無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 城南五山02-島津山・御殿山・八ツ山   

日時 2017.10.9(月)
天気 晴れ

池田山を下ると中原街道、この台地一帯は
東海道の北側の丘にあたります。
かつては大名屋敷や寺領だった所です。

島津山、八ツ山、御殿山いずれも閑静な住宅地、
落ち着いた雰囲気のある街です。八ツ山通りを
南へ登りましたが、のんびりと散策するには
味わい深い所だと思います。


・・・五反田


品川区の北部にあるJR山手線・東急池上線・都営地下鉄浅草線の五反田駅を中心とした地域名である。単に「五反田」と表記する地名はなくおおむね山手線を境に西五反田と東五反田に分かれる。東京城南区域の中核地としてオフィス街、繁華街、歓楽街として栄えている。江戸時代に「五たんだ」として出現した地名。目黒川がほぼ東西に流れその谷周辺の水田が、一区画が5反(約50002)あったために名づけられたと思われる。五反田は大崎村小字であり周辺でしか知られていない地名であったが、1911年に山手線の五反田駅が開業し星一が大規模な製薬工場(星製薬)を建設したことで知られるようになった。(Wikipedia

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街道の風景① 中原街道・相生坂の途中を右折して島津山へ向かいます/雉子神社前

相生坂
相生坂の名勝は古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道とこの坂のある中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂が険しいものであったが、だんだんに道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。(案内標柱)


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宝塔寺山門/東五反田


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宝塔寺
新編武蔵風土記では文亀2年(1502南品川漁師町に建てられたのが始まりだと記し、しかし南品川漁師町は明暦年間(1655-1658)に海岸の寄洲を埋立ててそこにできた町であるから、この伝承は信じられないとしている。万治年間(1658-1661)にのちに下大崎村に建てられた大名の一柳家の下屋敷の近くに移ったが、目黒川に近いので屡屡水害を受けたため現在の場所に移ったという。開創当初は法東寺といったが寛永頃(1624-1644)に宝塔寺と改め慈光院と称したといい、また正徳4年(1714)中興開山伝陽の代に寺格が上り、山号を許されて白雉山と称したという。このときから麹町城琳寺末寺となったといわれている。(品川区の文化財)

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雉子神社鳥居
/東五反田

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雉子神社(きじじんじゃ)
品川区東五反田にある神社。創建は文明年間(1469-1487)と言われている。村民の霊夢により大鳥明神を祀っていた。江戸時代に入り、慶長年間になり三代将軍・徳川家光が鷹狩に来た時、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしとして家光から「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、「雉子ノ宮」と改称した。そして江戸社寺名所にその名を連ねた。明治維新の際に雉子神社と改められる。明治時代以前は隣接してある宝塔寺が別当寺であった。明治43(1910)に上大崎村にあった三島神社を合祀して現在に至っている。(Wikipedia

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江戸名所図会 雉の宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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袖ヶ崎神社/東五反田
当神社はもと忍田稲荷大明神と称し保延3年(11372月鎮斎され、のち康永3年(1342越前国丹生郡小川村の鎮守八幡宮の神主山口直奇の次男直正が東国へ下向し、当神社の神主となった。この時直正累代の守護神、神明宮を社の南方へ勧請し、地名をもって袖ケ崎神明宮と奉称、明治に至るまで忍田稲荷と称していたが、その後、袖ケ崎神社と改め現在におよんでいる。去る昭和205月の戦災により社殿・社務所・末社等一宇も残さず焼失した。(東京都神社名鑑)

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本立寺/東五反田
慶長2年(1597)に池上本門寺12世日惶が上目黒村に建立したのが当寺の始まりであり、開基は能勢市十郎頼永の妻、法性院天窓日忠といわれている。その後この寺は衰微して無住となったので、現在の場所にあった同宗の恵性寺の住職が兼帯していた。貞享4年(1687)幕府の寺院整理政策によって恵性寺が廃寺とせざると得なくなったとき、同寺の住職が願い出て本立寺名跡を同寺に移して恵性寺の跡を残したものと伝えられている。(品川区の文化財)

