無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『古東海道』(1)関戸~古淵01-連光寺   

日時 2018.3.17(土)
天気 晴れ

古東海道の夷参駅の周辺を歩きましたが、
武蔵国府とを繋ぐ道を歩いてみたいと思いました。
鎌倉街道や中原街道でも気になっていた道です。

遺跡や資料などが極めて少ないですが、
いくつかの資料を参考にして歩こうと思います。
まずは地元多摩の打越山遺跡からでしょうか。


・・・連光寺

連光寺は全域がゴルフ場(桜ヶ丘カントリークラブ、米軍多摩ゴルフ場)となっており、連光寺12346丁目は主に住宅街、連光寺5丁目はほぼ全域が都立桜ヶ丘公園、多摩市立連光寺公園、多摩市立大谷戸公園などの公園施設となっている。古くからの村の流れを汲んでいる地域であり、明治の市町村制以前は「蓮光寺」と書いた。多摩ニュータウン開発に伴う区画整理事業などが行われ、一部が聖ヶ丘、諏訪、馬引沢などに分離した。地名はかつて地域内に「蓮光寺」という寺院があったことに因む。
Wikipedia

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街道の風景①大栗川との合流地架かる向ノ丘橋から左手大坂を上ります/向ノ丘橋(乞田川)

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坂下                 大阪


大坂

連光寺の地名、坂名。現在も非常に急な坂道が残る。富沢家の東側を登る坂道の名。この坂の麓を坂下という。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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行在所(あざんざいしょ)/春日神社前
連光寺の地名、通称。富沢家のある場所で明治天皇御行幸の際に仮の宮殿とされた場所。ちなみに富沢家の旧家は多摩中央公園内に移築されている。(「谷戸めぐり」さんの解説より)



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富澤氏
富澤氏の出自は鎌倉幕府初期の御家人・畠山重忠を起源とする。重忠の13代目為政が武蔵国富川沢村に拠ったことから「富澤」を名字としたという。子孫は戦国時代に小田原城主北条氏に敗れて、駿河国の守護・今川義元に仕えその旗本となった。ときの当主・冨澤政本は義元に仕えて北条氏領内で活動するゲリラ部隊を率いていたが、桶狭間の戦いで義元が横死し今川氏が衰退すると連光寺村土着し帰農した。慶長年間より、旗本・天野氏の支配下で連光寺村の名主となり幕末まで世襲した。幕末にはときの当主・冨澤忠右衛門が新撰組の近藤勇と昵懇の間柄で、物心両面で新選組を支援したことでも知られる。明治維新以降も、連光寺集落が属する多摩村において指導的な役割をなし、明治14年には狩りの為に連光寺に行幸した明治天皇御休所として屋敷を提供している。又富澤氏の屋敷近くの乞田川に架かる橋は「行幸橋」と命名され、近隣は多摩市聖蹟桜ヶ丘地区となっている。富澤氏の屋敷は現在、多摩中央公園に移築され一般公開されている。Wikipedia

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春日神社鳥居/連光寺

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春日神社の由緒
御祭神:大日孁尊(オオヒリメミコト)天児屋根命(アメノコヤネミコト)武甕槌命(タケミカツリノミコト)経津主命(フツヌシノミコト)以上4神合座。古来より国家鎮護の神として崇敬されている。
由緒及び沿革
創建された年月は不詳であるが春日神社鎮座地、連光寺の地名は東鑑の治承54月(1177年)に小山田三郎重成に武州多磨郡の内、吉富並びに一の宮連光寺を所領に加えたと記されているので、この頃すでに村落が形成されて大和国奈良に鎮座する春日神社の神霊を移して祀り、本社の東南約一町に若宮八幡社、西南約三町を隔てて神明社を祀り、境外末社として三社相合ってあたかも奈良の社に倣っていると古来から伝えられている。爾来数百年間に亘り国家鎮護、五穀豊穣の氏神鎮守として祖先より崇敬を集め且る親しまれ現在に至っている。(境内石碑)

