鎌倉街道上道(多摩~町田)02-小野路
天気 晴れ
七国山の古道は途中で二又に分かれていますが、
芳賀善次郎さんの本を読むと、野津田越えのルート
として西回りがあることを知りました。
どちらも野津田公園内を通ったものと思われますが、
ひとまず大山街道の分岐から鎧橋へ下り、七国山へ
の西ルートを歩いてみました。
・・・小野路/町田市
町田市北部に位置する。地域内は多摩丘陵内の緑豊かな地域となっており都内有数の里山地域であるほか、江戸時代には大山街道の宿場町として栄え、小野路宿通りは当時の雰囲気を現在に残している。また、地域内には中世前期のものと推定される小野路址があり周辺は図師小野路歴史環境保全地域に指定されている。(Wikipedia)
小野路村の名主小島家や橋本家は自宅を道場として解放、近藤勇や土方歳三、沖田総司などが村人に剣術を教えるために通ったところ。新撰組の書簡や小野路農兵隊などの資料が展示公開されている(フットパスガイド)
多摩丘陵の原風景を残す町田市北部の小野路地域には、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿があり、そこにあった一軒の旅籠・旧「角屋」を改修し観光交流の拠点として再整備した施設が「小野路宿里山交流館」です(町田市)
地神塔 梵鐘
開山様は第52代嵯峨天皇第12皇子源融の後胤にあたる中島蔵人の子息である。幼にして薙髪、鎌倉建長寺にて修行、一旦帰省し父母への報恩のため妙興寺創建に着工、後に再び関東に遊歴して八禅刹を建立、当山はその中の一寺である。父・中島蔵人は尾州中島村(愛知県一ノ宮市萩原町中島)にある中島城の城主を勤めていた。開山滅宗興和尚はよく衆生を済度し民衆のため種々尽力された高僧である。永徳2年(1383)7月11日示寂、73歳。示寂後40余年を経て第101代稱光天皇より(應永33・1426年)圓光大照禅師号を追贈されている。当山萬松寺は徳川時代慶安元年(1648)将軍家光公依頼代々御朱印七石を賜わる。徳川寛文年間第11世祥翁喜和尚のとき全焼。降って昭和20年(1945)5月25日夜半今次大戦にあたり米國機の東京空襲の際焼夷弾攻撃を受け本堂玄関附属建物および過去帳仏具仏典類すべて焼亡、当時集団疎開していた品川区鈴ヶ森國民学校児童職員ら無事全員隣寺に避難した。(掲示板)
(赤:鎌倉道 紫:大山道 黄:八王子道 青:小野路川)
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 橙:布田道 黄:八王子道 赤角:一本杉公園・小野路宿・野津田公園)
府中通り大山街道(小野路~図師)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23519619/)
・・・野津田
町田市の中北部に位置する。東西に鶴見川が流れ、北東の町境には小野路川が流れる。北部と南東部と南西部は丘陵地帯となっている。主に参道橋以西の鶴見川周辺と薬師池公園の西で七国山の北と野津田公園の東で綾部原トンネルの上辺りには畑が多く残っている。(Wikipedia)
途中の切通し 小野路一里塚/野津田公園入口
古来、鎌倉みちは幕府のあった鎌倉から武蔵の国府である府中を抜けて上州の高崎方面に続いていた。府中の手前にある小野路の宿は鎌倉時代にできたと考えられる。駿河の久能山に埋葬された徳川家康の遺骨を江戸時代の初期の元和(げんな)3年(1617)3月に日光東照宮に移したときに街道の整備と共に小野路の一里塚は造られた。伝承によると御尊櫃(ごそんひつ)を乗せた輿が向阪を下ったとき壊れ、一行が難儀し鍛冶屋を呼んで修理した。この時の小野路村の労苦に対して幕府は以後助郷を免除した。この街道は御尊櫃御成道、また矢倉沢往還として利用され、東海道平塚宿と甲州道府中宿を結ぶ脇往還として賑わった。江戸期に盛んになった大山詣での道として小野路宿は賑わい幕末頃は旅籠が6軒あった。東海道一里塚は五間四方あったというが小野路の一里塚は一回り小さかった。榎の木が植えられておりここで旅人は一服つけたのではなかろうか。町田市では他に木曾の一っているが、多摩市貝塚にあった塚は現在残っていない。(小島政孝稿・説明板)
大山道分岐 凄い急坂です
登り口の石造群 芝溝街道を横断します
・・・山崎町
町田市の中部に位置する。東には七国山があり東側の町境は薬師池公園に接する。野津田町との町境付近を鶴見川が流れる。地名は鎌倉時代に横山党の一族である山崎兼光等が住んだ地とされているが、地名の詳しい由来についてはわかっていない(Wikipedia)
鎧堰は永禄8年(1565年)に八王子城主・北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかしこの鎧堰はその後、長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約87000m2)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え、親しまれてきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。北条氏照印判状 野蔦(野津田)之郷本堰口、川二崩、当年水不上之間、新堰可鑿歟之旨、得御意候、 以彼堰過分之田地可荒義如可候間、小分之年貢引候義者不苦候、 尤新堰可為鑿旨被仰出状如件、丑(永禄8年)三月廿日 一雲奉 武藤半六郎殿 専正軒/町田市史資料集第四集
元弘3年(1333)5月8日、上野国新田庄(群馬県新田郡)の武将新田義貞は後醍醐天皇側からの命を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました。新田軍は上野国から武蔵国に入り鎌倉街道上道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は5月9日に鎌倉を出発します。両軍は小手指原(入間市)久米河(東村山市)にて衝突し、5月15日には武蔵国府の有る府中に至ります。15日16日の2日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦いが繰り広げられました。多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれました。(「多摩川市関戸に残る中世の伝承とその背景」より) この関戸合戦の末端で戦い犠牲になった兵の屍が鶴見川を流れ折り重なって堰をなり、その状況を見て「鎧堰」(当時は鎧ヶ淵)と呼ぶようになったとの伝承があります。また、堰の模様が鎧に見えたことから鎧堰を呼ぶ説もあります。この鎧堰の北側の小高い畑に兵の亡骸を手厚く葬り神聖な場所と言われた「兜塚」がありました。また、並木前の畑にはヤバ(矢場)畑、ツカ(柄)畑の通称もありこの地が合戦場であったことを思わせます。平成21年の河川整備に伴いこの伝承を記す。(東京都南多摩東部建設事務所)
・・・七国山の鎌倉古道
この先が入口です その手前に庚申塔
(赤:鎌倉街道 緑:現鎌倉街道 紫:大山道 橙:芝溝街道 青:鶴見川)
鎌倉街道本路(野津田公園)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26507928/)
by Twalking | 2018-02-20 13:44 | 鎌倉街道(新規)