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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり簔毛&寺山03-田原   

日時 2018.5.5(土)
天気 晴れ

大山からの尾根が尽きると平らな台地
のどかな田園風景が広がります。
ここに源実朝の首塚と伝わる御首塚があります。

一帯は中丸遺跡、中世の館跡の遺物がでています。
もしかしたら、こちらが館跡なのかも知れませね~??
街道の宿だった田原、市が開かれ、後に本町に移ったとか。

その曽屋の鎮守・曽屋神社は泉湧く小高い森に鎮座します。
四つ角に向かう道筋に「大道」、これは意味のある地名です。
大山の麓も歴史の薫る味わい深いところ、面白いですよ~!



・・・東田原

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街道の風景① 折角なので富士道を実朝首塚のある東田原へ向かいます/東田原バス停

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金剛寺山門/東田原

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金剛寺 
臨済宗建長寺派。金剛寺はもともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ金剛寺と改めました。1250年(建長2年)に波多野忠綱が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には源実朝像が安置されています。金剛寺には秦野市東田原出身の画家大津雲山の墓もあります。(秦野市観光協会)

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実朝御首塚と金剛寺
承久元年(1219)正月27日夜、3代将軍源実朝は鶴岡八幡宮の年頭の式に出席した帰りに、石段の所で兄頼家の遺子公暁により暗殺されました。公暁は実朝の首を抱えて逃走し三浦義村の屋敷にむかいましたが、義村には北条氏より公暁追討が命じられておりそこで討たれました。三浦氏の家臣長尾定景父子とともに三浦義村より公暁を討ち取る命を受けた武常晴は、偶然に実朝の首を得ることができました。常晴は三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。それが現在東田原にある実朝の御首塚です。その後波多野氏は実朝の33回忌に金剛寺にお堂を増築し、首塚を飾っていた五輪木塔を石塔に替え阿弥陀堂に移しました。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。(秦野市)

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街道の風景② 田園風景が広がるふるさと公園、伝承館の右手に首塚と中丸遺跡があります/東田原

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田原ふるさと公園
田原ふるさと公園は秦野市の東地区にあり、鎌倉幕府三代将軍・源実朝公の首が葬られたと伝えられている「源実朝公御首塚」をはじめ、周辺の金剛寺、大日堂、波多野城址、ヤビツ峠、自然観察の森など、中世の歴史を伝える史跡とめぐまれた自然の中にある公園です。木造二階建ての「ふるさと伝承館」には農産物直売所、そば処「東雲」、そば道場、漬物加工施設が入っています。また、公園内にはそば粉を製粉するための水車小屋がありのどかな農村風景がかもし出されています。東地区は丹沢の山麓地帯に位置し、少量多品種の農業生産が行われています。源実朝公首塚という史跡とのどかな農村地帯の中に「田原ふるさと公園」はあります。この公園を通じて地域農業の活性化および農業者と都市住民との交流を図り、地域農業への理解を図ることを目的に開設されました。(パンフレット)

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源実朝公御首塚の標柱が建ちます

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源実朝の首を埋葬したと伝わる首塚です

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源実朝公御首塚ここは若くして非業の最期を遂げた鎌倉幕府3代将軍・源実朝の首塚と伝えられている。実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の子として生まれ、建仁3年(12033月に12歳で鎌倉幕府3代将軍となり、建保6年(121812月武士として初めて右大臣となった人物である。実朝は建保7年(1219)正月27日右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際に、2代将軍頼家の子・公暁により命を奪われた。「吾妻鏡」には首のないまま埋葬されたと記されており、首を持ち去った公暁が討たれたのち首の行方については一切触れられていない

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多くの謎の残る事件であるが「新編相模風土記稿」(1841)の東田原村の項に『源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建てり 承久元年(1219武常晴 実朝の首級を当初に持ち来り』という記述がある。この武常晴は三浦半島地域を本拠地とした御家人・三浦氏家臣であり、のちに一族は現在の当市寺山に移り住んだといわれている。なお、ここからほど近い金剛寺には源実朝像が安置されている。実朝はまた歌人としても名高く、私家集に「金塊和歌集」がある。歌碑に刻まれた和歌はそれに収められた一首であり、近代を代表する歌人のひとりである佐々木信綱の筆によるものである。
ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あわれなるかなや 親の子をおもふ(秦野市教育委員会)

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源 実朝
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮頼家子公暁に暗殺され、わずか28年の生涯をとじた。これにより鎌倉幕府の源氏将軍断絶した。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。(祭祀)胴体の墓は寿福寺境内に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている。寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母・政子がある。は公暁の追っ手の武常晴が秦野市大聖山金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。金剛寺の阿弥陀堂には政子が実朝が生前礼拝した阿弥陀三尊を贈ったとされる。高野山には政子の発願により実朝の菩提を弔うために創建された金剛三昧院がある。鶴岡八幡宮境内の白幡神社に頼朝と共に祀られ、明治になり白旗神社境内に改めて柳営社が建てられ祀られた。八幡宮では実朝の誕生日である89日に実朝祭が行われている。Wikipedia

