無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『古東海道』(3)海老名~平塚03-四之宮   

日時 2018.4.4(水)
天気 晴れ


湘南銀河大橋を渡ると四之宮、大住郡になります。
明治の地図を見ると相模川は蛇行していて、
自然堤防辺りを流れていいることが分かります。

当時はこの付近は「内海」だったんでしょうか?
西へ延びる湘南新道一帯からは『大住国府』説を裏付ける
有力な遺跡や古東海道の道路跡も出ていますので、
位置などを確認しておきたいと思います。


・・・一之宮(寒川町)

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街道の風景① 右は神川橋へ向かう大山街道(中原街道)、銀河大橋は左です/一ノ宮

県道44号伊勢原藤沢線

伊勢原市と藤沢市を結ぶ主要地方道。江ノ島から田村(平塚市)を経由し大山へ向かう田村通り大山道が元になっている道路である。旧道は田村十字路から県道47号藤沢平塚千に重複して一之宮小学校入口交差点まで至る経路が元々指定されていた。Wikipedia

中原街道・田村の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22387935/

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八角広場/一之宮
一之宮緑道の終着点です。緑道はもともと大正11年(1922)に敷かれた砂利採取のための貨物線でした。昭和35年(1960)にはここに相模線西寒川駅が開業し、付近の工場で働く人の玄関口となりましたが、昭和59年に廃止になり線路は緑道に、駅は広場に生まれ変わりました。(寒川町商工会)

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旧国鉄西寒川駅・相模海軍工廠跡/八角広場
ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、さらに街に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704000㎡)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工場立地に恵まれた跡地に町発展の礎となり今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根ざした緑に世界の平和を願い国土の安泰を祈る。(建立相廠会及び協力企業)

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街道の風景② 相模川沿いの工場地帯・圏央道下を進むと銀河大橋が見えてきます/一ノ宮

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目久尻川が相模川に注ぎます      対岸が前鳥神社です

四之宮の渡し/下水道公社先
江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。相模川の対岸に飛び地を持つ村々は飛び地に開けた農地を耕作するため、独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡し場の一つでした。江戸時代のはじめ徳川家康が江戸と中原御殿を往来した時、四之宮の渡しも利用していたようで、その時の話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。四之宮の渡しは昭和30年(1955)頃まで使用されていましたがその後廃止されました。(平塚市)

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街道の風景③ 相模川の景観、右手に目久尻川が流れ込みます。この下流が河口だったんですね/銀河大橋

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湘南銀河大橋 
高座郡寒川町と平塚市を結び県道44号伊勢原藤沢線(湘南新道)を通す。本橋開通前は国道1号の馬入橋とその上流の神川橋の間は約2.8km開いておりどちらも片側1車線であるため慢性的な渋滞が生じていた。両橋のほぼ中間の位置に3径間連続鋼斜張橋構造で建設され1998年に片側1車線で暫定開橋。橋の名称は公募され2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定した。(Wikipedia

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西に大磯丘陵             自然堤防が前鳥神社へ


・・・四之宮(平塚市)

四之宮は平塚市の北東側。平塚駅北口からやや北東に向かった場所に存在し相模川に接する。当町の真ん中に国道129号が南北に通る。各丁の位置としては概ねその国道を境に西側に一丁目と二丁目、東側に三丁目から七丁目であるが、特に六・七丁目付近は他丁より少し北寄りに位置する。また大字四之宮は相模川寄りに位置する。当町の周辺は一・二丁目側の南に西八幡、三丁目側の南に東八幡、西に西真土や東真土、北に田村と同市の他の町丁と接しており大字四之宮の東は相模川を挟んで高座郡寒川町である。
Wikipedia

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街道の風景④ 大住郡に入ります。新道建設に伴う発掘調査で国府や古東海道関連の遺跡がでた地域です/銀河大橋

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前鳥神社参道/四之宮

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前鳥神社境内


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前鳥神社
御祭神:菟道椎郎子命(うちのわきいらつのみこと)大山昨命(おおやまくいのみこと)日本武尊
御由緒
神社の名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で地形名からおこったと言われています。奈良時代の天平7735)年の「相模國封戸租交易帳」には「大住郡崎取郷」として記載されています。この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられます。延喜年間に編纂された「延喜式」という法制書の中で、全国の著名な神社が収録されている神名帳に当社は「前鳥神社」と記され、相模国13のひとつとして登載されています。また、四之宮の称は養老年間(717724)の相模国の国府祭が始まったとされる頃に生じ、平安時代には四之宮郷として通称されるようになりました。鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久311928源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり神馬の奉献があり、建暦21212)に幕府は当社を将軍家祈願所と定めました。近世にはいると関東八ヶ国の領主となった徳川家康公は天正19159111月、当社に武運長久のために朱印地10石を寄進、あわせて社地二千余坪を除地として加護しました。時代が近世になってからは寺社領の確定により、古義真言宗雪霜山鏡智院神光寺が別当寺として祭事のすべてを掌っておりました。そして明治維新の大改革の際に鏡智院家が復職が複飾、名を神代に改め、現在に至るまで神仕えの職に就いております。(説明板)

