無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(6)東村山~狭山02-所沢   

日時 2017.10.26(木)
天気 晴れ


長久寺から台地を上り東川低地へと下ると所沢、
駅周辺は行ったことがありますが旧市街は初めてです。
街道周辺に寺社・旧跡が残っています。

峰の坂を上ると狭山台地、県道ですが狭山境辺りから
茶畑が広がってのどかな田園風景になります。
入曽も旧跡が多く見応えがあって面白いと思います。



・・・南住吉/所沢市


所沢市内の南部、吾妻地区に所属する。西武新宿線・池袋線所沢駅の南西側に位置し、西住吉、東住吉、北秋津、久米、星の宮と隣接する。
Wikipedia

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街道の風景① 長久寺墓地に沿って柳瀬川の低地から所沢台地へ上ります/長久寺先

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西武線の踏切を横断左折        すぐの二差路を右折します/南住吉

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街道の風景②「旧鎌倉街道」の標柱が立っています/南小学校正門

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バス通りを横断            幼稚園前に旧道の標柱

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街道の風景③ 電電公社先から東川低地へ下ります。坂下に説明板、その先が実蔵院です/金山町

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鎌倉街道
鎌倉街道は治承4(1180)源頼朝が鎌倉に拠ってから、これに従う武士たちが「鎌倉へ- 」と馳せ参じた道であり、その代表的な道が上道・中道・下道の三道であった。上道は高崎方面から児玉・菅谷・入間川・所沢・府中・町田・瀬谷を通って鎌倉に至る道であり、中道は古河・栗橋方面から春日部・川口・池袋・渋谷・二子玉川を通って鎌倉に至り、下道は水戸・石岡方面あるいは千葉方面から国府台・浅草・川崎・金沢を通って鎌倉に至った。これらの道は武蔵野を通過する幹道であり、その重要性は徳川家康が江戸に入府し江戸五街道ができるまで続いた。所沢上道のほぼ中心にあるため古来合戦の地となり、また文人僧侶などの旅人が所沢を通過していった。所沢市の地名を有名にしたのは太平記であり廻国雑記である。太平記には小手指原の合戦が記され、また廻国雑記には「野遊びのさかなに山の芋そえてほり求めたる野老(ところ)沢かな」の歌がある。(所沢市教育委員会)


・・・元町
(もとまち)

所沢市中心市街地に位置し寿町・西住吉・星の宮・金山町・宮本町・有楽町と隣接する。所沢駅と西所沢駅の直線上のほぼ中間にあり所沢小学校、公共複合施設「所沢ハーティア」が所在するなど所沢市のかつての中心地であった。江戸時代この辺りは上宿・中宿と呼ばれ、河原宿(現在の宮本町付近)から江戸四谷への道が整備され東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地として繁栄した。
Wikipedia


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実蔵院山門/元町

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実蔵院
もと野老山正福寺ところさん)と呼び、現在は単に野老山と号し真言宗豊山派に属している。寺歴については宝暦3年と文政7年の2度の大火で古文書、縁起類一切烏有に帰して詳らかでないが、戦前供出した古半鐘には正平7新田義興によって開基されたとの銘があった。現在の本堂は嘉永3年に再建され本尊は大日如来、同本尊の脇侍として聖観世音菩薩が安置されている。

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なお当寺は旧鎌倉街道に沿っておりこの野老とは、現在の所沢の古い名称であり、このことによっても創立が古いことを証明していると思われる。昭和29年本堂の修繕及び庫裡の改築が行われた際、貞治4136588日建立の弥陀一尊種子板碑、應永11142422日建立の弥陀一尊種子板碑、並びに享徳31454930日の金箔押弥陀三尊種子板碑が発見され保存されている。宝暦年間1751-64の中興開山を慧海阿闍梨と伝えられており現在の住職は墓誌によって第23世に当たっている。(武蔵野33観音霊場案内)


・・・金山町


金山町交差点付近は江戸時代から江戸四谷への道が整備され東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地として繁栄した。この中継地は現在も金山五差路として残っている。明治・大正期には特に織物買継商の取引の場として栄えた
Wikipedia


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街道の風景④ 街道は直進ですが、左折してかつての中心部を三ツ井戸へ/江戸道(小金井街道)

