無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 矢倉沢往還(1)伊勢原~秦野01-三ノ宮   

日時 2018.4.27(土)
天気 晴れ


初期の「官道」は何処を通っていたのかな???
諸説あるようなので迷いますね。
ひとまず「矢倉沢往還」かな、と思って出かけました。

伊勢原までは大山道で歩きましたので、その続きも兼ねて
三ノ宮の比々多神社を中心にして、周辺の遺跡も
見てみたいと思います。


・・・伊勢原

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街道の風景① 大山阿夫利神社の一の鳥居からスタートです/伊勢原駅

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参道入口の双体道祖神/伊勢原火伏不動尊(伊勢原)


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伊勢原火伏不動尊の由来
このお堂のご本尊はお不動さまで、お身大52cmの木像の坐像である。作者・年代共に定かではないが、歴史のある立派なお不動さまである。かつてこの町には修験者の道場として聖真法印によって開かれた知水大覚院(現在は廃絶)の守り本尊であった「不動明王」を当地に遷座したものと伝えられています。文化13年(1816)伊勢原に大火が起こった際、猛火は忽ち全町に燃え広がったが不思議にもこの不動堂の所でピタリと火は止まった。人々はこの奇跡を目の当たりにし以後「火伏の不動さま」と尊崇して今に至っている。また、堂内には見事に彫られた一対の鳥天狗の面も奉納されてある。不動明王は一切の障害を打ち砕いて人々を悟りに導く仏さまであることから厄払い、災難除けの仏さまとされています。(説明板)

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大福寺山門/伊勢原

大福寺
『田廣山最勝院と號す、浄土宗、芝増上寺末、開山榮誉空華、性蓮社と號す、寛永8618日卒、元和6年の創建なり、中興開山心誉辨故、深蓮社、寛文元年220日卒、中興開基浄阿、寛永元年1214日死、村民なり、今子孫あり。本尊弥陀、長三尺二寸、聖徳太子作と云。薬師堂。本尊は恵心作、長二尺二寸』(新編相模国風土記稿)

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伊勢原大神宮鳥居/伊勢原

伊勢原大神宮
伊勢原市伊勢原三丁目にある神社。所在地の地名「伊勢原」の由来に深くかかわっている神社である。元和6年(1620)にこの地を開拓した伊勢出身山田曽右衛門鎌倉出身湯浅清左衛門によって伊勢神宮より祭神を勧請し創建。内宮(ないくう):天照大御神を祀る。外宮(げくう):豊受姫大神を祀る 。(Wikipedia

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外宮                 内宮

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照見山神宮寺遺跡
伊勢原の町が開かれたのは江戸時代のはじめ元和年間1620年頃)と伝えられています。旧神明社(大神宮)創建と同じころ、神社の管理に当たる別当寺が境内に置かれ、それが照見山神宮寺という普化禅宗の寺でした。普化宗は中国(唐)の普化禅師を祖として鎌倉時代に禅僧と共に渡来したと言われ、尺八の音と結びついて広まりました。普化宗の僧は虚無僧と呼ばれ、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護もあって武士が入門し、寺の通行手形を持って全国往来が自由でした。天蓋をかぶり、免状(本則等)をふところに尺八を吹き、托鉢吹禅をしながら各地を歩いて修行を重ねました。虚無僧が吹いた尺八の曲は無名の人々によって吹き継がれ今日に至っています。普化宗は明治4年太政官布告により廃宗となり、神宮寺の建物は明治7年には一時期、伊勢原小学校の前身として使われましたが、今は境内に石灯篭を残すのみです。照見山神宮寺は活惣本山鈴法寺(東京都青梅市)末寺頭として相模、足柄、小田原、伊豆一円を寺場とし巡回した記録が残されています。鈴法寺で幕府と普化宗についての多くの記録を残している嘯山勇虎をはじめ神宮寺歴代の墓は大福寺にあります。(照見山神宮寺奉賛会)

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街道の風景② 北に大山を眺めながら246号を西に向かいます/板戸交差点

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板戸八雲神社鳥居 /板戸

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板戸八雲神社
鎮座地:神奈川県伊勢原市板戸592  
御祭神:須佐之男命(すさのおのみこと) 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)
ご神徳は須佐之男命が想念的神格で、荒ぶる気象の害から民の生活を守る「衣食住・産業」の神様であり、悪事や災難を取り除き多くの幸を授けて下さいます。(神奈川県神社庁)

