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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(6)東村山~狭山01-久米川   

日時 2017.10.26(木)
天気 晴れ


東山道武蔵路の遺構のことを知りたくて
歴史館を訪ねたのは2月頃だったでしょうか。
桜の頃に・・・が、半年以上が過ぎてしまいました。

天気に誘われて久し振りの鎌倉街道上道です。
久米川宿、所沢宿、入間宿と見所が多いので
じっくりと見てみたいと思います。


・・・久米川町(東村山市)

道興准后の「廻国雑記」(1486)に現在の柳瀬川を「くめくめ川」と呼んでいた記載がありこれが地名の由来のようです。鎌倉時代には鎌倉街道の宿駅として久米川宿は軍事的にも経済的にも重要な役割を果たしてきました。古くから宿場町として栄えてきたこの町には古木で有名な梅岩寺があります。樹齢700年といわれている大ケヤキは東京都の天然記念物に指定され、それに対峙して立つ樹齢600年のカヤの木は市指定の天然記念物に指定されています。熊野神社は隈に公園を擁し梅岩寺とともに豊かな緑地を市民に提供しています。(東村山市)

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街道の風景① 駅前の道は現在の府中街道です/東村山駅入口 

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次を左折すると武蔵路の遺構です  
   鎌倉道はその先を左折します/本町

本町の由来

昭和39年市制施行と同時に市政中心地であることから 「本町」と名付けられました。町名が示すように東村山駅の東南に広がる本町には市役所をはじめ中央公民館、市民センター、中央図書館、警察署など、豊かで安全な市民生活に欠かせない公共施設が集まっています。本町の北部を通る鎌倉古街道跡は上古の昔からこの地域が上毛、北越方面へ向かう交通の要所であったことを今に伝えています。新田義貞が鎌倉攻めの道としたことでも有名です。(東村山市)


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街道の風景② 左手に「旧鎌倉街道」の標柱が立っています/本町 

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旧蹟鎌倉古街道/グランド前
鎌倉幕府は重要な基盤である関東地方をしっかり統治するため鎌倉を起点として四方の街道を整備した。主なものは上ッ道、中ッ道、下ッ道と呼ばれた。東村山にも市域の南北上ッ道が通っており、市域鎌倉街道は古代の官道である東山道武蔵路にほぼ平行して走っていたと推定される。鎌倉化粧坂から府中を経て、小平市境の九道の辻より現府中街道にほぼ沿って北上し八坂神社(前にまいまいず井戸があった)、東村山駅を過ぎ白山神社付近から西武鉄道にほぼ平行し東村山と所沢市久米の境である勝陣橋あたりより堀兼・入間川・男捦・上野国を経て信濃に至る。文久8年(1271)日蓮上人の佐渡流刑の際に立ち寄った記述のある久米川宿、元弘3年(1333)の新田義貞鎌倉倒幕の久米川古戦場なども沿道にあったと考えられ、市の歴史上極めて由緒深い。(案内板)

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グランドの先左手に久米川白山神社が鎮座します/久米川町

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久米川白山神社
久米川町の鎌倉街道に沿いにありイザナギノミコトを祀っています。例大祭は1010日前後の土日で、境内には高さ67cmで石造丸彫座像の牛頭天王像があり市の有形民俗文化財に指定されています。(歴史の散歩道/東村山市)


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白山神社の牛頭天王像
牛頭天王は頭に牛頭をいただいた像で通称は「天王さま」として知られ、素盞鳴尊を同体とされています。疫病除けの神として知られていますが家内繁栄や招福の神としても信仰されました。この白山神社の牛頭天王像は高さ67cmcm程ですが、石造丸彫座像としては極めて珍しく武蔵野地域には類をみない優れた忿怒相の石仏です。胸には「信心者 当病除」と造立者の願いが彫られ、また台石には「村内安全」の文字とともに文政21819)に北久保忠蔵が願主となって造立したことが刻まれています。地域の言い伝えによるとこの像はもともと白山神社にあったものではなく明治の初め頃に井戸の中から発見されたそうですが、願主の北久保忠蔵の名は近くの「普門品供養塔」にもみえており当時のこの地域の有力者であったようです。(東村山市教育委員会)

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街道の風景③ 突き当りに「立川家長屋門」はなかったですね~、この一帯が「久米川宿」なのでしょうか?

