無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』01-曽我氏館跡   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ


曽我の里は訪ねましたが、六本木峠は寄らなかったので、
もう一度歩き直したいと思っていたところです。
中村郷から六本木峠を見た機会に再訪してみました。

ここは曽我氏関連の史蹟、六本木峠、そして古東海道
関連の千代廃寺跡など見所が多い所です。
暑いですが、景色は抜群、楽しみに歩きます。


・・・曽我

神奈川県小田原市の東方、
曽我山西麓一帯の地区。旧曽我村。JR御殿場線下曽我駅近くの地で、地形上は酒匂川地溝帯の東部断層が走り、関東大震災の際の大被害地の一つとして知られる。断層崖下には侵食谷がつくった小扇状群が並ぶ。中世曽我荘の本領をなし宗我神社、城前寺など曽我氏ゆかりの社寺があり、毎年5月傘焼祭(曽我祭)が催される。ここの扇状地群にはウメが栽培されて小田原特産の梅干しの原料とされてきた(現在約35000本)。近年晩冬から初春の梅花季には水戸、越生(埼玉県)などとともにここでも梅祭が催され観梅客でにぎわう。(コトバンク)

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街道の風景① 駅前から北へ蘇我氏ゆかりの地へ向かいます/下曽我駅

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奇祭「曽我の傘焼きまつり」
ここ曽我の里は歴史的遺跡や遺物が何気なく日々の暮らしの中に溶け込んでいる里であり、日本三大仇討ちの一つ曽我兄弟の仇討ちゆかりの地です。建久4年(1193528日、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで兄弟は父の仇討ちを成就しました。その時、傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで、毎年曽我氏の菩提寺「城前寺」で兄弟の供養の為「曽我の傘焼きまつり」が行われています。十郎祐成22歳、弟五郎時致20歳でした。この仇討ちは民衆に広く知れ渡り「曽我物語」が生まれ、江戸時代に歌舞伎や謡曲、浄瑠璃等で曽我物として演じられ、人々の心をとらえ今もその人気はかわっていません。(曽我兄弟遺跡保存会)

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街道の風景② 県道72号の先、左へ上ると宗我神社があります/曽我谷津

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文学碑建立の趣旨
尾崎一雄先生は
曽我谷津に在住し、作家として日本独特の文学である私小説において幾多の優れた作品を発表し、第5回芥川賞をはじめ数々の文学賞を受賞されるとともに、昭和53年文化勲章を受章されました。これは先生の栄誉であると同時に本市にとっても誇りであります。また小田原文話会の顧問として後進の指導にあたり地域に根差した本市文化の向上に寄与されました。昭和55年の市制40周年記念式典において先生を特別表彰するとともに文学碑を建立し、その功績を永く顕彰するものです。(説明板

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宗我神社鳥居/
曽我谷津

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宗我神社
祭神:宗我都比古命(そがつひこのみこと)宗我都比女命(そがつひめのみこと)
宗我神社は明治28年の神社上書に依れば「長元々年(1028)に奈良県橿原市曽我町の式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。 足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守を この社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。(案内板)

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宗我神社と尾崎一雄
宗我神社は曽我祐信再興したとされる曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)総鎮守で、江戸時代には小沢明神と呼ばれていました。長元元年(1028)曽我播磨守保慶の建立で、曽我氏の祖先を祀った神社といわれています。明治に入り六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は、大正12(1923)関東大震災後に復興したものです。宗我神社の神主の家に生まれた尾崎一雄(18991983)は昭和12(1937)に第5回芥川賞を受賞し、昭和53年には文化勲章を受章しました。作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く、昭和の代表的私小説家として独自の境地を開きました。宗我神社の大鳥居付近に建立された尾崎一雄文学碑には、下曽我から見える富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一節が刻まれています。(小田原市HP)


