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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『古東海道』(2)古淵~海老名01-大沼   

日時 2018.3.25(日)
天気 晴れ

古東海道の宿駅「浜田」「夷隅」などを見てみたいと
はじめましたが、やはり線で辿るのが分かり易いです。
今回は相模原台地を海老名国分寺へ向かいます。

相模原台地は大山道で磯部まで歩きました。
工業団地や住宅地なので歩く面白味には欠けますが、
それでもこ木もれびの森などに出会えてよかったです。


・・・大沼/相模原市

神奈川県高座郡相模原町および相模原市の
旧大字名。現在の同市南区の北部を占める。「大沼」の名は当地域内にあった、およびその付近に開かれた江戸時代前期の新田集落(大沼新田)に由来する。全域が相模原台地の「上段」(相模原面)上にありほとんど平坦であるが、大沼神社(南区東大沼2丁目)付近がわずかな窪地となり「大沼」と呼ばれる沼があった。これは地下の宙水に由来するものであり、全般に地下水位が非常に深い台地上面にあってこの周辺浅い位置で地下水が得られる。相模原台地上にはこのほかに「小沼」(南区若松二丁目)、「菖蒲沼」(中央区淵野辺五丁目)、「鹿沼」(中央区鹿沼台二丁目)など宙水に由来する大小の沼が散在していたが、公園内の池として整備された鹿沼以外はいずれも1970年代までに埋め立てられ消滅した。Wikipedia

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街道の風景① 国道16語を横断して西へ向かいます/交番前(古淵)

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相模原市南区
南区は相模原内の区では第1位の人口を擁しており、また相模原市域の約11.6%の面積を占めている。区内では大規模な商業地が形成されている一方で、自然とふれあえる相模原公園や相模原麻溝公園などの公園や相模原中央緑地(木もれびの森)などの緑地が充実している。中央部の麻溝台や新磯野は元の陸軍士官学校の演習地であり、戦後旧満州等からの引揚者らにより開墾されたWikipedia)

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街道の風景② 宅地化されてますが、少し入ると田畑がのこります/東大沼バス停

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大沼神社鳥居/東大沼

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大沼神社
御祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
大沼神社は今から272年前の元文元年(1736)弁財天社として新田への入植者によって祀られたと記されています。(大沼公民館)


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大沼
江戸時代開墾が終わって、幕府の役人により検地を受けた時に記録された面積検地水帳(宝永4年・1704)によれば2834歩と記録されています。この時は沼でなくと書いてあり水が少なかったことか分かります。これは沼の大きさでなく水が溜まっていた部分の面積と思われます。沼が埋め立てられた昭和40年の時の面積、大沼神社の境内にある水田記念碑によれば7115歩(718962)と碑に刻まれている。これは東京ドームの約1.5倍の面積になります。(大沼の文化と歴史/大沼公民館)

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地図に「慰霊塔」が記されてますので寄ってみましが大正解、素晴らしい森に出会えました/東大沼

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木もれびの森
近世までの相模原台地は「相模野」の呼び名のとおり、原野の広がる入会地(共同の草刈場)でした。江戸時代の新田開発により農地として開墾されましたが、水の便も悪く土地が痩せていたため農作物があまり育たず、替わって炭焼きのためのクヌギ、コナラの植林が行われるようになりました。こうした雑木林が残っているのが「木もれびの森」です。伐採した幹は薪や炭、落ち葉は肥料に、小枝は燃料にと人々の生活と密接なかかわりを持っていました。時代は進み、生活様式の変化に伴い雑木林の利用はなくなり手入れされなくなった森は荒れてゆきましたが、今再び現代人の健康志向と心のよりどころとして雑木林が見直されています。(相模原市)