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昔の面影が残ります          金山五差路を右折


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弘法の三ツ井戸/西所沢
この井戸は昔一人の旅僧(弘法大師)が諸国巡歴の折、当地に来たり民家に立ち寄り飲み水を求めた。すると機を織っていた婦人が遠方まで水を汲みに行った。これを見ていた旅僧は村人の難儀を救おうと思い、杖で三か所場所を示して印を付け、「ここを掘れば良い清水が得られる」と教えた。そこで村人は教えられた三か所を掘ると果たして清水が得られたという。三ツ井戸は東川にそってほぼ50間隔で掘られ、現存する井戸はその東端のものであり、後方には弘法大師をまつる小堂がある。(所沢市教育委員会)

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川の風景① 左手奥に弘法大師の小堂があります/弘法橋

東川
(あずまがわ)
所沢市を流れる柳瀬川支流で荒川水系の一級河川である。所沢市三ヶ島の狭山丘陵北部から所沢市内の中央部を西から東に流れて、所沢IC付近の城下橋先で柳瀬川に合流する。途中河道の上に構造物を渡すもしくは暗渠化され駐車場となっている区間がいくつかある。Wikipedia


・・・有楽町


所沢市内の中央部、所沢地区に所属する。所沢駅と航空公園駅の中間に位置し近隣の北有楽町、御幸町、寿町、元町、宮本町と隣接する。町境北側には国道463号が東西に通過し南側に東川が流れている。地内には江戸・明治期創業の老舗商家なども点在している。江戸時代頃の当地の界隈は浦町(うらまち・
当時の江戸道(現小金井街道)から見て北側に東川が流れており、その裏にあたる町の意)と呼ばれた。1912年(大正元年)1117日、所沢飛行場への大正天皇の行幸を記念して近隣の御幸町・寿町・宮本町と共に縁起の良い名称に改称された。Wikipedia

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街道の風景⑤ 元町を反対側の所沢駅方向へ行くと有楽町です/江戸道(小金井街道)

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店は閉まってますが立派な塀です     安政3年創業の深井醤油

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藥王寺山門/有楽町

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藥王寺
東光山自性院と号して本尊は薬師如来の木像で身丈け55cmある。寺の縁起によると新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて軍勢を群馬県に引き返させ、それから「義宗は北国に落ちて行った」と云いふらせ、自分は密かに所沢隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり遂に南北朝も統一され戦乱も収ったとの話が伝わって来た。そこで義宗は髪を落とし、衣を着て今までの隠れ家をお堂に改めた。そして一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、遂に応永20年(1413この地で亡くなった。本尊は昭和37年解体修理の際、永禄10年(1567)修理の墨書体内銘があった。境内には明治30年に義宗の子孫が建てた「新田義宗終焉之地」の碑や江戸時代の女流俳人三上里恵の句碑などがある。(所沢市教育委員会)


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新田 義宗
南北朝の武将。新田義貞三男。父・義貞の戦死後、越後の新田一族に匿われて成長したと思われる。成長すると兄義興、従弟の脇屋義治らと越後、関東で南朝方を指揮する。正平7/観応3年(1352)閏2月に正平の一統が崩れると、宮方と観応の擾乱足利直義方に付き足利尊氏に敵対した武士をあわせ、同年閏215日に上野で挙兵する。武蔵国金井原(小金井市)などで尊氏と合戦する。三浦氏の支援を受け義興は迂回して鎌倉に突入し、尊氏の子基氏を敗走させ、鎌倉の奪還を果たす。基氏は武蔵国石浜(台東区)で義宗と対陣していた尊氏と合流し義宗を破る。義宗は退いて笛吹峠(埼玉県嵐山町)に陣を敷き足利軍を迎え撃った。直義方だった上杉憲顕の参陣を受けたが、足利軍に敗北し越後へ落ち延びた。義興は32日鎌倉を脱出し、関東南朝方の挙兵は鎮圧された。これら一連の戦いを総称して「武蔵野合戦」という。正平13/延文3年(1358)、尊氏が没したのを機会に関東で決起を図り東国の南党に働きかけるが、義興が武蔵国矢口渡で基氏方に謀殺されたため頓挫。その後も義治と共に越後を中心に散発的に行動するが、南朝方の劣勢は増すばかりで組織的蜂起はできなかった。正平23/応安元年(1368)、足利義詮、基氏が病死したのを機に武蔵での河越直高らの武蔵平一揆に呼応して越後で義治と挙兵したが、上野沼田荘で敗北。義宗は戦死し、義治は出羽に逃れた。異説として、義宗は武蔵国所沢薬王寺に逃れ、再起を窺っていたがやがて出家し、戦死した一族郎党の菩提を弔いながら応永16714日(1409))又は応永20年(1413)に死亡したという説、また義治とともに阿波に落ち延びたという説もある。Wikipedia
写真:境内の「新田義宗終焉之地」碑

