矢倉沢往還(1)伊勢原~秦野03-善波峠
天気 晴れ
三宮比々多神社、善波氏関連など見終えて
今回のメイン『善波越え』に向かいます。
善波川の谷の右手が246号、旧道は左の中腹です。
ほれぼれするようないい道ですね・・・、だ~れもいません。
峠は一度国道にでて善波隧道の先から登り返します。
首なしのお地蔵さんと御夜燈が往時を語り物語ます。
峠を越えると景色がかわります、峠越えの醍醐味でしょうか。
根古木へ下り、秦野の中心・曽屋の宿を通って秦野駅へ。
昔は「大秦野」て言ってましたね・・・、懐かしい駅です。
・・・善波/伊勢原市
善波川
伊勢原市善波の善波峠付近に源を発し、伊勢原市と秦野市の境を流れる金目川水系の二級河川。秦野市鶴巻で大根川に合流する。延長は3.65km。(Wikipedia)
太郎のちから石
この石の上部にある二本の筋状の部分は善波太郎が下駄で力踏みした時の跡と言い伝えられています(案内板)
洪積世の後半頃に善波峠一帯に広がる火山灰土の地域に茂っていた大森林が大洪水のため倒伏埋没し、赤土(関東ローム層)の中で腐朽をまぬがれ長い年月の間に炭化が進んだもので、その後渓流によって赤土層が洗われ、露出したものである。考古学でいう旧石器時代に相当するといわれている(伊勢原市教育委員会)
この横穴は昭和初期に善波川より大住台方面の水田へ水を導くために、地元の農夫・飯塚亀蔵さんがロウソクと鏡を頼りとした独特な工法で掘った農業用導水トンネルです。全長約200m(太郎の郷づくり協議会)
夜泣石
旅人がこのあたりで誰助けることもなく倒れていました。それ以来、夜中にここを通るとこの石のあたりから助けを求めるような声が聞こえたと言い伝えられています。(太郎の郷づくり協議会)
道標に従いカーブの先を左へ上りますが、ここからも三嶋神社へも行けます/善波集落
再び森の中へ 弘法山ハイキングコース分岐
・・・善波峠
(写真:秦野側からみる善波峠)
新善波トンネル(1963年・昭和38年開通)
国道246号にある全長260mのトンネル、幅員は13.5m、高さは4.5mあり両側2車線が確保されている。(Wikipedia)
善波隧道(1928年・昭和3年)
国道246号の旧道にある全長158mのトンネルで幅員は5.5m、高さは3.7mである。(Wikipedia)
近世の交通路は五街道を中心に本街道の脇にある往還が陸上交通の要として整備されていました。矢倉沢往還は東海道の脇往還として発達し、江戸赤坂御門から厚木・伊勢原・善波峠・曾屋(十日市場)・千村・松田惣領・関本などを抜け、足柄峠を超え駿河沼津宿まで延びていました。大山への参詣路として利用されていたため大山街道と呼ぶ所もあります。現在の246号線は概ねこの矢倉往還に沿って通じています。また、当時秦野の経済活動の中心をなしていた十日市場で開かれる市において矢倉沢往還は物資運搬に大きな役割を果たしていました(秦野市)
この御夜燈は文政10年(1827年)に旅人の峠越えの安全のために道標として建てられました。点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。この下に峠の茶屋が有りその主人・八五郎さんの手により明治末期まで点灯し続けられていました。その後、放置されたままになっていましたが平成6年(1994年)地元の「太郎の里づくり協議会」の手により復元されました(伊勢原市)
秦野盆地
神奈川県の南西部にある内陸盆地。地質時代の新第三紀におこった褶曲(しゅうきょく)、断層運動に伴ってできた陥没盆地で、北にそびえる丹沢山地と南の大磯丘陵との地形上の境界はともに断層崖となっている。陥没後、盆地底に水無川の堆積作用が行われて扇状地ができ、秦野の市街地付近に豊富な扇端湧水がみられ、都市用水のほか、特産の酒造用水にも使われている。全国的に知られるタバコ栽培は江戸時代後期から盛んになり、国分葉(鹿児島)、水府葉(茨城)とともに名葉の名が高かった。明治以後はそれにラッカセイが加えられ、近年はカーネーションやミカンの産出でも知られる。近年盆地中央部を中心に工場の進出や京浜通勤者向けの住宅地化が目だっている。(コトバンク)
・・・名古木(なかぬき)/秦野市
住宅街を下ります 曽根弘法バス停を道なりに直進して名古木へ
金目川水系の本流である。平塚市上平塚の渋田川との合流点より下流は花水川と呼ばれる。秦野市の大山南西斜面に源を発し秦野盆地を南東方向に流れる。平塚市内では北西から中央部を流れ、平塚市唐ヶ原(とうがはら)(新編相模國風土記には「もろこしがはら」とある)で相模湾に注ぐ。中流部に位置する旧金目邑(現平塚市金目地区)に由来する。上流部では源流のある春岳山から春岳川(はるたけがわ)とも称した。花水川の名は岸辺に桜が多いことによる。(Wikipedia)
・・・本町
湘南軌道
かつて神奈川県に存在した軽便鉄道およびその運営会社である。秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが1927年(昭和2年)に小田急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て1937年(昭和12年)に廃止された。湘南軌道の秦野駅のあった場所は専売公社農場(現イオン秦野店)附近で、現在の小田急秦野駅からは離れている。(Wikipedia)
by Twalking | 2018-05-06 19:05 | 古東海道関連(新規)