無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(7)入曽~西大家01-入間川   

日時 2017.11.7(火)
天気 晴れ

秋晴れのいいお天気です。
いよいよ武蔵野台地から入間川を渡って入間台地へ、
ここはなんといっても「八丁の渡し」ですね。

中世は多摩川とともに軍事的にも重要な防衛拠点でした。
「入間川御陣」「清水冠者義高終焉の地」等々見所も一杯、
じっくりと訪ねてみたいと思います。


・・・北入曽/狭山市

狭山市

市域の南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて一級河川の入間川が流れる。流域は沖積層の低地帯が広がっている。市の中心となる地域にも入間川という住所(旧入間川町の名残り)がついており、この川は街のシンボルにもなっている。入間川両岸には河岸段丘が形成されており右岸武蔵野台地左岸入間台地と呼ばれる台地からなっており、狭山市はその二つの台地上に属する。どちらの台地も洪積層からなり、比較的平坦である。市街地はおもに国道16号と西武新宿線を軸として形成されている。市名の由来である「狭山茶」の茶畑は入曽・堀兼地区に多い。Wikipedia


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街道の風景① 不老川からスタート、すぐ先右手に野々宮神社と常泉寺があります/入曽橋

狭山の地名
地名は狭山丘陵及び市内の特産物「狭山茶」に由来する。「狭山」という地名の由来自体は判然としないものの「」は「」を意味し、武蔵野台地西部に散在していた雑木林のことを指していると言われ「林に挟まれた土地」の意味という。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では狭山丘陵そのものを「狭山」と称しており「狭山」という表現を地域呼称ではなく山の名称の如く用いている。Wikipedia


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野々宮神社鳥居/北入曽

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野々宮神社
古記録に伝えるものはありませんが、社家の伝承によれば奈良時代の創立と伝えています。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣したときに、社家は神武天皇御東征に従軍し日向の宮崎宮を姓となし宮崎と称しました。奈良時代、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し入間路の警備と七曲井の管理に当りました。東海道、入間路には宮崎を姓とした社家が多く、たとえば井草八幡宮の社家が宮崎を姓としています。

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本殿の左側には明治40年に合祀された神社5の神明神社・八雲神社・稲荷神社・愛宕神社・蔵王神社が並んで建っています。元旦祭や春、秋の大祭等には市指定無形民俗文化財である入曽囃子が奉納されています。(狭山市HP)

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常泉寺本堂/北入曽

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常泉寺
創立年代は古記録等がなく不詳ですが、過去帳によりますと天正年間1573年~1592年)に創立されたようです。寛文3年(1663年)4月法印宥正という住職の入寂の碑が現存しますがその後の記録は絶え、寺は荒れていたようです。その後、元禄2年(1689年)3月に権大僧都法印教海が荒廃した当寺を再興・拡張し、当寺を観音堂のみ残して現在の地移しました。さらにその後、権大僧都法印傅海の代の正徳2年(1712年)8月に高麗村新堀聖天院の末寺となり現在にいたります。ちなみに明治18年に火災のため山門・本堂・庫裡(裏)が焼失しましたが明治20年に再建されました。(狭山市HP)

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街道の風景② 所沢狭山線を一直線に狭山市駅に向かいます/北入曽

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白山神社手前を左折          西武線踏切を渡ります

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白山神社/祇園

祭神 白山比咩命(シラヤマヒメノミコト)/菊理媛命 「当社は加賀国石川郡の霊峰・白山に鎮座する延喜式内社・白山比咩神社の分霊です。勧請の時期は不詳ですが、古老の語に境内の樹齢78百年と推定される大欅を明治10年に伐ったと伝えますので、鎌倉時代初期頃には古道沿いのこの地に鎮座し、霊験あらたかな産土神として土地の人たちから崇め親しまれてきた古社です。祭礼は、古くは「お九日」と云い火焚き行事などもありましたが、現今では1123日に例大祭を執行し傳統を継承しています。(案内板)


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お庚申様ものがたり/踏切先
このお庚申様は今より約200年前此の付近に建立せられ西武鉄道開通の明治278年頃現在地に移され地域の人達の平穏と踏切りの安全を願って今日に至っております。しかし近年破損はげしく庚申塔は傾き雨露を凌いだ屋根もこわれ又土砂崩れ等の危険も感ぜられ平成108月に有志一同「庚申塔改築発起人会」を発足させましたところお蔭様で皆様のご賛同を戴き平成1110月に無事竣工致しました。このお庚申様は菅原町三丁目唯一の道祖神守護神として町内や近在の人達の信仰を集め小さなお庚申様ですが老若男女の区別なく身近に慕われております。これからも皆様の信仰のよりどころともなれば幸甚でございます。(改築発起人 後藤新太郎 田島昭雄鈴木良二)


