無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(9)鳩山~嵐山03-菅谷   

日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ


街道を後にして畠山重忠の居館と伝わる「菅谷館跡」と
歴史の資料館を訪ね、その足で鎌形へ行ってみました。

館跡の現在の形は戦国時代に整備・改築されたものですが、
保存状態もよく、見応えのある一級の中世城郭遺構です。
伝承を裏付けるものや後北条氏関連の出土があるといいですね。


・・・菅谷

d0183387_10125552.jpg
街道の風景① 左岸の河岸段丘をのぼります、あの尾根を越えてきたんですね/蛇坂

d0183387_10271177.jpg
d0183387_10292795.jpg
254号BP手前を左折               横断して台地上へ

d0183387_10190340.jpg
蛇坂の水神塔
時代:江戸時代 規模:高さ110cm
水神塔は水源や溜池、水路、川の堤などの水辺に建てられ、湧水の安定、利水や水路の保護、水難除けや洪水防護など水に関わる様々な目的により造られる。この水神塔は表面に「水神塔」と篆書体(てんしょ)で刻字されている。造立年代は裏面の碑文に文化51808)とあり、杉山・太郎丸・川島・志賀・広野・越畑・菅谷(現嵐山町)水房・和泉・中尾(現滑川町)の10ヶ村30数名の人名が記されている。ここから約600m下流の東松山市上唐子(月田橋畔)にも水神塔があり、碑文名には「筏連中」と刻まれ、千手堂・遠山(現嵐山町)と都幾川右岸の村々17ヶ村の筏師名が記されている。江戸時代の比企丘陵はが多く繁っており、農閑期には農家の副業として伐られた赤松がに組まれ建築・土木用材として都幾川水運により大都市江戸へと送られていた。蛇坂の水神塔もこうした都幾川の水運に関係した人々によって安全祈願の目的で造立されたものとみられ、町の近世史あ民俗史の一端を知る資料である。(嵐山町教育委員会)

d0183387_10315920.jpg
街道の風景② 宅地化されていますが一帯が菅谷原でしょうか?左手に覆屋があります(後で調べたら五輪塔が置かれている所でした)/菅谷

d0183387_10372513.jpg
須賀谷原遺跡
遺跡は国立女性教育観の国道254バイパスを挟んだ北側にありました。平成12年の発掘調査では鎌倉時代道路遺跡とともに戦国時代250基はど発見されています。出土した五輪塔や土器から15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡であることがわかりました。墓域であった処を一度片づけて塚を作り、塚の周りに新たに墓を作っていました。遺跡の年代が長享2年(1488)の須賀谷原合戦の時期と重なり、遺跡の位置からこの合戦との関連性が推測できます。なお、遺跡は工事によりなくなりましたが、出土した五輪塔が現地の覆屋に安置され見ることができます。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

須賀谷原合戦

関東における15世紀後半の戦国時代では、関東管領上杉氏扇谷家山内家に分かれて対立しこれに古河公方を交えて三つ巴の抗争を深めていました。鎌形城の山内上杉氏とそれに対立する扇谷上杉氏の抗争は長淳2148825日に相模の実蒔合戦(神奈川県厚木市・伊勢原市)で幕を開け、618日に須賀谷原合戦に至っています。このとき主家の扇谷上杉氏に誅殺された太田道灌の子大田資康は山内上杉氏につき平沢寺に陣を張りました。合戦は死者七百余、馬亦数百匹倒れるという激戦でした。戦は当初優勢であった山内方を、古河公方を味方につけた扇谷方が押し返し、勝敗がつかないまま山内方が退いたとされています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

d0183387_10474050.jpg
街道の風景③ この辺りから先が菅谷宿でしょうか、資料館&鎌形(前掲)へ寄り道します/武蔵嵐山駅東

d0183387_11034015.jpg
菅谷神社鳥居/菅谷

d0183387_11035239.jpg
菅谷神社
祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
由緒 
本社大山咋命は元日枝神社なり、是は畠山重忠年17才にして治承410月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し、頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て、此に新城を築き居住となし、武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中、即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年919日に奉遷勧請す、故に日吉山王大権現と称せしを、明治4年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す。是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す。須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う(説明板)