中原街道(五反田・高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/


・・・島津山

品川区東五反田
13丁目付近の高台に相当する。名称は旧島津公爵邸に因み、同邸宅は現在清泉女子大学となっている。

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街道の風景② 落ち着いた街並ですね~、右手に曲がると清泉女子大学です

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階段が多い街ですが、いずれも個性的で風情がありますよ~

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街道の風景③ 左手が清泉女子大、島津山になります、下って八ツ山通りに向かいます

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清泉女子大学/東五反田3丁目
相生坂八ツ山の坂の間に位置し「島津山」と呼ばれる区内有数の高級住宅地の一角にあります。本館は旧島津公爵邸として大正4年に建てられたルネッサンス様式の美しい洋館で、邸内の見学会も行われています。昭和62年には「しながわ百景」に選定されています。(品川区)

袖ヶ崎島津邸
老朽化した袖ヶ崎邸を英国風洋館に改築することを計画し1906年(明治39年)にジョサイア・コンドルに設計を依頼した。設計変更・明治天皇の崩御等もあって竣工したのは1915年(大正4年)。設備や調度等が整えられ1917年(大正6年)に披露された。その後、戦争のため維持できなくなり1944年(昭和19年)に日本銀行へ売却。周囲は大半が戦火焼失したにもかかわらず邸は焼失を免れる。1946年(昭和21年)1月から1954年(昭和29年)5月までGHQの管理下に置かれ、1961年(昭和36年)清泉女子大学本館となる。周囲一帯を島津山という。(Wikipedia


・・・北品川(五丁目)

東側は北品川四丁目、北側は北品川六丁目になる。当地も「御殿山」と呼ばれる一帯で邸宅や高級マンションが多く見られる。区域北端に八ツ山の坂(通称ソニー通り)、区域内に小関通りが通る。かつては北部にある六丁目とともにソニーの本社や関連施設があったが、五丁目にソニー御殿山テクノロジーセンターを残し2007年に港区港南一丁目(品川駅東側)へ移転した。20124月に着工した「北品川五丁目第1地区第一種市街地再開発事業」が2015年にパークシティ大崎として開業した(Wikipedia

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街道の風景④ 八ツ山の坂を上ります/八ツ山通り(ソニー通り)

八ツ山通り
北方の高輪には三菱関東閣で有名な八ツ山(土砂採取され、現在は山はない)がある。そこに向かう八ツ山の坂(八ツ山通り、通称ソニー通り、都道317号環状6号線の一部)は目黒川・五反田付近から端を発し左に池田山や島津山、中央向かいの八ツ山に並んで右側に御殿山と「城南五山」のうち4つの山の間を通る坂である。(Wikipedia


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ソニー村
ソニー株式会社の根拠地だったことで知られる品川区の御殿山地区を指す通称。ソニーの前身である東京通信工業株式会社(1958年に現社名に改称)が創業翌年の47年同地区に本社を移転。以来、周辺に同社の主要関連施設が多数建設されラジオやテレビ、ウオークマンなどのヒット商品が生み出された。90年にはNSビルが完成し2007年に現在の本社ビル(東京都港区)が稼働するまで本社機能を担った。07年度に地区内の大半のビルが売却され14年にはNSビルの売却が決定。同エリアにはソニー歴史資料館などわずかな施設が残るのみとなっている。(コトバンク)

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八ツ山の坂/坂上
このあたりは武蔵野台地突端にあった丘陵で、湾岸に突き出した洲が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のためにいつしか八ツ山の坂という名がつけられた。この道はもと三間道路と呼ばれ、道幅が3(約6m)で、あたりには人家も少なく夜は寂しい通りであったという。(標柱)