久米川辻
旧久米川村の中心で南北方向の府中街道を軸に6本もの道が複雑に走っています。北へ延びる道は志木河岸や所沢方面へ、西へ延びる道は廻田町や青梅方面、南へ延びる何本かは府中や東京へと続いています。こうして村の辻は各方面からの情報の交差点でもありました。(東村山市教育委員会)


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梅岩寺山門/久米川町

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梅岩寺
1651年(慶安4)阿山呑碩和尚に中興開山されたといいます。ケヤキ(都天然記念物)、カヤ(市天然記念物)が山門の左右にあり、それぞれの樹齢が約700年、600年といわれています。市内で現存する最古い庚申塔や四国霊場巡りと同じ功徳が得られるという新四国石仏など文化財も多いです。(歴史の散歩道/東村山市)

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新四国石仏
江戸期特に中ごろから霊場巡り巡礼が庶民の間に盛行し、近くは坂東・秩父に遠くは四国八十八ヶ所詣でなどいわゆるお遍路が行われました。四国への霊場巡りは現代とちがって数ヶ月もかかり経済的にも身体的にもそれはたいへんなことで、だれでもが実行できるものではありませんでした。そこで地元に八十八ヶ所の石仏を造立し、四国まで行かなくとも同じ功徳が多くの人に得られるようにしました。これを新四国石仏といいますが、この石仏は文政7年(1824)に久米川村の榎本権兵衛らが建立し奉納したものであり現今、完全に八十八体として残されているものはこの近郷になく信仰史のうえからも価値があります。(東村山市教育委員会)

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庚申塔
江戸時代のころより庶民の間に庚申信仰がさかんになり村々では庚申講がつくられ、その講によって庚申塔が建立された。寛文(1661-1673)のころ多く建てられたが、この塔は市内で最も古いもので延宝5年(1677)梅岩寺三世一宣高策和尚(天和2年没)が建立したもので、笠付、上部に日輪・月輪、下に三猿、台石に講中の人名が刻まれている。庚申信仰とは61日目に廻ってくる庚申の夜に人体の中の30の虫が抜け出して、その人の悪事を天帝に告げられるのを防ぐという中国道教思想に始まる信仰である。(東村山文化財案内)

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ケヤキ
目通り幹囲7.1m、高さ約32.5m、幹は地上約3mのあたりから数本の大枝に分かれる。新編武蔵風土記稿久米川村梅岩寺の条に「門、芳林山ノ三字ヲ扁ス、周囲二丈許ノ古槻、或ハ一丈二尺許ノ椵樹、門ニ入テ左右ニアリ」と記している。地勢なお旺盛で都内にあるケヤキのうち有数の巨樹でありとくに樹高が秀でている。ケヤキはニレ科に属し巨樹となる落葉樹、春には新葉と同時に淡黄色の細かい花を開く。(東京都教育委員会)


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カヤ
梅岩寺のカヤは都内でも有数のカヤの大木で目通り幹囲5m、高さ約30m。樹令はおおむね600年です。新編武蔵風土記稿久米川村梅岩寺の条に「周囲二丈許の古槻、或は一丈二尺許の椵樹、門に入て左右にある」とありますが、槻はケヤキ(東京都指定天然記念物)であり椵はこのカヤを指すと思われます。カヤは一位科に属し常緑樹で枝も多くうっそうとしています。(東村山市教育委員会)

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久米川熊野神社鳥居/久米川町

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久米川熊野神社
旧鎌倉街道の沿道に鎮座し、元弘年間久米川の合戦の時新田義貞後詰を置いた所。明治4年村社に列せられた。明治14年本殿落成の折、有栖川熾仁新王の真蹟二軸を賜り毎年例祭にこれを掲げている。(北多摩神社誌)

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境内の北側は一段下がって公園に池があります。昔は大きな池があったそうですがその名残でしょうか?