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「条理遺構」と載ってましたので寄りましたが、面影はありません/市ノ坪公園(笠窪)

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一之坪条里制度遺跡
伊勢原市白根笠窪の小字にそれぞれ「一ノ坪」「市ノ坪」があります。この地名により奈良時代条里制遺構として史跡に指定されました。条里制とは一辺の長さが6町(約654m)四方の土地区画を里あるいは坊と呼びます。区画が複数ある場合は北から南へ1条、2条とよび、西から東に1里、2里と呼びます。さらに里を1町(約109ha)ごとに6等分した区画を坪といいます。この36区画を隅から1坪、2坪と呼びます。こうすると土地の位置を明確に表示できるようになります。律令制では口分田と呼ぶ土地を人民に支給しを納めさせました。土地の位置や面積を出すために条里制が必要でした。7世紀後半から畿内で始まり8世紀前半には各地で認められるようになったといわれています。(伊勢原市)

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街道の風景③ 明治の地図をみると白根から向原を廻り鈴川橋を渡って参道道を比々多へとなっていますが、これが旧246号の道筋です/白根

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「???」と思ってネットで調べたら、当時のこの一帯は湿原だったので迂回したのだろうと、いう記事がありました。現在は直線ですが、なるほど地理的条件ですか・・・、よく調べられていますね、納得しました。(写真:246号白根交差点付近)


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吉川酒造(大正元年創業)        「三之宮参道路」道標を左折

大山街道-大山&伊勢原付近の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23114586/



・・・三ノ宮 

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街道の風景④ 参道路を北へ向かい比々多神社一帯へ寄り道です/三ノ宮

旧地名 
相模國大住郡 日田郷 三宮宮前 埒面(らちめん)
古代の地名を知る上で重要な史料となる『倭名類聚鈔』(10世前半)に、相模國大住郡に「日田」郷という地名がみうけらます。これより先、奈良のはじめ和銅6年(713)に当時の朝廷が全国の地名(郡名・郷名)は好字2で表記するよう改める指示を出したので、この時「比比多」より「日田」に改められている。それ(8世紀初頭)以前は「比比多」の地名であり、土地の神を祀る社として比比多神社は存在する。(比々多神社参拝の栞)

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比々多神社鳥居
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比々多神社境内

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三宮比々多神社
御祭神
豊國主尊(豊斟渟尊・とよくむぬのみこと)国土創造の神、大地・開発・発明・創造 
天明玉命(あめのあかるたまのみこと)玉造りの神、不思議な霊力発揮・子宝 
稚日女尊(わかひるめのみこと)機織りの神、衣料 
日本武尊 叡智と武勇の神、出世・開運・除災・交通・商売 
相殿(あいどの)大酒解神(おおさかとけのかみ)(大山祇神)小酒解神(こさかとけのかみ)(木花咲耶姫)
酒造りの神、 酒類業・山火鎮護・縁結び・子授安全

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由緒
比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当社の淵源は今から約一万年以上前まで遡れる。論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石(ストーンサークル)中の「立石」(メンヒール)こそ、祭祀遺跡であり御神体であり原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰の指標を現している。「社伝記」(天保5年・1834年)によると御鎮座は初代神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山を神体山とし、豊国主尊を日本国霊として祀ったことに始まるという。

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10代崇神天皇7年、神地「神戸」(ごうど)を奉られ、第36代孝徳天皇・大化元年(645)、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い「うずら瓶(みか)」と称される須恵器が奉納されたという。次いで第41代持統天皇・朱鳥6年(692)、相模国の国司・布施朝臣色布知(しこふち)によって社殿の改修が行われ一対の木彫り狛犬が奉納された。尚、この「うずら瓶」と「狛犬一対」は共に『新編相模風土記稿』に紹介されており現在は県重用文化財・市重要文化財に指定されている。天平15年(743)、武内宿祢の裔孫・紀朝臣益麿(ますまろ)を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第45代聖武天皇より荘園を賜る。第53代淳和天皇・天長9年(832)、国司・橘朝臣峯嗣(みねつぐ)を勅使として当国総社「冠大明神」(こうぶりだいみょうじん)の神号を天皇より賜る。この神号は『吾妻鑑』建久3年(119289日条にもみえる。即ち、征夷大将軍源頼朝公が妻政子の実朝出産に際し、その安産祈願のため相模国の社寺に神馬を奉納したという記事の中に、当社が「三宮冠大明神」の名を以て列記されているのである。(写真:うずら瓶/案内板)

