ぶらり簔毛&寺山02-波多野城址
天気 晴れ
県道を下るのが簔毛道ですが、西側には富士道、
寺山からは坂本道が分岐しています。
里山を歩くなら富士道の方がいいかも知れませんね。
波多野城址は大山を背にして舌状に延びる尾根の
台地の南端にあって、西側を金目川が流れています。
典型的な中世武士の居館の様相、なるほどと思います。
発掘調査では遺物などはでていないそうですが、
それは別にして、この大山を戴く風景は見応え十分です。
・・・小簔毛
大鳥居
大山の神域を示す鳥居。御影石は赤穂で加工、海路で二ノ宮へ、人力で運ばれ1859(安政6年)年に完成。当初200m上にあったが道路拡幅に伴い現地に移設。(まほら秦野みちしるべ)
市内最古の道標、見落としたかな?? こちらが富士道でしょうか
・・・寺尾
秦野市を流れる金目川水系の沢の一つである。秦野市蓑毛/小蓑毛小字横畑ヶ(標高290m)に源を発する。水源付近には寺山砂防ダムが設けられている。他の沢を合わせながら久保橋(701号大山秦野揃)、駿河橋、中丸橋(70号秦野清川線)を経て秦野市寺山地先で金目川に合流する。(Wikipedia)
伊勢原市大山から秦野市寺山を結ぶ4.9kmの県道である。伊勢原市大山の霞橋から山間部に入り、NTTなどの無線中継所のある浅間山の尾根を越え秦野市寺山にいたる。終点付近を除けばほとんど舗装されていないばかりか乗用車が通れるだけの幅もない。歴史を振り返れば、江戸時代以来の由緒ある大山道のひとつである。昭和初期までは馬による荷物輸送も行われていたと記録されている。(Wikipedia)
曹洞宗の寺院。本堂には秦野市指定重要文化財である「十一面観音菩薩立像」が安置されています。南北朝時代に作られたこの仏像は頭の周りに観音の頭部がある「十一面観音」像です。このお寺が過去に二度の火災に見舞われたにも関わらず、現在まで焼けずに残った仏像です。(秦野市)
祭神 武甕槌之命 境内社 厄神社 金毘羅社 子神社 由緒沿革
勧請年代は不明だが鹿島神宮より勧請した神体は木像二軀(実は乾漆造り)銅像一軀、平安末期の作と伝えられている。寺山村は往時寺社多く慶安の頃三代将軍家光御参拝あり、此の当時より寺山村の総鎮守であった。分祠を丹沢山守護として設立し、貞永元年(1232)より年々鹿島神社の焼印木札を奉安した。それより後分祠所在の地を札掛といい後、山廻り役人巡視の証として鹿島分祠に札を掛けるようになった。焼札奉安は明治の初めまで続いた。慶安2年(1649)8月御朱印を賜わり将軍世継ごとに御朱印状が送られている。明治の初期より崇敬者が増大し、それらの寄進による絵馬額は相模、武蔵、駿河、伊豆におよびその数は数100枚に達した。(現在60有余枚保存)明治6年7月30日鹿島神社と改称し村社に列せられ、大正2年8月幣帛供進の神社に指定された。昭和43年本殿弊殿拝殿等大改修し参道も整備され、昭和45年石造大鳥居社号柱も奉納され、現在の神域となった。(説明板)
新編相模風土記稿(1841)に『此所 清水湧出す 田間の用水とし又民家の用水ともなす』と記されている。かつてこのあたりに4ヶ所の遊水池があった。この地を「清水」と呼ぶのはこの湧水による。縄文中頃からこの地で生活をしてきた先人たちの命の水でもあった。これらの遊水池は2004年に行われた県道改修工事を最後にその姿をすべて消し、東小学校・東中学校の校歌の歌詞にその影を残すのみとなった。人は歌う時おのずとその情景を思い浮かべる。この地に住む子供たちが思い浮かべる「清水」として、先に私たちは記念の碑を建立した。この度、秦野市は市制50周年記念として「ふるさと秦野景観100選」を選定したが、「清水湧水池跡」がその一景として選ばれた。私たちはそのことを喜びとし、ここに案内板を設置した。(清水自治会)
・・・波多野城址
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現秦野市)を本領とした豪族。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った豪族である。前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。経範から5代目の子孫・波多野義通は頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産み、保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。義通の子波多野義常は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し討手を差し向けられて自害した。義通のもう一人の子である波多野義景、孫の波多野有常は許されて鎌倉幕府の御家人となっている。有常は松田郷を領して松田氏の祖となる。(Wikipedia)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)
治承4年(1180)8月、平治の乱(1159)後伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、相模に入り石橋山で平氏側の大庭景親の軍勢と戦いを交えました。この時、頼朝の挙兵に参加した武者は伊豆の北条氏、三浦半島の三浦一族と西相模の土肥一族らであり、波多野義常の一族は平氏側につきました。石橋山合戦に敗れた頼朝は真鶴岬より海を渡り安房に逃がれ、その後、挙兵を聞き関東各地より参じた軍兵3万余を従え鎌倉へ入り、ここに本拠を定めました。10月、平氏の軍勢を富士川で迎え討つため鎌倉を出た頼朝は、その途中松田城を攻め落しました。この時、波多野義常は自害し、波多野氏の一族である山北の河村義秀も捕らわれの身となり、所領を没収されました。こうしたことから波多野氏は鎌倉幕府が開かれた時には三浦氏などのような有力御家人にはなれませんでした。しかしその後、義常の弟忠綱は秦野の地の相続を許され2代将軍頼家、3代将軍実朝に仕え幕府の要職につきました。承久の乱(1221)後は、忠綱の子義重が軍功により越前(福井県)志比庄の地頭職を与えられ、後に曹洞宗の開祖道元を招いて永平寺を開創しました。この越前へ移った波多野氏は代々、出雲守、評定衆を継承することとなり、北条氏の執権政治の要職に伝え続けたため次の時代へと勢力を保ち続けました。(秦野市HP)
(位置図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)
御祭神は健速須佐之男命だが、古くは譽田別命を祀る八幡神社だった。祭神の変更は1867(明治元年)年の神仏分離と富士山信仰によるものと思われる。(まほら秦野みちしるべ)
(緑:簔毛道 黄:富士道 橙:坂本道 青:金目川)
源実朝首塚、東田原丸山遺跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26775694/)
by Twalking | 2018-05-11 12:34 | 古東海道関連(新規)