無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(9)鳩山~嵐山01-笛吹峠   

日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ


バスの時間に合わせて早くに出かけました。
今回は笛吹峠を越えて将軍沢、大蔵館後、菅谷館跡等
見所が一杯、義仲生誕の地にも寄るつもりです。

天気は上々、峠道は改良された道ですが
下りに古道の遺構も残っていて見応え十分、
ここはじっくりと散策してみたいところですね。


・・・須江/鳩山町

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街道の風景① 坂戸駅からバスで大橋へ、ここからスタートです/大橋

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すぐに鎌倉街道の案内板            左折して「笛吹通り」を峠へ

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街道の風景② 右の鉄塔の辺りが笛吹峠、尾根の稜線が「巡礼道」になります

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岩殿丘陵
東松山・比企郡鳩山町・嵐山町・ときがわ町・入間郡毛呂山町・越生町に広がる丘陵地帯である。別名「比企南丘陵」「物見山丘陵」。比企南丘陵」とも言われ県立比企丘陵自然公園の大部分を占めることからこちらを比企丘陵と呼ぶこともある。区域はおおむね越辺川都幾川関越道西JR八高線に囲まれた範囲が該当する。側は高坂大地から荒川低地へとつながっている。西側は八王子構造線を越えた西側の外秩父と呼ばれる500m級の山並みへと続いている。なお、関東平野から外秩父山地に続く途中の緩やかな斜面となっているため、東側の荒川低地から見ると外秩父のそびえ立つ山々の手前にある丘のように見えるのが特徴である。岩殿丘陵の最高地点は東端の物見山(標高135m)で、笛吹峠(標高80m)にかけて尾根を形成するが西側へ行くほど標高は落ちていく。また物見山周辺は九十九峰四十八谷といわれるほど起伏に富んでいる。Wikipedia

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須江奥田地区土地改良記念碑
本地区は鳩山町の北部に位置し、地区中央に鎌倉街道が縦貫し往時から交通の要衝にあたり、かつて国分寺瓦、須恵器の産地として栄えた。地区内の水田は狭小で且つ不整形な湿田が多く農道、用排水路とも蛇行して非常に狭く、ひとたび大雨に遭うと冠水し泥沼と化して被害をもたらし、日常の農作業は極めて困難を来した。この様な現状から地元有志が相図り関係農家の総意に基づき昭和6011月頃に奥田地区土地改良組合を設立し、翌年団体営土地改良総合整備事業による区画整理事業を実施した(後略・石碑文)

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羽黒堂(はぐれどう)/奥田
『西の方、須江村の境、笛吹峠の入口にあり羽黒堂ともいう。小さな堂で石の地蔵が置かれている。村人の所有。古くは、このあたりがむなしいほどの原っぱであり、そこへ登る道は即ち笛吹峠である。このあたりに塚が11あり、土地の人が言うには骸骨を埋めた塚であり、最近まで雨の夜には冥火が燃えたため、人々は驚き、塚毎に地蔵を建て追悼したら冥火が起こることがなくなった。峠には塚が2つあり、塚の上に松の木があり、茶臼塚という。また、羽黒堂というのは、歯を黒くした大将の首を埋めたためと。またの説に、出羽国の人を葬ったため羽黒山ととられる。あるいは士卒とはぐれて討たれた者を埋めたためはぐれ塚ということを。誤って唱えていると、いずれも信じることはできない』(新編武蔵風土記稿)

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正面に「今宿及ビ坂戸方面ニ至ル・将軍沢ヲ経テ鬼領鎮神社」左側面には「玉川ヲ経テ坂東九番二至ル・坂東十番ニ至ル」と刻まれた道標、その先に「海道端池」と弁財天の石柱があります。

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街道の風景③ 振り返ってみる須江の田園風景


・・・笛吹峠

鳩山町と嵐山町の境にある峠。標高80m。岩殿丘陵中央に位置し、峠を起点として板東10番の岩殿観音から同9番の慈光寺観音へ続く東西の道が通っており、巡礼街道と呼ばれている。この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所であった。Wikipedia