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曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点
この説明板から南東へ約240mの曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点では平成24年(2012)に発掘調査が行われ、縄文時代中期(勝坂式期)の竪穴住居跡の中から小田原市を含む足柄平野周辺地域で初めて「台形土器」と呼ばれる遺物が見つかりました。台形土器はものを載せるための円形の受け面とこれを支える脚部を持つ土器で、縄文土器を製作する台としての機能が有力視されています。又燃成粘土塊という年度の質を確かめるテストピースやミニチュア土器が出土しているほか、土器焼きを行った痕跡と考えられる遺構が見つかっています。このようにこの地点の周辺はかつて縄文時代の土器づくりを行っていたムラがあったことが発掘調査の成果で明らかになってきました。勝坂式土器はその文様の特徴や東海地方の土器が出土することなどから、山梨や静岡の縄文文化の影響を受けて作られたこの地域に特徴的なものであることが分りました。(説明板)


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小沢明神薬師堂の旧地/公民館
小沢明神とは旧曽我村六村の鎮守で明治以来宗我神社となった。この明神の東隣りに位置するここには小沢明神の本地物(神体仏)とされる薬師三尊が祀られその堂は古くは「小沢山神宮寺」と称した。当時の別当寺は法輪寺なのでその古い縁をたどって大正3年に薬師三尊は薬師堂とともに法輪寺に移っている。公民館横の石造観音菩薩立像はこの地の人々が観音霊場の巡礼をしたときの供養塔である。ここは法輪寺大門の位置にあり、六地蔵などの石物が並んでいたがそれらも大正3年に法輪寺に移されている(小田原市)

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街道の風景③ 殿沢川が流れる参道、潤いがあります/法輪寺門前

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法輪寺山門/曽我谷津


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法輪寺
法輪寺は盤谷山(はんこくさん)と号する臨済宗建長寺派の寺院です。創建は延文3年(1358)、開山は建長寺35世の了道素安(本覚禅師)、開基は浄智温中と伝えられています。かつては天台宗寺院の慮尊寺(ろそんじ)と称したといいます。天保2年(1831)の火災により本尊の運慶作と伝えられる地蔵菩薩坐像は焼失し、その後本尊である室町時代造立の釈迦如来坐像が隠居寺より移されています。境内にある薬師堂(瑠璃光殿)は法輪寺の大門跡(現曽我谷津公民館)から大正3年(1915)移設したものです。平安時代造立の薬師三尊像、脇には十二神将像が祀られています。寺の東には祐信山崇泉寺という曽我太郎祐信(すけのぶ)の菩提寺があり、崇泉寺殿智獄祐信大居士という位牌がありましたが、廃寺後この位牌は法輪寺に安置されています。(案内板)

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薬師堂                参道入口の石造群

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大光院山門/曽我谷津

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本山修験大光院
諸法山実相寺と称し文明18年(1486)の起立と伝えられている。本尊は木彫不動尊。はじめ本山修験で小田原城下の玉滝坊(ごくりゅうほう)に属していたが、明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち明治32年の記録がある。神変大菩薩は役行者(えんのごうしゃ)のことで山岳修験の系譜につらなる寺であることが知られる。しかし大光院は久しく里修験として続いてきて地鎮祭、建前、病気平癒などの祈願が行われている。(小田原市教育委員会)


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五郎の沓石              石造群/城前寺角

五郎の沓石
この石は「五郎の沓石」と呼ばれ、あるとき曽我五郎(曽我物語で有名な曽我兄弟の弟)が足を患ったが、治癒した際自分の体力が衰えていないかと心配になり、試にこの石の上で踏ん張ったところ石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真中辺りに残っています。この沓石は、以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に、草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったと言われています。(小田原市観光課)

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曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点/城前寺
この説明板の北側の城前寺境内で行われた曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点の調査は平成18年(2006)に「柄鏡形敷石住居」という縄文時代後期の住居がみつかりました。住居の出入り口部分が外に張出し、床面には平らな河原石が敷かれるという特徴を持ちます。中央には浅鉢形土器を地面に埋め込んだ炉が作られました。敷石に使用された石は根府川石と呼ばれる板状に割れやすい性質のある石を用いており、市域南西部の根府川から石材を調達していたことがわかりました。曽我谷津岩本第Ⅰ地点で発見された土器は形や文様の特徴から「堀之内式」「加曽利B式」と名付けられており今から3500年前に作られました(説明板)

