ぶらり『中村一族の郷めぐり』03-中村郷
天気 曇り
井ノ口から「小田原みち」を山越えして
中村党の故地・中村郷に向かいました。
大磯丘陵の懐深く、がぴったりの山峡の里です。
土屋郷、中村郷と中村党の足跡を訪ねました。
決して華やかな史蹟があるわけではありませんが、
「土に眠る」でしょうか、味わい深いものがありました。
・・・藤沢(中井町)
秦野市(246号・落合立体交差)から中郡二宮町(国道1号・二宮交差点)に至る主要地方道である。1981年(昭和56年)に東名高速秦野中井ICが開設されるとこの道路の重要性は大きなものとなった。片側2車線あるいは片側1車線で路肩に余裕のある現在の経路は1989年(平成元年)までに順次開通した。秦野市・中井町境界付近から二宮町の西八戸橋付近までは葛川の西側段丘面を通るものである。旧道はおおむね現道のやや東側を通り現在も路線バスは一部路線を除き旧道を経由し、地域住民の生活道路として重要な役割を担っている。なお、旧道沿いには1937年(昭和12年)まで湘南軌道という軽便鉄道も走っていた。(Wikipedia)(南北が71号、直進が77号です/中井電話局前)
ここは北田の宇塔坂と上井ノ口を結ぶ小田原道の途中で、俗に「長坂」と呼ばれるところである。この長坂を横切るように下井ノ口から中藤沢へ通じる古い道があり、以前は大山参詣の賑わいと共に人の往来もあった道である。かつてこの道の藤沢への下り口に立石の墓標が建っていた。ここが伝説の「坊主殺し」の跡である。昔、下井ノ口のお堂(現下井ノ口自治会館)にある尼僧が堂守りをして暮らしていた。性格が温順であったので里人に親しまれ多勢の人達が物品等を持ち寄り孤独を慰めた。そのためいつしか小銭持ちだと噂が飛び、ある日藤沢方面に出かけて1日の修業が終わり家へ帰ろうとした途中、この場所で絞殺されたうえ身に付けていた金銭を奪われてしまった。この事を知った下井ノ口の人達は尼僧を不憫に思いそこに亡骸を埋め懇ろに供養をしてやった。その翌年の命日に心優しい里人は金を出し合い尼僧の殺された場所に墓標を建てた。それ以来ここを「坊主殺し」と呼んで夕暮れなどは淋しがって往来する人もほとんどなく途絶えてしまった。前述の20貫もあった墓標は関東大震災の折りどこかに埋没して今はその景をとどめていない(中井町古道復旧の会)
・・・一本松峠
ここは昭和初期まで形のよい松の古木が聳えていて、里の人々に親しまれてきた。今は朽ちてなくなっている。かつてこの付近に大山街道往還の休息所として茶店があり、大変賑わったと伝えられる。ここは現在、石の道標が2基残っており、その文面は左記のとおりである。「をだわら道 これより三里」元禄三庚午歳6月吉日 此よりいゝつみまで二里 かなめまで二里 大山道これより三里 相州西郡中村乃内久所村(中井町教育委員会)
すべての道は大山へと言われるほど各地から大山へ向かう道は多い。ここ一本松はおだわら飯泉観音から曽我の六本松(古くは「やまびこやま」と称された)を越えて当地に至る通称六本松通り大山道と東海道前川からの前川通り大山道の合流するところである。この一本松大山道道標には次のように刻まれています。人数15人施主 をだわら道これより三里 元禄3庚牛齢(1690)6月吉日 三王為供養 古れよりしやまひ古へ(越え) いゝつみまで二里 大山道これより三里 敬白 相刕西部(にしのこおり)中村之内久所村 道標の頭頂には放射状に東西南北と刻まれています。
最古の大山道道標は東海道藤沢四ツ谷不動(辻堂駅北口国道1号線沿い)にある「是より里右大山みち」と刻まれた万治4年(1661)のものです。この道標は天保6年(1835)に再建、関東大震災で修理・再建、平成17年7月1日新道標が建立されると大山阿夫利神社に一児保管され平成24年伊勢原日向の秋山安太郎石材の手から子易地区大山新道沿いに修復・移設・再建されました。参考までに田村通り大山道の一の鳥居は延宝4年(1678)に建立されました。伊勢原市最古の大山道道標は矢倉沢往還と柏尾通り大山道の合流付近田中耕雲寺境内の「おふやまみち」庚申塔が享保13年(1728)建立であることからも、この一本松峠元禄3年大山道道標の重要さが分ります。(中井町教育委員会・文化財保護委員会)
