ぶらり『中村一族の郷めぐり』01-土屋
天気 曇り
大磯丘陵の金目川筋・土屋荘は土屋一族、
七国峠を越えた中村川筋は本家の中村氏の故地です。
ここは訪ねてみようと思っていました。
以前、関東ふれあいの道で土屋付近を歩きましたが、
場所が分からず目的の場所に辿りつけませんでした。
いい機会なので、土屋氏&中村氏の故郷を訪ねて見ました。
・・・南矢名/秦野市


明治22年(1889)当時の南矢名・北矢名・落幡・下大槻・真田の五か村が合併し「大根村」となり。昭和2年小田原急行鉄道(現小田急電鉄)が開通し、村内に駅を設置するに際して、その名称を「大根駅」とした。駅開設が実現をみたのは、大根村はじめ地域の方々の多大なご協力の賜であり、このたび駅名を「東海大学前」に改称するにあたり、このことを永く後世に伝えるためこの碑を建立する。(小田急電鉄)


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・・・土屋/平塚市


神奈川県道77号平塚松田線
平塚市南金目から足柄上郡神山に至る県道(主要地方道)である。大磯丘陵を縫うためカーブの多い路線である。(Wikipedia)




・・・土屋氏館跡




土屋一族の墓平安時代後期、中村荘司・宗平の3男・宗遠(むねとう)は相州土屋の地の領主として館を構えました。土屋宗遠は治承4年(1180)源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府の成立に貢献し、その子・義清も「随兵役」を勤めるなど頼朝の厚い信頼を受けた武将でした。以来、土屋氏は室町時代の応永23年(1416)上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで、土屋の土地を支配しました。「新編相模風土記稿」ではその土屋の館の所在について『宗憲寺境内なりと云し(中略)遺形と覚しき所なし』と記されています。現在「宗憲寺」は存在しませんが、周辺の地理的状況などによりその館は三方を山に囲まれ、南に座禅川を配した中世の館として最適な地形を持つ天台宗大乗院の南に位置する段丘上と推定されています。また、「字大庭」の地名が残る場所では、もののふの館に関する郭状遺構が発見されています。館跡の一郭には「土屋一族の墓」と伝えられる墓域があり、手厚く供養するため地元では「墓前祭」が行われています。なお、土屋は惣領分・庶子分・寺分と地域区分されますが、これは土屋氏が所領を一族で分割した「土屋三分」によると考えられています。(平塚市教育委員会)

宗遠は90寿の晩苑になっても たびたび鎌倉を訪ね 実朝公に拝謁し 四方屋話で一時を過ごしたと想われる 実朝公はその折々の様子を数種歌に詠じ給うた その一首を碑に刻む(碑文)

相州土屋氏の始祖・土屋三郎宗遠公は、桓武平氏中村荘司宗平の3男として大治3年(1128)相模餘綾郡(ゆるぎぐん)中村(現中井町)に生まれた。長じて武門に志し当大住郡土屋郷に本拠を置き「土屋」の地名を以って屋号(姓)とし、三浦義継の女を妻とした。一方、土肥郷(現湯河原町)に本拠を置く兄・土肥次郎実平(さねひら)らとともに西相模一帯の強力な一陣営を為し、関東武士団として成長していった。治承4年(11809源頼朝の平家討伐の旗挙げ「石橋山の合戦」から兄・実平らとともに頼朝側近の武将として富士川の合戦、一の谷の合戦、屋島・壇ノ浦の合戦など数多くの戦に出陣し鎌倉幕府樹立に貢献した。以後、宗遠公の後裔は代々鎌倉幕府の要人として仕えたが、専横傍若無尽な執権・北条義時に挑発され兵を挙げ「和田義盛の乱」に組し、土屋次郎義清ほか家の子郎党たちが討死して、土屋氏に動揺が走ったことは否めない。