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街道の風景④ 踏切を渡ると「西宿」、徳蔵院・将陣橋から八国山東麓への道も古道のようです/西武新宿線

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将陣橋&八国山            踏切先を右折します

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街道の風景⑤ 住宅地の道を直進、二瀬橋信号を左折します

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川の風景① 前川を合わせた北川が柳瀬川(右)と合流します/二瀬橋(所沢境)

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柳瀬川に沿って進みます        坂下の二差路を左折

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柳瀬川
荒川水系の支流である。東京都西多摩郡瑞穂町大字石畑字御達間ならびに入間市大字宮寺字金堀沢の狭山湖水道用地内の大沢・金堀沢などに源を発し、狭山湖を経た後ほぼ都県境に沿って(上流の金堀沢もほぼ都県境に沿って流れている)北東へ流れ、清瀬市下宿で清瀬水再生センターの放流を受け入れ、志木市新河岸川に合流する。狭山湖の湖底には現在でも川の旧流路が残っている。(別称)かつて所沢市南部を中心に「久米氏」という名の豪族が栄えた事から一部では久米川との別名があった。今では西武新宿線の久米川駅にその名が残っている。Wikipedia

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江戸名所図会 久米川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


八国山将軍塚・久米川古戦場跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23820487/


・・・久米
(くめ)/所沢市

所沢
大字。所沢市中南部に位置する。北で星の宮・南住吉、東で北秋津、南東で東村山市久米川町、南で松が丘、西で荒幡・北西で山口と隣接する。また北東側に飛び地を持ち北でくすのき台、東から南にかけて北秋津、西で東住吉と隣接する。西南部の鳩峯公園周辺狭山丘陵の一部となっておりナショナル・トラストによる『トトロの森2号地』など豊かな自然が広がる。地名はかつて久米某と名乗るものがこの地に居住したためとされるWikipedia

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街道の風景⑥ 左手に庚申塔が立ちます、直進し所沢台地へむかいます/久米

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T字路を左折             勢揃橋からの道を合わせます

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街道の風景⑦ 正福寺から北川沿いに八国山東麓、柳瀬川への道も鎌倉道の別ルートのようです/勢揃橋

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長久寺山門


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長久寺
長久寺は所沢で唯一の時宗の寺です。開山は鎌倉時代(元弘元年)です。山門の前を旧鎌倉街道が通っています。約3000坪の敷地に山門、本堂、客殿、庫裏、斎場、墓地、永代供養墓などがございます。(長久寺)

金銅造阿弥陀三尊立像(所沢市指定文化財)

長久寺の本尊として長い間伝わり通常は公開せず秘仏として厨子の中にお祀りされています。長久寺の開山は玖阿弥陀仏(くあみだぶつ)で新田義貞の鎌倉幕府倒幕の際、元弘3年(13335月に府中分倍河原で戦死した新田方の武将の供養塔八国山に建立した人で、この三尊は当時から伝来したものと思われます。三尊の高さは中尊が約19cm、両脇侍が約11および12cmです。像の身部に金色の残容が見られるのでもとは銅造鍍金の金銅仏であったことがうかがわれます。(所沢市教育委員会)