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馬車鉄道について/狭山市駅前
馬車鉄道とは軌道上の客車を馬が牽引するものです。明治341901510日に入間川町飯能町を結ぶ路面鉄道として入間馬車鉄道が開通しました。入間馬車鉄道は川越え鉄道(川越~国分寺間を結ぶ鉄道で明治28年(1895328日に全線開通)の設立発起人の一人である水富村の清水宗徳から敷設特許を譲り受けた柏原村の増田忠順らにより開設されたものです。開設の目的は川越鉄道の開業によりもたらされた有形無形の利益を水富・飯能方面にもたらすためで、定員15名ほどの客車により一日に1517往復したといわれています。運賃は入間川~飯能間で大人15銭(その後20銭に値上げ)、8歳までの子どもは半額、4歳以下の幼児は無料でした。

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当時の入間川駅(現在の狭山市駅)のこの付近が馬車鉄道の発着場所であったといわれており、停車場は入間川・菅原・御諏訪下・河原宿・広瀬・根岸・笹井・八木・野田・岩沢・双柳・前田・飯能で上りと下りの交換所は笹井地内に設けられていました。しかし、乗客の便を考え停車場以外でも乗り降りさせていたといわれています。また、明治349月には入間川町青梅町を結ぶ中武馬車鉄道が全線開通し、入間川町内では入間馬車鉄道の軌道を借用する形で乗り入れ運転が行われました。しかし、大正4年(19154月に飯能~池袋間を結ぶ武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通すると乗客は急激に減少し、大正6年(19179月に中武馬車鉄道が廃止され入間馬車鉄道も同年の12月をもって廃止されました。(出典:狭山市史


・・・入間川(町)/狭山市


埼玉県の南西部、入間郡に属していた町。1889
(明治22年)町村制施行により以前の入間川村を継承し入間郡入間川村が成立する。明治24年入間川村が町制施行し入間川町に、昭和29年入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村と合併し狭山市を新設する。北西部を入間川が流れる。Wikipedia

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街道の風景③ 広場下の道を入間川「八丁の渡し」に下ったものと思われます/狭山市駅西口市民広場(2012年完成)

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狭山市の歴史
(古代)武蔵国入間郡に属する。716年(霊亀2年)新たに高麗郡が設置される。中世以降、入間川西岸の一部地区が高麗郡に属する。(中世)入間川宿が鎌倉街道上道の宿場町として栄える。鎌倉街道上道は入間川宿で上野国方面下野国方面に分岐していた。(近世)川越藩領や天領となる。天領は旗本知行地として旗本小笠原氏の所領となっていた。Wikipedia

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徳林寺山門/入間川 

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徳林寺(曹洞宗)
創立年代ははっきりしませんが入間市金子・瑞泉院末といわれ、開山は瑞泉院三世一樹存松和尚で、開基は小沢主税であると伝えられています。開山一樹存松は天文2年 (1533年)に入寂しており、永正乃至享禄1504年~1532年)頃の創立と考えられます。当寺の旧地については旧登記所(入間川2丁目19番地)北方の低地であるとの伝えがあり新田義貞足利基氏らの滞陣の跡であるとの伝承もあります。また、武蔵野33観音霊場の第17番札所でもあります。寺宝の絹本着色釈迦涅槃図・絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)は市指定文化財です。(狭山市)

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薬師堂                地蔵堂

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絹本着色釈迦涅槃図(狭山市指定文化財)
この図は絹地に極彩色の仏画で、入滅した釈迦の周囲には弟子たちをはじめ諸王・大臣・梵釈・諸天・鳥獣までが集まり悲しんでいる様子が描かれています。筆者は「御絵所宗貞」です。御絵所というのは朝廷又は幕府社寺に属する絵師のことです。なお、この絵は田中・沢村を知行した旗本の小笠原家が元禄元年(1688)に寄進したもので、延享5年(1748)に甲田重蔵が最表装したものです。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)
この図は絹地に極彩色の仏画で釈迦の生涯の主な事跡を描いたものです。八相とは第一下天相・第二託胎相・第三誕生相・第四出家相・第五降魔相・第六成道相・第七初転法輪相・第八涅槃相の八場面ですが、この図では第八涅槃相を除いた七つしか描かれていないため、涅槃図と合わせて八相図となるように描かれたものと思われます。落款はありませんが構図もしっかりしており、大和絵系の相当名のある絵師によって描かれたものと推察されます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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福徳院不動尊