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城前寺山門/曽我谷津

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城前寺
曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城大手前にあるのでこの名がある。建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇・工藤裕経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。なお、この討ち入りの時兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討の日にあたる528日にはこの故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりがおこなわれるが類例のない祭りであるので有名である。境内には十郎・五郎・父裕信(すけのぶ)・母満江(まんこう)御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。なお、4人の墓の建つ墳丘曽我城土塁である。(案内板)


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孝行阿弥陀仏
ここに安置された阿弥陀如来坐像は忠臣蔵で知られた赤穂義士の一人(命日)「元禄1624日」(1703)吉田忠左衛門兼亮の遺児で、当寺14世の到誉達玄和尚が元文元年(1736)亡父の33回忌に当たって造像したものであります。昔から「孝行阿弥陀仏」とも呼ばれ、一心に念ずれば諸願成就せずということなしと、伝えられてきた有り難い御仏でもあります。(碑文)

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澄禅地蔵由来
慶長の頃、近江国で生まれた人である。浄土宗宗祖の遺風復奮したいと諸国を周遊し、曽我の剣沢に留まることとなった。富士の高嶺を望み弥陀の来迎を機するを願ふより他念なし。念仏行者としての澄禅は学徳たかき方であり、享保624日古智谷で遷化した。(碑文)

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十郎・五郎(左)、父裕信・母満江御前(右)の供養墓/城前

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十郎・五郎供養墓          父裕信・母満江御前供養墓

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街道の風景④ お寺の裏手にある曽我祐信屋敷跡へ向かいます/城前寺

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曽我氏館跡伝承地」です。東に曽我山、西に足柄平野を望む丘の上、遺構はありませんが碑が建ちます

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曽我氏館跡伝承地(曽我祐信屋敷跡)
新編相模風土記稿」に曽我太郎
祐信屋敷跡が『(曽我谷津)村の南北』『城前寺の後』にあり、四方を道で囲まれているとしている点から、館跡はほぼこの丘一体と考えられる。その規模は「23町許」(一辺が200300mの四角形)で、外構の土塁の跡や高さ25m前後土塁で囲まれた内郭跡(一辺が100mほど)が館跡の中央に残っていたことが記されている。現在、地表面からこれらの遺構を検証することは困難である。平成3年小田原市教育委員会によりこの区域の一部が発掘調査されたが、館にかかわる遺構・建物はまだ確認されていない曽我祐信は曽我兄弟の養父にあたる人物として知られているが、曽我氏は平安時代から戦国時代にわたってこの地に拠点を置いたと考えられる。この丘は周辺で鎌倉街道大山道曽我道が交差し、背後に剣沢の水源を控え、更には眼前に足柄平野、箱根連山を見渡すなど交通・水利・軍事上館を構えるうえで極めて良好な条件を備えていたといえる。(小田原市教育委員会)


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曽我一族郎党の供養御堂
曽我氏は太郎裕信(曽我兄弟の養父)以来、連綿として14代甚五郎裕正まで繁栄していましたが、永禄2年(1559)に北条氏に叛いた為氏康に攻められ、616日城に火を放ち城主の信正とともに360余人が自決したと伝えられます。その後、400年の月日が経ちましたが誰一人としてその霊を供養する者もありませんでした。平成56月、曽我兄弟の仇討800年記念を機に観世音菩薩を祀り、曽我一族の供養をするため御堂を建立することになりました。(説明板)

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物見塚
小田原市教育委員会は平成元年8月、地元自治会の御協力を得てこの物見塚を発掘調査しました。調査では古墳の石室や側壁や天井石は消化していましたが、女室部分は小さな川の川原石が敷き詰められ、ここから鉄鍬や金環などが出土しました。この結果、この古墳は古墳時代後期7世紀)の墳丘をもつ円墳であったと推定されます。また、この古墳近くの西側の一画からは弥生時代から平安時代室町時代頃と考えられる柱穴が多数確認され、この中には柱穴の底に川原石を基礎としたものがありました。これらのことから付近一帯は古くから人々の生活が営まれていたことが分ります。(小田原市教育委員会)

