矢倉沢往還(2)秦野~松田02-渋沢峠
天気 晴れ
曲松の辻から渋沢峠を越えて篠窪へ向かいます。
地誌には千村越えが本路で、渋沢越えは四十八瀬川の
水溢の時はこちらの道とあり「富士往来」とも言ったそうです。
江戸の頃はともかく「平安・鎌倉の道」と思ってるのですが
どうなんでしょうか???、丘陵尾根を九十九に行きますが
こちらの方が古道らしくて面白いですね・・・、宿題です。
・・・渋沢
県道708号秦野大井線
秦野市柳町から足柄上郡大井町山田に至る県道である。当路線は従来ほとんどの区間が1車線-1.5車線の狭隘な路線であった。そのため長年にわたり改良事業が続けられている。(Wikipedia)
秦野市を流れる金目川水系の二級河川である。二級河川部分の延長は5km。秦野盆地の南、秦野市千村の渋沢丘陵に源を発し丘陵に沿うかたちで盆地南端を東へ流れる。秦野市河原町付近で水無川、逆川を合わせ金目川に合流する。(Wikipedia)
源頼朝に仕えていた家臣が僧となりこの寺を開基しました。徳望のある僧だったので貴僧と呼び寺名も貴僧寺になった。一時寂れていたが東田原の香雲寺6世再興し「喜叟寺」となった。(まほら秦野みちしるべの会)
渋沢駅から徒歩20分ほどにあるお寺(曹洞宗)。早春には参道にある梅が咲き誇り、古木が放つ花の香とその美しさが見事です。この寺には室町時代中期頃の作で寄木造りの釈迦如来像があります。また、1874年(明治7年)1月から1878年(明治11年)まで渋沢村第142番小学渋沢学校が開かれ渋沢・千村・栃窪の子供が通学していました。(秦野市観光協会)
祭神:大雀命(おおささぎのみこと) 伊邪奈美命(いざなみのみこと) 須佐之男命(すさのおのみこと)境内社:金毘羅社社殿 本殿(入母屋唐破風)1.5坪 覆殿(切妻) 幣殿、拝殿(入母屋)三棟一宇 22坪 神楽殿20坪 境内坪数 522.15坪
由緒沿革
往時は若宮八幡宮と称し村の総鎮守であった。神体銅像、建保6年(1218)11月喜叟寺(きそうじ)の開基霊夢(れいむ)によりて鶴岡の若宮を勧請したと言われ、古棟札に「河村菊千殿(実は菊千代)代官稲毛越前守拝御百姓中之請助成奉造立一顆弘三歳己・・・・」一札は造営祈願文と元亀4癸酉年(1573)を蔵している。天正19年(1591)御朱印一石五斗を賜う。また、千村に当社を産土神とするところがあり天明の頃御嶽社より須佐之男之命を勧請し相殿とした。その後御朱印確認書が贈られている(新編相模風土記)。明治6年7月渋沢神社と改称し村社に列せられた。当社氏子は峠、渋沢本村、石打場、曲松全域を含んでいる。昭和45年鳥居を新築し神殿、神楽殿等大改修し、面目も新らたになった。(説明板)
渋沢秋葉神社は火の神様として地域の人々から200有余年に亘って崇敬されている。古昔 宝暦12年般若院権大僧都が秋葉山本宮秋葉神社に秋葉山下権現本地秘法日夜守護処を勧請し相州大住 渋沢村吉原 源八の地に祠を建立 由来幾多の変遷を経て昭和56年渋沢中学校の新設に伴い隣接の土地所有者諸星好昭氏のご厚意により新境内を造成し氏子並びに崇敬者各位のご寄進により新社殿を建立現在に至る(石碑文)
・・・渋沢峠
歩道が左右にわずかしかないやや狭隘なトンネルで車道は2車線ある。峠とは渋沢の中の地区名で峠隧道を抜けた先にある。従来集落の中を県道が通っており、集落を過ぎたところでは極めてすれ違い困難な区間が存在していた。そのため狭隘な区間も合わせて集落を通らないようにバイパスが建設された。なお旧道も県道として存続している。(Wikipedia)
「矢倉沢往還」に従い右へ 樹林を抜けると「峠」「矢倉沢往還」に従い右折
渋沢丘陵は秦野盆地にある標高200mそこそこの台地で、丹沢山塊の好展望台になっている。最高点は浅間台と呼ばれ三等三角点がある。小田急線の最寄駅から近く展望に恵まれて家族向けのハイキングコースとして親しまれている。南側にある震生湖は名前のとおり地震でできた山で、関東大震災で崩壊した渋沢丘陵にせき止められて生まれた湖だ。(ヤマケイオンライン)写真:渋沢峠の標識
その先の二差路を「矢倉沢往還」に従い直進、右は頭高山への登山路です
昔、弘法大師がこの峠にさしかかって何かを記そうとされたが水が一滴もない。静かに手に持った杖を差し込むと清水が湧き、それを硯水にされたということである。昔は富士大山道で人通りも多く、硯水のかたわらには茶屋があって、旅人にさざえのつぼ焼きなどを売ったそうである。(大井町昔ばなし/大井町HP)