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福徳院不動尊
福徳院不動尊の来歴は「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には狭山市駅西口開発のため綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。(狭山市)

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天満天神社/入間川

天満天神社
当神社の建立年代は明らかではない。先年までの社殿は文久2年(1862)に改築されたものであったが、昭和37325日新築した。祭神は京都北野神社福岡県太宰府天満宮より道真公の分霊を鎮祭する。新編武蔵風土記稿に「神體坐像なり」とありもとは御神像があったと考えられるが現在は神のご幣のみである。当社の管理は新編武蔵風土記稿に「村持」とあり天神組、下組、新田組の三組の氏子によって行われてきたが、天神社があるところからこの地域が菅原町と総称されるようになり昭和15年町内会の創設によって天神組が菅原一丁目、下組が二丁目、新田組が三丁目と改称された。(境内掲示)

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街道の風景④ 丘の上に戻り慈眼寺から八幡神社(上からも行けます)参道へ下ります/中之坂

中之坂
この坂道は小高い丘を切り開いて作られた坂道であり、通称「中之坂」といわれている。(狭山市)

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慈眼寺山門/入間川


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慈眼寺(妙智山)
当寺の草創は正長元年(1428年)に草庵が結ばれ、後の大永年間(1521年~1528年)に一樹和尚によって開山されたと伝えられています。武蔵野33観音霊場の第16番観音を本尊としていますが、以前は阿弥陀如来の立像でした。記録によりますと慶安2年(1649年)に阿弥陀堂領十石の朱印を与えられています。また、寺宝の阿弥陀如来立像は市指定文化財です。(狭山市)

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狭山八幡神社鳥居/入間川 

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狭山八幡神社
祭神:応神天皇(誉田別命)九州宇佐八幡宮を本社とする全国八幡宮の一社。創建は社宝『砂破利のつぼ』の推定年代から室町時代初期とされている。源氏一族の保護により武門の神として隆盛をみて後世、新田義貞の信仰厚く一時『新田の八幡宮』と称されたこともある。今日では応神天皇とその母・神功皇后の事績により文化興隆の神として文武に志す人々に崇敬の念が厚く、さらに母と子の情愛から母子神の信仰を生み、安産から初宮詣、そして子育てへのご神徳を仰ぎ、また、新田義貞が合戦に向けて当社で戦勝祈願をし見事勝利を治めたところから文武・必勝の神として市民に親しまれている。(八幡神社HP)

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表参道の石段
中段より上が47段、下が24段あり計71段とする。上段は赤穂47士にちなみ下段は中国の故事24孝をとり享保12(1727)に造られたものである。現在では狭山日高線の開通に伴い石段は中段より曲げられ、鳥居も階段下へと移されてあるが、本来は上段から直線上に商店街の通りまで参道が延びその入口に鳥居が建てられていた。(八幡神社HP)

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八幡神社本殿(市指定文化財・建造物)
八幡神社は祭神応神天皇を祀り当社殿は寛政8年(1796)に初釿をし7年を要して完成したという。当社に伝わる「本社殿棟木書記之事」という古文書によると「享和二竜次壬成(1802)穐(秋)75日棟札」となっており徳川時代末期の建造であることが明らかである。入母屋の流造りの特性をもち、一間社造りの胴のしまった均整のとれた唐破風の向拝があり正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、四囲の彫刻は精巧を極めた優雅な社殿総彫で強く建築装飾の粋をつくした透彫である。脇障子にも彫刻が施され勾欄をめぐらせた見事な造りである。また、彫刻製作者が明らかななのも珍しく棟札に「上州勢多郡上田沢湧丸 並木源二襍訓作 享和壬成夏六月彫之 上野国勢多郡深沢上神梅村鏑木半二邦高彫之 享和二成六月ヨリ七月七日迄」という墨書が記されている。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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新田義貞・駒つなぎの松
元弘35月、北条高時を討つべく上州新田郡生品明神の社頭に挙兵した新田義貞510日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当社へ自ら戦勝を祈願した。その戦勝祈願の際、愛馬をつないだ松が本殿東側に残る老樹である。(八幡神社HP)