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曽我氏
相模国
曾我荘を本領とする中世武家。系譜の上では桓武平氏の一流千葉氏に属するが、はじめて曾我を称した祐家以下の子孫が〈祐〉の1字を共有していることや、のちに陸奥国に拠点を移した子孫が伊豆に所領を相伝していることなどから考えると、下総に本拠をおく千葉氏よりも伊豆の雄族伊東氏と縁の深い一族であったといえる。祐家の子祐信の妻に迎えられた女性が、仇討で有名な曾我兄弟のである。曾我兄弟の実父は伊東一族の河津祐泰であるが、祐泰の死後母親が曾我に嫁したためその連れ子である兄弟も曾我を称したのである。(コトバンク)

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曽我祐信(すけのぶ)
平安末・鎌倉前期の武士。太郎と称す。
桓武平氏の出自。相模曾我郷(小田原市)の住人。母は伊東祐家の娘。治承4(1180)石橋山の戦平家方に属したが、のち源頼朝に降参、本領安堵された。曾我祐成・時致兄弟の再婚。建久4(1193)年富士の巻狩に加わり継子である曾我兄弟の仇討ちのことで隠退を許され、死んだ兄弟菩提のため曾我庄の年貢を免除された。子孫は御家人として鎌倉・室町幕府に仕え、のち武家故実家として知られた。北条得宗の被官だった一族は陸奥津軽の地頭代として活躍。小田原市曾我に伝祐信供養の関東式宝篋印塔(鎌倉後期)がある。(コトバンク)
(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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街道の風景⑤ 剣沢に沿って北へ、六本松峠はこの先を右ですが直進して弓張の滝に寄り道

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東屋のある広場            夏草はありますが道はしっかりしてます

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展望台からみる弓張の滝

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鎧の滝・弓張の滝
曽我の郷の谷津と別所の境を流れる剣沢川の上流、剣沢山の深い谷筋に二段の滝があり、上段は鎧の滝、下段は弓張の滝と呼ばれてきた。「新編相模風土記稿」によれば当時の鎧の滝は高さ8尺(約2.5m)、弓張の滝は15尺(約4.5m)であった。室町時代剣沢の岩に立ち名所として知られていた。文明18年(1486)の冬、ここを訪れた聖護院道鏡准后は『此頃はみさびわれたる剣沢 こほりしぞ名は光ある』という歌を残している(廻国雑記)また、戦国時代には風流をたしなむ小田原北条氏配下の数人の若侍たちがこの滝のちたで藤の花見を楽しんだという。その一人はその情景を『滝水にうつろう影もしげり行 松に契りてさける藤波』(小田原記)と詠んでいる。(小田原市教育委員会)

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宗我神社周辺案内図/宗我神社のしおり
(黄:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 橙:県道72号)

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下曽我周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 赤角:六本木峠)


・・・・
資料ファイル

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曽我兄弟
鎌倉初期の武人。父の仇を討ったことで名高い兄弟。伊豆の豪族河津三郎祐泰(すけやす)の子。兄は十郎祐成(すけなり)、幼名一万。弟は五郎時致(ときむね)、幼名筥王(はこおう)1176年(安元2)父祐泰が伊豆の奥狩場で工藤祐経(すけつね)に殺されたのち、曽我祐信(すけのぶ)再嫁したので曽我氏を称した。鎌倉幕府を開いた源頼朝の寵により勢いを得ていた祐経は曽我兄弟を殺そうと謀ったが、畠山重忠・和田義盛らによって救われた。筥王は一時、箱根別当行実の弟子となったが1190年(建久1)北条時政によって元服した。成人した兄弟は祐経をねらったが仇討の機会がなかった。935月、頼朝が催した富士野の巻狩りに同行していた祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し祐経を殺して父の仇を討った。しかし兄祐成は宿衛の新田忠常に討たれ、翌日弟時致も捕らえられ殺された。(コトバンク)
写真:曽我兄弟発願之像/城前寺