d0183387_11111237.jpg
嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
身近な緑が姿を消しつつあるなかで埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。この神社は源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して、建久元年(1190)に日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社さらには菅谷神社と改称されたものです。社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますがこの中でもひときわ大きなスギの御神木は町の保護樹木にも指定されています。(埼玉県・嵐山町)

d0183387_11184423.jpg
神社の向いは菅谷公園、厳島神社が祀られていますが


・・・菅谷館跡/菅谷

d0183387_14434080.png
国指定史跡・菅谷館跡測量図/ガイドブック「菅谷館跡」(埼玉県立嵐山歴史の博物館)

d0183387_14464822.jpg
国指定史跡・菅谷館跡
菅谷館は鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。文久2年(1205)武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長淳2年(1488)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者700人、馬は数百匹倒れたと記されこの菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。現在の遺構は本郭・二ノ郭・三ノ郭などとそれらを防御する土塁・空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられます。昭和48年(19735月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(20083月に比企城館跡菅谷館跡と名称が変更されました。(埼玉県教育委員会)

d0183387_14550855.jpg
搦手門跡(二重土塁と泥田堀)
目の前にあるわずかな高まりは発掘調査によって土塁であることがわかりました。この土塁は後の高い土塁と合わせて二重の土塁となっています。また現在バイパスの敷地となっている部分は自然の谷を利用してつくった泥田堀で、菅谷館跡の外堀の役目をしていたと考えられます(説明板)

d0183387_15160077.jpg
二ノ郭
二ノ郭は本郭の北側と西側を本郭を囲むように配置されています。三ノ郭とは堀と高さ3.5m~6mもある土塁によって隔てられています(説明板)

d0183387_15231021.jpg
d0183387_15225864.jpg
二ノ郭・本郭の土塁          二ノ郭・三ノ郭の土塁

出枡形土塁(本郭)
出枡形土塁は本郭を取り巻く土塁の一部を枡形に飛び出させたものです。本郭に入る敵に「横矢」をかける構造となっています。(菅谷城館跡見て歩きガイド)


d0183387_15183326.jpg
d0183387_15185291.jpg
復元建物跡              菅谷館ジオラマ

建物跡(三ノ郭/歴史の博物館前)発掘調査で確認された柱穴をもとに復元しています。椅子のように見える杭は柱を表現しています。少し離れて見える穴は井戸跡を表しています。(菅谷城館跡見て歩きガイド)

d0183387_15220262.jpg
畠山重忠像(二ノ郭)
昭和4年に地元の有志の方々が作りました。竹を芯にした「竹筋コンクリート」製です。直垂をまとい烏帽子をつけた重忠像は鎌倉の方を向い立っています(菅谷城館跡見て歩きガイド)

d0183387_15281304.jpg
本郭
本郭は東西約150m、南北約60mの長方形をしています。四方を深い堀と土塁に囲まれ、出入り口も狭く容易に郭内に侵入できないように工夫されています。地元の伝承ではここに畠山重忠の館があったと伝えられています。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

d0183387_16392001.jpg
生門跡(本郭/写真正面)
本郭は東西150m、南北60mの長方形をしており、約9千m2の広さがあります。東側の土塁は一部切れており、生門と伝えられ本郭の出入り口のひとつです(菅谷城館跡見て歩きガイド)

d0183387_16584770.jpg
三ノ郭
三ノ郭は東西約260m、南北約130mの長方形をしています。館の北端に位置し5つの郭の中で一番広い面積を占めています。この郭は外からの侵入を防ぐため「折」や「出枡形土塁」などを多用し防備を厳重にしています。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


正坫門跡(蔀土塁・三ノ郭 写真左)
蔀(しとみ)とはついたてのことで、蔀土塁は目隠しのための土塁です。蔀土塁は形や周辺の遺跡の状況(古墳群が周囲にあること)から円墳を利用している可能性があります。(菅谷城館跡見て歩きガイド)

d0183387_17013016.jpg
正坫門(しょうてん)と木橋
ここは三ノ郭の出入り口で正坫門と呼ばれ幅が約5間(9m)あります。発掘調査で結果、西ノ郭より1m高く盛土されていたことがわかりました。この盛土は西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、敵軍の侵入を困難にするよう工夫したものと思われます。調査によって堀の中段から木橋の橋脚を立てたと思われる石積みが検出されましたが、現在の橋はそれを基に推定復元したものです。しかし、実際の橋がどのようなものであったかはわかりません。(説明板)

d0183387_20151717.jpg
西ノ郭

西ノ郭は東西約130m、南北約70mの長方形をしています。館の北西部に位置し、北から南にかけてゆるくわずかに傾斜しています。ここは大手門と伝えられる虎口跡があり、館の玄関にあたる場所であったと考えられます。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

d0183387_20161493.jpg
南ノ郭
南ノ郭は東西約110m、南北約30mの長方形をしています。館の南部に位置し、都幾川の崖上に造られた小さな郭です。この郭は対岸から敵の侵入を防ぐための役割をしていたと考えられます。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