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60代醍醐天皇の御代、延喜年間に全国の主要神社の名簿(これを『延喜式神名帳』という)が作られるにあたり当社も登載され、以後、延喜式内社(又は式内社、式社。『延喜式神名帳』登載神社2861社、相模国13座の一、大住郡4座の一)として国幣(朝廷より賜る幣帛)を奉る神社となる。当国を本拠として天下の覇業を大成した源頼朝公は、元暦元年(1184)大規模な社殿再建を行い、社殿回廊など甍を並べて聳え、文治元年(1185)国土泰平祈願のための御願書を奉る。南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は約4倍の17000坪)の大部分を失い、また、明応年間(14921501)に社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ社地を埒面(らちめん)から現在の地(旧神主屋敷)に移転遷座する。(写真:狛犬一対/案内板)

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天正19年(1591)当社が相模国の名社であることを知った徳川家康公によって社領10石が寄進されるに及びようやく社頭の復興をみるに至った。以後、慶喜公に至る15代の将軍から神領の寄進がなされ明治維新に至る。享和12年(1802)、神祇白家(白川家)の門人(440社余)に附属し「社の他に祝部以下社家在之」(『諸國神社附属帳』文化13年改)とあり、社家社人を多く要した。明治6年(1873)社格を2大区6小区の郷社と定められ16ヶ村の総鎮守となる。明治41年(1908神饌幣帛供進社に指定される。大東亜戦争に突入すると境内の宮鐘も資源回収のため供出されたが、戦後、氏子崇敬者の幸福と平和を願って人間国宝・香取秀真(かとりほつま)氏に新鐘の制作を依頼した。昭和25年(1950)香取秀真・正彦父子制作による第2の宮鐘が完成し境内に設営された。現在は、献幣使参向指定神社に定められ、事始めの大神さまとして近隣は基より広く関東一円の人々より篤く崇敬されるに至っている。(比々多神社参拝の栞)

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元宮のいわれ
この高台(旧宮山)は比々多神社の社殿が建てられていた「埒面」という神聖な場所で、神社の境内地です。かつては周辺一帯17000坪を有しておりましたが、室町時代の頃より幾多の戦により神地を失い大半は民有地となっています。その後、昭和55年に返地(奉納)の志を賜り小祠をまつり「比々多神社元宮」と称して鎮座しています。(説明板)
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元宮からは相模平野が一望できます

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神社に由来する地名
・埒面(らちめん)天正19年(1591)以前、社殿のあった境内地(7町歩)を云い、大祭の折に、鉄棒を組み警護する事を埒を組むと云う。
・三之宮(さんのみや) 『風土記』に「当所は、三宮明神鎮座の地なれば即ち村名とす」とあり、相模国の由緒ある神社を勅使が参向する順を称した。
・竹ノ内(たけのうち) 武内宿祢の裔孫、初代宮司・紀朝臣益麿の別邸があったことから小字名となる。
・御所(みしょ)当社裏斎館の跡を云う。
・領家(りょうけ)当社の荘園・神領の役所があったことから地名となる。
・皇家(こうけ)国司が当社へ奉幣のために参向する際の仮家があったことから地名となる。
・神戸(ごうど)崇神天皇7年、天皇より当社に神戸が賜われ、その神領地がそのまま地名となる。
・真田(さなだ)天平15年、聖武天皇より荘園を賜り地名となる。
・血見せ坂(ちみせざか)坂が急なため神輿渡御の際、怪我人が多く血を見なければすまなかったことからこの名が付く。
・化粧塚(けしょうづか)参道口と神揃山入口の2ヶ所にあって、国府祭の折、御神輿を整え、神官は衣冠束帯を旅装に着替え、供人も是より旅姿となる。
・神揃山(かみそりやま)神集山とも云われる。端午に、一宮寒川神社、二宮川勾神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、平塚八幡宮の五社の神々の御神輿が集い坐すことから名付く。(比々多神社参拝の栞)

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比々多史趾畧図/三之宮博物館拝観案内-いせはらの歴史と文化
(緑・黄:矢倉沢往還 青:鈴川・栗原川・善波川 紫丸:居館跡を着色)