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廻国供養塔(所沢市指定文化財)
この塔の建立者である平塚宗順常陽は江戸時代中頃、江戸へ出て小児婦人科医を開業し、後に日本廻国行者となりました。当時は観音巡礼や四国遍路にならって日本国中の社寺を廻ることが流行していたようで、常陽も国中の神社仏閣を参詣し、その記念として安永3年(1774)にこの供養楼を建てたのです。この塔には四面すべてに文字が刻まれています。特に左側側面には「やくしのうた」と題して「唯たのめむびょう(無病)そく才(息災)福々と 寿命てきふう(長久)諸ぐわん(願)成就」とあり、さらに平塚夫妻の和歌が次のように記されています。今むまれて死ぬことの世の中にながきと人の思うもの哉 源常陽朝の間に心とめてしあさかほの見せばや人に夕ふくれのそら 妻とみなお、塔身の上の薬師如来像は塔の建立後新しく置かれたものです。(所沢市教育委員会)

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旗本中根氏の墓(所沢市指定文化財)
「旗本中根氏の墓」は長久寺本堂の裏手にあり中根正重200回忌にあたる寛政9年(179794日に子孫の中根正寧が再建したものです。また、正重の400回忌にあたる平成9年(1999)には長久寺護持会一同によって400回忌法要が行われ墓石覆屋と記念碑の建立及び墓域の整備がなされました。大名旗本諸家の家譜を記した「寛政重修諸家譜」によると、正重は慶長3年(159894日に伏見において死没し久米村長久寺に葬られました。正重の子の中根正成以降、代々の葬地は江戸深川法禅寺(現神田寺)に移りますが、長久寺には後代中根氏とその奥方息女などの位牌が納められています。また、中根氏は本堂の修復や屋根替えなどに際しても費用を寄進しており長久寺の維持発展に大きな功績を残しています。中根正重ははじめ徳川家康の長男信康に仕えていましたが信康の死後、家康に仕えて関東入国に供奉し天正19年(159153日、久米村200知行地を与えられました。以後、天和2年(1682421日中根正延の時に知行6千石となり、上級旗本として相応の職に就いた中根氏の久米200石知行は幕末まで続きます。「旗本中根氏の墓」は江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な資料です。(所沢市教育委員会)

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豊川稲荷
明治44(1911)愛知県の豊川稲荷より分社してもらい当山34世鐘阿義圓和尚によって安置されたものです。社殿は昭和47年と平成16年に再建されています。熊野大権現とともに寺の鎮守として大切にお祀りしています。初午祭、星祭の神事も行っております。(長久寺)

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街道の風景⑧ 街道は長久寺に沿って右に曲がりますが、ちょっと寄り道します/長久寺門前


・・・・・・

松が丘/所沢市

南端に東京都東村山市との都県境に位置し、北で久米、東で荒幡、南で東村山市諏訪町と接する。狭山丘陵の一角に西武グループが開発した住宅地の一つで、開発初期から電線地中化が行われ「環境共生住宅団地」の認定を受けたり「さいたま景観賞」を受賞した
Wikipedia)

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川の風景② 柳瀬川は八国山の北鹿の谷間を西から流れてきます/吾妻橋


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悲田処跡/悲田処跡公園

悲田処
平安時代初期の天長10833)、武蔵国多摩郡入間郡に設けられた布施屋。飢えや病気に苦しむ旅行者の一時救護所・宿泊所としての役割を果たした。悲田処の設置場所については設置時の記述に「多摩郡と入間郡の境」としか書かれていないため古来より諸説ある。比定地としては多摩郡側が東京都東村山市内に3ヶ所と清瀬市に1ヶ所、入間郡側が埼玉県所沢市に1ヶ所存在する。

