という明治、大正期の高名な外交官。爵位授爵の際にこの高台に邸を構えた。(品川観光協会)


・・・東五反田/品川区
品川区の北部に位置する。町域北部は品川区上大崎・港区白金台に接する。東部は港区高輪、南東部は品川区北品川に、南部は目黒川に接しこれを境に品川区大崎に接する。西部は山手線の線路に接しこれを境に品川区西五反田に接する。東五反田三丁目付近は通称「島津山」、東五反田五丁目付近は通称「池田山」と呼ばれておりこれらの付近は高級マンション、邸宅などが見られ山の手を代表する高級住宅地としても知られる。皇后美智子も当地(東五反田五丁目)の出身である(Wikipedia)

外苑西通り
東京都道418号北品川四谷線のうち富久町西交差点から四谷四丁目、南青山三丁目、西麻布、天現寺橋を経由し、白金六丁目で左折して白金台交差点に至る区間には「外苑西通り」の名称がついており、これは1984年(昭和59年)の「東京都通称道路名設定」にも含まれている。外苑西通りは1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された通りである(Wikipedia)

・・・池田山
品川区東五反田4・5丁目付近の高台に相当する。名称は備前岡山藩・池田家の下屋敷があったことに因む。池田山には池田山公園やねむの木の庭といった公園も整備されている。








(赤:歩行ルート 青:目黒川 緑:目黒通り・山手通り・外苑西通り)

(緑:目黒道 紫:中原街道 青:目黒川)
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資料ファイル
江戸の大名屋敷
大名屋敷に上屋敷・中屋敷・下屋敷の制が整えられたのは明和3年(1657)の大火以後のことである。上屋敷は藩主やその家族が住む居屋敷として江戸城周辺に、中屋敷は隠居や嗣子(しし)の住む屋敷として主に江戸城の外堀の内側に営まれ、上屋敷罹災の折予備の邸宅にあてられた。下屋敷のうち海浜、川辺のものは国許から送られてくる物資の荷揚場・蔵屋敷として、また江戸近郊に設けられてものは避難用の屋敷として位置づけられたが、いずれも築山や園池を配し休息用の別荘としても利用されていた。これらは、幕府から大名が拝領するもので(拝領屋敷)、大名自ら土地を買い上げて屋敷にする抱地・抱屋敷とは異なる。
当時江戸近郊に位置した品川地区には大名・旗本などの下屋敷・抱屋敷が多くみられた。大井村の島津(薩摩藩)、山内(土佐藩)、上大崎村の一橋、真田(松代藩)、下大崎村の伊達(仙台藩)、北品川の細川(肥後宇土藩・熊本藩支藩)の屋敷などである。(品川歴史館解説シート抜粋)

目黒道
江戸市中から品川宿を経由しない主な道筋をみてみましょう。今の港区二本榎から中原街道を利用して東五反田一丁目付近から西に入り、徳蔵寺・谷山橋・安楽寺を経て目黒不動へ、もしくは徳蔵寺に向かわず直進し今の本村橋を渡ってから安楽寺方向へ行く道筋でした。また今の港区白金(江戸時代の白金大通り)から六軒茶屋町、今の誕生八幡神社付近から目黒駅近くの行人坂を経て目黒川に架かる太鼓橋を渡って目黒不動に至る道筋がありました。さらに港区赤坂・麻布付近からは広尾を経て爺ヶ茶屋 (じいがじゃや)(目黒区三田2丁目)を通って茶屋坂から目黒川に架かる田道橋などを渡り、大鳥神社から目黒不動へゆく道などもありました。 このように目黒不動尊へは江戸からも周辺の村々からも多くの道筋がありました。当然、参詣者も多く目黒駅近くの上大崎4丁目から下目黒2丁目に下る行人坂をすぎるあたりから竜泉寺門前まで酒食の茶屋や土産物屋が連なっていたといいます。(江戸時代の道/品川区より抜粋)
by Twalking | 2017-10-13 12:39 | 東京散歩(新規)