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下谷戸縄文遺跡(移築・復元したもの)/比々多神社


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伊勢原市指定史跡・下谷戸縄文遺跡
三ノ宮・下谷戸縄文遺跡は東名高速道路の建設に伴い昭和4042年に発掘調査されました。その場所は三之宮比々多神社の南東、県道上粕屋・南金目線東名高速道路交差する付近にあたります。ここに残る遺構は関係者の熱意により昭和425月に移築・復元されたものです。発掘調査は第3次調査まで行われ、三ノ宮字下谷1090番地を中心に縄文時代から古墳時代にかけての遺構が数多く発見されました。とりわけ縄文時代の遺構は当時としては比較的珍しい大規模な配石遺構群が確認され、おびただしい数の石が出土したことで注目を集めました。
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時期は出土した土器から縄文中期から後期と考えられます。主な遺構としては張出し部を持つ柄鏡形の敷石住居址、配石、環礫方形配石遺構、墓壙群等があります。敷石住居址には住居全面に石を敷くもの、中心部にのみ部分的に敷くものが見られます。配石は幅2mほどの帯状の範囲に石が集中して置かれているものでそれが半円形にめぐっています。環礫方形配石遺構は小さな礫を一辺5mほどの方形に敷き並べたもので、周囲からは焼けた土や鳥獣の骨片が検出されています。また、配石の下からは人骨も出土しています。こうした縄文時代の配石遺構群は平成4年から始まった東名高速道路の拡幅工事や周辺の開発事業に伴う調査でも発見されており、より広い範囲に広がっていることが明らかになっています。市内の縄文時代の遺跡としては日向の下北原遺跡と並ぶ代表的な存在であり県内でも貴重な資料と評価されています。このほか本遺跡では弥生時代後期、古墳時代前期の竪穴住居址、古墳時代後期の古墳の周溝等も確認されています。(伊勢原市教育委員会)

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三之宮三号墳
東名高速道路建設によって発掘調査され、後方左側にある敷石住居および環状列石(ストーンサークル)とともに移設・復元されたものです。この積石により当時の知恵と努力がしのばれます。(説明板)

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三ノ宮・宮ノ前遺跡


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三ノ宮・宮ノ前遺跡
三ノ宮・宮ノ前遺跡は三ノ宮比々多神社境内やその周辺一帯に広がっている遺跡です。これまでに5回にわたって発掘調査が実施され縄文時代の竪穴住居、敷石住居、土坑、配石、ピットなどが発見されています。この案内板前の地点の調査では縄文時代草創期(今から1万~12千年ほど前)の遺物が出土しました。土器50点、石器類629点、礫51点などです。土器は「微隆起線文土器」と呼ばれる底が丸い深鉢形で、外面にみみず腫れのような細い粘土ひもが貼り付けられています。また、石器には三角形の「有舌尖頭器」があります。弓矢の先として使用されたものです。縄文時代以前の旧石器時代は寒冷気候で人々は大型動物を獲物として生活していました。しかし、今から12千年ほど前に訪れた気候の温暖化により増加した小動物、木の実、海産物などを食料とする生活へと変化していきました。縄文時代の始まりです。その変化にはさまざまなものがありますが、なかでも特徴的なものが弓矢の使用と土器の発明です。動きの速い動物を捕るための弓矢、木の実や貝などを煮るための土器が新しい時代を象徴する遺物といえます。宮ノ前遺跡の縄文時代中期後期には人々が定住する集落が営まれていました。中期では竪穴住居、後期では住居の床に石を敷いた敷石住居が発見されています。使用している石には小田原から伊豆半島東岸に産出する根府川石と呼ばれる扁平な石も含まれています。重い石をわざわざ運んできたことになります。また、ひとつの敷石住居からは鹿の角で作った釣針が出土しました。大きさから大型の魚を捕るためのものと考えられます。このように宮ノ前遺跡は縄文時代の中心的な集落であり、当地が気候的にも地形的にも優れた環境であったことを物語っています。このほかにも、三之宮比々多神社境内の付近では弥生時代、古墳時代の遺物が出土したり、平安時代や中世の祭祀遺構が確認されたりしており、永い年月にわたり人々が活動していたことがわかります。また、ここから北側50mのところには東名高速道路建設時に発見された下谷戸遺跡の敷石住居、配石が三之宮比々多神社のご協力により復元されています。宮ノ前遺跡とも関連する縄文時代後期のものです。(伊勢原市教育委員会)

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街道の風景⑤ ここは関東ふれあいの道『太田道灌・日向薬師道』になっていますので、途中まで歩いてみました/伯母様バス停