鎌倉寿福寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24613459/

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首塚の前にあるのが中丸遺跡、ここからは鎌倉期の館跡とみられる遺物が出土しています。

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東田原中丸遺跡
遺蹟の概要東田原中丸遺跡は神奈川県秦野盆地の北東・山から南に延びる標高約150舌状台地先端の緩やかな東斜面に位置します。盆地内では少ない水田が広がりその水田に接するように建物群が造られています。遺跡のすぐ北には市指定史跡「源実朝公御首塚」があります。ここは右大臣拝賀の儀式の跡に非業の最期を遂げた鎌倉三代将軍源実朝の御首を納めたという古くからの言い伝えが残されています。御首塚の更に北側約200mのところには波多野忠綱が勧請したとの伝承をもつ「金剛寺」があり、近年の調査において鎌倉時代の遡る秀麗な仏像が発見されています。北東約1kmに秦野義通の城跡の伝承がある波多野城があります。このように遺跡周辺には中世の香りが漂う市内でも稀有な土地であることがわかります。

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調査の概要
平成12年(20009月から行われた調査では鎌倉時代の館跡とみられる遺構が発見されました。検出された遺構は前後2に分けることができると考えています。前期の遺構群は、主軸方向が真北からやや東に傾く一群で、掘立柱建物7が発見されています。後期の遺構群は主軸が真北にある市群で、堀立柱建物が14発見されています。建物周辺から多くの「かわらけ」が出土しており、その中には出土例が少ない白色の「かわらけ」も含まれていました。「かわらけ」は儀式や宴で使われる使い捨ての器であり、この建物が財力や権力を有した人物の住まいであったと考えることができます。このことを示すように当時の庶民が持つことができなかったとされる中国製の青磁・白磁の破片なども出土しています。鎌倉時代財力や権力を有した人物となると、幕府御家人が考えられます。このことから遺跡周辺での伝承もあり当時の秦野地域の領主であった御家人・波多野氏がこの館跡に関わる人物と想定されます。(秦野市教育委員会 考古学文化財係)
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東の景観です。大山から延びる尾根筋、正面が高見山、善波峠に連なっています

波多野城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26773255/
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街道の風景③ 標識に従い田原ふるさと公園から西へ向かいます/

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東田原神社鳥居/東田原

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東田原神社
御祭神 倭建命 ( やまとたけるのみこと ) 誉田別命 ( ほむだわけのみこと)
江戸時代に創建された「道明寺」が神仏分離、廃仏毀釈により1870年(明治3)年廃寺となり神社に変わった。建物は地元の名工によるもので、正面頭上の彫刻はみごと。造りに昔の名残も伝える。社殿の千木(ちぎ)は男神を表す。(まほら秦野みちしるべ)

千木
(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)

千木は屋根の両端で交叉させた部材であり、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材である。神社建築の例としては出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は奇数は陽数・偶数は陰数とされそれぞれ男神・女神の社に見られる。Wikipedia


・・・西田原 

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街道の風景④ 気になっていた地名のひとつが「十日市場」、この一帯も宿場で十日市が立っていたようです/上宿下

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十日市場
羽根への道は富士山への道と重なっていたため道中の宿場でもあり、十日市場も立ち賑わった。矢倉沢往還の発展とともに後に十日市場は本町へと移った。(まほら秦野みちしるべ)

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西田原八幡神社鳥居/西田原


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西田原八幡神社
祭神 誉田別命 大雀之命 大国主之命 境内社 秋葉神社 疱瘡神社 山神社
由緒沿革
創立年歴は不明だが、応永年間京都金閣寺造営の年、大藤小太郎当社の大修理ををなし、三社造の本殿を造ると伝える。神体木像 本地観音は鉄の鏡に鋳出されている。若宮八幡を相殿とし天正19年(159111月社領15斗の御朱印を賜い、当時より西田原村総鎮守であった。30日村社に列せられ大正4年神饌幣帛供進の神社に指定された。昭和37年神木老松枯損し伐採した。年輪728を数えた。昭和39年氏子崇敬者多額の資を献じ現在の神殿を再建し、神輿倉・社務所も完成し現在の神域となった(説明板)

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香雲寺参道/西田原


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香雲寺
香雲寺は1564年(永禄7年)に大藤政信(おおふじまさのぶ)が羽根村の春窓院を移して再興したものです。1591年(天正19年)には徳川家康から寺領5石の朱印を受けています。本堂裏山の中腹に大藤氏の2つの墓があります。境内の1629年(寛永6年)の鋳造で「大藤秀信」の名が記された古いものです。(秦野市観光協会)