・・・遠藤
この堂の中には石の弘法大師像3体が安置されている。弘法大師(空海)は水脈を知る能力を備えていたと考えられる。堂入口の井戸も弘法年間(800年代)弘法大師が諸国行脚の途中、この地に休息し杖を建てたところ清水が湧きだしたと伝えられる。この水はいかなる日照りにも涸れることなく、郷土の先人はこれを特別なこととして弘法大師の像を安置し、今日まで信仰され続けている。(中井町教育委員会)
・・・中村(小田原市)
中村(村)
神奈川県足柄上郡に存在した村。現在の中井町西部、東名・中井パーキングエリア付近から南東を占めた。村名は古代・中世に存在した中村郷(中村荘)より。(Wikipedia)
足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれている。(Wikipedia)
・・・殿ノ窪
秋葉神社参道 秋葉神社社殿
坂東平氏の一つで、相模国西部に勢力を持ち、源頼朝挙兵時にその軍の中核をなした。師長国造の子孫ともいわれる。中村荘司宗平以前中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子・平頼尊に始まるという。頼尊は出家した後、山辺禅師と号した。頼尊の息子が武蔵押領使・常遠であり、その息子で横浜市栄区笠間に住した笠間押領使・常宗が鎌倉景正に討たれたことが『桓武平氏緒流系図』に記載されている。そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。しかし、諸系図では宗平以前は混乱している傾向が見られる。
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)
中村宗平は父が鎌倉権五郎景正に討たれたゆえんか、鎌倉党を敵対勢力と見なしていたようで天養元年(1144)の源義朝の大庭御厨乱入事件に積極的に参加している。治承4年(1180)に義朝の息子の源頼朝が挙兵すると宗平もこれに参加し、一族を引き連れて北条、加藤、天野、佐々木の諸氏と共に山本館襲撃に参加している。その後、頼朝勢は石橋山に進撃し石橋山の戦いが始まるが、これを迎え撃った平家方の大将は鎌倉党の大庭景親であり、その許には梶原、俣野、長尾と言った鎌倉氏の一族が多数馳せ参じていた。他方、頼朝勢には宗平嫡孫の中村景平・盛平兄弟(中村重平の子)、土肥実平親子、土屋宗遠親子、岡崎義実・佐奈田義忠親子と言った中村党の面々が多数参加していた(宗平自身は老齢が理由か直接は参戦していない)。この内、岡崎親子は三浦党の人物だが、上記の姻戚関係などからすると実質的には中村党の人物と言った方が近い(岡崎氏の諸氏は、後に土屋・土肥の諸氏と共に活動していることが多い)。他にも頼朝勢には佐々木、北条と言った多数の諸氏が加わっていたが、実質的には中村党が中枢を占めていた。頼朝が本陣を置いたのが土肥実平の所領であり、石橋山の戦いは見方次第では中村党と鎌倉党の戦いとも見て取れる。なお、平家方には縁戚である伊東祐親一族も参加しており、同族同士の戦いの側面もある。戦いは頼朝勢の大敗に終わり多くの中村党の人物が討死した。佐奈田義忠の戦死は余りにも有名だが、土屋宗遠の子・忠光も討ち死にしており、中村景平・盛平兄弟も後に記録に見えないことからこの時に討死にした可能性が高い。北条時政の長男・宗時も後に討死にしているが、彼は宗平の曾孫である。