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街道の風景② 仏道・寺坂を上ります/高西寺前

仏道(ほとけのみち)
連光寺の地名、道の名。現在の高西寺付近の道の名で、この寺に関係するように思われるが実際には蓮光寺へ向かう道であったことが由来だという。蓮光寺所在は分かっていない。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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高西寺山門//連光寺2丁目

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高西寺(曹洞宗)
連光寺にあり山号は神明山。本尊は阿弥陀如来座像。除地で、開山は大福寺と同じく寿徳寺3世超巌守秀である。慶長4年(1599)に富澤家の当主が父の菩提寺として建立したものであることが伝えられている。(多摩市史)


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高西寺山門の龍
江戸時代に作られたといわれる旧山門の中央上に龍の彫物があります。この側の口の上よりのどが刺されたあとが残っています。伝説とし言伝えられているおの龍は「左甚五郎」が彫ったと伝えられますが、確かな文献は残っておりません。釘の跡の謂れは、昔この地のお百姓さんに大変は飢饉が訪れました。幾日も雨が降らず困り果てたお百姓さんは、天の水を高西寺の山門の龍が日夜点に昇り飲んでしまっていると考えました。そこである日、山門の龍ののど元に天の水を飲み込めないよう釘を打ったそうです。すると不思議にもにわか雨が降りだし飢饉を脱したという伝説があります。(説明板)

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街道の風景③ この先が「打越山遺跡」古東海道を足跡を示唆する重要な遺跡です/連光寺

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歴史古道が眠る高西寺通り
飛鳥や奈良へと続く古代東海道と源頼朝伝説倉街道早ノ道
高西寺山門前から続くこの道はかつての「
鎌倉街道早ノ道」の跡です。鎌倉幕府を開いた源頼朝の時代に、いち早く鎌倉へ向かう為に早馬や急便が駆け抜けたという早ノ道でした。1989年(平成元年)に発掘調査が行われ、多摩中央病院の西手にかつてあった山の斜面に打越山遺跡が確認されました。高西寺の前の通りはその道続きにあたりここにある庚申塔(石仏)を含む道路の下を通っていたと考えられます。この道は1988年(昭和63年)に古道の研究家たちが調査活動を行った結果、古道と思われる窪みを確認し、多摩ニュータウン研究者の有志や高西寺など12団体が協力して多摩市に働きかけ、開発に伴う緊急発掘を行うことになりました。その結果、最大の道幅は12という国内最大級の道路跡であった事が判明され、この道はかつて飛鳥や奈良の平城京と武蔵国を結び防人や都人たちも歩いたと思われる国道「古代東海道」であることがわかりました。明治時代の道路跡、中間層からは鎌倉時代を含む中世の道路が発見されました。かつて山頂近くには秋葉神社が祀られ、源頼朝の「腰掛の松」の伝承や早道場の小字名も残されていました。現在では山は崩され新しく住宅が建ち古道跡はなくなりましたが、道の方向を知ることができます。(高西寺建立)

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左に下ると神明社があります/春日通り 

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神明社(しんめいしゃ)
天照大神または伊勢内外宮のを祀った神社。神明宮、神明神社、太神宮、伊勢宮(いせみや)などともいう。神明とは神と同義で、中国の古典《左伝》《書経》にも見え、日本でも古くから用いられた語であるが、平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至った。伊勢神宮神領(神戸(かんべ)、御厨)の設定された地に天照大神の分霊を迎えて神明社が創建される例は鎌倉時代に見えはじめ、早いものとしては1186(文治2)鎌倉甘縄(あまなわ)の神明社が源頼朝によって修理を加えられて〈伊勢別宮〉とされていた事例がある《吾妻鏡》。(コトバンク)

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早場道
連光寺の地名、道の名。大谷戸公園と多摩中央病院の下の道は昔の早場道の名残。馬を飛ばして進む山奥の抜け道のような場所だった。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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街道の風景④ 病院裏に続く南側の谷部、左手が大谷戸公園になります/神明神社裏