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旧因幡鳥取藩池田家下屋敷跡(元出雲松江藩大崎屋敷跡)
この地は鳥取藩下屋敷になる以前は出雲国(現・島根県)松江藩松平家下屋敷跡(拝領地14982坪、抱地4230坪)で、7代藩主松平治郷(号・不昧)が隠居後ここに独楽庵はじめ11の茶室を造り茶道三昧の晩年を送ったところとしてしられる。その後、周辺の川辺の抱地以外は幕府に公収され嘉永6年(1853)に鳥取藩池田家に下屋敷として与えられた。このころ著名な茶室は取り払わりたという。安政2年(1855)頃の鳥取藩松平(池田)相模守慶徳(15代軍慶喜の兄)は325千石の家禄があり、上屋敷は八代洲河岸(現・千代田区丸の内)中屋敷は浜町大橋際(現・中央区浜町)にあった。(説明板)


・・・北品川(四丁目)


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区域東部はJR線の線路に接し北品川三丁目になる。西部は御殿山通りなどを境に北品川五丁目と接する。一帯は「御殿山」と呼ばれる高級住宅地として知られる。邸宅やマンションが見られるほかJRの線路沿いには御殿山トラストシティ(旧・御殿山ヒルズ→御殿山ガーデン)という高層マンションとオフィスビル・ホテルなどの複合建造物が設置され付近のランドマークにもなっている。区域北東端の新八ツ山橋・八ツ山橋付近は幹線道路が集まっており交通の要所としても知られる。品川御殿は品川区北品川3丁目5番付近、英国公使館は北品川3丁目5番から6番、北品川4丁目8番東側と推定される。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 坂上を右折し「道灌通り」を西へ、古は居木橋から高輪への道はこの辺り通ったんでしょうか?/御殿山交番先

道灌通り

江戸時代の地誌のひとつ「江戸砂子」などのほか多くの書物の中に「御殿山は太田道灌居住したと言い伝えがある」と書かれています。道灌ゆかりの地として通りの名となったのでしょう。(案内板)


・・・御殿山

品川区北品川3-6丁目付近の高台に相当する。名称は徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因む。旧邸跡は現在の御殿山トラストシティと原美術館になっている。


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御殿山花見・品川全図/広重(国立図書館蔵)

御殿山
南北にのびる品川宿の中央、目黒川の北に広がる丘陵。長禄(1457-1460)期には大田道灌の屋敷があった。寛永1624-1644)の頃、この地に御殿が建てられたことが名前の由来。使用目的は「将軍の狩猟の休息所」「西国大名の参勤送迎」など諸説ある。寛文(1661-1673)の頃から吉野が植えられ桜の名所となったが、御殿は元禄151702)年2月の大火で焼失しそのまま再建されなかった。幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られ、また文久21862)年には高杉晋作、久坂玄瑞、井上薫らにより新築中の英国公使館が焼き打ちされ全焼となる「御殿山焼き打ち事件」があった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)

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原美術館
品川区北品川にある原俊夫が設立した現代美術を中心とした私立美術館である。JR品川駅から車で5分ほどの住宅街のなかにある原美術館は東京ガス会長、日本航空会長、営団地下鉄総裁などを歴任した実業家・原邦造の邸宅であった。原邦造の養父の原六郎も実業家・美術品収集家として知られている。(Wikipedia

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御殿山の坂
ミャンマー大使館の前から小関に下る坂で、以前は現在よりさらに急な坂であった。戦前と戦後にかけて道を修理し勾配を緩和した。当時この辺は徳川藩の御料地であり、御殿山と呼ばれていましたのでこの名になりました。(品川区)


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御殿山通り
御殿山の地名のおこりは太田道灌の館があったからとも、また江戸時代に将軍の別邸があったからともいわれている。この通りが御殿山を横断する通りであることから御殿山通りとした。(品川区)
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御殿山庭園/北品川

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殿山庭園
品川駅から徒歩10分、八ツ山の坂と第1京浜に挟まれて御殿山アークヒルズが天高くそびえたっています。その裏手にあるのが御殿山庭園。よく管理された園内は南に行くにしたがって谷地になっており、ビルとのコントラストがよくとれた時間と空間を周りからシャットアウトできる絶好のスポットです。池に注ぐ滝は水量も多く、ライトアップされる夜間には大人たちに絶好のロケーションを提供してくれています。(品川区)

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東海道線を御殿山橋が跨ぎますが、鉄道建設等で分断された様子が分かります