樹林を抜けます 県道を右折
・・・篠窪/大井町
大井町
神奈川県の南西部に位置し、町の西端を酒匂川が流れる。北東部・東部から大磯丘陵がつらなりその終端となっている。町の中央部から南部は平地である。酒匂川の分水である酒匂堰(用水)が中央部を流れ、北東部から流れ込む菊川と合流して南の小田原市へと向かう。この間の平地は水田地帯であり町域面積の10%、耕地面積の3割以上が水田である。また、丘陵地を利用したみかんなどの果樹栽培も盛んである。町の北部は松田町と境をなしており、東名高速の大井松田ICや御殿場線松田駅・小田急線新松田駅などとも近接している。(Wikipedia)
大井地名由来
この辺り一帯は鎌倉時代から「大井の庄」と呼ばれ『吾妻鏡』や『新編相模風土記稿』にもそのことが記されています。昭和31年の町制施行に際し歴史的に親しみのある呼び名「大井の庄」にちなみ「大井町」と名付けられました。(大井町HP)
県道708号秦野大井線(篠窪地区)
篠窪とは大井町に入ってすぐの集落である。大井町に入ってから篠窪の集落までに狭隘区間が存在する。そのため狭隘区間と集落をバイパスし篠窪隧道手前で合流するバイパスが現在建設されている。篠窪隧道はかつては1車線しかない離合不可能なトンネルであったが、一年間ほどの通行止めを経て2車線で歩道が片側にある通行しやすいトンネルに拡幅されている。(Wikipedia)
寶珠山地福禅寺は臨済宗建長寺派のお寺です。開山は貞和3年(1347)中和等睦で、開基は二階堂政貞です。二階堂氏は地福寺について書かれた「新編相模風土記稿」によれば『二階堂氏の祖は隠岐守行村と云い、建保元(1213)年和田義盛謀反せし時、これを討って功労ある故に大井の庄をあてがわれた。この頃より二階堂氏伝領して政貞に至り、その後篠窪を屋号とする』とあります。
和名(スダジイ)
幹は斜めに伸びて枝葉は矢倉沢往還をいっぱいにおおい、幹にはツタがからみついて古木の観をもりあげている。森全体は大井町の天然記念物に指定されている。スダジイは東北南部から九州沿岸に多く生える常緑高木である。樹高25m、胸高周囲15m、樹齢約800年に達するものもあると言われている。(神奈川県)
笠窪部落の西方に位置し、民家に沿って東面した約60aの社林がある。この社林にあった椎の大木は自然林で樹齢800年以上を経た大木である。往古は矢倉沢往還といって相模国府に通ずる重要な道路があり、大山道、富士道、飯泉道に通じていた。(大井町教育委員会)
祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと) 誉田別命(ほむだわけのみこと)大山祇命(おおやまつみのみこと)武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)
篠窪地域の総鎮守であり根渡、三嶋、八幡の三社を祀っています。旧来は根渡の神一社が祀られていましたが、上大井の三嶋神社を勧請し神山にあった八幡社の三社を合祀したとされています。(町の文化財/大井町HP)
『当村(篠窪)及神山村の鎮守にして両村の持なり。根渡は祭神詳ならず。或は工匠の神にて思兼命を祭れりとも云う。古は祀る所根渡一座にて、三島は初め上大井村の同社を模して村内に勧請し、別社たりしと云う。八幡は初め高山村にありしと云う。おのづから根渡の神は沈淪し元禄14年12月、合祀せし後は三島八幡の二神号のみを記せり』(新編相模国風土記稿・足柄上郡)
三嶋神社の境内に道標があります。これは三嶋神社右側やく100mの所に富士見塚があり、この場所はかつて北に大山道、南は小田原・飯泉観音の道、西は富士道の分岐点でした。富士塚の付近には庚申塔の道標、后土神(こうどしん)の道標や観音像の道標、出羽湯殿山信仰の寛文年間の石碑や江戸時代の名僧徳本行者の碑などがありましたが、明治の始めに三嶋神社や地福寺の境内に遷されました。(町の文化財/大井町HP)
后土(こうど)
四御の唯一の女神であり、中国道教の最高位の全ての土地を統括する地母神。土地・陰陽と生育を司る墓所の守り神であり、主に女性や死は陰と位置づけられる事から、墓所の神は女性神となった。城隍神(じょうこうしん)や土地爺 (とちや)と共に土地の守護神の一種に位置づけられていた。(Wikipedia)