筏道・矢口新田神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25462327/


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川の風景③ 小金井街道の北側の東川沿いが良さそうですね/有楽町江戸

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名所図会 所澤 薬王寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
右が薬王寺、中が明神社、左が新光寺でしょうか。新光寺の鈎の手・東川の袂が「河原宿」、東西の江戸道の方が賑わっている感じがします。


・・・宮本町


所沢市中心市街地内に位置する。西武新宿線航空公園駅と池袋線西所沢駅を結んだ線上にあり元町・金山町・西所沢・上新井・けやき台・泉町・喜多町・有楽町と隣接する。江戸時代には河原宿が設置されておりここから江戸四谷への道が整備され繁栄した。
Wikipedia
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街道の風景⑥ 元町から直進した新川の川辺・鉤の手あたりが「河原宿」でしょうか、旧道を示す標柱が立ちます/新光寺門前

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中世の道
令制の衰退とともに時代は武士の台頭する中世へと移りました。中世、政治の中心が鎌倉に移ると東国の武士が鎌倉との往復などに使うため鎌倉街道が整備されました。市内では「入間川道」と呼ばれた本道の他に「堀兼道」「小手指道」などの枝道があり、入間川道と堀兼道の分岐点の南・宮本町1丁目の新光寺付近に発展した河原宿などのように街道沿いに集落ができ宿として発展していきました。鎌倉街道は鎌倉幕府の崩壊にも大きな役割を果たしています。新田義貞は上野国新田庄(群馬県太田市)で倒幕の兵を挙げ鎌倉街道南下しました。緒戦となった小手指ヶ原は30余回も打ち合った合戦の場であり、現在そこには「小手指原古戦場碑」が建てられています。鎌倉街道は室町幕府が成立した後も地方機関として鎌倉府(関東府)が置かれ関東を管轄したこともあり近世に入ってからも使用されていました。(所沢を通る古の道/所沢図書館)

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新光寺山門/宮本町


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新光寺
当寺の創建は定かではない。新光寺略縁起に遊石山観音院と号し本尊の聖観音、行基大士の作と伝え、慶安21649観音堂領として幕府から6石の朱印が出されている。寛政21790の寺社書上には「三間四面のお堂」と記録されている。草堂に観音像を安置したのがこの寺の始まりであろうか。また『新編武蔵風土記稿』や『吾妻鏡』『武蔵野話』『江戸名所図絵』などの地誌に建久41193源頼朝が那須野へ鷹狩に向かう途中ここで昼食をとった折り、その時の幕舎の地を寄進している。その後元弘31333新田義貞が鎌倉攻に向う途中、当寺に立寄り戦勝を祈願したことなどが記載されている。更に、聖護院門跡道興准后の『廻国雑記』に野老沢の観音院に福泉と言う山伏がいて、酒の肴にとろろいもを出したので『野遊のさかなに山いもそいて ほりもとめたる野老沢かな』と書いている。当寺は旧鎌倉街道の傍にあってこの附近が所沢の地名集落発生のところとされている。(武蔵野33観音霊場案内)

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八角堂                福寿稲荷社

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所沢の地名由来
所沢という地名は古く実のところその由来ははっきりしません。所沢の名前が文字で見られる資料の中で一番確実で時代が古いものは、京都の道興准后という身分の高い僧侶が記した『廻国雑記』という紀行です。文明18年(1486年)この人物は東国を巡り歩く中で所沢にも立ち寄り観音寺という寺でもてなしを受けた感慨を「野遊のさかなに山のいもそへて(添えて)ほりもとめたる野老(ところ)沢かな」という歌に残しました。この「野老沢」の「野老」(ところ)はヤマイモ科の植物のことです。ところざわという地名と「山のいも」を掛けた歌になっています。このことから所沢の地名の由来を説明するときにはこのトコロに由来すると説明されることが多いようです。もてなしを受けた観音寺は現在の新光寺(宮本町)だと言われています。(所沢市)
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所澤神明社鳥居(峰の坂側)/宮本町


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所澤神明社
所沢市宮本町にある神社である。所澤総鎮守であり「関東のお伊勢さま」としても知られる。日本武尊がこの付近で休憩をした際に天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなんで祀ったとされているが、文政9年(1826)に起こった火災の為、記録資料等が全て焼失しそれ以前の詳細は不明である。1911年(明治44年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願のために参拝客も訪れる。