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多摩中央病院            聖ヶ丘第1児童公園

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・・・聖ヶ丘

旧大字連光寺丘陵部山林高台に多摩ニュータウンの4住区として造成され、1984年に入居を開始した新住宅市街地開発事業区域である。「聖ヶ丘遊歩道」が住宅地を南北に貫いており、南に配置した「多摩東公園」「馬引沢南公園」から北に配置した「大谷戸公園」までを結ぶ。4丁目にある「多摩大学」および付属高校に隣接して多摩市における最高標高地点となる「天王森公園」(東京100景)があり、ここからはスタジオジブリ作品のアニメ『耳をすませば』の舞台桜ケ丘や富士山を眺望することができる。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 聖ヶ丘の住宅街を馬引沢へ下ります/聖ヶ丘


中尾根

連光寺の地名、山名、字名。大谷戸馬引沢の間の尾根の名。現在の聖ヶ丘中学校付近(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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大曲おおまがり
連光寺の地名、通称。東の谷戸支谷であるが、本谷とは逆に南から北へ急激に曲がって入り込む不思議な地形の谷戸。(「谷戸めぐり」さんの解説より)



・・・馬引沢

連光寺の地名、字名。連光寺村を構成する大きな集落名の字で、さながら大字のようなくくりと言っても良いと思う。
乞田村岩ノ入東の尾根を越えた谷戸中心とする地区。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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街道の風景⑥ 府中町田線、京王・小田急線を渡ります/馬引沢第3公園入口

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馬引沢のモニュメント/馬引沢2丁目
「馬引沢」の町名は大字連光寺字馬引沢の小字をとって平成2127日に新設された町名であり、現在馬引沢12丁目が設定されています。新編武蔵風土記稿に「村の南をいへり」とある古い地名ですが、町名の由来は定かではありません。大字連光寺字沖谷戸の谷間から当地を通り乞田川にそそぐがあり、この沢沿いに鎌倉街道から諏訪神社前を通り川崎市黒川抜ける道があったようで、黒川境に至る辺りは険しいところであったといわれています。

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馬引沢の中央には昭和41年に焼失してしまいましたが薬王寺という古いお寺があり、近在の人々より深く敬われていてその前を通る時、馬から降りて引いて通ったといわれているところからこの地名が付けられたとも言われています。なお、この彫刻は「馬引沢」の町名にちなみ「馬」をテーマにしたものです。(説明板)

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街道の風景⑦ 諏訪の谷通り、遊歩道を通りエコプラザ前へ上ります/諏訪中学前 

沖ノ谷戸

連光寺の地名、字名。馬引沢谷戸を中心とした地域の字。狭義には丸山西側の谷戸、特に奥の方を言ったと思われる。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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諏訪南公園             尾根幹線を横断

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連光寺周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:古東海道 橙:鎌倉街道 青:乞田川・大栗川)

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・・・・・
資料ファイル

打越山遺構
東山道武蔵路で出会った道路遺構の説明板にあった多摩の「打越山遺構」、地元にある遺構なので気になっていました。古東海道を歩く前に図書館で「打越山遺跡発掘調査報告書/多摩市遺跡調査団」を閲覧しました。報告書よりその概要などをピックアップし、ご紹介させて頂きます。

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多摩中央病院前の道路の左側が道路遺構位置でしょうか/連光寺


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遺跡の位置
市の中央東部、
連光寺本村地区に所在し多摩川に注ぐ乞田川右岸丘陵斜面に位置する。本丘陵の小字名を「打越」と言い、打は越える意を強める言葉で道が高い所を越える部分を言うものである。遺跡の所在する丘陵を打越山という。遺構の標高は91-110m(調査時92-105m)を測り、地形的には丘陵の尾根登攀口付近に相当する。

周辺の遺跡
本村遺跡群(庚申山遺跡、多摩市No31遺跡、32遺跡)
本遺跡は区画整理事業に伴い発掘調査が実施された。打越山遺跡の上限に近いと考えられる。奈良・平安時代住居址近世の建物址等の遺構が検出されている。(現在整理中)/調査報告書第6図「遺跡の地形と調査区」に赤:遺構範囲 緑:周辺遺跡 橙:道路を着色しました。