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神戸神社               奨学神社
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街道の風景⑤ 前鳥神社前から北向き観音へ斜めの道が続きます、左が低くなっています/四之宮

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⑥北向き観音

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北向観音
お寺は円通山大会寺(だいえじ)と言います。相模国33ケ所霊場の第9番で鎌倉時代源頼朝や徳川家康の祈願所でした。伝説ではこの寺を作ったのは聖徳太子だとされています。「太子は聖観音の身の丈3寸の三十三身の御分身の像を、一刀三礼をもって彫り安置する場所に大会御堂と名をつけ、また五大力尊も置いて国が栄えて国民が幸福になるように願った」ので五大堂ともいわれたとあります。ここは昔、牛頭天王が祀ってありましたが明治の初めに前鳥神社に移され、八坂神社になりました。境内の東側にある記念碑は日枝神社です。明治43年に前鳥神社に移されました。(四之宮歴史再発見広報NO.3)

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街道の風景⑥ 旧道を高林寺に向かいます、右に直進すると大野歩道橋です。

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高林寺山門

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高林寺
木造大日如来坐像もともとは四ノ宮明神社(現前鳥神社)別当鏡智院の本尊であった。明治初年に当院が廃絶されたのちは大会寺(北向観音堂)に客仏として祀られていたが、昭和60年(1985)に高林寺の本尊に迎えられた。胸の前で左拳の人差指を右拳で握る智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界大日如来。光背・宝冠・台座などは後世の補造である。胎内背面(墨書)と面部内(二字朱書・三字墨書)に梵字が書かれており、後頭部内に次の墨書銘がある。「康永3年甲申五陽 奉修復之者也 地頭兼神主藤原季□ 修造司周豪」 これにより、康永3年(1344)に修理されたことがわかり、造立はこれより遡る鎌倉時代後期と考えられる。張りのある顔立ちや量感に富む体躯に運慶風の写実性を示す一方、宝けいや腰部の波状に表した衣の皺などに宋元風の影響がみとめられる(平塚市HP)

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街道の風景⑥ 国府域に近いと思われます。東中原E遺跡に寄って平塚駅に向かいます/129号大野

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四之宮周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

中原街道・中原の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22394241/


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資料ファイル

大住郡

神奈川県(相模国)にあった郡。真土大塚山古墳から弥生時代末~古墳時代初頭の土器片と、京都の椿井大塚山古墳のものと同じ鋳型の三角縁神獣鏡が出土している。『延喜式』では大住郡『和名抄』では「於保須美」とある。郡衙平塚市四之宮付近にあったと見られている。相模国の国府が置かれていた可能性があり『和名抄』および『拾芥杪』に記述があるほか、1979年(昭和54年)から行われた四之宮下郷遺跡群の発掘調査で、前鳥神社周辺から墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土した。さらに1990年(平成2年)には、国厨と記した土器が発見されている。Wikipedia

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湘南新道関連遺跡説明板
/大念寺交差点(四之宮)

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湘南新道関連遺跡
湘南新道関連遺跡は都市計画道路建設に伴って平成12年~17年にかけて発掘調査が行われました。遺跡名は坪ノ内遺跡大会原遺跡六ノ城遺跡の総称です。発掘調査の結果、坪ノ内遺跡六ノ城遺跡から写真のような奈良時代の府付き大型立柱建物が東西86の距離をおいて並列して発見されました。白線で囲んであるのが柱穴でその規模が1m以上と大きく建物の外側には塀が廻ることなどから、この大型建物は相模国の役所である国庁脇殿と考えられます。これまで国庁の所在については諸説がありましたが、この発見によって四之宮の地が奈良時代における相模国中心地であったことがわかりました。発見された大型立柱建物の一部は道路の下に保存されています。また、建物の場所については歩道上に舗装の色を変えて表示してあります。(神奈川県 平塚市教育委員会 財・かながわ考古学財団)


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市指定重用文化財「国厨」墨書土器他稲荷前A遺跡第1地点/高林寺入口交差点
ここ稲荷前A遺跡は平塚市四之宮から東八幡の砂州・砂丘域に立地する埋蔵文化財包蔵地として周知されています。本資料が出土した第一地点は店舗建設に伴って平成元年4月に発掘調査されました。資料は奈良時代後半の所産と見られる1号竪穴住居址から出土し、住居の成り立ちから廃絶後までの様相を示す一括資料です。土師器(はじき)、須恵器、灰釉陶器(かいゆうとうき)、黒色土器、瓦、鉄製品、石が含まれます。なかでも土師器須恵器に「国厨(こくちゅう)」と墨書されたものを複数含む点が注目されます。「」を記した土器は官衙内の諸施設に対する食膳の準備、食料の調達・管理等を担当する(くりや)・厨家(ちゅうけ)の備品であることを示したものと考えられます。つまり「国厨」墨書土器の出土は周辺厨家が存在したこと、ひいては厨家を含む官衙施設が存在したことを裏付けるもので、そこに国府があったという根拠となり得るものです。奈良時代において相模国の国府が四之宮周辺に置かれていたという学説裏付けることとなったこの墨書土器は、平塚の古代史には欠くことができない資料であるとともに、全国的にも古代地方官衙研究に寄与する貴重な資料の一つです。(平塚市教育委員会)