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小高い南向斜面の上に建つ所澤神明社は神明社としては比較的規模の大きな神社で東・西・南三方に鳥居と参道があり、本殿の北・西側は鎮守の杜となっている。総檜造りの現拝殿は1934年(昭和9年)3月造営されたもので、屋根には先端が水平に切られた千木の間に太い鰹木(かつおぎ)が並んでいる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 平川の低地から峰の坂を台地上に上ります、右手が所澤神明社です/峰の坂上交差点手前

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峰の坂
峰の坂は元町から坂の頂上を見るとのようだったため名付けられたといわれるように、昔は坂の傾斜がきつかったそうです。昭和7年の道路改修工事によって斜面が削られなだらかになりました。(所沢市)

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街道の風景⑧ 峰の坂から入間までは狭山台地上を一直線に北へ向かいます/峰の坂上先

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鎌倉道の支線・堀兼道の分岐です    新所沢駅入口

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小手指駅入口             西武線踏切を横断左折します

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街道の風景⑨ この辺りから茶畑の田園風景、空には軍用機が飛び交います/狭山市境


・・・南入曽/狭山市


「入曽」の地区名称について

2009年合併前の旧村名「入間村」に由来する名称「入間地区」より改めた。入間市との混同を避けるとともに駅名とあわせ分かりやすくするため。Wikipedia)

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街道の風景⑩ 入曽駅入口を過ぎると金剛院、入間神社、観音堂があります/入間神社前


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金剛院山門/南入曽


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金剛院
真言宗豊山派の寺で、奈良県長谷寺の末寺であり本尊は不動明王である。当寺の創立年代は明らかではないが建久年間119097)と伝えられる。天文年間(153254)に深悦沙門が中興し、その後の慶安2年(1649)には3代将軍徳川家光から御朱印10石を賜っている。天保4年(1833)及び明治38年に火災に遭い、四脚門と土蔵を残して全焼したが、再建し昭和32年に現在の唐招提寺風の屋根に大改装した。堂内には享保元年(1716)玄慶作の木造不動明王座像をはじめ室町時代以前の作と推定される木造地蔵菩薩立像など多数の文化財がある。また、境内にある四脚門は天明2年(1782)寛慶により建立されたものである。その他当寺には県指定無形文化財となっている「入曽の獅子舞」が伝承されており、毎年101415日に奉納される。(埼玉県 狭山市)

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木造地蔵菩薩立像
地蔵菩薩は釈迦が亡くなってから567000万年後に弥勒菩薩が現れるまでの無仏の間この世で衆生(生命のあるものすべて)を救う仏とされています。そのため尊顔は慈悲深い穏かな顔立ちをしており、右手には錫杖(しゃくじょう)を、左手には宝珠を持っています。錫杖は僧侶が持つ環のついた杖で、もともとはインドの僧が山野を遊行するときに振り鳴らし、毒蛇や害虫を追い払ったものといわれています。宝珠は如意宝珠ともいい、意のままに宝などを出す珠のことで、病苦も取り除くことができます。この地蔵菩薩立像は像高79.5cm、寄木造り玉眼、漆箔(しっぱく)及び金泥彩からなり、かつて同院所属の南入曽にあった地蔵堂本尊でした。金剛院所蔵の古文書によると春日の作(神作といって仏像の由来を尊厳にするため付けられることが多い)と伝えられる古仏が失われたため、元亀4年(1573)に地元の有志と金剛院の甚悦沙門らが仏師玉運に依頼して再興したことや、承応2年(1653)に修理が行われたことが記録されています。仏師玉運は元亀・天正年間に当像以外にも武蔵・相模地方で数件の仏像製作や修理を行ってることが判明いています。(狭山市教育委員会)

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入間神社鳥居(いるまのじんじゃ)/南入曽


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入間神社
入間野神社の主祭神は大山祗命木花咲耶姫命で合祀神として天照大神ほか六神を祀っている。社伝によると当社は建久21191)の創建と伝えられ、石造の御神体には天正6年(1578)の年号が刻まれている。旧号を国井神社、後に御岳大権現と称し社領として慶安2年(1649)に10石の御朱印を賜っている。

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明治元年の社号改正につき御岳神社と改称したが、明治44年に大字水野にあった浅間神社を合祀し現在の名称となった。大祭は毎年415日、1015日、1123日に行われるが、特に1015日には県指定文化財の「入曽の獅子舞」が奉納される。当社には宝暦8年(1758)の獅子舞の絵馬があるのでそれ以前から伝承されているものと思われる。(埼玉県 狭山市)
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参道入口に鎌倉街道の案内板、これを見ると見所が多そうですね/入間神社