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さわりの壷(県指定文化財工芸品)
さわりの壷は大正12年(1923)に拝殿造営のため本殿を移転するとき、玉垣の神門の下から発見されたもので、中から少量の籾粒と金銀の箔片が検出されました。このことからこれが当社創建当時地鎮祭に供えた鎮物を埋蔵するのに用いた「鎮壇」であったことが推定されます。さわり(砂波利・砂波理・砂張)とはを主として錫・鉛(または銀)を加えた黄白色の合金で、たたくと良い音がするので響銅の字があてられたり、また胡銅器と書かれたりします。この壷は室町時代の制作と推定され高さ187mm、口径70mm、最大直径100mmで形が非常に優美で安定感があり、黄金色に白線の色が映えしっとりと高質な風格をもっています。(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会)

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八幡神社鹿子舞
獅子舞の起源は唐の時代に雅楽の一部から変化し、その後日本に伝来しかつ農耕文化と結びついて水の信仰にまで発展したといわれています。八幡神社鹿子舞の起源については明らかではありませんが、正徳3年(1713)の古記録に盛大に行われていたと書かれています。八幡神社鹿子舞は越後系・庭上舞・ねっこふんがえしに属する獅子舞で、「鹿子舞」と書かれる由来は武蔵地方で鹿を「しし」といったことからだと伝えられています。この鹿子舞は毎年914日・15日に入間川地区の神社をまわり15日の最後に八幡神社で舞います。行列は金棒(先導、つゆ払い)氏子安全旗1人、神官1人、氏子総代5人、各地区世話人、ほら貝(山伏)1人、花笠(ささら)4人、歌役4人、笛役4人、山の神(天狗)一人、赤鹿子(男鹿子 若者)、金鹿子(牝鹿子女、 頭上に宝珠)、黒鹿子(太夫鹿子年寄り、節のある角あり)、各地区世話人、の順にならび、舞は、道中、宮参り、いりは、竿掛り、岡崎、あげ唄、狂い、岡崎、わが獅子、引きはと地ささら、岡崎、やりとり、岡崎、引庭、という順で舞われます。(狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会)


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子ノ神社/入間川
祭神:大国主命(大己貴命おおなむちのみこと)入間川町誌によると子ノ神社は慈眼寺境内にありましたが、慈眼寺の消失によって一時、諏訪神社境内に遷されました。さらに諏訪神社の社殿改築の際、ある者が御神体を家へ持ち帰ったところ悪疫にかかったため、恐れて奥富村のある家へ遷されました。しかしその家でもまた一家が悪疫に襲われたため元の諏訪神社境内に仮宮を建てて祀り、のちに子ノ神町内に社殿を建築して御神体を遷したと言う伝承が残されています。祭神を大国主命としていますが、子ノ神は飯能市の子ノ権現社の信仰であり本尊は子ノ聖大権現とされています。境内社に出雲神社(石祠)があります。毎年724日近辺の土曜日には子ノ神社の例祭が行われ、子ども神輿が担がれます。(狭山市)

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入間川諏訪神社鳥居/入間川

入間川諏訪神社
正確な鎮祭の年月は不明であり、土地の古老の話によりますと信濃国諏訪大社の祭神を今から400年以前に分社したとのことです。8月第4土曜日・日曜日には市指定無形民俗文化財であるお諏訪さまのなすとっかえ行われ、とてもめずらしいナスのお神輿が担がれ住民の厄除けを祈願しています。以前はこの日に付近の若者たちによる草相撲の奉納がありましたが、現在は行われておりません。(狭山市)

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お諏訪さまのなすとっかえ(狭山市指定無形民俗文化財
諏訪神社は長野県の諏訪大社を分祀したもので祭神は「建御名方神」です。なすとっかえは自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年8月の第4土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらく後、村人の夢枕に龍神が現れてこう言いました。「私はあの沼に住む竜神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。こうして夏病にナスが効くことを知った村人は、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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川の風景① やっと会えましたね~、入間川、右手奥の名栗が源流域です/本富士見橋

入間川
埼玉県を
流れる荒川水系の一級河川である。上流部は名栗川とも呼ばれる。荒川の支流としては最長である。江戸時代の頃は、江戸の市中まで通じる大事な交通路だった。標高1294mの大持山の南東斜面に源を発し飯能市、入間市、狭山市を流れその間に成木川、霞川、越辺川などの支流を合わせさいたま市と川越市の境界付近の川越市大字古谷本郷で荒川に合流するWikipedia