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相模原市慰霊塔

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相模原市慰霊塔
相模野の緑深きここ大沼の地を選んで「相模原市慰霊塔」の基となった「相模忠霊塔」が建立されたのは昭和188月である。当時の日本は苛烈な太平洋戦争のただ中にあり、国運急を告げ軍備拡充が進められていた。広大な原野を有していた相模原にはすでに昭和12年ごろから陸軍関係施設が相次いで建設され昭和14年には陸軍電信第一連隊が東京から転営、昭和15年に陸軍衛生病院が開院、昭和18年には地元並びに近郷住民の協力のうちに軍により「相模忠霊塔」が建立された。その後本土が直接戦禍を被る中で迎えた終戦(昭和208)は我が国の社会経済に多大な影響を及ぼし人心や日々の生活は動揺の極みに達した。その中にあっても、祖国の安泰と繁栄を願い、己が命を国に捧げられた諸霊に対する敬愛追慕の情はいよいよ深く、多くの人々による忠霊塔の護持活動は間断もなく続けられた。その結果昭和245月ついに国から土地施設の一切が当時の相模原町に譲渡された。そして昭和277月住民総意のもと条例をもって「相模原町慰霊塔」として設置し、市内戦没者等を永遠に合祀して御霊のご冥福と郷土の繁栄世界の平和を祈る聖域とした。それからは毎年秋に相模原市が合同慰霊祭を執り行い市民あげて尊崇の誠を捧げ平和への願いを新たにしている。(碑文)

木もれびの森(相模原中央緑地)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23675795/

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大沼新田の中心地のようですね     神社先のお堂

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街道の風景③ 県道を横断した先が次の集落です/大沼バス停

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大沼観音堂              入口のお地蔵さん

大沼観音堂/西大沼

建物の老朽化にともない新しく建て替えられた大沼観音堂は、平成1911月淵野辺龍像寺住職により新築完成法要が行われました。今までのイメージを一新する立派なお堂が建てられ地域の神仏に対する信仰の厚さを物語る建物です。お堂の中には千手観音が祀られています。昔は治病、夫婦円満の観音様として大沼の人々の信仰を集め、嫁に出るときは必ず観音様にお参りをしてから嫁いで行ったそうです。お堂の存在は嘉永元年(1848)の宗門改め帳(戸籍)に観音堂が記されていますが、創建ははっきりしません。それ以前の天保年間(1830)の凶作と疱瘡の大流行による死者の供養のため建てられたのではないかと思われます。(大沼の文化と歴史/大沼公民館)

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街道の風景④ 古淵からこの先辺りまでは一直線のみちです/双葉

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西善寺(浄土真宗大谷派・昭和42年当地へ)横浜水道道を横断



・・・桜台


相模原市南区の大字名。相模台地区のうちの一つである。町内の半分近くを国立病院機構相模原病院の土地が占めており、病院西側には集合住宅「相模台第二団地」が存在する。1970年に桜台を設置、設置実施前までは上鶴間磯部の各一部だった。(Wikipedia

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街道の風景⑤右手が相模原病院、水道道から直線路は消えています/桜台


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国立病院機構相模原病院
国立相模原病院1938年臨時東京第三陸軍病院として創設。2004年より独立行政法人へ移行し、独立行政法人国立病院機構が運営している。政策医療における免疫異常分野の総本山(準ナショナルセンター)であり診療・臨床研究・研修などの幅広い活動が行われている。(Wikipedia

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相模台団地・相武台団地をジグザグに相武台方向へ向かいます

府中通り大山街道(磯部)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23680047/


・・・相武台/座間市


座間市
と相模原市南区にまたがる地名。1937年(昭和12年)陸軍士官学校が当時の高座郡座間村(現座間市)に移転してきた(士官学校敷地・演習場は同郡新磯村、麻溝村・いずれも現相模原市にまたがる)。同年12月に行われた同校卒業式に昭和天皇が行幸した際に天皇から同校に相武台の呼称が与えられた。(Wikipedia

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街道の風景⑥ 平坦かと思ってましたが以外や複雑な地形、後方は小田急相模原でしょうか/相武台

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キャンプ座間付近の道を南へ直進すると51号線の相武台前に出ます

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街道の風景⑦ 先の座間跨道橋を左方向へ向かいます、左側の尾根を向かったのかも知れません?/大坂台公園

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県道51号町田厚木線
町田市原町田から厚木市東町までを結ぶ主要地方道である。相模原市・座間市内の区間では「行幸道路」とも呼ばれる。キャンプ座間がかつて大日本帝国陸軍士官学校
であった時代に、天皇が横浜線原町田駅(町田駅)から士官学校まで行幸をしたことに由来する。Wikipedia