・・・
d0183387_20282214.jpg
館跡の南側に「蝶の里公園」がありますがここもいいですね~ 

d0183387_20301671.jpg
d0183387_20300638.jpg
古道のような散策路           県道を二瀬橋へ

d0183387_22162813.jpg
川の風景① 下流側です、左岸が「菅谷館跡」のある段丘涯になります/二瀬橋

d0183387_22193719.jpg
川の風景② 上流側、大平山の麓(嵐山渓谷)から槻川が合わせます。都幾川は左から大きく蛇行して流れますが、上流が鎌形八幡神社(前掲)になります/二瀬橋

d0183387_22352291.jpg
d0183387_22384583.jpg

二瀬橋                 右岸の桜堤

d0183387_22405113.jpg
右岸・鎌形の田園風景/千騎沢橋

鎌形の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/26353632/


・・・嵐山渓谷


d0183387_23195544.jpg
川の風景③ 散策したかったんですが時間切れ、折よくバスが来たのでの嵐山駅へ向かいました/槻川橋

槻川
(つきかわ)

埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川で都幾川最大の支流である。支流の兜川と共に入間川流域では最も北側を流れる。東秩父村白石地区堂平山付近に源を発する。「新編武蔵」によると源流点に欅(槻)の大木があったのでこの名がある。外秩父山地に平行して北流、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより流れを東南東方向から東方向に向きを変える。小川町腰越地区へ入り南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地へ、兜川と合流し次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地、渓谷を抜けると東へ直線的に流れ嵐山町鎌形都幾川の左岸に合流する。Wikipedia


d0183387_23285350.jpg
嵐山渓谷
埼玉県を代表する景勝地のひとつ『武蔵嵐山渓谷』は岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と豊かな自然環境をもった嵐山町の宝です。槻川は外秩父山地の堂平山中にある自然林に端を発し、東秩父の山間を抜け小川町を経て嵐山町の遠山地区に流れ込みます。ここで岩場によって流路を狭められ都幾川と合流する二瀬の手前までが渓谷となっています。また大平山から伸びた細原と呼ばれる部分では流路が大きく180度転じて半島状の独特な地形をつくりだしています。

d0183387_23243237.jpg
地名の由来
武蔵嵐山渓谷はその地形的な特徴から秩父の長瀞岩畳に例えて「武蔵長瀞」と呼ばれていたこともあるようです。現在使われている「武蔵嵐山」は昭和3年に当地を訪れた本多静六林学博士により名付けられたものです。本多博士は渓谷の最下流部にある槻川橋より渓谷と周囲の赤松林の美しい景観を眺め、その様子が京都の「嵐山(あらしやま)」に大変よく似ているということで「武蔵国の嵐山」という意味で命名されたということです。この地名は後に当町の町名にも採用され「嵐山町(らんざんまち)」となりました。渓谷の半島部分にはそのことを記念する「嵐山町名発祥之地」が建立されています。(嵐山町HP)

d0183387_14114585.jpg
鎌倉街道上道(鳩山~嵐山)ルート図
(赤:鎌倉街道 青:都幾川・槻川 赤丸:笛吹峠・将軍沢・大蔵館・菅谷館・鎌形)