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清水八幡宮/入間川 

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木曽清水冠者義高公
源義高は鎌倉時代木曽義仲の侍女との間に生まれた嫡子で、比企郡岩殿山大蔵が生まれ故郷であり、7ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った故、清水冠者又は志水冠者義高と名乗ったと伝えられる。義仲が治承4年(1180)頼朝とともに行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永2年(1183)に北陸道を京へせめのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(6才)の時人質として送られたが、後成人になるや頼朝と政子との間にできた娘大姫婿となり鎌倉営中に住居を構えていたが、義仲は後白河法皇の義仲追討の宣旨を受け西上した範頼、義経軍に敗れ、寿永3120粟津原の戦討死するが、日頃疑り深い頼朝は彼義高の意中を計りかね勅勘を蒙って討たれた者の息子を放置することも出来ず「娘をくれておくのも無駄なこと、堀藤次折を見て密かに小冠者を片付けい」と密談(実際には殺す意図はなかったとも伝えられて居る)侍女はこの様子を見て東御殿にかけつけ告げたのである。寿永3416日元歴と改元されその月の20日宵のことで、この知らせを聞いた大姫は自分の夫義高を助けようと母政子と力をあわせ自分の衣装で女装をさせてまわりを女たちに囲ませ従士6名ばかりと共に、祖父義賢の地(大蔵館)・義仲を授けた畠山重能の地(菅谷館)である現在の嵐山町めざし鎌倉街道に沿って逃亡し、府中・所沢を過ぎ入間川の八丁の渡しに出たとき、頼朝が追手として送った堀藤次親家等に追いつかれ藤内光澄の為に遂に此の地で討たれたのである。

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かくて寿永3426日藤内光澄等が鎌倉に帰り、この事を頼朝に報告するや姫君は悲嘆のあまり漿水を絶つに及んで間もなく14才を以て死亡せり。母なる政子は頼朝の仕打を怒ると共に直接義高を刃にかけた光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため討ち果てた地入間河原にを建てた(五月)と云う次第である。正徳3年(1713)八幡神社縁起によれば槻の木を植え塚を築いたとの事なるが、政子は廟所を転じ神祠を営み清水八幡宮とあがめ、自ら入間川の地に来り供養をし且つ神田を寄附されたという。この為に社殿は朱の玉垣をめぐらし壮麗なものであったが、応永98月(1402)の大洪水に全てを流失したる由。亦現在の八幡宮の附近に梨畑があり人々は梨原と言い、朱塗の美しい神社を梨原御殿とも言った。その後今から約180年前現在地より北方三丁程の杉林中より石祠が発見され、現在の処に鎮座し再建されたるものなり。(参考資料 狭山の文化財及入間川風土記)

なお木曾冠者義高公のは鎌倉市内、臨済宗常楽寺にあり、墓所は常楽寺の裏山標高70m位かと思われる場所に百平方米程の広さとなっており、墓の周囲には公孫樹、黒松の大木等茂り中心に石材の高さ四十糎の祠と「木曾清水冠者義高公之墓」なる墓石とが建立され、後世建てられた石碑には次のような由来が記されてある。

木曾冠者義高之墓
義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス、義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル、爾来頼朝ノ養フトコロトナリ其ノ女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ此ノ地ノ西南約二丁木曾免トイフ由間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻を傅へテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ大正十五年一月 鎌倉同人會建附記常楽寺栗船山常楽寺と号し開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝えられ大覚禅師の初道場で、寺の名は泰時の法名常楽院殿からとったものです。また鎌倉國宝館に寄託されている有名な梵鐘は重要文化財に指定されています。(境内掲示)

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清水八幡(市指定文化財史跡)
清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘・大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義仲は、自分にふりかかる難をのがれるため従者6人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますがそれによると政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるためその討ち果てた地・入間河原を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在でははっきりせずこのあたりであろうと思われます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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川の風景② 「八丁」であれば往古は今よりずっと広い流れですね。市では「八丁の渡し」を2ケ所を推定していますが、狭山市駅から直線的に下るとすればこのあたり、右岸が「入間川宿」になりますが、どうなんでしょうか???/新富士見橋

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入間川宿
入間川宿は入間川の渡し場にできた宿場で、古代の官道の頃は小さな宿場だったろうが、鎌倉時代になると北関東・信越地方との往来が繁敷くなり交通上はもちろん軍事上でも重要な宿場となった。(旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著を参照しました)