(緑:平安・鎌倉の道 黄:江戸期の道 青:四十八瀬川 赤角:渋沢駅・峠隧道)
新編相模国風土記稿・足柄上郡
『脇往還二條を通す、一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢(いっすい:水が溢れる)の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云う、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、(幅九尺より一丈に至る)』
千村宿の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26798895/)
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資料ファイル
大井荘(おおいのしょう)
相模国足上郡(現在の神奈川県大井町)にあった荘園。成立時期は不明であるが、文治4年5月12日(1188年6月8日)付院宣によって、同荘が延勝寺の所領(領家)であったことが知られている(『吾妻鏡』同年6月4日条)。和田合戦後、恩賞として二階堂行村に与えられてその子孫に分割・継承された。例えば、文久9年(1272)に行村の曾孫・二階堂行景は政所下文によって同荘の金子郷・吉田島が安堵されたことが知られているが、13年後の霜月騒動で討たれたために没収されている。一方、他の地域はその後も二階堂氏が引き続き支配していたことが知られている(Wikipedia)
篠窪の地福寺から南側に広がる台地の一角に、現在民家になっていいて当時の面影を残すおのはなにもありませんがここにお城あったとか、とりでの跡だとか、前方は堀であったとか、屋敷跡にはみかげ石で造ったたらいが埋まっているとか、様々な人々に言い伝えられています。二階堂出羽守貞がこの地に来て屋敷を構えたのは明徳の頃(1390~1394)と云われています。屋敷南西の低地から発掘された五輪塔は二階堂一族の墓地と考えられ、現在地福寺に移されています。(大井町の文化財/大井町HP)
二階堂行政(ゆきまさ)
平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家。鎌倉幕府の源氏家令・後に政所執事、十三人の合議制の一人。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。後に鎌倉郡にある永福寺の周辺に二階堂村を得たことから二階堂の苗字を称した。家系は藤原南家尾乙麻呂流で父は工藤行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司・藤原季範の妹で、その関係から源頼朝に登用されたと見られているが、二階堂行政は公家、高家であり別当や御家人にはなってはいないが、朝廷に対して絶大な影響力が有ったことは事実である。行政の『吾妻鏡』での初見は元歴元年(1184)8月24日条であり、新造の公文所棟上げの奉行として三善康信と共に登場する。おそらくはこの少し前に鎌倉に下向し頼朝に仕えたものと思われる(Wikipedia)
二階堂行村(ゆきむら)
平安時代後期から鎌倉時代中期にかけての武士。鎌倉幕府評定衆。久寿2年(1155)、二階堂行政の子として誕生。行村は文筆の家ながら京で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍している。和田合戦では『吾妻鏡』1213年(建暦3年)5月4日条に「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」とあり、行村が北条方の軍奉行とみて間違いないだろうとされ、『吾妻鏡』の和田合戦の多くは行村が取り纏めた史料によると見られている。伊勢国益田庄地頭となり、嘉禎4年(1238)に同地で没した(Wikipedia)
霜月騒動(しもつきそうどう)
鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した(Wikipedia)
by Twalking | 2018-05-23 09:29 | 古東海道関連(新規)