ぶらり『高浜運河沿緑地』
天気 晴れ
天気がいいので品川から運河沿いを歩いてみました。
学生の頃、芝浦の倉庫街でバイトをしてましたが、
すっかり様変わりして、いい街になりましたね~。
天王洲は品川沖ですから歩いても近いですよ。
行き交う船やカモメが飛んで、海を感じられる
お手頃な散歩コース、「シーサイド」はいいですね!
・・・港南/港区
港区南部の東京港に面した沿岸に位置する。ほぼ全域が埋立地であり「隅田川口改良計画」の東京湾埋立3号地、「東京港修築事業計画」の埋立9号地、品川埠頭埋立地からなる。北で芝浦および海岸、南で品川区北品川および東品川、西で高輪、東で東京港を挟んで対岸に台場と隣接する。嘉永6年(1853)ペリー来航により危機感を抱いた江戸幕府が、江戸防衛のため現在の港南にあたる地区に台場(品海砲台)を建設する。1912年(明治45年)隅田川口改良工事が始まり、そのとき浚渫された土砂を使って芝浦一帯(現在の港南)の埋め立てが開始される。1933年(昭和8年)高輪海岸埋立地に高浜町が起立され東京市芝区の所属となる。(Wikipedia)
右岸のモニュメント モニュメントから覗いてみました
・・・東品川(ひがししながわ)/品川区
品川区東部に位置する。北部は港区港南に、東京港になり品川区東八潮になる。南東部一体は京浜運河に接し八潮になる。東品川は旧来の陸地と新興の埋立地からなっており住宅、オフィスビル、港湾関連の施設、工場、商店などが見られる。東品川二丁目天王洲アイルと呼ばれており1990年代以降、先端的なオフィスビルが次々と登場した区域として知られる。東品川五丁目は北部の港区港南とともに品川ふ頭の一角を担っているところで港湾関連の施設や発電所が見られる。(Wikipedia)
・・・天王洲アイル/品川区
東品川東品川二丁目に東京モノレール羽田空港線・東京臨海高速鉄道りんかい線の天王洲アイル駅がある。シーフォートスクエアの北半分にあたるシーフォートタワー付近は、江戸時代末期に江戸防衛のため築造された第四台場の跡である。また、ボードウォークの護岸は旧第四台場の石垣を再利用したものである。天王洲は海中の土砂が堆積してできた州で、1751年(宝暦元年)江戸前の海であった頃に、船人が牛頭天王の面をこの海域から引き上げたという。この面は南品川の天王祭において神輿の屋根につける「神面」となっているが、この謂れが「天王洲」の地名の由来となっている。また、アイル(isle)とは英語で「島」を意味する言葉で、この地が東京湾のウオーターフロントの良き景観に恵まれたロケーションであるためこの名前がつけられた。1925年(大正14年)から埋立が始まり1939年(昭和14年)に完成。第四台場は埋もれ品川と陸続きとなり埋立地は工場や倉庫の用地として利用が始まる(Wikipedia)
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資料ファイル
(赤:旧東海道 緑:中原街道 青:目黒川 赤丸:第四台場・第六台場)
明治維新後の品川
嘉永6年(1853)のペリー来航後、黒船を迎え撃つために急遽築造された品川台場(品川砲台)は、海上に浮かぶ第一から第七までの7つでしたが、第四と第七の台場は未完成のままであり、なかでも第七は海面を埋め立てただけでした。他に陸続きの台場「御殿山下砲台」が造られました。しかし、幕府の開国政策によって、完成した台場の大砲を使うことなく終わったことは、江戸庶民だけでなく品川宿周辺の村々にとっても幸運なことでした。明治維新後の品川台場は明治6年(1873)に第一師団の中に設けられた海岸砲隊が管理にあたり、同8年(1875)以降大正3年(1914)までは陸軍省が管轄していました。第四台場は維新後に払い下げられ大正元年(1873)には東京府から緒明菊三郎に払い下げられて造船所となりました。陸軍省によって管理されていた品川台場は大正3年、4年の2回にわたって処分され、第三、第六台場は大正4年(1915)7月4日に東京市に払い下げられ、同13年(1924)に東京府によって史跡に仮指定され、同15年(1926)10月20日に史跡名勝天然紀念物保存法によって国の史跡に指定されています。このうち第三台場は関東大震災によって破壊されたため復旧工事が行われ台場公園として一般に公開していますが、第六台場は原型を残していたため貴重な史跡として保存されています。その後、東京湾に浮かぶこれら六つの人工島は、史跡として指定された二つの台場を残し埋立地に埋没したり航路の支障になるということで撤去されたりしてきました。第四台場は大正14年(1925)に埋め立てがはじまった旧天王洲町(東品川二丁目)の北側につながって陸続きとなり昭和30年(1955)に港区から品川区に編入されています。第一、第五台場は品川埠頭の埋め立てで昭和37年(1962)に撤去埋没してしまいました。第二台場は東京港整備の一環として昭和37年末に海上からその姿を消したのです。(品川区教育委員会)
地域内の往時の様子。画中の神社は現在の利田(かがた)神社(東品川)。手前の水路(当時の目黒川河口)は今では一部を除いて道路になり、背後の海も一部水路を除いて沖まで埋め立てられている。左下の遊郭は有名な相模土蔵を描いたものだともいう。(Wikipedia)
品川猟師町(旧目黒川河口)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25840234/)
by Twalking | 2017-12-15 19:13 | 東京散歩(新規)