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曽我兄弟の仇討
建久4528日(1193628日)源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤裕経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討に並ぶ日本三大仇討ちの一つである。

ゆかりの地
曾我兄弟の墓とされるものの中で有力とされるものに曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(小田原市曽我谷津)が挙げられる。城前寺の由来は曾我兄弟の死後に叔父宇佐美禅師がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている。建久4年(1193年)528日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年528日に城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが、2011年に寺側からの申し出により中止となり保存会が駅前や公園など市内各所で関連行事を続行しているWikipedia


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正眼寺曽我堂/箱根町湯本
建久4
四年(1193528日富士裾野で父の仇工藤祐経を討ち本懐を遂げた曽我五郎十郎の菩提供養のため、兄弟の親類縁者によって兄弟が仇討成就を願って祈念参籠したといわれ、湯本地蔵堂の近くに曽我堂が建立されました。その創建年代は明らかでありませんが江戸時代初期に修復された記録がありますので、それ以前に遡ることは確かです。江戸時代東海道箱根八里の沿道にあったこの堂の地蔵菩薩像は曽我歌舞伎の流行とともに曽我兄弟の化粧地蔵と呼ばれ、街道を行く旅人の信仰をあつめました。明治元年(1868)曽我堂は戦火にあい焼失しましたが、幸いにも両像は戦火を脱れました。大正3年(1914)曽我堂は松竹歌舞伎の関係者によって再建され、昭和61年には台床光背を失っていた両像の修理が実施され元の御姿を拝することができるようになりました。(説明板)

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曽我神社/箱根神社
鎌倉時代、箱根権現の稚児であった曽我五郎時致兄十朗祐成の霊を慰めるため「勝名荒神祠」としてお祀りされたのが始まりである。江戸時代の正保四年(1647)小田原城主稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営し、また平成の御代に社殿を改修した。祥月命日には故実による傘焼の神事や居合道の奉納等が行われ、今日なお心願成就の守護神として崇敬されている。(案内板)

知足寺供養塔(二宮氏館跡)の関連期にはこちらへ(https://teione.exblog.jp/17630359/


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工藤氏
藤原南家の流れをくむ為憲木工助となり、木工助の〈工〉と藤原氏の〈藤〉をとって工藤大夫と称したのに始まる。一族に伊東、河津、狩野、宇佐美、曽我、二階堂などがある。為憲が遠江権守であったのをはじめその子孫は遠江、駿河、伊豆等の国衙在庁官人となって各地に勢力を扶植した。伊豆国久須美荘の開発領主といわれる工藤祐隆も伊豆にあって工藤介を称した一族の出身であるが、彼は後継者にめぐまれなかったためその所領を後妻の娘との間に生まれた子で養子の祐継と早世した嫡子祐家の子祐親とに分与した。(コトバンク)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

工藤裕経(すけつね)

平安末・鎌倉初期の武士。工藤一郎と称す。父は祐継。平重盛の許に出仕し家人となり在京、左衛門尉に任官した。在京中に叔父(従兄弟とする説あり)伊東(河津)二郎祐親に伊豆国伊東荘を預けていた祐親が押領したとして相論となった。祐経のは祐親のであり、この対立のため祐親の許に連れ戻され土肥遠平に嫁がされた。これを怒った祐経は、安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い、祐親の嫡子河津祐泰(すけやす)を殺害した。源頼朝の挙兵以後、早くから頼朝方に付き、幕府成立以後は在京の経験から楽などの道にも通じており、頼朝の信任も厚く平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴や文治2(1186)年に源義経の妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞をまった際に鼓の役を務めた。また、平家追討で九州へ従軍し5年には奥州合戦にも出陣している。建久4(1193)年、河津祐泰の子の曾我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。(コトバンク)

by Twalking | 2018-07-05 13:29 | 古東海道関連(新規)

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