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八丁の渡し
鎌倉街道の入間川に「八丁の渡し」と呼ばれるところがあります。大きな橋もなく人々は川の浅瀬を探しながらの徒歩渡りでした。昔、木曽義仲が源頼朝に討たれます。そのとき義仲の嫡子で12歳になる清水冠者義高は、頼朝の娘である大姫の計らいで女装をして入間川まで逃れてきます。そして、八丁の渡しにさしかかったところで無念にも追っ手によって討たれてしまいます。入間川の八丁の渡しが義高終焉の地とされ、今も残る国道16号線沿いの「清水八幡」のお社と奥州道に安置されている「影隠し地蔵」には多くの参拝者が後を絶ちません。この八丁の渡しは市内に2ケ所あるとされています。その1つは子ノ神(ねのかみ)さまを下り本富士見橋周辺の中島辺りだとか、もう1つは奥富の前田、入間川堤防に建つ九頭龍大権現(くずりゅうだいごんげん)の石仏辺りから柏原へ渡る浅瀬です。春の入間川の土手を歩いていますと周りは緑に包まれ、また堤内では少年・少女のスポーツが盛んで、明るい元気な声と野鳥のさえずりが聞こえる中での歴史ウオーキングが楽しめます。(狭山市)(写真:対岸から駅方向の景観です)

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新富士見橋
狭山市にある埼玉県道262号日高狭山線に架かる橋の一つで道路橋と歩道橋が一つずつ存在する。歩道橋はすぐ上流側に平行して架けられている。晴れた日には文字通り新富士見橋から富士山を望むことができる。狭山市内の橋では最も古く、橋が老朽化しているため埼玉県に橋の架け替えを要請しているが現時点では具体的な動きはない。Wikipedia河口から22.8km 橋長:180m 有効幅員:約8m 完成:1958-昭和33)

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狭山市駅周辺地図(180°回転)

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入間川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照



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資料ファイル

入間川御陣
(いるまがわごじん)

正平8/文和2年(1353)に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地入間川御所とも呼ばれる。観応の擾乱後に上杉氏勢力に対抗するため9年間にわたって鎌倉府この地に移されて、公方である基氏は「入間川殿」とも呼ばれた。

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薩埵山の戦で弟の直義を破って関東を奪還した室町幕府初代将軍足利尊氏は、直義方であった関東執事(後の関東管領)上杉憲顕追放して畠山国義を後任に任命し、憲顕が守護を務めた上野・越後は下野の宇都宮氏綱に与えられた。この時期の鎌倉府の体制を学術上において「薩埵山体制」とも称する。氏綱は重臣芳賀禅可一族を守護代として派遣していたが、両国は上杉憲顕が上野を根拠とする南朝方の有力勢力である新田氏を制圧する過程で勢力を築いており、上杉氏や新田氏の支持者が新守護の宇都宮氏に反抗する可能性が高かった。そのため畠山国清は基氏を奉じて入間川鎌倉街道の交点近くに鎌倉府の機能移転させ北関東の平定にあたろうとしたのである。

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ところが尊氏の死後、鎌倉府の長として成長した基氏は上杉憲顕の復権を画策して国清・氏綱らと対立する。結果、正平16/康平元年(1361)に南朝討伐のための上洛軍失敗の責任を取らせる名目で国清を更迭、これに激怒した国清は翌正平17/貞治元年(1362)に領国伊豆反乱を起こした。基氏はこれを討つ名目で入間川を離れて伊豆に向かい国清を降伏させ、その後は鎌倉に戻って入間川に再び入ることはなかった。更に同年には宇都宮氏綱の越後守護職が更迭されて、憲顕復帰して程なく鎌倉に呼び戻された。そのため「上杉氏に対抗する」という入間川御陣設置の意義が喪失したためそのまま廃絶されたと考えられている。同時に国清らを中心とした薩埵山体制も終焉を迎えることとなった。
なお、入間川御陣の正確な所在地は不明であるが、現在の狭山市入間川にある徳林寺旧境内(狭山市入間川2丁目19番地北方)付近から狭山八幡神社付近など数箇所が候補に挙げられている。Wikipedia
写真:(上)徳林寺墓地上 (下)八幡神社脇より

by Twalking | 2017-11-11 09:32 | 鎌倉街道(新規)

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