矢倉沢往還(2)秦野~松田01-千村
天気 晴れ
ぐずつき気味でしたがやっと夏が戻って来ました。
暑くなりそうですが風は爽やか、湧水もあるし、
峠越えなので木陰も多いことでしょう。
渋沢丘陵を越える古道は二筋あるようですが、
メインはやはり平安・鎌倉の道です。
江戸期道の道も千村宿と峠は確認したいと思い
寄り道しました。
・・・今泉(秦野市)
祭神:健御名方命(たけみなかたのみこと) 品陀和気命(ほむだわけのみこと)
明治6年6月今泉峯(現在の上町)に鎮座せる八幡宮を諏訪社に合祀し今泉神社と改称した。現在なお「お諏訪さま」と氏子に親しまれているのはこの地に諏訪社が祀ってあったからである。諏訪社-創建年代は不詳なれど古老の言い伝えによれば長禄年間、長野の諏訪大社より分祀し奉りて諏訪と称し、今泉村本分の鎮守とした。元禄年中再建す。八幡宮-創建年代は不詳なれど『新編相模風土記稿』によれば今泉村峯に村社として鎮座し、神木の榎は現存しないが今泉の三榎の一つとして囲一丈八寸あったと記されている。天正19年11月、社領6石の御朱印と慶安4年11月19日、鵜殿藤助中畑一反一畝二十七歩を寄進した書状が残っている。今泉神社は明治6年7月30日合祀により村社に列せられた。明治38年火災に罹り全焼したが、氏子286戸の寄進により明治44年に御社殿が再建された。昭和37年向拝を築き、昭和54年社殿屋根銅板葺替を行うなど数々の境内整備を行い現在に至っている。(神奈川県神社庁)
・・・平沢
矢倉沢往還は東海道の裏街道として江戸赤坂から駿河国吉原を結ぶ主要な道路であり、商人や参詣の人々で賑わったという。秦野市内では千村・平沢・曽屋などの村を経て善波峠に至っており、千村は松田惣領と曽屋村間を、曽屋村では千村と伊勢原間の人馬の継ぎ立てを行っていた。この道は別に大山道・小田原道とも称し、現在県道平塚秦野線となっている。(秦野市) 写真:今泉村観音堂「相中留恩記略」/説明板
平塚市唐ヶ原から中郡大磯町を通り秦野市平沢に至る県道(主要地方道)である。起点から秦野市河原町までは金目川(花水川)に沿って走る。東雲橋交差点からは旧来からの秦野街道と一致する。新幹線ガードまでは住宅地を走るが、そこを過ぎると水田が多く見られるようになる。吾妻橋交差点を過ぎると金目の集落に入る。バス停名の「金目駅」は連絡運輸があったため国鉄の切符などを販売していた時代のなごりである。東海大学の正門、土屋橋を過ぎると欠の上人道橋からの横断歩道の先に細い道がある。下大槻の集落に入っていくこの道が旧道で、川沿いの現在の道は戦後造られた新道ということになる。東名高速・小田急線を越え、秦才橋を渡ると秦野市街に入っていく。室川橋交差点で右から接するのが先ほど分かれた旧道である。河原町交差点から西大竹交差点まで県道71号線と併用する。旧来は河原町交差点を直進し本町四ツ角で左折して国道246号平沢交差点まで抜ける道が本道であった。県道71号線とは西大竹交差点で右折して分かれる。ここからの道は都市計画道路として近年造られた。西大竹交差点から県道終点を越え県道706号線との接続地点のテクノパーク入口交差点まで約6kmの桜並木が続き、満開の春は特に美しい。(Wikipedia)写真:246号の堀川交差点
祭神:倭建之命 大己貴命 少名彦命 櫛真智命 境内社:金比羅八幡社 山王稲荷天神山之神合祀社
由緒沿革
創立年歴は不詳だが、建久3年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し、(その先を北条と言う。大化班田条里の名を今も残す)平沢村の鎮守であった。境内には樹齢800年あまりの大欅2本(秦野市文化財指定木)があり、明徳3年(1392)四六貫五百文の当社家領が寄進されている。慶長13年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿の改修を命じた。翌慶長14年(1609)に改修、棟札に「奉修御嶽権現社壇事本願神主草山兵庫守、寺家分草山藤左ヱ門慶長14年酉年11月吉日・・・」とある。現在の本殿はその時のもので神職は白川家の配下であった。宝永8年(1711)2月13日宗源宣旨により正一位御嶽蔵王権現と称えられ(当社古文書)明治6年7月3日上地し御嶽神社と改称、昭和9年幣帛料供進指定神社となる。昭和51年5月3日本殿を除き全社殿を新築木造銅板葺とした。神社庁指定結婚式場は明治13年出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。