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街道の風景④ 舗装されているので趣きはいまいちでしょうか、峠の展望は聴きません

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笛吹峠
峠を起点として坂東10番札所の岩殿観音正法寺から9番札所の慈光寺へ続く東西の道は巡礼街道とよばれ、南北に貫く道が旧鎌倉街道で、かつて多くの武士団が往来したところであった。正平7年(1352)閏2月、新田義貞の三男・義宗が宗良親王を奉じて武蔵野の小手先ヶ原古戦場で戦ったが、最終的に結末がついたのがこの峠であった。新田義宗は越後に落ち延び、足利尊氏関東を制圧した。この峠の名称は敗退の陣営で折からの月明かりに宗良親王笛を吹かれたことから命名されたという伝承がある。なお、この付近は遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、武蔵国国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、その古窯跡が虫草山をはじめ須江・大橋・泉井などの山間部に多く見られる。笛吹峠からはるか北方に上州の山々、西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され風光明媚な歴史の地である。(埼玉県)

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笛吹峠の合戦(鎌倉街道沿いの中世史)
笛吹峠は鎌倉街道の中で唯一の峠で、街道一の難所といわれております。慈光観音と岩殿観音の巡礼道が交差するこの峠は、鳩山町と嵐山町の行政境にあたり、クヌギや松の雑木林などに囲まれて今なお古き武蔵野の面影を残しています。眼下には須江地区の集落が広がるこの峠は眺望の素晴らしさでも有名です。平安時代から鎌倉時代にかけて鳩山周辺では大きな出来事が起こりました。1333年(元弘3)後醍醐天皇のもとに足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府を支配していた北条氏が滅亡したのです。北条氏滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏は対立することとなります。そして後醍醐天皇側についた新田義貞(南朝)と足利尊氏(北朝)の争いは武蔵野合戦へと繋がっていきます。南北朝時代には武蔵野を舞台に繰り広げられた数々の争いの中で鳩山も当然その渦中にあったのです。新田義貞がこの世を去った後の1352年(文治・正平7)義貞の子・義宗義興は後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して鎌倉街道を南下します。この進撃は一時鎌倉まで達し足利尊氏を窮地に陥れましたが、尊氏も直ちに反撃を開始すると鎌倉街道沿いを北上しながら次々と義宗軍を打ち破っていきました。そして、この武蔵野合戦の最後の舞台となったのが笛吹峠でした。尊氏軍8万人に対して義宗軍はわずか2万人と勢力差は歴然でした。劣勢となった義宗軍は笛吹峠の地形を利用し、尊氏軍を平野から見下ろしながら自分たちの姿を見せずに射手を進める「鳥雲の陣」を敷くことで善戦しましたが、義宗軍は敗れ越後へと敗走することになります。この笛吹峠は新田義宗と宗良親王が足利尊氏を打ち損じ万斛の涙を呑み敗退した由緒ある場所なのです。(鳩山町の歴史/鳩山町)

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岩殿観音への道            慈光観音への道

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街道の風景⑤ 結構車が行き交いますが樹林の気持ちいい下り道、林道「将軍沢線」のようです。

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街道の風景⑥ 左側に掘割状の道路跡、古道跡なのでしょうか?