・・・八ツ山

港区高輪
3-4丁目付近の高台に相当する。名称の由来については諸説ある。かつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣があるWikipedia

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街道の風景⑥ 庭園をひと廻りして第一京浜を下ります、左手が開東郭になります/御殿山交差点

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東海道名所案内 
品川八ツ山下/国貞(国立図書館所蔵)

谷ツ山-大日山
品川宿の最北端にあった丘陵。明和91772)年刊の『江戸砂子』によれば名前の由来は以前ここに「8つの岬があったため」「8つの大名屋敷があったため」など諸説ある。また別名の「大日山」は1700年代初め頃までこの地に大日堂があったことに由来する。麓の海岸には長さと幅がそれぞれ約18mの船繋場があり旅客や往来者が利用した。なおこの山の土は八ツ山下の海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木普請用に使われ、現在では坂があるがほぼ平地となっている。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)

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開東閣
港区高輪にある建築物、旧岩崎家高輪別邸である。高輪台の東にあり11200坪の広大な敷地面積を有する。一般公開はされておらず現在は三菱グループの倶楽部として使われている。周りに鬱蒼と木々を茂らせ外部からは建物自体が視認出来ないようにしてある(Wikipedia)

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街道の風景⑦ 右手が開東郭(八ツ山)奥が御殿山トラストシティ、下ると品川駅です/八山入口

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八ツ山橋
初代の八ツ山橋は1872年(明治5年)に架けられた日本初跨線橋である(この橋は木造橋)。1914年(大正3年)にアーチ形の鉄橋に架け替えられ、1924年(大正13年に東京電車鉄道が省線品川駅前から京浜電気鉄道旧品川駅前まで延伸により八ツ山橋上軌道を敷き、1925年(大正14年)に京浜電気鉄道本線が高輪駅までの延伸に伴いこの軌道線の一部に乗り入れをした。1930年(昭和5年)に既設アーチ橋(2代目)の西側に併設する形でアーチ橋(3代目)を架設し「2つの橋」となる。その後、京浜電気鉄道本線が現在の品川駅に延伸・軌道線廃止により1933年(昭和8年)供用した「八ツ山跨線橋」へ移り、東京電車鉄道の品川駅前から北品川駅前までの廃止により八ツ山橋は道路専用橋となる。1985年(昭和60年)に4代目の橋に架け替え現在に至る(Wikipedia
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街道の風景⑧ 八ツ山橋を渡ると東海道・品川宿の入口です/八ツ山口

東海道品川宿(北品川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25825171/

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御殿山周辺地図(90°回転)
(橙:歩行ルート 赤:東海道 青:目黒川)

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御殿山周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 紫:中原街道 緑:中世古道 橙:八ツ山の坂 青:目黒川) 


・・・・
資料ファイル

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品川の霊場・御殿山
御殿山はかつて海を一望できる小高い丘陵でした。幕末の台場築造に伴う土取りの際に、14世紀初頭~15世紀末にかけて造立された大量の碑や宝輪塔、宝篋印塔が人骨とともに見つかりました。中世の御殿山は極楽往生を願って供養や葬送が行われた霊場であったことが想定されます。また、船の航行する目印となる「当て山」であったと考えられます。(品川歴史館)
写真:「浜御殿山より品川新宿迄江戸街道絵巻(部分)」/東京都江戸東京博物館蔵

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品川御殿
中世においては墓石や供養塔が立てられた霊場であり、船が航行するときの目印にしたとされる御殿山は、江戸中期に桜の名所となったが、徳川将軍家の別邸「品川御殿」にその名の由来をもつ。品川には鷹狩場(品川筋 のち目黒筋と改称)があったことから歴代将軍がよく訪れており、御殿はその休憩所として使用された。また、海を一望できるその立地から品川御殿は軍事的な意味を持ち、江戸の防衛上重要な位置にあったと想定される。(品川歴史館解説シート抜粋)

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寛永期の御殿山(ジオラマ)/品川歴史館
(右上:品川御殿 中:品川神社 左:東海寺)

by Twalking | 2017-10-15 23:29 | 東京散歩(新規)

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