この式殿は貞胤翁より草山文之助翁に引続き、草山智義翁に引継がれ智義翁は片岡の信徒を初め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力他界に際し、長男貞胤にその遺志を引継がせた。昭和47年御嶽神社の隣接地に本殿を再建、昭和54年8月幣殿、拝殿、参集殿を同時起工昭和55年4月1日、神楽殿、神殿の遷宮式並びに幣殿、拝殿、参集殿の竣工式を執行、後結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受け現座に至る。(説明板)
創立年代は不詳であるが、別名金比羅宮と称し境内には樹齢800年を越える大欅2本があり市の指定木である。昭和8年の台風時に倒木した。杉樹の年輪は985輪であった。寛政元年(1459)酉年4月の社号額「金毘羅大権現」は神祀宮資延王謹書とあり、文政2年(1819)作の手水鉢及び同年の石灯籠一対がある。神輿は寛政2年(1461)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。明治2年西開戸鎮座の牛頭天王社(往古天王畑にあり)、明治6年西光寺持八坂神社を合祀し八坂神社として独立したが氏子民は八坂様とも金比羅様とも称し親しんでいる。昭和51年御嶽神社を移築改造して現神社となる。(説明板)
明治21年に現在の秦野市の渋沢・峠地区に建立され、昭和50年に現在位置(秦野市平沢)に移転しました。正月の福迎祭、春の梅まつり、夏のほおずき市・朝顔市など四季折々のイベントが催され賑わいを見せます。境内には湧水「千年の杜の水」が湧き出ており植樹された木々にうるおいを与えています。湧水周辺には季節になるとホタルが舞い幻想的な風景を見せてくれます。(秦野市観光協会)
246号を横断/平沢西 小田急線を渡ります
・・・曲松
「左小田原 い々すミ 道」「右 ふじ山 さい志やうじ道 左10日市場 かなひかんおん道」「左大山道 願主富村 江戸屋喜平次」(い々すミ(小田原飯泉観音)さい志やうじ(大雄山最乗寺)かなひかんおん(平塚金目観音)です)
ここは東西を通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原道が南北に交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北へ進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣や大山講の人々によって数多く道標が建てられ、近くに江戸屋喜平次の建てた道標もあり、旅籠も何軒かあったという。(秦野市) 写真:千村-「相中留恩記略」/案内板
「澁澤駅」は渋沢共有地管理組合が所有地を無償で提供して昭和2年に敷設されました。関東大震災後、小田急急行鉄道(現小田急電鉄)により新宿-小田原間に鉄道建設が始まり、西秦野村内に駅を開設するにあたって大字渋沢の管理地管理組合の先人たちが(現渋沢共有地)「村や地域が発展するなら」と共有地の下三屋(現曲松1丁目)の1丁(1ha)有余を無償提供し、乗降口を南側に設け駅を「澁澤駅」にするなどして駅の敷設・誘致に尽力した。近年では「渋沢駅」をシンボルとして駅周辺の区画整理事業など公共事業にも積極的に協力し立派な町並みになりました。ここに市制施行60周年と渋沢共有地管理組合の創立60周年を記念して「渋沢駅」が敷設された由来を掲示します。(渋沢共有地管理組合)
・・・千村
矢倉沢往還の主要な継立場の一つ。矢倉沢方面から峠を登ってきてホッと一息入れた場所。「新編相模国風土記稿」に「矢倉澤往来係る幅二間半 陣馬継立をなす西、足柄上郡松田惣領、北、本郡曽屋村へ継送る共に一里八町の里程なり、但近隣十三村より人馬を出し是を助く」と記されており矢倉沢往還が通過する主要な村のひとつ。(まほら秦野みちしるべの会)
坂下/曲松1 中段右手の二つ塚、ひと休みです
矢倉沢往還は江戸時代に東海道の脇往還として制定された公道で、東京赤坂御門を起点として静岡県沼津吉原まで続く道であり、富士山への参詣路でもありました。今から約1300年前の8世紀頃には地域の主要な道として利用されていた様子もうかがえます。千村地区は矢倉沢往還の一部が良好な状態で保存され、不動明王像を戴く沓掛の大山道道標や「茶屋」といった地名なども残っており、江戸時代後期に作成された地誌である「新編相模国風土記稿」に『矢倉澤往来係る幅二間半 陣馬継立をなす 西、足柄上群松田惣領、北、本郡曽屋村へ継送る共に一里八町の里程なり、但近隣13村より人馬を出し是を助く』と記されており、 矢倉沢往還が通過する主要な村のひとつであったことがわかります。おすすめのハイキングコースとして「渋沢駅~二ッ塚~茶屋~蛇塚踏切~河内橋~神山滝~頭高山~渋沢駅」(矢倉沢往還道を甦らせる会)