鎌倉街道(上道)のみちすじ

鎌倉街道(上道)は源頼朝が建久3年(1192)鎌倉に幕府を開いてから天正18年(1590)後北条氏が滅びるまでの約400年間、重要な道路としての役割を果たしてきました。幕府成立とともに整備された中世の道といわれ、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等名将たちが栄枯盛衰の物語を刻み付けた道で、県の歴史に大きな影響を及ぼしております。さらに、この道は鎌倉から関東諸国へあるいは遠く信濃(長野県)、越後(新潟県)方面に通じ、兵士や軍馬の通った道であり、また諸国の武士たちが鎌倉へ参集するために利用された政治的・軍事的機能を持つ道でありました。(埼玉県)

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常泉寺の観音堂/北入曽
観音堂の創立は建陣2年(1202)と言い伝えられている。その後文保2年(1318)も旱魃の際、村人が観音堂に祈り古井をさらったところたちまち水が吹き出したと伝えられる。本尊は木造聖観音菩薩坐像で、江戸時代後期の川越住仏師・大覚の作であり、堂宇は宝永5年(1708)の再建である。毎年111日の観音様のお祭りにはかつては五色の布や鈴、新しい鞍や腹掛けをつけた牛馬がお堂のまわりをまわり、賑やかな祭だったといわれている。(埼玉県 狭山市)

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七曲井(
埼玉県指定史跡)/北入曽


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七曲井(ななまがりのい)
この七曲井は周囲70m余り、直径26m、深さ11.5mという大規模な漏斗状井戸です。竪堀井戸を掘る技術が確立される近世まではこの井戸のように漏斗状に地下水まで掘り下げたと考えられます。井戸に降りる道は上部で階段状をなし、中央部では曲がり道、そして底近くでは回り道となっており、この形状名前の由来になっているといわれています。また、井筒部は人頭大の石で周囲を組んだ中に松材井桁を組んでありました。井戸所在地の小字名堀兼井」読みは「ほりかねい」或いは「ほりがたい」から、古来この地方に住む人々にとって飲料水を得ることが困難であったことがわかります。井戸が掘られた時代については建仁2(1202)との説がありますが確かではありません。ただ、府中から入間川に至る奈良・平安時代の古道沿いにあるため、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府(現在の役所)の手により掘られたと考えられています。七曲井は何度か改修が行われ地域の人々の貴重な水源として活用されてきましたが、宝暦9(1759)の改修を最後に歴史から姿を消します。その後、土砂やゴミの堆積によって埋もれてしまいました。昭和45年に埼玉県教育委員会と狭山市教育委員会によって発掘、復元され地元の人々により大切に保存されてきましたが、最近になって壁の一部に崩落の危険性があることが明らかになりました。その為、平成1718年度に崩落防止工事を実施しました。この工事により現在見える姿は往時と異なるものとなってしまいましたが、井戸本体は半永久的に保存可能となったのです。(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会)

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「この井戸は下におりる道が上部では階段状をなし、中央部ではイナズマ型に曲がり、底近くでは回り道になっている。井筒部は玉石で周囲を組んだ中に松材で井桁が組まれている。このようなすり鉢状の形は武蔵野台地に残る数少ない漏斗状井戸マイマイズ井戸)の典型といえる。この井戸の起源については建仁2年(1202)との説があるが確かではなく、平安時代中期に開拓と交通の便のため武蔵国府により掘られたものではないかと推定される。井戸は文献によると文永7年(1270)を初めとして宝暦9年(1759)まで数度にわたり修復されたことがわかる。その後、使用されなくなりごみや土砂が堆積していたものを昭和45年に発掘し復元した。井戸の周囲は70m余り、直径1826mで地表から約10m下ったところに井桁がある。(案内板)

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川の風景④ 古多摩川の名残りですか・・・、日没が近いので入曽駅に戻ります/入曽橋

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不老川(としとらずがわ)
この川は入間市宮寺付近に源を発し、野水を集めながら堀兼を通り川越市で新河岸川に注いでいる。地質的には古多摩川名残り川であると言われている。現在では一年中水が流れているが、昔は毎年冬季になると必ず水が涸れ〈としとらず川〉と言われ「節分の夜、不老川の橋の下にいると年をとらない」との伝説がある。(埼玉県 狭山市)

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所沢周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:堀兼道 青:東川・不老川)



by Twalking | 2017-11-03 14:18 | 鎌倉街道(新規)

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