頼朝が再起すると中村党もこれに従い平家追討、奥州合戦に参加し鎌倉幕府樹立に功を立てている。中村氏の本宗は絶え、土肥・土屋一族が中枢を担うようになったが、『吾妻鏡』にも「土肥・土屋の一族」と記載している。建保元年(1213)の和田合戦には土肥・土屋・岡崎一族は和田方に加わり多数の者が討ち死にしたことが『吾妻鏡』に見出される。その後、生き残った一族は甲斐、越中、安芸などの豪族として発展した。(Wikipedia)
・・・比奈窪(中井町)
保元2年(1157)比叡山の僧・義圓が東国行脚の時、雑色村子の神の祠に一夜を借りた際、霊夢によって白鳩に導かれ現在の地「龍頭の杜」に至り、ここに現れた童子(誉田別命)の霊言に従って勧請したと伝えられています。五所神社の由来は八幡宮の勧請5番目であるからといわれています。源頼朝の祈願所61社の一つであり、中村宗平が守護神として深く尊崇し、息子の土屋宗遠、曽我祐信(すけのぶ)の両家より祭典の供物を納められていたと言われています。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)
この神社は保元2年(1157)比叡山の僧・義圓によって創建されたものであり、後には源頼朝の全国61ヶ所祈願所の一つに数えられている。源頼朝の再興に尽くした中村宗司宗平はこの神社を源氏の守護神とあがめ中村、上中村の総鎮守にしたといわれる。この神社の例大祭(4月29日)は「かながわまつり50選」に選定され、例大祭の神事として今も残る「鷺の舞」はかながわ民俗芸能50選に選ばれている。境内西側の坂の途中にある梵鐘は寛永6年(1629)の鋳造で高さ95cm、口径65cm中井町最古の梵鐘であり、井ノ口米倉寺の梵鐘とともに第二次世界大戦の時供出をまぬがれた由緒あるものである。(中井町教育委員会)
神奈川県道709号中井羽根尾線
神奈川県足柄上郡中井町(中井町雑色中井町役場入口交差点)小田原市(二宮町川匂押切橋交差点)を結ぶ一般県道。終点の交差点では中郡二宮町にも接している。中井町から小田原市東部を流れる二級河川・中村川に沿って内陸部と相模湾岸を結ぶ。(Wikipedia)
(赤:歩行ルート 橙:羽根尾通り 緑:六本松通り 黄:二宮通り 紫:旧東海道)
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 黄:旧東海道 橙破線:羽根尾通り 緑破線:六本松通り)
土屋氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26915934/)
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資料ファイル
中井町の大山道おすすめポイント(宇塔坂~一本松~井ノ口)
中村川を渡った羽根尾通り大山道は一本松を目指して宇塔坂を登ります。一里塚跡や古い道標などの史跡、一部は農道を歩き古道の雰囲気を感じることができます。県道71号線がよく見える場所までくれば正面に大きな大山が望めます。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)
六本松通り大山道(緑)
現在の小田原市から大山へ向かうものである。国道255号などが近似したルートを辿っている。経路:東海道小田原宿(小田原市)-多古村-飯泉の渡し(酒匂川)-勝福寺門前町-千代村-高田村-曽我別所村-山彦山-六本松-田中村(足柄上郡中井町)-五所宮-久所-井ノ口村-大竹村(秦野市)-十日市場(曽屋)-寺山村-小蓑毛村横畑-坂本村(伊勢原市)-大山(Wikipedia)
二宮通り大山道(黄)
現在の神奈川県中郡二宮町から大山へ向かうものである。経路:東海道二ノ宮村(神奈川県中郡二宮町)-一色村-井ノ口村(足柄上郡中井町)-六本松通り大山道を経て大山へ(Wikipedia)
by Twalking | 2018-06-26 10:02 | 古東海道関連(新規)