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護王姫大明神社/
入谷

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市指定重要文化財・大欅
この大欅は安産の守護神として昔から近在の人々に信仰されてきた子安護王明神の境内にあります。護王明神は伝説によると、源義経の側室の牛王姫を祀ったものだといいます。牛王姫は兄の源頼朝に追われていった義経の後を慕って来ましたがこの地で難産のために死んでしまいました。哀れに思った村人は牛王姫母子を葬ったそばに欅を植えて墓標のかわりとしました。(これが現在の大欅であるといいます)。その後、円教寺の住職日範により円教寺に休息した日蓮上人に牛王姫の 墓前で読経をしてもらって安産の神・護王姫としてここに祀ったものです。(
座間市教育委員会)

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歩道橋を渡り三年坂から星谷寺へ上ります/入谷

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三年坂
星谷寺裏鎌倉古道を北方へ下る急坂をいう。座間にはもう1ヶ所栗原にも「三年坂」がある。「三年坂」と呼ばれる坂は京都をはじめ各地にあるが、関東ではなぜか東京(4ヶ所)と座間だけらしい。名前の由来ははっきりしないが、大体この坂で転ぶと3年後に死ぬという口伝を持つ。また、多くは坂上に仏寺が存在する。寺の創建が3年だったからとするもの(京都の三年坂のある清水寺は大同3年創建という)参詣にちなんだ仏語からとするものなどがいわれている。(座間市地名・字名とその由来)

京都・三年坂の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21625269/

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街道の風景⑧星谷寺から南へ、海老名を目指します/星谷寺前

星谷寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26553383/

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相模原台地周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:古東海道 橙:府中通り大山道 青:横浜水道道 黄角:キャンプ座間)


・・・・・
資料ファイル

相模原台地
神奈川県中部にある洪積台地。相模川と境川にはさまれ南北30km、東西7km。相模川の形成した扇状地が隆起したもので3つの段丘に分れ、いずれも砂礫層の上にローム層が厚く堆積している。段丘の崖下には古代から集落が開かれ、海老名市国分には相模国の国府がおかれていた。上位段丘面は江戸時代まで原野として残されたが、幕末に横浜港が開かれてからは養蚕が発達。第2次世界大戦後は相模川から引水する灌漑施設の建設が進み畑地が広がった。1950年代末からは住宅地の造成とともに工場の進出が著しく首都圏でも人口急増地域となっている。(コトバンク)


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「相模原市民俗編(平成22年刊)」の付図/相模原市博物館
(緑:古東海道 紫:府中通り・八王子通り大山道 茶:町田街道を着色しました)

畑作地帯だった相模原
この地図は「相模原市民俗編(平成22年刊)」の付図で、明治39年(1906)の相模原地域の土地利用状況を示したものです。この中のピンク色の所は集落があった所、水色は水田ですが色が付けられていない部分は畑です。当事、集落は少なかったことや山林(緑色)が多かったことに加え、耕地については水田に比べ畑がかなり多かったことが分ります。なお、畑は桑畑の印となっていますが、畑の周囲に桑が植えられていたため一面の桑畑の表示となっていると考えられます。そして例えば昭和10年(1935)「神奈川県統計書」では耕地面積の比率で相模原地域は水田5%、畑95%であり市内は圧倒的な畑作地帯ということができます。(パネル説明板/相模原市博物館)

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相模原の新田開発分布/相模原市博物館

新田開発

原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって天保14年(1843)に着手され、安政3年(1856)までに49名が入植して200ha余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田大沼新田溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。(Wikipedia


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「相模川流域の景観」/相模原市博物館

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段丘のすがた
相模原台地をはじめとして相模川沿いには河成段丘がよく発達し、日本を代表する段丘地形として知られています。河成段丘とは、昔の河原の一部が削られて階段状に残った地形です。この段丘を調べると相模川は気候変動や海面の変化、地殻変動などによって浸食と堆積を繰り返してきたことが分ります。相模原台地は相模川が山間部から平野部に出たところにつくられた大きな扇状地の一部で、高い方から相模原段丘・中津段丘・田奈原段丘・陽原段丘に大きく分けられます。(パネル説明板/相模原市博物館)

史蹟・勝坂遺跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23684295/

by Twalking | 2018-03-29 12:21 | 古東海道関連(新規)

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