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大藤 政信(だいとうまさのぶ)
北条氏政の家臣で相模国中郡郡代、田原城主。秀信の子。通称・与七、式部少輔(式部丞)。主君の北条氏政から1字を賜って政信と名乗るが、父の秀信も同様に1字を賜って「政信」と改名したため、区別するために「二代目政信」とも呼ばれる場合もある。元亀3年(1572)、父が武田信玄による遠江国二俣城攻撃の援軍として派遣された際に戦死したためにその家督を継いだ。足軽衆を率いて各地を転戦し、特に天正9年(1581)の上杉景勝方上野国天神山城攻略と続く武田勝頼による駿河国興国寺城攻撃に対する防衛戦で軍功を立てている。また、本能寺の変後の天正壬午の乱にも出陣して徳川家康と交戦している。菩提寺である香雲寺(秦野市)を再興し現在も位牌が残されているという。Wikipedia


・・・曽屋

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街道の風景⑤ 右が大山、左が塔ヶ岳でしょうか、いい眺めです/葛葉大橋

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葛葉川
秦野市を流れる金目川水系の二級河川である。秦野市の北部に位置する丹沢山系の三ノ塔に源を発し、秦野盆地の北部を南東に流れ秦野市落合付近で金目川に合流する。中流の葛葉橋から金目川との合流地点までは峡谷を蛇行して流れる。国道246号線や住宅団地などに囲まれているが、深さ最大約30にする峡谷は緑に覆われている。秦野市は峡谷を「葛葉川ふるさと峡谷」として公園を整備している。Wikipedia

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街道の風景⑥ 渋沢丘陵、秦野から松田へはあの尾根を抜けていくのかな?道を間違えたので少し戻ります/曽屋

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曽屋神社鳥居/曽屋


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曽屋神社
由緒凡そ1190余年前、大長年間の御鎮座とされていますが古文書等が散逸し詳しいことは明らかではありません。先人達が湧出る水があってそこに「水を司る神様」をおまつりしたのが創始であると思われます。「相模風土記稿」によると『井之明神社祭神詳らかならず、神体石二個を置き、例祭99日、天正19年(およそ420年前)社領三石五斗の御朱印を賜る。老杉(円一丈二尺余り)を御神木とす。幣殿、拝殿、神楽殿建り。本社、稲荷、浅間、毘沙門、三峰』とあります。また、『井之大明神社』と称し、享保828日(およそ220年前)神紙管領匂當長上従二位ト部朝臣兼敬より『正一位』の極位を奉授されております。

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明治6年「井之明神社」に上乳牛鎮座の「加羅子神社」、下乳牛鎮座の「八幡神社」、才ヶ分鎮座の「熊野神社」、山谷鎮座の「加茂神社」、中野鎮座の「白山神社」、御門鎮座の「牛頭天王社」(現在は分祀)を合祀し、曽屋の村名を冠し「曽屋神社」と改称、郷社に指定されました。大正1075日神奈川県告示第222号を以って神饌幣帛供進の神社に指定されました。昭和61621日神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定され現在に至る。現在の御本殿(覆殿)、幣殿、拝殿は昭和9に再建されたものです。覆殿の中の御本殿は元禄5年の御造営なる総欅の建物です。尚、これらの御社殿、社務所の再建、用材は昭和71114日の大風雨により被害を受けた境内の樹齢数百年の杉や松を用い、氏子の協力のもとに行われたものです。(曽屋神社パンフレット)

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『曽屋村絵図』天保6年(1853)当時の村の様子(秦野市蔵)/曽屋神社パンフレット(丸:曽屋神社 角:四つ角 南北が矢倉沢往還 上が金目川 下が水無川)

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街道の風景⑦ 曽屋神社から県道を四つ角へ向かいます。もう一つの気になった地名が『大道』、この地名は古道が通っていた「証」でしょうか/大道

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大道バス停              矢倉沢往還と交差します/四つ角

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街道の風景⑧ 夕陽さす丹沢の山並みも美しいですね/まほろば大橋(水無川)

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橋名の由来
「まほろば」とは人々が暮らす場として優れた場所を意味する大和言葉です。古事記の倭建命の歌に『倭は国のまほろば たたなづく青垣』とあります。これは住み心地の良い盆地を指していると言われ、四方を山々に囲まれた秦野が今後目指す「まちづくり」の理想像です。水無川のこの位置に初めて橋が架設されたのは昭和6年でした。以来昭和橋と呼ばれ秦野の発展と共に歩んで来ました。市民は平成の新たな年に架け替えられたこの橋に潤いと憩いを求め大いなる親しみを込めて「まほろば大橋」と命名しました。(説明板)

矢倉沢往還(善波峠-本町)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26758799/

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秦野盆里/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(黄:矢倉沢往還 緑:大山街道 青:水無川・金目川 赤角:秦野駅)

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簔毛周辺ルート図
(緑破線:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 茶破線:弘法山HC 赤角:秦野駅)

by Twalking | 2018-05-12 22:14 | 古東海道関連(新規)

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