時は移り、室町時代の明徳2年(1391)には威勢盛んな山名氏の脅威を除こうとした室町幕府に対する山名氏清の反乱「明徳の乱」に組みし、12代土屋宗貞と郎党50有余人は討死の痛手を受けた。また、応永の度重なる戦乱に勢力を失い、応永23年(1416)には鎌倉公方・足利持氏と不和になった前関東管領・上杉禅秀(氏憲)の乱に組し、戦運を懸けたが敗れ土屋氏の所領は小田原大森氏に没収され、この地は大森芳盛のものとなった。
これより当地に栄えた土屋氏は各地へ離散していった。その後、ここ土屋から全国各地へ派生した土屋一族は厳しい戦国の世を切り抜け、江戸時代から明治そして現代へと始祖・宗遠公のその精神を脈々と受け継ぎあらゆる分野で数多くの人材を世に送り出している。ここにおよそ800年の星霜を深い樹木に抱かれた土屋一族の墓は、土屋氏ゆかりの人達に見守られてきた。この一帯は館跡と伝えられ、一族の供養塔もこの一角に散在していた。昭和10年(1935)頃杉林を開墾して畑にした当時、寺分字粟久保の故杉山鐸之助氏を中心に供養塔を現在地に収集移設し現在に至っている。(土屋三郎宗遠公遺跡保存会)


地頭土屋三郎平宗遠公一族之墓苑
浩宮徳仁殿下一行当初見学記念
昭和54年9月12日(碑文)

土屋城址
鎌倉時代の御家人で重臣であった土屋三郎宗遠の城跡。土屋の丘陵にあって段丘を利用し、南に座禅川をひかえた鎌倉時代初期の形式に属するものである。この地は高陣山と呼ばれこのほかに高見台などがあり、一族縁者が居を構える二宮ノ館、真田ノ館、岡崎ノ館、中村ノ館などに連絡ができる場所でもある。また当時は交通の要衝の地でもあった。(環境庁・神奈川県)



熊野神社は宗遠が平家追討軍として壇ノ浦の戦い(1185)で参戦し勝利を収め凱旋途中、紀州の熊野権現に参詣しその分霊を蓑に包んで持ち帰り、小熊野の地に奉り尊信したと伝えられる「古社」です。明治初期から昭和20年までは社格が「郷社」として郷内7社が合祀されていました。寺分各集落の神社4社が合祀されており氏子の篤い尊崇を受けています。
この土屋城があった一帯は昭和30年代に開発が急速に進み、今では面影を見ることは出来ません。開発当時は土器等の埋蔵物が出土しましたが、発掘調査はなされておらずその全容は解明されていません。土屋三郎宗遠と土屋一族については「吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記」などで当時の様子をうかがい知ることができます。(ふるさと土屋いろはかるた実行委員会)

相州の土屋と云ふ所に 年90にあまれるくち法師あり おのづからきたる 昔語などせしついでに 身のたちゐにたえずなむ 成ぬる事を なくなく申て出ぬ 時に老という事を人々に仰せてつかうまらせし次によい待し
『我いくそ 見し世の事を 思い出の あくるほどなき 夜の寝覚に』
『思い出て 夜はすがらに 音をとぞなく 有し昔の 世々のふること』
『中々に老いはほれても 忘れなで などか昔を いとしのぶらむ』
『道とほし 腰はふたへに かがよれり 杖にすがりて ここまでも来る』
『さりともと 思ふ物から 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しき』


天台宗延暦寺派の名刹、鎌倉時代の武将で土屋の領主・土屋三郎宗遠が堂塔を再建したと伝えられる寺院である。往時は多くの末寺をもつ大乗院であったが、お堂の建物は惜しくも第二次世界大戦(昭和20年)のとき焼失した。再建後の本堂には瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れ安置されている。またこの寺は相模西国29番観音霊場でもある。本尊:阿弥陀如来 中興開基:圓海(環境庁・神奈川県)