大山道・上糟屋-大田道灌の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22998358/


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松山古墳
丘の上に松山古墳があります。未発掘ですが5世紀以前に築造された円墳と推定されているようです。




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伯母様観音堂
伯母様村の由来は『1550年代後半に戦国大名・北条氏康が布施弾正左衛門康則(小田原衆の家臣)に所領として与え、その布施氏の伯母・梅林理香大姉がこの村を所領したことで伯母様村と云うようになった』と碑文にあります。

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街道の風景⑥ ふれあいの道から分かれて三ノ宮へ/三ノ宮橋(鈴川)

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鈴川
伊勢原市と平塚市を流れる金目川水系の二級河川である。二級河川部分の延長は14.72km。伊勢原市の丹沢山系・大山に源を発し南流。伊勢原市西部、平塚市中部を流れる。平塚市南原で渋田川を合わせた後、金目川に合流する。Wikipedia

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能満寺 現在、本堂は新築中ですがいい雰囲気が漂います/三ノ宮


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相模三ノ宮能満寺の歴史
当山は霊峰大山に弘法大師が住持された頃にさかのぼります。弘法大師は室戸岬で虚空蔵菩薩をお唱えする求聞持法という修行をされて初めて悟られました。弘法大師は三ノ宮大明神には寺門派の僧侶が別当を務めるようになりました。鎌倉時代になると源頼朝公は寺門派の寺として鶴岡八幡宮寺を鎌倉に建立されます。三ノ宮大明神別当はことある度に鎌倉へ赴いて読経し法要をしました。北条政子は大明神の端に浄業寺を建立します。相模風土記には三ノ宮大明神に安産祈願を請い誦経させ神馬を奉納したとあります。三ノ宮氏はこの頃頼朝公と共に京都まで赴いていますが、後に足利尊氏公と対立し戦に負けてその殆どを焼失してしまいます。臨済宗に帰依する尊氏公は虚空蔵菩薩信仰に因み筑前で再起を図った虚空蔵菩薩の霊峰福智山を思いだし福智山能満寺と山号寺号をあらためました。さらにそのような当山の高徳を称え寺領二千貫を与え永世祈祷所として定められました。

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この時貞和元年(1345)、了堂素安(禅興寺四世建長寺35世了堂素安の膝下で研鑽した無印素文禅師大和尚)が開山として鎌倉より来られました(大覚禅師-同源同本-了堂素案-無印素文)禅興寺は北条時頼が建てた最明寺のことで後に北条時宗によって蘭渓道隆、大覚禅師を開山に寺号を改めました。十刹に数えられるほど由緒のある寺でしたが今では塔頭の明月院(別名あじさい寺)を残すのみとなっています。前出の浄業寺も荒廃し江戸時代になって再興されたときには臨済宗(後に別れて黄檗宗となる)とされており、能満寺の末寺である高嶽院と共に大明神の別当勢力下に入りました。

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その後両上杉氏の争いの兵火のため文明10年、殿堂、古記焼失し6代まで再建出来ませんでした。当山7世渕心玄龍和尚が鎌倉明月院より来られて、寛文5年に殿宇を再興され中興開山となられました。その当時の本堂(方丈)は間口九間半、庫裏は間口十一間半、奥行き五間半と言う大きなものでした。その他本尊虚空蔵菩薩の外に脇仏として達磨大師や焦面鬼大王などを安置されたと記されています。また表門、二天門、鐘楼、稲荷大明神(鎮守)地蔵堂等を兼備していたと伝えられます。寺領としては当時の大将軍徳川家光公により慶安2824日付で御朱印七石を賜り、その後7回に亘り下賜され徳川家の恩恵を受け末寺四ヶ寺(江戸初期は七ヶ寺)の本寺として栄えました。江戸時代も末期にさしかかり弘化5年、乞食の不詳火により類焼を免れず殿堂、庫裏を焼失、ただ本尊様を守り得たのみで物置を残して全焼の災難に遭いました。現在の本堂はその後17世石門和尚が春日の局御寄進による大山寺の客殿を払い受け本堂に改修されたものと言われています。(境内掲示)
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比々多神社参道路から望む「相州大山」、ほれぼれすする山並みです


・・・比々多

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街道の風景⑦ 参道路を南へ、246号に向かいます/三ノ宮

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途中にお地蔵さん        246号比々多交差点に出ます

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三ノ宮周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:矢倉沢往還 橙:大山道)


by Twalking | 2018-05-02 20:39 | 古東海道関連(新規)

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