無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北-03河村城址   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ


浅間山の東麓にある河村氏関連の寺社を見てから、
河村城のある河村城址公園に向かいました。
保全された森をひと上りすると本城郭があります。

蔵郭・近藤郭、大庭郭、大庭郭張出など遺構が残り、
その先から見る足柄平野の展望は素晴らしい景観です。
本城郭から日向へ下り、酒水の滝へ足を延ばしました。
ここは森の緑と水の青、歩き甲斐のあるいいコースです。



・・・河村城址公園

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街道の風景① 標識または盛翁寺より左折すると城址公園入口になります

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河村城
平安時代末期築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。建武の新政・南北朝時代に入ると、河村宇治は新田氏に協力し南朝方につき北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570-1573)には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐でこの城は落城し廃城となった。Wikipedia

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街道の風景② 本城郭へひと上り、道は整備され気持ちいい森林浴です。

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茶臼郭
本城郭から北に伸びる尾根は二本の堀切によって小郭と茶臼郭に区切られている、北側に位置する茶臼郭は本城郭より約10m低く東西約20m南北約80mを計る緩やかな斜面で、東西両側に帯郭が見られる、絵図によっては、小郭を茶臼郭としているものもあるが、新編相模国風土記稿の河村城古図では、小郭の北側に茶臼郭を配している。(山北町)

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お姫井戸               堀切

お姫井戸
小郭と茶臼郭の間の堀切では、畝掘りが確認されており、東端の畝間には出水がある。新編相模国風土記稿の絵図にはこの位置に井戸の記載があり、往時は井戸として使用していたと考えられるが、発掘調査では井戸の遺構は確認できなかった。しかし、河村城落城の時に城主の姫が井戸に身を投じたという衣話が今でも伝えられている。(山北町)

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街道の風景② 本城郭の入口です。ここから3方向の尾根に郭が連なります

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本城郭には「河村城碑」「神社」「説明板」等があります

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河村城跡
河村城跡が位置するこの地は城山と呼ばれ、旧皆瀬川酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害ともいうべき形となっている。城山の標高は225で、酒匂川との比高差は130を測り東へ浅間山丸山と連なる独立丘陵状をなしている。河村城の周辺では相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城中川城大仏城山新城鐘ヶ塚城が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通要衛に位置している。

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河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子・義秀は源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により本領河村郷復帰できたと「吾妻鏡」にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来すると言われている。建武の中興・南北朝時代と河村氏松田氏とともに南朝方の新田氏に協力し活躍するが、北朝方の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城篭城する。正平78年(115253)にかけて畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ新田・脇屋らは中川城を経て甲州にのがれたと「太平記」にある。当時の河村城については『管領記』に「山瞼にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であったことがうかがえる。また、篭城の様子については、河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の『梅風記』(写)に詳しい。南原の戦い後、河村城は畠山清国・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに小田原城支城として河村城を重視し、特にが元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られる。その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるがこれらを伝える資料は残っていない。

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河村城の規模・郭配置については『新編相模風土記稿』及び堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため現地でも概略の位置は確認できる。各部の名称は絵図を参考に付けたものであるが、記載のないものなどについては調査・研究等に使われている名称を便宜上使用している。河村城は急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分にいかした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。現在を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭近藤郭大庭郭洞張出郭を配しており、絵図によっては張出部南端大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭西郭北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。廓の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の間にはお姫井戸の伝承地があり湧水があったと考えられる。平成2年の本城郭及び堀切の2ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われるピット6個が検出され、古銭(熙寧元宝)・染付陶磁器なども遺物も出土している。ピットの覆土にはいづれも焼土・炭化物が含まれており、根固め用と考えられる河原石が認められた。

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また、河村城東端の大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20m・深さ約11mの箱薬研状を呈す堀であること、蔵郭と近藤郭の堀切は幅約30m、深さ15mの河村城最大の規模であることが確認された。さらに、平成4年の本城郭から茶臼郭の間の堀切2ヶ所と小郭の発掘調査では、正郭両端の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では8本、茶臼郭側の堀切では5本の畝が検出された。また、小郭担面は一辺約15mの三角形状を呈し、緑辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石んぽ溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるがピットは4個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていない。また、平成5年の河村城の根古屋とされる岸湯坂地区土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が一部確認されており、当時すでに館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。(山北町)

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街道の風景③ 本城郭の南は堀切を挟んで蔵郭があります

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堀切
本城郭蔵郭の間にある幅20m、深さ8m、堀底の巾50cmの傾斜の急な堀切です。発掘調査では堀底を含め5の造り直しを確認しました。橋脚の跡は堀切内の平らな造成面で発見され、それよりも古い傾斜のある時期の橋脚跡は不明です。

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堀切で発見された橋の跡
堀切内からは4本の柱穴が見つかり、その位置を柱状のコンクリートで示しています。橋脚幅は4m、堀をまたぐ柱の間の幅は8mあり、柱穴に残った炭化した柱の炭素による年代測定(AMS法)では、400ほど前に伐採した木材であることがわかりました。

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木橋
木橋は城跡全体の維持管理のために架けた現代的な橋ですが、当時の橋の様子を想わせる整備をおこなっています。幅2.5m、長さ24m、高さは3.3mあります。橋の手摺は神奈川県のヒノキ、橋脚や床板は国外の硬い樹木を利用しています。(山北町教育委員会)

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街道の風景④ 蔵郭です

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蔵郭
東西約700m、南北約300mの長楕円形の郭(くるわ)で西に本城郭、東に近藤郭があります。北側は丸い尾根に3段の平場が続く郭です。南側は急な谷間で郭の東西には自然地形を利用した堀切を築いています。近藤郭との間の堀切は東西24m、南北60m、深さ12mの河村城最大の堀切です。