「往昔邑人某、南紀熊野神社に詣で分霊を請い、途中覆ふに其の破れる所の蓑を以てし、帰り来てに勧請せり。」と。その後、健中年中(1190~1199年)「土屋三郎宗遠当村を所領せる際、其の4男・宗光なるもの現在の社地に遷せり。是れ字名に庶子分、小熊等の名称ある所以なり」との記録がある。新編相模風土記に「天正19年(1591)家康より社嶺高五石の地を寄附せられ、御朱印を賜う。元和4年(1619)9月修造の棟札あり。神木の杉、囲一丈二尺ありき」と記載されている。明治維新の際上地した。明治6年7月30日郷社に列せられた。(神奈川県神社誌)


武家のひとつ。本姓は平氏。家系は桓武平氏の一つ高望王の系譜で平良文を祖とする。平良文の6代孫土屋宗遠を初代とする。土屋氏は坂東八平氏であった相模国中村荘司村岡宗平の子、土屋宗遠が相模国中村荘において土屋郷司についたことに由来する。鎌倉時代には出雲国持田荘や大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭を任官し各地に勢力を伸張する。室町時代初期には土屋景遠の時に相模国本領を奪われ他国に追われたという。土屋勝遠は甲斐国守護・武田信昌の娘を娶り、子の土屋信遠は武田家臣となったという。信遠の子、土屋昌遠は駿河国大平郷に移り住んで武田家中を離れる。(Wikipedia)(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)
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・・・遠藤原







土屋山無量寿院芳盛寺は、現在は真言宗の寺院です。土屋三郎宗遠が自らの菩提寺として建仁4年(1204)に戦の守り本尊阿弥陀如来を祀り、阿弥陀寺と号したのが始まりです。開基は退耕行勇上人で、鎌倉幕府の三代の将軍と親交のあった高僧です。恵心僧都作と伝えられる本尊の阿弥陀如来(秘仏)の他に空海の画像(市指定重要文化財)などの寺宝が伝えられており歴史の古さを物語っています。鎌倉時代には相模、武蔵、伊豆の三つの国の僧が集い修行をする壇林所(修行道場)として栄えました。また、この寺の石段の下を流れる川が「座禅川」と名付けられたのは川の畔で修行僧が座禅をしていたことに由来すると伝えられています。応永年間になると関東公方足利氏満が中興して、高野山の末寺になり無量寿院阿弥陀寺となりました。その後、応永23年に関東管領・足利持氏に対して反乱を起こした関東公方足利氏憲に味方した土屋一族は、領地を取り上げられその勢力は衰えてしまいました。足利氏は土屋氏の所領を小田原の大森式部大輔芳盛に与えたため、芳盛は阿弥陀寺を菩提寺としその寺号を芳盛寺と改めました。(ふるさと土屋さんHP)

像絹本着色 総縦188cm 同横73cm 画面縦100.5cm 同横50.5cm
当画像の箱書には「真如親王御筆」となっているが、真如法親王は平安時代(800年代)の人である。画法・絵絹、画像右上方に書かれた替文の書風など絵全体の歴史的作風から類推すると室町時代(14世紀後半ないし15世紀前半)の作と思われる。平塚市内に存在する仏画としては最古の作品であり、また画としての品格も備え、芳盛寺に伝承秘蔵された由緒等も明確であり、市にとっても貴重な文化財である(平塚市教育委員会)

座禅川(ざぜんかわ)
平塚市を流れる金目川水系の二級河川。本流に尼ヶ滝、支流に駒ヶ滝(清滝)がある。神奈川県平塚市土屋の七国峠付近に源を発し、平塚市南金目で三笠川を合わせ金目川に合流する。(Wikipedia)


(赤:歩行ルート 橙:県道77号 緑:小田原みち 黄:七国峠・遠藤原のみち 青:金目川・座禅川)

(赤点線:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 橙点線:羽根尾通り大山道 赤角:東海大前駅・七国峠・井ノ口)
by Twalking | 2018-06-18 10:49 | 古東海道関連(新規)