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上方部分               下方部分

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前川を渡ります、林道の起点標識が建ちます。この左手にも古道跡があるようです


・・・将軍沢/嵐山町

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街道の風景⑦ 前川から上ると将軍沢の集落になります

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嵐山町
埼玉県中部に位置する人口約18千人の町。町の中央部と北部には東松山台地が広がる。北東部は比企北丘陵の西端部に位置し、南部は岩殿丘陵の北端に位置する。西部は外秩父山地の外縁となっており、南北に八王子構造線が貫いている。日本の国蝶オオムラサキが生息する地としても有名である。平安時代末期の武将源義仲畠山重忠ゆかりの地で、江戸時代には江戸と上州を結ぶ川越児玉往還菅谷宿として栄えた。Wikipedia)写真は明光寺手前の庚申塔

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明光寺山門/将軍沢  

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明光寺は天台宗のお寺です







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町指定有形文化財
鋼造薬師如来坐像(高さ12.8cm) 付木造薬師如来坐像(高さ66.4cm)明光寺の本尊「木造薬師如来坐像」とその胎内に底面から差し込まれた状態で発見された小仏像「鋼造薬師如来坐像」である。小仏像は本来は円盤の鏡面に貼り付けられて寺の内壁に掲げられる懸仏だったもので、室町時代の作と考えられる。本尊は端正で洗練された作風から江戸時代の一流仏師の作と考えられ、底面にスライド式の蓋が付けられていた。小仏像の裏面に木製の中型がはめ込まれており、墨書により仏像の来歴が詳しく記されていた。それによると本尊は元禄年間に小仏像を胎内に納めるため鞘仏として製作されたと推定される。両像は優れた仏教工芸として、」また地域の歴史を知るための資料として貴重なものである。(嵐山町教育委員会)

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阿弥陀三尊種子板石塔婆(嵐山町指定考古資料)
この板石塔婆は主尊に阿弥陀如来種子(キリーク)を置き、右下に観音菩薩種子(サ)、左下に勢至菩薩種子(サク)の両脇侍を配する阿弥陀三尊式の種子塔婆(しゅじ・密教において仏尊を象徴する一音節の呪文-真言)である。鎌倉期の所産で下方に文応元年(1260)の記念銘を有する。町内で最古の塔婆である。造立の趣旨、背景は明らかでないが、当地は13世紀半ばから世良田氏領地となっていた。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。1260年という比較的早い年代に塔婆がこの地に出現するのもこのような環境が背景となっているのかもしれない。(嵐山町教育委員会)

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日吉神社/将軍沢

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日吉神社鳥居                坂上田村麻呂将軍塚

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日吉神社
当社の創建の年代は定かでないが、江戸時代には山王社と呼ばれ明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば延暦10年(91035日、坂上田村麻呂将が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(133140)には兵火にかかり塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社はその寺鎮守として創建された可能性もある。将軍沢地名は村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』によれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰かけて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し明治7年当社の境内に移された。(埼玉の神社 埼玉県神社庁)

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将軍社
祭神:坂上田村麿
當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳(つまびらか)カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古(おうこ)坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚()キテ暖(だん)ヲ與ヘリ。其后(そのご)土人将軍ノ功徳(くどく)ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋(おもうに)当社ニ因(よって)テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ(嵐山町web博物誌)

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街道の風景⑧ 不動坂を下って大蔵へ

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街道の風景⑨坂下に縁切り橋の案内板が立ちます/大蔵

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縁切橋案内板
征夷大将軍坂上田村麻呂が軍勢を引き連れてこの地に滞在岩殿悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ将軍の奥方が京都から心配のあまり尋ねてきたという。しかし、坂上田村麻呂は「上の命令で征夷大将軍として派遣されている我に、妻女が尋ねるとは何事だ、逢わぬぞ」と大声でどなった。それからいくら家来がとりなしてもお許しがなかった。翌朝、奥方は京へ帰る出発のためこの地へ来た。将軍は此の坂下まで来て「大命を受けて出陣しているのに追い来るとは何ごとだ。今より縁を切る。早々に立ち去れ。」と宣言したという。それからこの橋は「縁切り橋」といわれている。婚礼の時この地の人は縁起をかついで今でも新郎新婦を通さぬことにしているそうである。(埼玉県)

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将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。(中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町)

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笛吹峠周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
)(赤:鎌倉街道 緑:巡礼道 青:都幾川)

by Twalking | 2018-01-12 19:23 | 鎌倉街道(新規)

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