曽屋&田原の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26775694/)
この前は茶屋跡、芝居小屋跡や饅頭屋跡がありこの周辺は街道一の賑わいがあった。また、荷物の中継所もあったようです。(矢倉沢往還道を甦らせる会)
(緑:矢倉沢往還 黄:大山道 赤角:秦野・渋沢駅)
・・・資料ファイル
秦野盆地扇端部には地下水が湧水しており、その豊富な地下水を水源に全国で3番目に近代的な上水道が整備された。現在、21か所の地下水が自噴しており秦野盆地湧水群として1985年(昭和60年)名水百選の一つに指定されている。
主な湧水地
護摩屋敷の水(ヤビツ峠より徒歩約30分) 竜神の泉(大倉より徒歩約30分) 弘法の清水(秦野駅近く)今泉名水桜公園(2006年開園、秦野駅近く)他にも、秦野駅近辺や丹沢山麓に多くの湧水がある。ただし全体的には湧水の量は市街化の影響で減る傾向にある。(Wikipedia)
秦野名水のひみつ
秦野は神奈川県の屋根とよばれる丹沢山地と大磯丘陵に囲まれた県内唯一の典型的盆地です。その盆地の地下をのぞいてみると、盆状の基盤岩の上に丹沢山地から流出した土砂と富士火山や箱根火山の噴火により飛んできた火山灰などがサンドイッチ状に堆積して、大きな「天然の水がめ」となっています。そこに雨水を豊富な地下水として蓄え、その量は屋久3億t芦ノ湖の約1.5倍といわれます。1985部年全国名水百選に「秦野盆地湧水群」が選定されました(説明板/秦野駅南口)
神奈川県北西部に広がる山地。東西約40km、南北約20kmに及び、神奈川県の面積の約6分の1を占める。秩父山地等と合わせて関東山地とも呼ばれる。最高峰の蛭ヶ岳でも標高1673mと標高では中級山岳程度であるが、尾根と谷沢が成す地形は複雑である。尾根の内、津久井青野原から焼岳、黍殻山(きびがらやま)、姫次、蛭ヶ岳、丹沢山を経て塔ノ岳(1491m) に至る尾根を主脈(丹沢主脈)、蛭ヶ岳から西に向かい臼ヶ岳、檜洞丸、犬越路を経て丕室山(1588m) に至る尾根を主稜(丹沢主稜)と称する。塔ノ岳から南東に向かってヤビツ峠に至る尾根を表尾根と言う。写真:表尾根
丹沢山地を構成する岩体の多くは、南の海で1700〜1200万年前に活発だった海底火山の噴出物からできている。1000万年前にはこの岩体の中心に上昇してきたマグマが貫入し、少しずつ冷えて固まり、西丹沢山地の多くを構成する石英閃緑岩体などとなった。また、このマグマの貫入により岩体が大きく盛り上がり、太平洋に浮かぶ火山島(火山島といっても海上に少し頭を出すくらいの島)となった。この火山島が載っていたフィリピン海プレートが徐々に北上し、500万年前には日本列島と衝突して本州と一体化した。その後、追うように北上してきた伊豆半島の岩体が100〜70万年前にかけて本州と衝突、この圧力によって丹沢山地の岩体が隆起し山地が形成された。
丹沢山地は古来より信仰の山として知られ山伏など修験者の修業の場でもあった。山岳や地名には仏果山、経ヶ岳、華厳岳、行者ヶ岳、尊仏山(塔ノ岳)、薬師岳(蛭ヶ岳)、菩提、法輪堂(おろんど)など信仰にちなんだ名前が数多くある。丹沢山地のシンボル的存在である大山は奈良時代、僧良弁により開山されたと伝わり、古くは「雨降山」とも言った関八州の雨乞いの霊場である。山頂に大山阿夫利神社、中腹に雨降山大山寺(大山不動)、麓周辺に日向薬師がある。江戸時代には信仰の対象としての大山参りが盛んとなった。記録によると大山参りのための大山講が江戸を中心に各地に組織され、登山ができたのは夏場の短期間かつ許可が必要だったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。(Wikipedia)
大山阿夫利神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23114586/)
by Twalking | 2018-05-18 19:34 | 古東海道関連(新規)