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「打越山遺跡と旧道・大正10年測図/調査報告第3
打越山遺跡と古道明治39年・大正4年図では本遺跡部分古道が通っており、丘陵部を登攀するルートが示されている。本ルートは多摩川を渡ると旧鎌倉街道から分岐して連光寺の「大坂」へ入り、春日神社から高西寺前を通り本遺跡に至る。本遺跡からやや南東に延び馬引沢の丘陵上を通り南東へ向かい、武道館東側の尾根付近から2方向へ分岐する。1は西南方向、町田市小野路へ延びていき、もう1は東南方向、稲城若葉台・黒川方面へ向かい、町田市真光寺から広袴~能ヶ谷~岡上~奈良~長津田へと延びていくものと思われる。(調査報告書)
調査報告第3図に赤:本遺跡ルート 橙:鎌倉街道上道 青:乞田川・大栗川・多摩川 赤丸:武蔵国府跡を着色しました。

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第20図「武蔵・相模国境付近の古代道路想定図
本遺構の性格・位置付け
遺構の位置、走行、形状、規模等から宝亀2条に見られる相模国夷参駅に通じる東海・東山連絡道(駅路)、さらに延喜式当時店屋に通じる駅路であったと想定している。遺構付近の「早道馬」という地名は駅馬(はゆま)道を想定されるものとしている。また、武蔵国府都築郡衙を結ぶ古代郡衙道可能性を想定し、後の鎌倉期には鎌倉街道上ノ道の支線「早の道」として踏襲して使用された可能性もある(宮田太郎氏)本遺跡の形成、性格などを総合的に判断すると、古代官道の一部である蓋然性は高く、鎌倉期にはそれを踏襲して使用された可能性が考えられる。武蔵野台地で確認されている東山道武蔵路、鎌倉古道の伸延を線的に復元する一地として重要な遺跡であり、両者の関係を示唆する好事例と言えよう。(調査報告書・木下良氏)
(赤:その他の古道 橙:延喜式駅路 青:河川を着色しました)

矢倉沢往還・都筑郡衙(長者が原遺跡)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22820760/


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19図「道路遺構の変遷」
今回の成果と課題
1)堀方、形状、硬化面の存在等から人工的構築された道路遺構であることが判明。

2)遺構は10m前後で、最大上部幅は12を測り、遺存延長は150に及ぶ非常に大規模なもの。
3)蔵国府関連遺跡(府中市)、国分寺関連遺跡(国分寺市)東の上遺跡(所沢市)等で検出している古代道と本遺構が、側溝波板状凹凸有さない点は異なるが、幅など規模はそれらに類似している。また、町田市上ノ原遺跡の道路遺構とは掘割状の形状テラスを有する堀方、硬化面(層)の確認、側溝の無い点で類似するが波板上凹凸面を有する点等が異なる。

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4)遺物は煙管の雁首、土師器、須恵器等が出土しているが、遺構の性格直接関係する資料得られていない。
5)遺構の時期は、所産時期を示す明確出土遺物がないため断定はできない。しかし、1層上部付近は近世17世紀頃の年代、1層下部の上部道路(硬化)は近世前年以前の所産と推定される。また下部道路(硬化)面の覆土34層は古代の覆土に類似している事や出土遺物から推定すると下部道路(硬化)面及び遺構堀方構築時は古代の所産可能性が高い。
6)掘割状道路遺構堀方及び下部道路(硬化)面が古代の所産とすると、その走行、規模、状況等から推測して、本遺構は奈良時代・律令期に整備された古代官道と考えられ、府中市、国分寺市、所沢市で発見された東山道武蔵路の古代道線的に結ばれる可能性がある。
7)遺構の使用時期としては硬化面期と共に構築期(堀方面)が考えられるが、堀方面の道路としての使用に関しては定かでない。2ないし3時期の主要な使用期間が考えられる。推定として、構築時期を古代と考え、下部道路(硬化)面も同時期に整地構築されたとすると、下部道路(硬化)面古代の所産で、中世・鎌倉期には古代道を踏襲して再使用され、中世以降上部道路(硬化)面が形成され、最上部道路は近世と考えられる。(報告書)
(写真:打越山遺跡/東山道武蔵路遺構説明板より)

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by Twalking | 2018-03-21 11:19 | たまのさんぽ道(新規)

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