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検出された古代東海道駅路跡/東中原(西友ストアー)

古代東海道駅路跡・東中原E遺跡第4地点

古代の律令制度では中央政府専用の道路として中央の都(藤原京・平城京・長岡京・平安京)と各国を結ぶ駅路が整備されていました。強力な中央集権国家を支える大動脈がここ平塚を通っていたというわけです。駅路には30里(約16km)毎に駅家(うまや)と呼ばれる施設が設置され、公用の連絡や公文書逓送の便を図っていました。緊急時の軍用道路としても大きな意味を持ちます(標柱)

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古代東海道推定ライン

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古代東海道駅路跡・東中原E遺跡第4地点
東中原E遺跡は砂州・砂丘域北部微高地上に立地しています。ここ第4地点は平塚駅から北3kmに位置し、平成163月~4月にかけて店舗建設に伴う発掘調査を実施しました。調査の結果、古代の竪穴住居址や溝状遺構とともに奈良時代~平安時代東海道と見られる道路遺構を確認しました。古代の道路跡は調査区東南部から北部にかけて斜めに横断しており、延長約40m分を検出しました。方向を同じくする3及びその間に残る硬化面で構成されています。北側の溝と南側の溝との間は約9.7古代駅路側溝と考えられます。駅の道路面及び硬化面は後の時代に削られており残っていません。南側の溝との間は3で、古代~中世に再整備した道路跡で、硬化面(路盤部分)が残っています。ここでは東側に展開する相模国府関連遺跡群で特徴的な竪穴住居址や掘立柱建物址の高密度の集中見られません。この点は現在の相模国府域の推定を裏付けるものと言えます。(説明板)

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相模川の流路の移り変わり
50万年前ごろの相模川は東に流れ東京湾にそそいでいました。30万年前ごろになるとその流れを南に向きを変え、橋本付近から藤沢にかけて大きな扇状地を作りました。その名残が境川として残っています。この扇状地が現在の相模野台地の土台で、老名は相模野台地西の端にあたります。箱根火山と富士山の活動は5万年前の最後の大噴火まで35万年間火山活動を続け、噴出した火山灰・軽石などが海老名の台地部を覆っていきました。最後の氷期は今から5万年前から1万年前で2万年前が氷期のピークでした。氷期には海面が低下し現在よりも100も低くなりました。海面が低下するにつれて流れが急になり相模川は川底を大きく削り深い谷をつくりました。座間高校の東から海老名中学校まで連なる相模野台地中津原面と呼ばれる河岸段丘はこのときできたものです。川底は最も低くなり相模川は現在より5080も低い所を流れていました。流れは急で大きな谷を作りました。相鉄線かしわ台駅西側の柏ケ谷長ヲサ遺跡で先土器時代の石器が発掘されていますが、時代はこの頃のことで、海老名市内で人類のかかわりを示す最初の証拠となっています。

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氷期のピークが過ぎると徐々に暖かくなり6000年前になると温暖化が進みました。氷河が融けて海面が上昇し、氷期に作られた相模川下流の深い谷に海水が入り込みました。その頃の海老名は海西中学校の付近まで入り江になっていたことが調査でわかっています。(縄文海進)川の流れは緩やかになり、上流から砂礫や粘土が運ばれ、谷部が急速に埋め立てられていきました。温暖期を過ぎてから海面は低下して現在の高さになりました。海面が低下すると相模川の流路は現在のものとなりました。しかし河床面は高く、たびたび氾濫しては砂礫や粘土を低地部へ押し流してきました。これによって土地は潤い、稲作に適した海老名耕地となりました。(海老名の台地/温古日誌)

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相模国の駅路(国土交通省横浜国道工事事務所HP)

同図にこれまでの関連遺跡が出ている箇所を入れてみました
武蔵国府関連:国衙跡(府中市)武蔵国分寺・国分尼寺跡(国分寺市)東山道武蔵路道路遺跡(府中市・国分寺市)打越山遺跡(多摩市・東山・東海道関連か?)
相模国府関連:相模国分寺・国分尼寺跡(海老名市)大住国府関連遺跡(平塚市)
相模郡衙跡関連:都筑郡衙跡(長者原遺跡/横浜市青葉区江田西)橘郡衙跡(影向寺遺跡/川崎市高津区千年)鎌倉郡衙跡(今小路遺跡/鎌倉市御成町)高座郡衙跡(下寺尾官衛遺跡群/茅ヶ崎市下寺尾)

by Twalking | 2018-04-14 13:55 | 古東海道関連(新規)

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