・・・・
資料ファイル


d0183387_02375560.png
「菅谷館跡」の位置と歴史
現在の菅谷館跡の構造は約13万m2の広大な面積を持つ戦国時代複郭式平城です。菅谷館跡が造られた台地は南側に都幾川の浸食によりできた崖、東側と西側には台地に直行する深い浸食谷が入り、城は地形を巧みに利用した複雑な縄張りになっています。鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には畠山重忠が文治3年(1187)に武蔵国菅谷館に引きこもったことや、元久2年(1205)に「小衾郡菅谷館」を出立して二俣川(横浜市鶴見区)で討ち取られたことなどが記録されています。この「菅谷館」は菅谷館跡のことと考えられています。現時点では菅谷館跡を畠山重忠の館と断定できる明確な根拠はありませんが、南を流れる都幾川の対岸の大倉地区や菅谷館跡から2kmほど西にある平沢寺など、重忠の祖である秩父平氏ゆかりの遺跡が周辺に出土するなど周辺遺跡の状況は菅谷館跡に重忠が居住していた可能性を示唆しています。
長享2年(14886月、関東管領山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立から、菅谷館跡周辺(今の嵐山町菅谷から平沢あたり)で須賀谷原合戦がおきます。この時山内上杉方の大田資康陣営を訪問した僧侶万里集九は「梅花無尽蔵」の中で『618日、須賀谷原で両上杉氏が戦い死者700人余り、馬もまた数百匹死んだ』と激しい戦いであったことを記しています。さらに同じ頃に僧侶松陰によって書かれた「松陰私語」には『河越(城)に対し須賀谷旧城(菅谷館跡のことか)を再興せよ』や『須賀谷(城)を堅固に再興せよ』と主君に進言したことが書かれています。発掘調査では15世紀後半から16世紀前半の遺物がまとまって出土しており、合戦同じ時期の遺物です。当時の城主が誰なのかは明らかではありまえんが、江戸時代初めに作られた菅谷館の城絵図の中に『上杉管領居城由』という記述がみられることから『上杉管領』すなわち関東管領山内上杉氏が城主であったと思われます。このようなことから合戦が繰り返された15世紀後半山内上杉氏によって改修され、今のような姿になった可能性が高いと考えられます。(ガイドブック「菅谷館跡」/埼玉県立歴史の資料館より抜粋)


d0183387_12560882.png
畠山氏(平姓)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国で勢力を張った豪族。秩父氏の一族で『平家物語』にもその活躍が描かれている。畠山重忠の代に最盛期を築いたが、鎌倉幕府の内部抗争で北条時政の策謀により滅ぼされた。その後、足利義純が畠山姓の名跡を継いだが、これが三管領家として名を連ねる家柄となった源姓畠山氏である。
秩父重綱
の息子・重弘は長男であるにもかかわらず秩父氏の家督を継ぐことはなく、である重隆が継いだ。重弘の長男・重能は武蔵国男衾郡畠山郷にて畠山氏を称したが、これが平姓畠山氏の始まりである。有重小山田氏を称し、妹は千葉常胤(つねたね)に嫁いでいる。本来ならば嫡流であるはずなのに、惣領の地位が叔父の重隆に握られていることに重能は不満を感じていたらしく、大蔵合戦源義平の軍勢に従い叔父重隆を滅ぼす。この時、重能は重隆の娘婿である源義賢の遺児駒王丸(のちの木曽義仲)の命を救っている。惣領を巡る争いは後々まで尾を引き結果的には秩父氏衰退の遠因となった。
1180年に源頼朝が挙兵すると重能の息子・重忠は本家の河越重頼に従って頼朝追討軍に参加したが、後に服属した。そして、重忠の代に畠山氏は大躍進を遂げることとなる。即ち、重忠は頼朝の平家討伐、奥州合戦で功を立てたばかりではなく、本家の河越重頼・重房が粛清された後、秩父氏惣領の座も得たのである。かくして重忠は武士の鑑と称えられることとなった。重忠は正室に北条時政の六女を迎えている。しかし、重忠の名声を北条時政及びその妻である牧の方は妬ましく思い潰そうとした。1205年に重忠の従兄弟である稲毛重成・
榛谷 重朝を抱き込み、最初に重忠の嫡男重保を血祭りに挙げた。重忠も息子の重秀と共に武蔵国二俣川で討ち死にした(畠山重忠の乱)。稲毛・榛谷一族も後に滅ぼされ平姓畠山氏嫡流滅亡した。重忠の遺児・重慶も後に粛清された。畠山の姓は足利義純が継承している。Wikipedia
系図:
ガイドブック「菅谷館跡」/埼玉県立歴史の資料館より抜粋)

鶴ヶ峰・二俣川古戦場跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23570588/

by Twalking | 2018-01-18 19:57 | 鎌倉街道(新規)

<< 冬の朝 畠山重忠像-菅谷館跡 >>