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所沢市松が丘説
比定地は所沢市松が丘1丁目31番地14で、現在でいうと所沢の新興住宅地である松が丘の東に位置する。東村山市諏訪町説と並び東山道武蔵路通過していた地でもある。古くから跡地として伝承されていたようで5つある比定地の中では唯一「武蔵国悲田処跡」と書かれた標柱が立つとともに、周辺は「悲田処跡公園」として整備されている。しかしここを比定地とする根拠はあくまで伝承によるものであり学問的な根拠はまったく存在しない。このため疑義が出たのか昭和221947)に一度埼玉県の史跡指定を受けながら10年で解除され、昭和331928)に所沢市の方で再度史跡指定するという不自然な経過をたどっている。さらに昭和531978)から始まった宅地造成で発掘調査が行われたものの縄文時代の住居跡がわずかに見つかっただけで平安時代の遺物・遺構は一切確認されず考古学的にも跡地であることが否定される結果となった。

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東村山諏訪町説
比定地とされているのは中世に「久米川宿」が営まれた地域のうち「西宿」と呼ばれる地区で、現在の住所では諏訪町1丁目の中ほどに当たる。この地は所沢松が丘説と並び東山道武蔵路通過していた地でもある。この地域の特徴は単に「悲田処があった」というだけでなくかなり細かい伝承が残されていることである。それによると悲田処の建物は「板倉」「ハナヤ」「タケヤ」「ウメヤ」「薬師寺」の五棟からなっていた。中心的な建物は「薬師寺」でありこれが悲田処の本部というべき存在であった。「薬師寺」は後に「正永寺」という寺となったが「薬師寺」の名称は通称として残った。「薬師寺」→「正永寺」の跡地は諏訪町1丁目2817号の諏訪町自治会館周辺であるという。このような歴史的展開まで踏まえた伝承は他の地域にはない。Wikipedia抜粋)

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仏眼寺山門/久米

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仏眼寺
真言宗豊山派の寺院。佛眼寺は延暦21年(802)の建立とも伝えられています。周りをみどりに囲まれ良好な景観を形成しています。お散歩コースにもなっています。(所沢市)

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仏眼寺から鳩峯八幡神社へ雑木林の小道を森林浴、生き返る心地でした/久米八幡越市民緑地

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鳩峯八幡神社
(はとみね)鳥居/久米

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鳩峯八幡神社
旧社格は郷社。誉田別命(ほんだわけのみこと)・比売神(ひめかみ)・気長足姫尊(きながたらしひめのみこと)を祀る。創建は延喜21年(921)、山城国綴喜郡(つづきぐん・現在の京都府八幡市)の男山に鎮座する石清水八幡宮より分祀を受け、これを狭山丘陵の一部である現在地に祀ったことによる。社号や鎮座地の「鳩峯」は男山の正式名鳩ヶ峰にちなむ。なお創建について『新編武蔵風土記稿』は元弘3年(1333)としているが誤りである。以後しばらくの間、貞永元年(1232)に社殿を修復した以外に目立った動きはないが、伝説として鎌倉幕府を倒した新田義貞の話が残されている。

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元弘3年(1333年)に地元の上野国で倒幕のため挙兵した義貞は武蔵国で幕軍と衝突することになった。この際、八国山の将軍塚を布いた義貞は、当社で社前の松に兜を掛け境内に鎧を置いて戦勝祈願を行った。そしてのちに義貞が幕府を滅亡に追いやり一躍英雄となったのを記念し兜を掛けた松を兜掛の松と呼び、鎧を置いた場所には稲荷社を祀って鎧稲荷と称したというものである。この両者については現在も当社に残されている。天正19年(1591)には徳川家康より朱印地5石を寄進され幕末まで続いた。

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以降、久米地域総鎮守となる。明治維新後、明治5年(1872)に一度村社に列せられたが大正10年(1921)に郷社へ昇格した。

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本殿は建造年が不明であるが慶長13年(1608)の年号が入った棟札が残され、この年に修復を行った旨が記されていることから建造はそれ以前、室町時代より前であることがほぼ確実視されている。建築様式は一間社流見世棚造と呼ばれる比較的質素な様式による。埼玉県内でも数少ない室町時代以前の神社建築であり、埼玉県指定有形文化財に指定されている。周囲は狭山丘陵の一部で鬱蒼とした雑木林(鳩峯公園)となっており、その中に八幡神社本社そして周囲に摂社2社と末社数社が祀られている。Wikipedia