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蔵郭で発見された城の施設跡
建物跡
蔵郭の中央東側にあります。径6m方形で深さは約50cmあります。竪穴からは直径10cm~30cmの焼けた石、中国産の青磁の皿や碗、東海地方の陶器、かわらけ、鉄釘、炭化したイネやオオムギの果実、土壁状の塊が出土しました、これらの発見は建物跡と蔵(穀物を貯蔵した土蔵)の密接な関係を表しているのかもしれません。また、蔵郭の中央では建物の柱穴なども見つかっています。

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配石土杭
蔵郭の東側で中から大きい石賀数多くみかた長方形の穴(配石土杭)が、常滑(源愛知県常滑市)産の瓶とともに発見されています。その他周辺からは設楽(源滋賀県甲賀市)系壺、常滑系擂鉢片、かわらけの破片が出土しています。(山北町教育委員会)


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河村城案内図
河村城は中世山城の全容を残しています。城は自然地形を利用し尾根の高い部分を削り、その土で低い部分を埋めて「郭」と呼ぶ平場を造成します。また、谷や崖面を利用して堀とし外敵の侵入を遮るため、尾根を人工的に切断して堀とした「堀切」を造り、郭の間を隔てる防御態勢を整えました。河村城の郭や堀切の平面配置を示す「縄張り」は約300年前の絵図を参考にしています。(説明板)

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街道の風景⑤ 近藤郭です

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縁石ベンチは発掘調査で見つかった堅穴と空堀の跡を示しています。
堅堀
幅:約12m、深さ:3.5m以上、堀の斜度:4055度。郭内での敵の移動を制限するために設けられます。また、堀の中での敵の移動を制限するために堀障子を設けています。掘障子を持つ堀のことを障子堀と言い、小田原北条氏特徴的な堀の造り方です。河村城跡では堀切2などでも障子堀です。

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街道の風景⑥ 左は多地屋敷、右は大庭郭です

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街道の風景⑦
 大庭郭張出・大手です。直進は浅間山、右に下れば湯坂になります。前方に見えるのは松田山でしょうか。

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眼下は山北&東名の吾妻トンネル、左は鳥手山でしょうか、246はこの谷間を西に向かいます/大庭郭張出し

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浅間山の先から望む足柄平野、左が松田惣領、渋沢丘陵の先端が国府津、右手が小田原になります。城内歩道を本城郭に戻ります。

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街道の風景⑧ 本城郭から樹林帯を日向へ下ります

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途中に馬出郭             右尾根に行くと西郭です

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街道の風景⑨ 湯坂から来る城山南麓の道です、前方の谷が洒水の滝、右折します/日向

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ここから舗装路です          麓へ下ります

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南側は酒匂川との間に田んぼが広がります/日向

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西側は酒匂川に接した崖になっています。上流で皆瀬川を合わせます/高瀬橋

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山北駅付近地図
(黄:歩行コース 橙:246号 青:酒匂川・皆瀬川)

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山北辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(黄:歩行ルート 青:酒匂川・皆瀬川)


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資料ファイル
河村氏

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河村義秀
鎌倉前期の武士。相模国の住人。藤原秀郷の子孫、波多野氏の一族。秀高の子。治承4(1180)年源頼朝の石橋山挙兵の際、平家方に属し頼朝軍と戦いのち捕らわれて大庭景能の許に預けられた。斬罪になるところを景能の計らいで死を免れた。建久1(1190)8月の鶴岡八幡宮放生会の際、景能の進言で流鏑馬射手に召し出され、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、頼朝より罪を許された。9月には本領河村郷(神奈川県山北町)安堵され、以後御家人として活躍。頼朝の2度の上洛や曽我兄弟の仇討ちで有名な富士野巻狩りにも随行。承久3(1221)年の承久の乱では幕府軍に属して軍功を挙げた。(コトバンク)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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河村秀清
相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原秀郷流、波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。治承元年(1177)に波多野吉義通の実弟・河村秀高四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)として生まれる。兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と河村義秀(よしひで、河村三郎)、弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいる。「河村」の姓は、父・秀高(名は遠実(とおざね)とも)がその父(秀清の祖父)である波多野遠義(とおよし)から河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、その地名をとって名乗ったことに始まる。源頼朝が挙兵した際、義秀はそれに応じず平家側につき、治承4年(1180)の石橋山の戦いでも大庭景親に同調したが、富士川の合戦後に景親らとともに捕縛された。河村郷を中心とする義秀の所領(本貫地)は没収され、本来ならば斬罪に処されるべきところを、以前より頼朝方であった景親の兄・景義の計らいによって罪を赦され、本領であった河村郷を安堵され以後御家人として活動することとなる。義秀が捕縛された時、その弟である千鶴丸は浪人となり母・京極局のもとにいたようである。『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189)、若年の千鶴丸は13歳にして奥州合戦に参加、三浦義村らとともに、藤原泰衡の異母兄・藤原国衡がまもる陸奥国阿津賀志山(現・福島県伊達郡国見町厚樫山)の堡塁(ほうるい)を攻めて武功を挙げ(阿津賀志山の戦い)これに感激した頼朝は船迫駅において、自らの御前で元服させたという。この時の烏帽子親は頼朝からの指名により小笠原長清が務め、「清」の字を与えられて秀清と名乗った。加えて秀清は戦後の論功行賞により岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶の三カ所に所領を賜った。以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに北条氏に従い、承久3年(1221)の承久の乱では兄・義秀とともに幕府方方について宇治川で戦い武功を挙げた。その後は没年を含め不明である。Wikipedia
(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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古地図/案内板

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by Twalking | 2018-06-11 09:35 | 古東海道関連(新規)

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