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鳩峯八幡神社社務所と参道

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久米水天宮鳥居

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水天宮(久米水天宮)
摂社の1。境内の南側の一段下、石段を下がったところに位置する。祭神は安徳天皇。地名を冠して「久米水天宮」と呼ばれる。例大祭は15日でだるま市が開かれる。この際には市内から初詣客とともに人が押し寄せにぎわいを見せる。また普段から安産の神様として周辺地区だけでなく所沢市中心部の人々の崇敬を集め、かつては市内の団子屋が縁起物として「子持ち団子」を売っていたこともあった。なお当社は単独の参道を持ち、地形上も独立しているような配置になっているほか、麓を走る西武バスのバス停名でも「水天宮下」の名が採用されるなど鳩峯八幡神社とは別の神社と勘違いされやすい状況下にあるが、あくまで立場は「鳩峯八幡神社の摂社」であるWikipedia

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永源寺山門/久米


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永源寺
久米に位置する、南北朝時代に創建された曹洞宗の古刹です。山門や伽藍は閑静なたたずまいにして、良好な景観を形成しています。延命・子育て地蔵にお参りする人も多く、境内の雪割草も親しまれています。(所沢市)


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大石信重墓塔
永源寺を創建したと伝えられる大石信重は木曾義仲の末裔を名乗り、室町幕府の関東管領を勤める山内上杉氏に仕えました。その後合戦の手柄によって上杉氏に重用され、武蔵国のうち多摩・入間両郡の内13の領主となり、さらには武蔵・伊豆両国の守護代を歴任しました。本堂の石段を上がったところに覆屋に入った石塔がありますがこれが大石信重の墓塔です。五輪塔や宝篋印塔などの部分で構成されていますが銘文のある基礎石は宝篋印塔の形式であるので、本来は宝篋印塔であったと考えられます。銘文には次のように刻まれています。直山守公菴主 正長三祀□廿八日巳剋 「直山守公」とは大石信重法名です。この石塔はいささか変形ながら中世の所沢地方を支配した大石氏の資料として貴重なものです。(所沢市教育委員会)

大石信重

南北朝時代の武将。大石氏中興の祖とされる。兄家村同様に足利氏に属して活躍した。木曾氏当主・木曾家教の三男。縁戚関係にある大石為重の婿養子となる。関東管領・上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷三百貫文を与えられた。観応2年(1351)挙兵した南朝方新田義宗と敵対し笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。延文元年(13565月その戦功として武蔵国入間多摩両郡13を得て同年8月に多摩に移住し、二宮(現在のあきる野市)にを構えた。また武蔵国目代職、武蔵国守護代、伊豆国守護代を歴任した。至徳元年(1384浄福寺城(現在の八王子市恩方町)を築城した。応永31年(1424年)89歳(または91歳)で死去。墓所は信重が開基した曹洞宗大龍山青松院永源寺所沢市久米)。Wikipedia

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八国山周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照



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資料ファイル

東山道武蔵路遺構

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東の上遺跡の案内板/南陵中学

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東の上(あずまのうえ)遺跡/久米
東の上遺跡は狭山丘陵を南に望む柳瀬川左岸武蔵野台地縁辺に立地し、面積は約30万m2を擁します。これまでの発掘調査によって縄文時代から中世・近世にかけて各時代の遺構が検出されていますが、とりわけ奈良・平安時代には大規模な集落が営まれており、入間地区でも屈指と言われています。特に南陵中学校校庭から検出された幅約12道路跡は古代国家の幹線道路「東山道武蔵路」として埼玉県内で初めて確認されました。また、墨書土器や漆紙文書、炭化した大量の米、帯金具や馬具などを出土していることから役所の働きをする集落であったと推測されます。出土遺物は所沢市立埋蔵文化財調査センターに展示及び収蔵されています。(所沢市)
(写真:ふるさと歴史館展示資料/東村山市)

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八国山周辺東山道武蔵路推定ライン/「東村山市No157遺跡調査概要報告」より(赤:東山道武蔵路推定ライン 赤破線:同支線 橙:鎌倉街道上道 青:柳瀬川・北川・前川)

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東村山市ふるさと歴史館

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ふるさと歴史館/諏訪町1丁目
東村山市は古代の「東山道」、中世の「鎌倉街道」を軸に特徴ある歴史がありこれらを反映した文化財が残されています。ふるさと歴史館は文化財保護や歴史資料の収集を進め東村山の歴史に関わる展示を開催しています。また、窓口では埋蔵文化財包蔵地(遺跡)の照会も行なっています。(東村山市)
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展示風景
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東山道が通る
7世紀もなかばを過ぎたころ小さな集落の散財する東村山に12もある大きな道である東山道武蔵路が通いました。所沢の台から降りてきて国分寺や武蔵国府一直線に目指すこの道は、律令制により中央と地方を結ぶ官道の一つ上野国府武蔵国府を結んでいたものです。その後、武蔵国府は東海道のグループに所属替えになりましたが、武蔵路は上野国へ向かう主要な道として東村山にさまざまな影響を与えていったのです。(ふるさと歴史館展示資料)

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鎌倉街道と久米川
鎌倉時代の東村山には北関東の有力武士団の根拠地よ幕府のある鎌倉とを結ぶ鎌倉街道上ツ道が通っていました。諏訪町の一部は西宿と呼ばれ、また久米川町には上宿新宿という地名が残されていることから、日蓮上人が佐渡島に流される途中に宿泊した久米川宿があったと推定されます。また、久米周辺はその地形的特徴から1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となった軍事的にも重要な地域で、その後も多くの戦いがくりひろげられました。(ふるさと歴史館展示資料)


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村山党の根拠地
狭山丘陵周辺に勢力のあった村山党は次第にその勢力をに拡げました。そして大井・宮寺・金子・山口・難波田・仙波・久米・荒幡などの場所にちらばり居館(住居)を構えた土地の名を名乗りました。また、なかには源氏と主従関係を結び保元・平治の乱で戦功をあげた金子十郎家忠のような武士もいました。(ふるさと歴史館展示資料)

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元弘の板碑(複製)1333年(元弘3
新田義貞の鎌倉攻めに従って府中及び相模の村岡で戦死した3名の武将を供養した板碑です。「太平記」の記述を証明するものとして国の重要文化財に指定されました。江戸時代には八国山の将軍塚の南斜面に立っていましたが、その後徳蔵寺に移され、現在は多数の板碑とともに徳蔵寺板碑保存館に展示されています。(ふるさと歴史館)


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瓦塔(複製)奈良時代(8世紀)
1934(昭和9)狭山丘陵の開墾中に発見され、東京国立博物館に運ばれ復元されました。瓦と同じ焼物の五重塔で、焼き方や土の特徴から奈良時代に埼玉県比企郡の窯で焼かれたことがわかります。当時の東村山には東山道武蔵路が通っており、武蔵国府や国分寺にも近く、遠く都から伝わった仏教文化の影響があったことを示す貴重な文化財です。(ふるさと歴史館)

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貞和の板碑(複製)貞和5年・1349
東京都内で現存する板碑のなかでは最大の板碑といわれています。この板碑は野口町を流れる前川の橋として使われ経文橋、念仏橋と呼ばれていました。それ以前は経文橋から約100m南に以前あった自教院の境内にあったとか、小川(小平市)の石塔を窪から大力の男が運んできたなどの言い伝えがあります。金剛山正福寺所蔵。(ふるさと歴史館)

by Twalking | 2017-10-30 22:04 | 鎌倉街道(新規)

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